外伝5 帰る場所
置屋の女将は、芸妓衆から「おかあさん」と呼ばれる。師匠の育った置屋「まつ乃や」は代々元芸妓がおかあさんを勤めてきた。血のつながらない「おかあさん」が見守る、女所帯の冬の一日。
1 置屋「まつ乃や」の朝
朝七時半。私は台所に立って六人分の朝食を整える。お米を研いでざるに空け、鍋にあごの煮干しと水を入れて火に掛ける。蕪は葉を落として厚く剥き、櫛形にして鍋に、落とした葉はざく切りにする。多めの水加減で炊き始めたお米を見張りながら、蕪が煮えたところに麦味噌を溶く。炊きあがったご飯をおひつに移し、蕪の葉はさっとゆで、皮は細く切ってきんぴらに―。毎朝変わりばえがしないけど、とにかく朝はちゃんと食べさせないと。
台所の外からは、きみ子がいつもどおり掃き掃除をする音がする。座敷箒の規則正しくしっとりした音、外掃き箒が玄関の三和土を掃く乾いた音、引き戸が開く音に続いて、店前の道を掃くザッザと少し重い音―。慌ただしい一日が始まる前、鍋釜と箒の立てる音しかしない、この時間が私は好きだ。
「きみ子、お疲れさん。寒うなか?」
「ああ、おかあちゃん。引張り着とるから大丈夫。格子と看板を拭いて、水打ちしたら中に入るけん。」
他所の土地の人には「博多は南国」と思われとるようやけど、玄界灘からの潮風で、博多の冬はそれなりに寒い。きみ子の掃除が終わる頃合いを見計らいながら、長火鉢の鉄瓶に湯を沸かして番茶の準備をする。しばらくすると、玄関の引き戸を開ける音がして、
「はあー、今朝の水はほんとに冷たかー。」
と言いながら、きみ子が戻って来た。火鉢の側に座り、湯呑を両手で包むようにして指先を温めている。
「今日は大雪やけんね。」
「お櫛田さんのご千座(*1)も終わったし、そろそろお正月の準備ば始めんとね。」
きみ子はそう言いながら、日ごとの予定を控えた帳面をめくる。掃除の後に番茶を飲みながら予定を確認するのは、住込みの妓たちを起こす前の日課だ。
「今日は、えーと…公休日の人はなしやね。かず葉ちゃんとさと乃ちゃんは朝から券番(*2)でお稽古、仕込み(*3)の二人はお昼のあとで券番。夜は、秀葉さんときぬ葉さんとかず葉ちゃんが『掬月楼』さん、さと代さんが『松籟亭』さん、その後さと乃ちゃんと一緒に『奈か川』さん。秀葉さんときぬ葉さんは四時頃にうちに来て支度、と。」
「千歳ちゃんが暮れの挨拶に来るんは今日やなかと?何時ごろだったかな。」
「ああ、そうやった。お昼過ぎの約束になっとうよ。」
千歳ちゃんは数え歳で七つの時から、この「まつ乃や」で育った。もともとは人形芝居の旅芸人の家の子で、うちのおばあちゃんがその気性と音曲の筋の良さを気に入って引き取った。学校を卒業した後に十年ほど東京で清元の修行を積み、博多に戻ってきて、今は清元と小唄の稽古場、それに甘味処を構えている。きみ子とは歳も近くて実の姉妹も同然だ。
「最近忙しくて千歳ちゃんと会ってないから、楽しみや。」
と言いながら、きみ子は立ち上がる。
「そろそろ皆を起こさんと。」
「そうやね。」
私も立ち上がって、台所に戻る。ゆでておいた蕪の葉を味噌汁に放つ。火にかけて温め直しながら、卵を三つ割って卵焼きに、熱いうちに巻き簾にとって形を整える。おひつを茶の間に持ち出す頃、二階から、半玉や下地ッ子(*4)が四人、まだボーっとした風情で、
「おかあさん、おはようございます。」
と言いながら降りてくる。みんな寝ぼけているのに、しっかり芸歴順に並んでいるのが可笑しい。最年少の下地ッ子がお膳を並べる。
「はい、みんなおはよう。冷めないうちに食べり。今日はりんごもあるから、後で剥いてあげよう。」
