外伝4 波の模様
師匠が育った置屋「まつ乃や」の芸妓・きぬ葉。上方で育ち博多で指折りの売れっ妓になった彼女の、日常とささやかな秘密。
分かりにくい言葉(*がついています)は注釈ページをご参照ください。
1 穂波の季節、千代木にて
「おかあさん、おはようございます。」
芸妓置屋「まつ乃や」の勝手口から、うちは奥に声をかける。
「あれ、きぬ葉ちゃん。休みの日やのに、わざわざ寄ってくれたん?」
「はい、今日は秀葉さんねえさんのところに行きますけん、いつもより早い時間に寄らせてもらいました。」
「そうやったね。秀葉さんによろしゅうに。」
今日は秋の彼岸の入り。うちは公休日やけど、おはぎを「千代木」で受け取って秀葉さんねえさんに届けることになってる。
秀葉さんねえさんは、うちの姉さん芸妓や。うちら博多芸妓は、最初は半玉、つまり半人前の芸妓としてお座敷に出る。そのお披露目の時に、置屋の先輩芸妓の誰かが花街での「姉」になる。秀葉さんねえさんは、「まつ乃や」のおかあさんの芸妓時代の朋輩(*)で立方(*2)一筋、長年の御贔屓客も多い、憧れのお姐さんや。
博多芸妓は一人前と認められると「一本立ち」いうて、置屋から独立する。秀葉さんねえさんも普段は一人で暮らしてはるんやけど、今年は里から兄弟やら親戚やらが訪ねて来はって、おはぎを取りにいく間もないとかで、妹のうちが届けに上がるのを引き受けた、いうわけや。
千代木の前では、千恵ちゃんがいつもの桃色の襷と前掛け姿で店先を掃いている。
「ごめんください。今ええですか?」
「あ、きぬ葉さん。こんにちは。」
千恵ちゃんは掃き掃除の手を止めて、「支度中」の札がかかっている引き戸を開け、中に声をかける。
「おイネさーん、きぬ葉さんが来られましたー。」
「およ、きぬ葉さん。入ってくだはれー。」
奥からよく通る声がする。おイネさん五島の出やから言葉が博多の人とは違うけど、うちはおイネさんの話し方も柔らこうて好きや。
千恵ちゃんに促されて、まだ店の内側にかかっている暖簾をくぐって、中に入る。
「こちらこそ、お店を開ける前の時間にすいまっせん。」
「そんなん、気にせんとってー。」
粒あん、白こしあん、きなこ、黒ごま、青のり―預けてあった三段重の中に五色のおはぎがきれいに整列している。おイネさんは、器の大きさに合わせた寸法でおはぎを作らはるから、寄ったり崩れたりしない。
「これで良かかねえ。」
「はい、ありがとうございます。」
おイネさんはもう一度おはぎの数と向きを確かめると、重箱の蓋を閉めた。蓋には鳴子(*3)に雀の蒔絵、鳴子の文様は身のほうにも続いていて、下の二段には穂波(*4)が描かれてる。一年の内でもこの時期にしか使えへん、贅沢な重箱や。
「ほんとに、見事な蒔絵やねえ。」
おイネさんが、木綿の風呂敷でしっかり包みながら溜息をつく。
「たしか、春に秀葉さんからお預かりしたお重の模様は、桜の下の舟遊びの趣向でしたよね。こう、風雅っていうのかな、やっぱり芸妓さんはこだわりようが違いますね。」
水打ちを終えて店の中に戻って来た千恵ちゃんも言う。
「芸妓は夢を売る仕事、いつでもどこでも誰が見ても博多芸妓らしく、て言うんが『まつ乃や』の流儀ですけん。」
そう自分で言いながら、うちは「博多芸妓らしく」なれてんのかどうか、いまだに自信があらへん。博多芸妓は気風の良さが売りだけど、うちはどっちかというと弱気なほう。父の仕事の関係で随分長いこと上方に住んでたから、博多言葉も上手くない。
ふと千恵ちゃんの顔を見ると、蒔絵に関心しているのとは違う色が浮かんでる。
「夢を売る仕事といえば、きぬ葉さん、雪之助さんとはど…」
千恵ちゃんが何を言い出すか見当がつくので、うちは急いで途中で言葉を挟む。
