春分八 小唄の師匠の悩み相談
翌朝、鈴木が浮かない顔をしていると、師匠から声をかけられた。
「どうしたんだい、しけた面して。」
護民官の奥さんは、小唄の師匠をしていると聞いた。周りの人が師匠と呼ぶので、鈴木も師匠と呼ぶことにしていた。
もとの世界では高度成長期には小唄を習うサラリーマンも多かったようだが、カラオケの普及した現代日本では小唄を習う人は随分減っている。鈴木も、テレビで舞妓さんが小唄を歌っているのを見たことがあるくらいだった。
しかし、この世界では小唄を習っている人はそれなりに多いようだった。師匠の弟子の中には、博多で人気の芸妓もいると聞いた。
鈴木が泊めてもらっている和室は、昼間は小唄の稽古場になっているらしい。
今日の師匠は藤納戸に月白色の柳縞の着物を着て、紺鳶色の前掛から島松鼠の帯が覗いている。稽古の予定がないらしく、師匠はめいちゃんが積み木を出して遊ぶのに付き合っていた。
「まあ知らない世界に放り出されたら、元気がなくても仕方ないけどさ。どうもあんたの場合は違う悩みもあるみたいだね。若いのに元気がないのはいけないねえ。あたしで良ければ話してごらんな。」
鈴木は師匠に悩みを打ち明けることにした。
前の世界で就職活動がうまくいかなくて自信をなくしたこと、前の世界にはこの世界にはない科学技術があったが、自分は技術者ではないので、この世界に伝えることができそうにないこと。結局、この世界でも自分は役立たずではないかと悩んでいることなどを話した。
師匠は最後まで黙って聞いてくれた。
それから溜息を一つつくと、めいちゃんを抱っこしながら言った。
「何だい、ヒトは役に立たなきゃ生きてちゃいけないのかい。それじゃあ食べて遊んで寝るだけのこの子は生きてる資格はないってことになっちまうね。でもそんなことは無いとお前さんも思うだろう。」
「それはそうですが、小さい子どものめいちゃんと僕では立場が違います。僕はもう大学も出て、大人として働かないといけない年です。」
就活がうまくいかなくても笑顔で励ましてくれていた親の顔が次第に暗くなっていったことも思い出された。
「うまく仕事を見つけられなくて、僕は親の期待も裏切りました。」
「この世に生まれたのは親の勝手さ。あんた、産んでくれって親に頼んで生まれてきたのかい。違うだろ。産みの恩、育ての恩なんざ、どこからも言われる筋合いはないんだよ。」
「僕は自分の生まれた世界でもこの世界でも、役立たずです。これじゃあ生まれてきた意味もない。」
鈴木はつい大声を出してしまったが、師匠は慌てる素振りも見せず、冷笑した。
「生まれてきた意味?生意気なことをお言いだね。孔子先生だって『五十にして天命を知る』って書いてるってのに、はたちやそこらの小僧が考えたって分かるもんか。」
「世の中には巡り合わせってものがあるんだから、ただ目の前のことを一所懸命やってりゃいいんだよ。意味だの意義だの小難しいことは、じじいになってから考えな。」
言葉遣いはきついものの、師匠が励ましてくれていることは鈴木にも伝わった。
口は悪くても、僕の愚痴にこんなに付き合ってくれるなんて、随分親切な人だと鈴木は思った。情けない奴だねと一喝されて終わってもおかしくないのに。
笑っているような憂いているような、不思議な表情を師匠は浮かべていた。
ふいに師匠は手をぽーんと打った。
「あんた、暇だからしょうもないことを考えるんだよ。何か手を動かして頭を空っぽにしたほうがいいね。あたしは小唄を教えてんだけどさ、一つやってみるかい。」
師匠は稽古場の隅に立て掛けてあった、布で包まれていた細長いものを手に取り、布を解いた。
飴色の木製の棹、真っ白な皮の張られた胴。鈴木が初めて泊まったときに何だろうと不思議に思ったものは三味線だった。
師匠はもう一つの布を解き、まだ新しそうな三味線を鈴木に手渡してくれた。
「まずは私が弾いてみるから、聞いとくれ。」
散るは浮き
散らぬは沈む 紅葉葉の
影は高雄か山川の
水の流れに月の影
(『散るは浮き』作:清元お葉)
三味線の幽玄な音にあわせて師匠の歌が流れる。普段の声と違い、歌うと渋い声色だった。