朝食を片づけると、半玉の二人は身支度をして券番の稽古に行く。二人が帰ってくるまでは、きみ子も私も仕事だ。お座敷の約束の連絡、お礼状書きや贈答の手配、衣装の段取り。下地ッ子に前日の稽古のおさらいをさせたり、座敷着の勉強を兼ねて、ねえさんたちの前日の着物の片付けや今日の準備を手伝ってもらう。一つ一つは小さな用事でも全部合わせると慌ただしい。先代のおかあさんが亡くなって私一人で切り盛りしていた時分は、毎日が時間との闘いだった。だいぶ落ち着いたのは、きみ子が跡を継ぐと言って手伝ってくれるようになってからだ。
置屋の女将さんはいろいろな経歴の持ち主がいるけれど、きみ子のような置屋の娘は珍しくて、多いのは元芸妓だ。長く芸妓を勤めた人は子どもがいないことも少なくない。だから、女将が務まりそうな人を養女に迎え、跡取りに据える。「まつ乃や」も例外ではなく、先々代のおばあちゃんは「きみ千代」、先代のおかあさんは「ちよ乃」、私も「佳寿乃」という名前で芸妓をしていた。私を含めて三人とも血のつながりはない。
私は一度結婚で芸妓を退いて、きみ子も生まれたけど、その後いろいろあって、きみ子を連れて婚家を出た。里の両親もすでに亡く、住まいと仕事を自分で見つけなければならなくなった。幼子を抱えて二人扶持稼ぐのは今も昔も簡単でない。口入屋(*5)もお手上げで、途方にくれた私が訪ねたのは「まつ乃や」のおばあちゃんとおかあさんだった。また芸妓で出してもらえるようお願いするつもりだった私に、おかあさんは意外なことを言った。
「佳寿乃さん、うちに養女に来てくれんか。」
「え?」
「そろそろ次の人を育てないかんのでね、探そうと思っとったとこなんよ。」
「私を跡継ぎに、いうことですか。」
「うちのやり方を良う知っとるし、しきたりも芸のことも十分に心得がある。実の子のおるあんたなら、預かってる妓らの親御さんの気持ちもよう分かるやろ。おばあちゃんとも話したけど、佳寿乃さんより置屋のおかあさんに向いてる人、思い付かん。」
「ま、稼がんと厄介になるのは気が引けるんなら、しばらく芸妓で出てもらっても良か。どっちにしても、お嬢ちゃんと二人でうちに住み込みやし、ゆっくり考えたらええ。」
おばあちゃんが言葉を添える。私は、おばあちゃんとおかあさん、二人の顔を見た。
「ほんとに、私で務まるでしょうか。」
「こん仕事は情けだけで頼めるもんやなか。芸妓やってた頃のあんたの気働きを見込んで言っとうと。」
おかあさんの真顔に、私は頭を下げた。ありがたさと安堵で視界がかすむ。横でじっと正座しているきみ子におばあちゃんが声をかけた。
「今日からここが、あんたとお母ちゃんの家や。そんなしゃっちょこばっとらんで、足ば崩したらどうね。」
こうして女将見習いの「きみ佳」として、二度目の置屋暮らしが始まった。それからあっという間に三十年、沢山の少女が「まつ乃や」に来ては巣立っていったけど、私の仕事は変わらない。できるだけ美味しくご飯を作って食べさせて、ちゃんとした着物を着せて、芸事、立居振舞や気構え、しきたりを教える。親が我が子にするように、毎日毎日、同じことを根気よく繰り返すだけだ。巣立ちには芸妓を辞めるという形もあるけれど、ここで身に付けたことが何かの役に立っていれば良いと思う。
2 もう一つの「まつ」の家
お昼が近づくと、そんな感慨にふけってもいられない。半玉の二人が一度券番から帰って来たら、またご飯。
今日は饂飩屋の竹蔵さんに出前を頼んである。竹蔵さんは、出前は絶妙の時間に届けてくれる。おしゃべり好きだけど、こちらの様子が忙しそうなら、さらっと切り上げるのもありがたい。