「あ、そろそろ行かんと。秀葉さんねえさん待ってるし。」
お重を手に取る。おイネさんは気付いているのかいないのか、
「重たかよー。気い付けて歩きなはれ。」
と送り出してくれる。
「きぬ葉さーん、後でお店寄ってねー。聞きたいことあるのー。」
千恵ちゃんが諦め悪く呼ぶのを背中で聞きながら、うちは秀葉さんねえさんの家に急いだ。
2 さざ波
千恵ちゃんのいう「雪之助さん」は、上方歌舞伎の橘家・芳川ご一門の、若手女形。普段は京や大坂で芝居に出てはるんやけど、ご一門での興行や若手花形芝居やらで、年に二、三度博多に来はる。山笠や放生会の少し後、博多の町衆がお祭りの後の気抜けから立ち直る頃やから、いつも大入満員になる。
うちが初めて雪之助さんを見たんは、半玉で出立ての頃、秀葉さんねえさんが勉強になるからいうて、お休みの日に浜新地の芝居小屋に連れて行ってくれた時やった。雪之助さんはまだ役名も台詞らしい台詞もなくて、ただ舞台の奥に座ってはるだけやったけど、なんや纏ってる空気が違ういうか、両隣の役者と同じ着物のはずやのに一段明るく見えるいうか、とにかく目を引く役者さんやな、と思ったのを覚えてる。
二回目に雪之助さんを見たんは、お芝居を見た次の日。大店の大嘉屋さんが設けはった歓迎の宴に、秀葉さんねえさんと一緒にお声が掛かった時や。雪之助さんは一番下座に座ってはった。上座から順にお酌しながらご挨拶して回って、雪之助さんが最後。真面目な顔で座ってる素の姿は、ほっそりして二枚目やけど、舞台で見るよりだいぶ男っぽい感じで意外やった。雪之助さんは、うちが差し出した名刺を、
「いやあ、可愛らしい名刺ですね。」
と言って受け取ると、言葉を続けた。
「きぬ葉さんいうんですか。昨日、あちらのお姐さんと一緒に芝居小屋に見に来てくれてはったでしょう。」
「そ、そうですけど。そんなに客席見えてるもんなんですか。」
「よう見えてますよ。私みたいな台詞も何もない者には特に。」
「今日は白塗りしてるのに、分かりますか。」
「私たちも毎日白塗りで過ごしてますから。」
そういって笑った顔は、舞台姿と同じ華があった。きらきら光るさざ波のような、咲きかけの牡丹のような、静かで控えめで、それでいて確かな光をもった華。うちは芝居も役者さんもまだ沢山は見てへんかったけど、雪之助さんは絶対に大成しはるお人やと思うた。
他のお客さんのところに行っていた秀葉さんねえさんが、うちに他のお姐さんも付き添ってないことに気付いて、戻って来る。
「雪之助さん、お飲み物、足りてますか。」
「もう名前を覚えてくれはったんですか。うれしいなあ。あ、私はお酒が飲めない性質から、どうぞお気遣いなく。」
「あらー、残念。そうや、生姜蜜を炭酸水で割ったのはどうやろ。きぬ葉ちゃん、持ってきてくれるか。」
秀葉さんねえさんに言われて、仲居さんに飲み物を頼みに行く。「もう名前を覚えてくれはったんですか」て言わはったからには、雪之助さんは博多は初めてなんやろか。
「あの、雪之助さんて役者さんは…。」
と仲居さんにこそっと聞いてみる。
「えーと、確かこの春に大坂でお披露目って聞いてますけど。」
そんなら、うちのお店だしとおんなじ頃や。話は向こうのほうが上手いけど。座敷に戻ると、秀葉さんねえさんが、
「申し遅れました。これは春に出たばかりの半玉の『きぬ葉』、わたしの妹分です。まだ気が利かんとこがありますけど、どうぞお見知りおきを。」
と改まった口調で紹介する。
「いやあ、私も春にお披露目があったとこです。きぬ葉さんは、何月にお店だしで?」
「四月です。」
「私は五月。きぬ葉さんのほうが、ひと月早いんですね。おねえさんや。」
3 ふたたび千代木にて