歌詞は短いのに、一音を長く引っ張るので、意外と長い歌だった。聞き慣れていた音楽とは随分雰囲気が違う。西洋の楽器とは違って三味線の音はクリアじゃなくて、びよーんというか何というか、伸びる感じがする。
「秋の歌だから季節外れなんだけどさ。何となく弾きたい気分になってね。」
少し照れたように言うと、師匠は三味線を一度膝から降ろして、まず三味線の構え方を実演して見せてくれた。
両手で持った三味線の胴を右膝の中ほどに乗せ、その上に右腕を置くと、左手を棹から離す。
鈴木も見よう見まねで形を作ってみるが、左手を離した途端にグラグラして師匠のように安定しない。
「みんな最初はそうだから。」
笑って言う師匠に鈴木が尋ねる。
「あのう、これで撥を持つんですか?」
「撥は使わないよ。小唄は爪っていうか、爪の横で弾くからね。ああ、清元もやりたきゃ教えるけどさ、三味線抱えて撥持つだけで一苦労だし、とりあえず小唄から教えることにしてんだよ。曲も短いしね。」
そう言うと、師匠は楽譜らしき紙を取り出した。
「大人も子供も最初は『さくらさくら』からだけど、あんた知ってるかい?」
「はい、小学校の音楽の授業で習いました。」
「そうかい。じゃ、大丈夫だね。」
師匠が手渡してくれた楽譜は、鈴木の見慣れた五線譜とはだいぶ違っていた。
数字と記号が混ざっていて、暗号みたいだ。その横に歌詞が書かれているが、これにも数字と記号が付けてある。音の高低を表しているのかとも思うが、見当もつかない。面食らう鈴木をよそに師匠は言った。
「とりあえず、あたしの左手をよく見て音を聞いて、真似してごらん。」
え、じゃあ、この楽譜は?と言う余裕もなく、鈴木は師匠の音についていく。師匠の音より高い低いと感じれば指の位置を調整する。師匠の弾く糸が変わると慌てて鈴木も同じ糸を弾く。確かに頭は空っぽだ。
うまく音の出ない三味線と格闘するうちに、鈴木の気持ちは不思議と軽くなっていた。
ふと何かの気配がした気がして、鈴木は周囲を見渡した。
色とりどりのものが音にあわせて踊っていたような気がしたが、何も見えなかった。
「あんた、意外と音感が良いね。」
しばらくすると、師匠は褒めてくれた。
実は鈴木は趣味でギターを弾いていた。三味線とは勝手が違うとはいえ、同じ弦楽器なので少しは役に立ったようだ。
「音感はいいんだけど、左手がねえ…。何か楽器をやってたかい?」
「上手くないんですが、ギターを少し。」
「ああ、その癖だね。この前も言ったけど、三味線はね、手のひらで棹を受けるんじゃなくて、こういうふうに構えるんだよ。それで指の形はこう。」
師匠が鈴木に手本を見せる。
「まあ、少しずつ慣れていけば良いんだよ。癖は段々とれるし、間の取り方も初心にしては悪くないから。」
師匠は、いきなり弾きこなすことなどは求めなかった。
畳の上で着物を着て三味線を弾くと、不思議に気持ちが上がってくる。
師匠も褒めてくれるし、このまま三味線を練習してみようかなと鈴木は思った。
だが、鈴木が気をよくしているのを見透かしたように師匠は言った。
「言っとくけど、ちっとばかし筋が良いくらいじゃ食えないからね。」
「この世界でもそうなんですね。」
鈴木のいた世界でも、名門音大を首席で卒業したり有名コンクールで優勝したりしても、プロとしての成功を約束されるわけでは全くないことが思い出された。
「小唄は座敷のものでね、踊りの地方を務めることはあるけど、長唄や清元、常磐津みたいに芝居の仕事があるわけじゃないんだよ。あんたもちゃんと堅い仕事を持って、こっちは余技と思っといたほうがいいね。」
長唄は歌舞伎で歌われると聞いたことがあったが、清元とか常磐津とかは、鈴木は聞いたことがなかった。ともかく音楽で食べていくことは、この世界でも難しいようだ。
「失礼ですが、師匠も小唄の稽古以外の仕事を…?」
「あたしかい?うちを表通りから見たら『千代木』って甘味処の看板があるだろう。あれはうちの店だよ。今は店を人に任せてるから大して残らないけどね。うちの人の稼ぎもあるし、まあ生活に困ることはないよ。」
そういえば、一階の一部がお店になっていることを鈴木は思い出した。