時計を見ながら饂飩を食べさせて、着物や髪を直してやる。今度は下地ッ子も一緒に行くから、支度も四人分で慌ただしい。四人が出掛けると、朝からバタバタしていた空気も少し落ち着く。私もきみ子も、朝よりはゆっくりした気持ちで残った仕事を片づけたり、外出する用事を済ましたり、本を読んで一息ついたりする。 千歳ちゃんが訪問の約束を入れるのも大抵この時間だ。今日は千歳ちゃんの来訪以外に特に用事はなく、電話番をしながら一休みする。
約束の時間より「髪一本ほど」遅く、濃紫の風呂敷包みを抱えた千歳ちゃんが訪ねてきた。南天の短冊を控えめにあしらった鶸萌黄(*6)地の小紋に若松菱の黒羽織、きれいに洋髪に結った姿は、どこがどうというわけでもないのに、半可な芸妓は裸足で逃げ出しそうな迫力だ。
数え七つでうちに来て、おばあちゃんと布団を並べて寝起きし、おばあちゃんが見立てた服を着て、暇さえあれば清元や小唄のお稽古で育ったからだろうか、箸の上げ下げから、着る物の取り合わせ、足捌きや首のかしげ方まで、千歳ちゃんには誰よりも「伝説の博多芸妓」だったおばあちゃんの面影がある。それはつまり、「普通の奥様やお嬢さんには見えない」ということであり、実際に、東京にいた頃は見知らぬ若い芸者に道で挨拶されたことも一度や二度ではないらしい。本人はあっけらかんとしているけれど、ここで育って良かったのか、時々私は考え込んでしまう。
千歳ちゃんは仏間に入ると、仏壇に手土産を供えて線香をあげ、しばらく手を合わせてから、私ときみ子に向き直り膝前に手をついて、
「おかあさん、おねえちゃん、今年もお世話になりました。」
と挨拶をする。
「こちらこそ、うちの妓たちのお稽古から相談相手まで、お世話になりました。」
私が言うのに続けて、きみ子が
「千歳ちゃんのおかげで、かず葉とさと乃も何とか御披露目に間に合ったし。雪之助さんの件もね…。」
と言うと、千歳ちゃんは苦笑いを浮かべた。
「ああ、あれはまあ…あたしは隣の部屋から見張ってただけで、大したことじゃないし。」
雪之助さんから「きぬ葉さんに折入って話がある」と言われたのは、十月半ばのことだ。うちに電話してきたからには、やましい話ではないだろう。とはいえ、火のないところに水煙を立てるのが世間ってもの、二人が会うのは難儀な話だ。まず人気役者が目立たず外出すること自体が難しい。それは雪之助さんがどうにかすることとしても、話が漏れない場を見つけること、信頼できる見守り役をつけることも絶対に必要だ。
考えた末、千歳ちゃんの家に場所を借りることにした。千歳ちゃんの家の玄関は木戸に守られた路地にあって、甘味処の勝手口からも路地に出られるようになっている。俥屋さん(*7)にかわら版屋を上手く巻いてもらって、二人が違う出入口を使えばそれなりに守りは固められる。千歳ちゃんが見守り役なら間違いはないし、甘味処の二人も口が堅くて安心だ。
千歳ちゃんと念入りに段取りを相談して二人に伝え、当日を迎えた。話が終わったらきぬ葉が「まつ乃や」に来ることになっていたけれど、置屋で待つ私ときみ子、ねえさん芸妓の秀葉さんも気が気ではない。時計の針の動きがやたら遅く、音がうるさく感じられる。
三人でじりじりして一時(*8)ほど経ったころだろうか、電話が鳴った。きみ子が受話器をとる。
「はい、まつ乃やでございます。」
―あ、きみ子ねえちゃん?千歳ですー。
きみ子がこちらを見て、口の形を「ちとせちゃん」と動かす。気を利かせた千歳ちゃんがきぬ葉が帰るより前に電話をかけてきたのだ。私も秀葉さんも受話器ににじり寄る。