うちが思うたとおり、て言うのもおかしいけど、雪之助さんはあれよあれよと言う間に人気が出て、だんだん良いお役も付くようになった。雪之助さんが興行で博多に来るたび、ええとこのお嬢様方から下町のお内儀さんまで大騒ぎ。最初の頃は無名やったから、気楽に博多の街を歩けてたけど、今は変装しようが御高祖頭巾(*5)を被ろうが、「雪さまやー」て誰かに見破られて大騒ぎになるらしい。
それでも、甘いもん好きの雪之助さんは、時々お忍びで千代木に寄らはる。味だけやったら出前を頼んだら済むことやし、この場所がお気に入りなんやろな。おイネさんも千恵ちゃんも、口が堅うて優しいし。
あと、雪之助さんはうちのことをいまだに「おねえさん」とか「ねえさん」て呼ぶ。後で聞いたら、十年前の「お披露目」言うんは芸名「雪之助」の御披露目で、実は小さい頃から踊りを習うてて橘家さんの目に留まり、芸名なしでお舞台に出てはった。歳もうちより二つ上やし、どっから見ても雪之助さんが「おにいさん」や。それを言うても、
「だって、芸妓さんは何歳でも『ねえさん』やろ。何も間違うてへんし。」
て言わはる。そういう時の雪之助さんは唇をとんがらせて、ちょこっと憎らしい。きれいなお顔が台無しや。
千代木でばったり出くわす度に、雪之助さんがしょうもない話を仕掛けてくるから、千恵ちゃんは勘ぐるんやろうけど、実のところ、うちと雪之助さんの間には何もない。そら博多にお芝居で来はったら見に行くし、大勢のお座敷で顔を合わせることもあるけど、それだけ。一年に片手で数えて足りるくらいの回数しか会うてへん。
何度そう説明しても、
「えー、絶対うそだー。何かあるでしょー。」
と、千恵ちゃんは納得しない。うちがお重を届けた後、秀葉さんねえさんから言付かったお礼を伝えに千代木に戻って来ると踏んで、千恵ちゃんは待ち構えていた。お店の入口には、また「支度中」の札が掛かって暖簾も片付けられてる。おイネさんのおはぎは大人気で、お彼岸の間はとにかく注文が多うて朝早くから働き詰めになるから、お昼過ぎで店じまいにしはる。そういうわけで、千恵ちゃんからしたら、うちを質問攻めにする絶好の機会に違いなかった。
「ほんとは、もう長いこと付き合ってるとか。」
「いいえ、本当になーんにもありまっせん。」
「あやしいなー、あやしいなー。」
「あやしいことなんか、一個もありまっせん。だいたい、年に五回くらいしか会わんお人とどげんして付き合うの?」
「えー、だってー。六月の舟乗り込みの時も見てたけど、ほんと絵になるっていうか…。」
船乗り込みは、役者さん方がご到着のお披露目とお芝居の宣伝を兼ねて、芝居小屋近くの川を船で巡る行事や。雪之助さんの一座は浜新地のすぐ側を流れる博多川と決まってて、うちら芸妓も賑やかしで船に乗せてもらえる。今年は、誰がどの船に乗るか半玉と芸妓全員参加のくじ引きで決めたんやけど、うちは雪之助さんと同じ舟になった。というても、役者さんがもう一人と、半玉ちゃんが一人、船頭さん、幟や提灯を持つ人も一緒や。
「役者と芸妓が並んでて絵にならんかったら話になりまっせん。」
「絵の背景が何かあるんじゃないのって、聞いてるのよう。」
「ありまっせん。」
「千恵ちゃん、しつこかね。」
おイネさんが通りすがりに千恵ちゃんの頭をお盆でポンと叩くふりをする。千恵ちゃんはおどけて頭を抱えると、小さく舌を出して黙った。
4 波に兎
「ああ、でも船乗り込み、きれいかったねえ。」
お盆を抱えたまま小上がり席に腰掛けたおイネさんがつぶやく。
「きぬ葉さん、新しい着物でしたよね。」
千恵ちゃんがまた口を開く。確かに、今年は船乗り込みに合わせて一枚新調した。けど、うちらが仕事着を拵える時は色から柄から全部誂えやから、お金はともかく時間がそれなりにかかる。
