春分六 朝餉と着物の注文
翌日、障子越しに朝日が差し込み、明るくなった部屋で鈴木は目覚めた。
もしかして昨日のことは夢なんじゃないかと思ったが、寝ていたのは自分の部屋のベッドではなく、畳に敷いた布団だった。
「どうやら昨日のことは夢じゃないらしい。本当に異世界に来たのかなあ。」
異世界に来たのならと、鈴木は「ステータスオープン」とか「メニュー」とか唱えてみたが、残念ながら何も起こらなかった。
さらに「ファイヤー」とか「ウォーター」とか唱えてみたが、やはり何も起こらない。
中二病のような台詞を言ったことで恥ずかしくなっただけだった。
どうやらここは、鈴木の読んでいたライトノベルの異世界とは違うようだ。
ぼんやり考えこんでいると、隣の部屋から奥さんの声が聞こえた。
「おはよう、朝餉は出来てるよ。起きてるなら出ておいで。」
「はい、今行きます。」
鈴木は返事をして、布団を畳んだ。
声がした方の襖を開けると、十畳くらいの和室に座布団が六つ置かれていた。座布団の前には脚付きの御膳があり、昨日会った獣人の女性が食事を並べている。
「悪いね、お佳ちゃん。家の手伝いまでしてもらって。」
「師匠にはお世話になってますから。手伝いくらいさせてください。」
返事をしたお佳さんは、昨日とは別人のような柔らかい表情を浮かべていた。
獣人とはいっても、外見はあまり変わらない。たとえば顔に毛が生えているわけではない。違うのは、犬のような獣耳がついていることだ。それでも兎の耳のように長いわけではなく、昨日のように被り物をしていれば分からない。
お佳さんの黒い目の色は吸い込まれるように深く、長い睫毛が印象的だった。
ところで、奥さんは「師匠」と呼ばれていた。何を教えてるんだろうか。それから一つ余ってる座布団は誰が使うんだろう。そんなことを鈴木が考えていると、和室の障子を開けて、護民官が幼女を抱っこして入ってきた。
幼女は目をこすりながら畳の上におろされた。
三歳くらいだろうか。麻の葉文様にウサギの柄を散らしたメリンスの着物を着ている。
「おかしゃん、おけいしゃん、おあよ。」
そう言って勢いよく九十度にお辞儀した幼女は体を起こすと、鈴木を見て不思議そうに首を傾げた。
「こゑ、だえ?」
「お父さんが連れてきた異人さんだよ。こことは違う世界から来て戸惑ってるんだから、今はそっとしておいておやり。」
奥さんが説明してくれたところで、護民官が呼びかけた。
「おはよう。みんな揃ってるな。それじゃあ朝餉を頂こう。」
そして護民官が「頂きます」と言うと、みんなも唱和して食べ始めた。
「頂きます」という言葉に鈴木は安心感を覚えた。違う世界とはいっても、ここも日本なんだな。
朝食のメニューはご飯と味噌汁に塩鮭、ホウレン草のお浸しで、和風旅館みたいだった。
ご飯を食べながら周囲の話を聞いていると、幼女は護民官の夫妻の娘の「めいちゃん」だということが分かった。
めいちゃんはご飯の後で、座っているお佳さんによじ登り、耳をモフモフした。
「こら、くすぐったいから止めて。」
「ええー、だって気持ちいいんだもん。」
お佳さんの耳は柔らかそうな毛に覆われていて、手触りが良さそうだ。羨ましいなあと鈴木は思った。
「さて、取り敢えずあんたの服をどうにかしないといけないねえ。」
食後、片付けが一段落したところで奥さんが言った。
ちなみに鈴木も自分から申し出て洗い物を手伝って、いい心がけだねえと褒めてもらった。
鈴木の両親は仕事が忙しく、小さい頃は祖母が面倒をみてくれた。
祖母は礼儀作法には厳しい人で、自分でできることはするようにと厳しく躾けられた。それでも、口数の少ない祖母が不器用な愛情を注いでくれたことは子ども心に感じていた。
護民官の家に居候する立場では、奥さんの心証は良いほうがいい。子供の頃は面倒だと思った躾けが意外にも異世界で役に立ったことに、鈴木は祖母に感謝した。
「その服じゃ目立ってしようがないね。知り合いの古着屋に一揃い頼もうかねえ。こんな服が着たいとか、何か希望はあるかい。」
「こちらの世界の服はよく分かりませんので、お任せします。」
「そうかい。それなら適当に見繕ってもらうことにしようかね。」
奥さんが向かった先には黒電話があった。
祖母の家にあった古い写真の黒電話にそっくりだ。懐かしいけど、どうして黒電話があるんだろうと鈴木は混乱した。まだ1890年なのに、電話は使えるんだろうか。
奥さんは黒電話のダイヤルを回した。
「ああ、飯田屋さん?守恒です。いやまた急なことで悪いんやけどね、男もんば急ぎで一揃い見繕ってて欲しいと。そう、うちの人がまた異人さんば連れてきたったい。そうやね、寸法は…着丈四尺に足らんくらい、裄丈は二尺てとこやね。」
奥さんは江戸っ子のような言葉だったのに、今度は何の言葉なんだと鈴木は驚いた。
「どうしたんだい、そんな驚いた顔して。ああ、あたしの言葉かい。東京にも十年くらいいたけど、育ったのは博多だからねえ。」
奥さんは少し照れ臭そうに笑った。