―雪之助さん俥に乗せたけん。あと、きぬちゃんには千代木で何か食べてもらってる。きぬちゃんが店を出たらまた電話する。
「何もなかったとやろか。」
―ずーっと隣の部屋で様子を伺ってたけど、ただ話してただけだったなー。
「話って何やったん。」
―雪之助さんの養子入りの話がほとんど。
「それが折入った話?」
―あ、それと何かお互い贈り物があったみたい。
「贈り物?」
―んー、きぬちゃん本人がしゃべると思うけど、心配することはないかな。それより、きぬちゃん、立派な博多芸妓になったね。
「?」
―まあ、きぬちゃんに聞いたらいいよ。とにかく、何もなかったから安心して。
3 映すきもの
それからほどなくしてきぬ葉が来た。仏間に通すようきみ子に頼み、私は煎茶を淹れに台所に立った。湯を沸かしながら、玄関に現れたきぬ葉の装いを思い返す。
芸妓は、出掛ける場に適うよう、着る物に工夫を凝らすのが常だ。祝いの宴には宝尽くしや松竹梅といった吉祥文様を着るのはもちろん、他所の方の饗応の席向けに博多名所を描いた着物を誂える人もいる。普段の着物でも、たとえば芝居に行くなら演目にちなむ色や柄を選びたい。私が芸妓だったころと違って、近頃は異国から入ってきた「花言葉」とかいうのも流行っているから、季節の花を描いた定番の座敷着も、お客様の顔ぶ れによっては吟味することもある。
何を着るかは、私たちにとっては思いを映す鏡のようなもの。けれども、この日のきぬ葉は鴇浅葱色(*9)の蒔糊散らし(*10)の着物に蜀江文様(*11)の白地の帯、羽織は濃墨色の無地。衿元もきっちりと詰め、穏やかだけれど何の含意も感じさせない装いは、心の内に踏み込まれるのを拒んでいるようにも見えた。
茶碗を四つお盆に乗せて仏間に入ると、形よく座ったきぬ葉の後ろ姿が目に入る。つぶし島田は後れ毛一本なく、着物と羽織はきっかりと色の対比を見せて、後ろにはねた羽織の裾が水紋のように柔らかな弧を描いている。
私が秀葉さんの隣に座り、めいめいの前に茶碗を配り終えると、きぬ葉が口を開いた。
「おかあさん、おねえちゃん、ねえさん、ご心配おかけしました。」
「それで、どういう話やったの。」
きみ子の単刀直入な問いにも、静かに答える。
「雪之助さんが橘家の旦那様のところの婿養子になられる、いう話でした。」
「わざわざ呼び出して、その話?」
「はい。養子に入られる前に、片づけたいものがあったからやと思います。」
そう言うと、きぬ葉は鞄から細長い桐箱を取り出した。
「中身は平打簪です。」
確かに、花嫁にあげるでもない簪を持っては婿に行けないだろう。
「なんで、雪之助さんがきぬ葉さんに簪を?」
「いちばん最初にお座敷でお会いした時、うちが名取になるんと雪之助さんが一人楽屋をもらうんと、どっちが先か競争する約束したんです。」
「いや、それ初耳やわ。」
とつぶやく秀葉さんに、きぬ葉は頭を下げる。
「黙っててすいまっせん。お座敷での冗談みたいなもん、忘れんしゃるやろと思ってたんです。」
「それが覚えとりんしゃった、いうわけやね。それじゃあ、この簪は名取の祝いみたいなもんいうこと?」
「はい。こげなもの受け取れんて言いましたけど、名入りになっているみたいで…。今となっては雪之助さんも持っとくわけにもいかんやろし、うちが引き取ることにしました。」
「うーん…確かにそうするよりなかね。」
「うちは、紙入をお渡ししましたけど、どこかで処分してもらう約束です。」
「それで?」
「それだけです。」
「え、それだけ?」
私は思わず秀葉さんと顔を見合わせる。当代きっての花形役者と博多一の美人芸妓が、子どもみたいに物々交換して終わりなんてそんな色気のない話、あるだろうか。ややこしい話にならなかったのは置屋としては何よりだけれど―。秀葉さんが口を開く。