「残念やけど、誰がどの舟に乗るか決まったんは、着物を誂えた後です。」
「雪之助さん何か言った時、きぬ葉さんちょっと笑ってましたよね?」
それは―雪之助さんが「面白の浦の景色や(*6)。」って言わはっただけや。どうして千恵ちゃんはそんな要らんとこまで見てるんやろう。
今年はどなたかの襲名披露があった。役者さん方は黒紋付で船乗り込みと決まってて、うちら芸妓は明るく華やかな趣向で言うことで、黒以外のものを着ることになった。役者さん方を引き立てて、水辺に映える色と文様―。舟の柄は芸がないし、ありきたりの吉祥柄も面白うない。役者さんの紋や名前を連想する柄も避けたい。改まった時は白地に赤の博多献上帯やから、帯と相性のええ色使いでないと―。
あれこれ考えた末、波の地紋が大きく織り出された白生地を白緑色(*7)に染めて、帯から下だけ白と銀の糸の地紋起こし(*8)で波模様を縫い、波間の所々に波頭を配して、兎を白い影にしたのを何羽か紛れ込ませることにした。波文様自体がおめでたい柄やし、兎を組み合わせると「竹生島(*9)」になる。竹生島におわす弁天様は、芸能や福徳の女神様や。船乗り込みに波兎は悪うないと思うた。
仕立て上がってみると、兎は思ってた以上に控えめで、「まつ乃や」のおかあさんやお姐さん方ですら、うちが「ここ」と指差して初めて気付かはったほど、上手に隠れんぼしてた。
雪之助さんは、いつ兎を見つけはったんやろ。船に乗ってる間はずっと、役者さんは川沿いに集まった人達の方を向いて手を振ったりしてはるから、後ろに座ってるうちらの方を向くことはほぼない。そんなら船に乗り込む時か、その前にみんなで集まってる時か―。それはともかく、控えめすぎる兎に気付いてもらえて、趣向も分かってもらえたんが嬉しゅうて、つい口の端っこを上げてしもうた。
それにしても、雪之助さんとは一遍も目も合わせてへんかったのに、千恵ちゃん恐るべし。誤解を解くべく、うちは努めて冷静な口調できっぱり言う。
「晴れの場で、仏頂面するわけなか。千恵ちゃんが、いっつも勘ぐってるから、意味ありげに見えただけ。」
「二人っきりのお座敷とか?」
「あり得ません。」
それに、雪之助さんは物堅いとこもあって、お座敷で軽口は叩いても、絶対にお酌する手を握ってきたりしはらへんし、飲み方もきれいなお人や。
「一緒にご飯に行ったりとか?」
「ないない。そげな、かわら版に面白可笑しく書かれるようなこと、こっちからお断りや。」
「ほんとのほんと~に何もないの?」
「ほんとのほんと~に、なーんにもありまっせん。」
ほんとのほんとを言うと、雪之助さんとは一つだけ秘密みたいなんがある。うちが踊りの名取になれたら雪の助さんが「丸いもの」を贈る、雪之助さんが一人楽屋をもらったらうちが「四角いもの」を贈る―最初に会うた時、まだ末席やった雪之助さんと、座敷の隅っこでした約束や。ほんまは、雪之助さんが大きな名跡を襲名して、うちが襲名披露の舞台に祝幕を贈るとか、格好良くいきたいとこやけど、二人にはあんまりにも遠すぎて、こうなった。
お座敷での話、あっちが覚えてるかどうか怪しいけど、今まで、半分競争のつもりでやってきた。ほんま、自分でも子供じみてる思う。けど、気弱で何につけても自信のないうちにとっては、この道を歩く支えの一つではあった。
5 波に千鳥
十月、若手花形歌舞伎が始まった。「雪さま」の姿を見られるのは年内最後、いつもどおり大入満員や。初日から五日ほど経った頃、「まつ乃や」のおかあさんから連絡が入った。雪之助さんがうちに折入って話があって、どうしても二人で会いたい言うてはるらしい。おかあさんは思案の末、千歳お師匠さん家に場所を借りることにした。お師匠さん家なら木戸の内側やし、「いろいろ」安心いうことらしい。きみ子おねえちゃんなんか、前日の夕方には悲壮感すら漂わせて、うちの手をぎゅうっと握って、
