十四 波濤の先に
最初の記憶は、若い母に抱かれて笑顔を見あげたものだった。噛みしめる時間もなく、記憶の波濤が押しよせる。不都合な記憶に上書きされた、偽りの記憶だけを求めて。
小学校、中学校、高校……、十八年分の記憶が刹那に確認されて、格納されなおす。大学の入学式から、押しよせる波がゆるく大きくなる。時計台の下の新人勧誘、間近で見た誰かの笑顔……。そこで五人は知りあった。
川田の部屋だ。そうだよ、川田陸斗は存在した。こいつの顔をまじまじ見たいのに、本来の記憶に立ちどまれない。……三人で歩いたナイトウォーク。俺の横をはなれて歩いた女の子……。噛みしめたいのに、記憶の流れが待ってくれない。
――て、哲人、大丈夫か。しっかりしろ
地面にもだえる俺への、思玲の声が聞こえる。
一年の冬の日の二人だけの時間。やり直しのハイタッチ。互いの手を握りかえし見つめた一瞬……。それすらも立ちどまってくれない。
――吐いているぞ。ドロシーは魔道士だろ。なんとかしろよ!
ドーンとリクトも俺を覗きこんでいる。リクトじゃない。川田だろ。
記憶の流れはゆるやかに見えて濁流だ。彼女は台湾に旅だった。感情を消されて戻ってきた。
――悪いものを食べたのだろ。吐きださせてやりな
フサフサの冷徹な声に、女の子が言いかえしている。もうじき記憶の中の思玲とも会える。
図書館の石段で待っていた二人、カフェテラスのテーブルを囲んだ五人、ひと足先に異形と化した三人。人であった俺に指図した思玲……。そうだよ、この強くて弱くて粗雑で目を引く美人こそが王思玲だ。
俺へと切ない笑みを向けた桜井。青い光をともに受けて消えていった桜井。なんでこの笑みを忘れたんだ。忘れられるんだよ。
――首が痛むの?
ドロシーが俺に祈りを捧げようとする。俺は払いのける。……異形になった俺に扇を振りまくった思玲。真実を怯えながら告げた思玲。二人きりの夜道で見あげる白猫……。お爺さんの幽霊、おぞましき怨霊達、お天狗さんの木札――。
俺はたしかに持っていった。そんなことよりも……、うす汚れた毛むくじゃらの野良猫。
「フサフサ!」
俺は立ちあがる。俺達を助けてくれた野良猫へと駆け寄りたいのに、上書きされた記憶の修正はまだ続く。流範の巨大なくちばしを思いだし、また座りこむ。地面に手をつく。
青い小鳥。さらされた真実。駆けていく白猫……。
妖怪のくせにまた嘔吐する。えずくたびに首の傷が裂けそうだ。……朝が来た。ドーンと受けたカラスのまじない。非常階段の踊り場の六人。桜井の声で頭を下げるコザクラインコ。青空の下のカラス達。俺が殺した。
思いだしたくない記憶が続く。腹を裂かれた白猫、土砂降り、溶けていく流範と浮かびあがる人の魂、目に傷を負った狼……。あの時の傷だ……。
俺の頬を舐める異形の顔をさすろうとする。必ず人に戻してやると。なのに、まだ手が届かない。
大ケヤキが枝を空へと伸ばしている。大学のシンボルだった。なんで誰もが忘れているんだ。記憶から消せるんだ。ケヤキの下でのひとときの静寂。あさましい鬼達。浮かぶ小鬼。
「琥珀……」俺は声をしぼる。
ドロシーがなんと言おうが、あの小鬼を連れ戻す……。記憶が修正をためらった。あいつのあざ笑う顔が浮かぶ。黒羽扇の光――。
背が折れるほどにかがんで嘔吐する。
――哲人、消えるな
女の子が俺を抱きしめる。あの時も、思玲は俺を抱いてくれた。
弱い二人が目ざしたのは図書館。地下室の乾燥した空気。聖なる術と邪悪な気配……。フクロウとコウモリ。ロタマモとサキトガ。
怒りがこみあがる。怒りが力となる。
「思玲!」俺は叫ぶ。
密室での絶望的な戦い。盾となってくれた少女を抱きしめかえす。のけぞって拒絶しやがる。
人に戻った横根。あざやかな夕焼け。あざやかすぎる夕焼け。怖いほどの夕焼け。
川田を傀儡にした峻計、横根を傀儡にした峻計、俺に邪悪な光を当てた峻計。桜井の怒り! 横根の祈り!
あの二人は今どこにいる。そして……、
「思玲、ごめんなさい……。ゆるしてください」
……半月の下、劉師傅に押しつけた護符。
思玲は俺をやさしく抱きなおす。なのに野良犬を思いだす。昼間の人の形をした異形も思いだし、嘔吐をこらえる。
フサフサ、劉師傅、月神の剣。俺は座敷わらしでなくなった。テニスコート、焔暁、竹林、手長、多足の毒、血を吐いたカラス、琥珀のスマホ。
記憶の中でにらむ峻計を、俺もにらみかえす。
「哲人、あれは冗談だ。いくらでも呼んでおくれ」
強い声に呼び戻される。フサフサであった白人女性が俺を深く見ていた。
「ひと足早く異形になった哲人が、助けを呼んだのだろ? だから白い光が私に来たのだろ? それからも四六時中私を呼んでいたじゃないかい。いいのだよ、もっと頼っておくれ」
そうだったんだ……。ならば、もう少しだけ頼ってやる。俺は自分の手で立ちあがる。
記憶の渦は続いている。悲しげに一人でいた桜井。ロッカーにかばんを押しこんだ横根。陽炎に閉ざされた雑居ビル……。
「なにがあったの? でも、もう大丈夫みたい」
ドロシーが俺を怯えて見ている。
「鱗がなくなっちゃったね。やっぱりこっちのがいいかも。ヘヘ……」
その手を握り、彼女を立ちあがらせる。シノの手も握ろうとして、彼女の手はふわりと流される。
記憶は露骨になっていく。楊偉天、使い魔達、楊偉天、楊偉天……。力尽きた劉師傅。
もうたどる必要ないだろ。
「新月はいつだ?」
俺は誰ともなく尋ねる。
剣と箱。犠牲となった思玲。蘇った峻計。消滅した焔暁。もうすべて思いだしているのに。
「ふん。満月と真逆の夜だろ?」フサフサが答える。「明晩だよ。いけ好かない夜だ」
やはりな。ぎりぎり間に合った。
力尽きたドーン。いなくなった川田。神殺の鏡……。俺の手から離れた桜井。夏奈の切なげな笑み。二度と忘れるものか。
「だったら箱をリュックに入れてよ」
俺はフサフサに頼み「ドロシー、もう少しだけ貸して」
ちいさな俺の手を握りかえし、彼女はうなずく。律儀な記憶の復活もじきに終わる。
俺へと助けを求めた女の子。俺へと絶望の目を向けた女の子。溶けていく意識のなかへ、
『新月まで娘は捧げない。ゼ・カン・ユ様にな。お前と違い、私達は約束をたがわない。お前が覚えていなくても。ホホホホホ……』
そして、すべてが虚無になった。
「行こう」
俺は口もとをぬぐい、ドーンと川田に告げる。
「まずは横根を救う」
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