「きぬちゃんは、何とも思っとらんの?」
「雪之助さんは年に何度かお座敷でお会いするお客様。それ以外の何でもありまっせん。」
「毎日毎日お座敷とお稽古で、誰かとこっそり逢う時間なんかないのは、私もおかあさんも良う知ってる。二人の仲を疑ってるんやないんよ。ただ……。」
秀葉さんは言い淀んで、口をつぐんだ。きぬ葉も黙って下を向いている。閉じた唇がほんのわずかに動き、何度かまばたきをする。こういう顔をするのは、たいてい何か辛いことを飲み込もうとしている時だ。
きぬ葉の答えを待ちながら、ああ、そうか、と私は思う。無表情な装いは、相手がどう出ようと平静を保つための鎧、自分の思いを永遠に封印する儀式のための取り合わせなのだ。さっきの秀葉さんの言いようからして、間違いない。それにしても、秀葉さんはずっと前から知っていたようだけど、誰にも何も言わずに見守っていたのか―。
きぬ葉がゆっくりと話し始める。
「うちが、雪之助さんに願うのは一つだけ、立女形(*12)をつとめるような立派な役者さんになられることです。この度のご縁談、何よりのお話やと本心から思ってます。それに―。」
「それに?」
「うちはこの仕事が好きです。もっともっと芸を磨いて、ねえさんみたいにずっと自分の芸で身を立てていきたい。結婚とか、うちにはもとから縁のない話です。まして他人様のご縁談、おめでたいということのほか、何にも思いません。」
秀葉さんはしばらく黙ったまま、きぬ葉を静かに見つめていた。そして、二、三度小さく頷いて、穏やかな調子でこう言った。
「そう、分かった。」
その労わるような眼差しの先にいるのは、きぬ葉でもあり、昔の秀葉さん自身でもあるように、私には思えた。
4 一本の道
その後、きぬ葉は変わった様子も見せず、それまで通り予定をびっしり詰め込んだ毎日を送っている。何ともないというのはほとんど嘘だろうし、随分前から思うことは色々あったはず。そうでなければ、あれほど意味も表情もない取り合わせは選ばないだろう。
千歳ちゃんときみ子がしゃべるのを聞きながら、私は手焙り(*13)の灰を整えるふりでぼんやりと考える。
あの日の翌日、千歳ちゃんは詳細を報告しにうちを訪ねてきた。千歳ちゃんは小さな頃から、清元でも長唄でも一度聞いたらすっかり覚えてしまう。二人のやりとりも、まるごと覚えていて、「盗み聞きした話の告げ口みたいで嫌だな」といいながら、細かく教えてくれた。
委細残らず聞いて、二人の間には幼い約束の他に何もないというのに嘘はない、と私は思った。もう少し言えば、二人ともお互い兄妹か同志のような間柄に留まることを押し通した、というところか。
二人が別々に思い詰めて選び取ったその道は、本人にとっても周囲にとっても最善だ。人生は、お芝居ではないのだから。もしも私が赤の他人の立場でこの件の相談を受けたなら、きぬ葉の結論と同じことを勧めただろう。けれど、道理が通っているだけ、私は二人が不憫だった。
千歳ちゃん曰く、雪之助さんは帰り際に、
「お師匠さん、あの人は…きぬ葉さんは、真っ直ぐなお人ですね。真っ直ぐすぎて危なっかしいくらいや。そやけど、年に二、三度しか来いひん私が心配しても、何もしてやれることはあらへん。そやから、せめてお守りになるような何かを、てずっと思ってたんですけど…。」
と言ったそうだ。そして、何か吹っ切れたような顔でこう続けたという。
「今日ここに来て、私が心配することあらへんて、よう分かりました。」