「何かあったら、千歳ちゃんが隣の部屋から襖を蹴破って突入してくれるけん。」
て言うてはった。
「何かあったら」て、何もないと思うけどな―おおよそ話の見当もついてるし。当日、うちはそう思いながら髪を梳きつけ、紅を薄く引く。着るものは、浮わついて見えず、沈んでも見えず、何の含みも持たせない取り合わせ。前の晩からさんざん考えて決めたけど、家を出る前にもう一度、姿見を確かめる。
約束の時間に、千歳お師匠さん家を訪ねる。二階の客間に上がると、鋼色の紬のお対(*10)を着た雪之助さんが床の間の掛物をしげしげと眺めていた。地紙(*11)に歌か何かの散らし書きみたいやけど、遠くからは何て書いてあるか、よう分からへん。
「なんか私、信用されてないんかな。」
と雪之助さんはつぶやいて振り返り、襖の外に座ってるうちに気が付く。
「ああ、ねえさん。呼び出して…いや、押しかけて悪いな、かな。」
「本当に、千歳お師匠さんにまで迷惑かけて、お話て何ですか。」
「相変わらずはっきり物を言わはりますなあ。そんな怒らんといて。約束を果たしに来たんやから。」
雪之助さんは座布団に座り直すと、傍らの風呂敷を開いて小さな桐箱を取り出した。
「名取になったんやて。おめでとう。」
「何でそれを…。」
「似た世界にいてて、耳に入らんほうがおかしいやろ。役者仲間にはねえさんと同じお流儀もいるし。」
うちが桐箱に手を出さないでいると、雪之助さんは、
「開けてみ。」
と言った。しぶしぶ蓋を開けると、逆巻く波に向かって三羽の千鳥が飛ぶ様子を表した銀の平打簪が入っていた。波しぶきの所々に小粒の真珠があしらってある。
「鼈甲とか珊瑚のも揃えられたら良かったんやけど、堪忍な。」
「こんな、受け取れません。それに、身に着けるもんは自分でまかなうって決めてるんです。」
うちは桐箱を押し返す。
「ねえさんらしいな。十年間、一度も艶っぽい噂聞かへんかっただけのことはある。」
お座敷でも時々飛び出す失礼な一言、うちは眉をひそめる。雪之助さんは、ちょっと真面目な顔になった。
「約束を違えるんは気持ち悪いんや。裏に名前も入れてもらったし、使い回す先もあらへん。」
―この人、なんでこんな時にこんなことするんやろう。
「こないだ、ねえさんの踊りのお師匠さんと会うたんやけどな、『きぬ葉はもっと早うに名取にして良かったんやけど、他の弟子との兼ね合いとか考えてるうちに、えらい遅くなって可哀そうなことした。』て言うといやしたで。ねえさんは、人に恵まれてるんやな。」
それはそう思う。お稽古事のお師匠さん方も、「まつ乃や」のおかあさんも、お姐さん方も、千歳お師匠さんも、おイネさんも、千恵ちゃんも、うちのまわりはええ人ばっかりや。
「あーあ、私の負けや。ねえさんの名取のほうが先やった。」
雪之助さんは大げさに嘆く。
「雪さん、また嘘ついてるでしょう。」
「え。」
「今年は一人楽屋やって、踊りのお師匠さんから聞きました。」
「何や、知ってたんか。」
「初めて会った時もそうやったし、なんですぐばれる嘘つくんですか。」
「おねえさんは真に受けて、面白いから。」
ほんまに失礼な人や。簪なんか絶対受け取らへん。
「冗談や、冗談。分かった、今日は要らんこと言うのは止めとく。」
雪之助さんは笑って打ち消すと、少し間をおいた。
「軽口は私の悪い癖や。特にねえさんは裏表がなくて真っ直ぐやから、何ていうか…ごまかしたいいうか、まぜっかえしたくなるんや。」
「…。」