役者の世界と私たちの世界は、近いようで近くない、川の両岸にいる人どうしにも似ている。右の岸と左の岸から同じ川を眺めていて、お互いのことも見えている。けれど、岸が交差することはない。向こう岸に向かって手を伸ばしても、相手に触れることはできない。手をつなぐなら、どちらかが自分の岸を離れて川を渡るしかない。そして、二人は、決して交差しない道を歩き続けることを選んだ。
あの平打簪を、きぬ葉が挿しているのを見たことはない。たぶん、これからもずっと、抽斗の奥かどこかでひっそりと眠り続けるのだろう。それが心の支えなのか棘なのかは、きぬ葉にしか分からない。分からないけれど、あの子がこの街にいる限り、私がおかあさんで、秀葉さんがおねえさん。そして、どんな時でもこの家が帰る場所だ。千代木に行けば、千歳ちゃんやおイネさんもいる。だから―。
「ああ、そういえば。」
千歳ちゃんがきみ子に言う声で、私はふっと我にかえる。
「こないだ、西坂流の踊りの会にうちの弟子が出るっていうんで見に行ってね。」
「うん。」
「そこで券番の踊りのお師匠さんとばったり会ったんだけどさ、『きぬちゃん、最近急に踊りに深みが出てきたけど、何かあったと?』だって。」
千歳ちゃんはそういうと、にやりと笑った。
「大事ないようで何より。」
きみ子も不敵な表情を作って答える。と、勝手口の扉が開く音が聞こえた。
「おかあさん、おねえちゃん、ただいま戻りましたー。」
下地ッ子二人の声がして、千歳ちゃんが時計を見る。
「ああ、あたしもそろそろ帰んなきゃ。」
「残念。また私も千代木に寄るけん、ゆっくり話そ。」
きみ子がそう言いながら襖を開けると、ちょうど下地ッ子が突っ立っていた。私ときみ子を探していたようだ。部屋の中に千歳ちゃんを見つけて慌てている。
「うわ、お師匠さん。」
「『うわ』って何だい、失礼だね。」
「す、すいまっせん。」
下地ッ子は、急いで座ると手をついて、揃って深々と頭を下げた。
「お師匠さん、今年のお稽古ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。」
「おやおや、この二人は将来有望だね。」
千歳ちゃんの言葉に、きみ子は
「そう、上の二人と違ってね、お利口さん。」
と笑う。
玄関の扉を開けると、雪が舞っている。私は蛇の目傘を一本取り出した。
「うちの傘持っていったら?」
「ありがとうございます、おかあさん。そうします。」
千歳ちゃんは羽織の上から黒い肩掛けを巻きつけて、蛇の目傘を受けとった。
「そういえば、かず葉とさと乃は?」
私が振り返って尋ねると、下地ッ子二人の目が泳ぐ。きみ子が呆れ顔で言う。
「まーた寄り道しとると?」
「えーっと…あの、お善哉を食べてから帰るって…。」
「下地ッ子をほったらかして、全く…。じゃあ、おかあさん、うちに着いたら傘は二人に持たせて、すぐ帰らせます。」
そういって、千歳ちゃんは傘をすいと開き、軽くお辞儀をして歩き始めた。流れるように滑らかな動作も、帰って行く後ろ姿のぴりりとした空気も、本当におばあちゃんにそっくりだ。
「あの二人、きっと油をこってり絞られて帰って来るやろね。」
きみ子が言う。
「うちでおかあちゃんが叱る時間が残ってるといいけど…。ま、寒いし中に戻ろか。」
「そうやね。みんなのきものも支度しとかんと。」
もうすぐ歳の瀬、この仕事も書き入れ時だ。いろんなことがあるけれど、忙しいのは悪くない。薄く雪雲のかかった空を見上げて、私は玄関の扉を閉めた。
外伝は今回のお話でいったん終わりです。ネタはあるので、そのうち投稿するかもしれません。(グラスゴーのはりねずみ)