「最初に会った頃、私は気持が潰れそうやった。期待は重いし、よその兄さん方の視線は刺さるし、お役もなかなか付かへんかったし…今思えば当たり前のことやけどな。そんな時に、出たての半玉さんが『絶対、すごい役者さんになる』て、何の迷いもなく、真っ直ぐ私の目を見て言わはった。」
「……。」
「正直言うて、『何言うてるんや、この子』て思うた。でも、あんまり確信に満ちてたから、ちょっと信じてみよか、気張れるとこまで気張ってみよかって気になってん。」
「……。」
6 約束の行方
うちが黙ってんのをよそに、雪之助さんは嘘っぽい微笑みを浮かべて続けた。
「そやから、この簪は、約束果たすためと御礼のためと、両方や。」
いつまでそんな昔話するんやろ。ほんまはもっと違う話のために来たんやないの―。うちは小さく息をついて切り出した。
「雪さん、話てそれだけ?」
雪之助さんは、こっちの目の奥を探ってる。さっき自分で「似た世界にいてて、耳に入らんほうがおかしい」って言うたばっかりやのに。
「芳川の旦那様のとこに婿養子に入らはる話なら、もう知ってます。おめでとうございます。」
雪之助さんは一瞬顔をゆがめて、目を伏せた。目線の先に平打簪がある。
「なんで、そんな辛気臭い顔しはるんですか。芳川の旦那様が後ろ盾なら、今ほどの気苦労もせんで済む。お嬢様もお綺麗で気立てもええて評判のお方やし、芝居の世界のことよう知っといやすやろ。これ以上ない、ええご縁談やと思います。」
あかん、博多言葉が出てきいひん。ちゃんと博多言葉でしゃべらんと、言うことの加減が利かんことなりそうや。
雪之助さんは、黙ってうつむいたまま。障子越しの光を受けて、伏せた切れ長の目の線とすっと通った鼻筋が際立つ。お芝居見てるみたいや。雪之助さんが口を開く。
「…私には勿体ない、有難い話やて、分かってる。」
「うち、奥様を大切にせん人は嫌いです。」
「…知ってる。」
「そやから、簪は受け取れません。」
「…まだ祝言挙げてへん。」
「そういう道理の通らへんこと…。」
「違う、違うんや。」
雪之助さんはうちの言葉をさえぎって、顔を上げた。
「…こんな、時期が重なったのは、ほんまに偶々なんや。この簪、何年も前に作ってた。きぬちゃんが、いつ名取になっても大丈夫なように。ずっと鏡台の引出に仕舞ってた…。婿養子の話は今年の夏の芝居が終わってしばらくしてからあったんや。」
急に名前で呼ぶとか、反則や―。うちが黙ってると、雪之助さんはほとんど消え入りそうな声でこう言った。
「これ持ったまま婿入りできるほど、私も図太うないんや。」
しばらくの間、二人とも押し黙る。うちは一つ息をついて顔を上げた。
「分かりました。受け取ります。ただ―。」
「ただ?」
「うちも一つ渡すものがあります。」
「?」
「四角いもん。うちの約束の分。」
うちは鞄から紙包みを取り出して、雪之助さんの前に置く。
「中身は紙入れやけど、今更こんなん、雪さん困るやろ。そやけど、うちも約束守らんのは気持ち悪い。用意したことだけ伝えとこう思うて。」
「いや、もらうわ。」
「なんで…。」
「いくら何でも、きぬちゃんに全部押し付けるんは気が引ける。この街におるうちに、どこかの神社で、お焚き上げしてもらう。約束する。」
「お焚き上げ…。それやったら、うちもさっぱりします。」
「きぬちゃん、開けるよ。」
襖の向こうから千歳お師匠さんの声がする。雪之助さんを無事に送り出して戻ってきはったらしい。雪之助さんは千代木の入口から出入りする段取りになっていた。人力車屋さんに、俥を入口ぎりぎり一杯に付けてもらい、幌も目一杯下げてもらったという。
「はーあ、この歳になって隠密ごっことは。雪之助さんも困った人だね。」
「お師匠さんにまでご迷惑をお掛けして、すいまっせん。」
「水臭いねえ。きぬちゃんは親戚みたいなもんなんだから、気にしないどくれ。」
お師匠さんは、うちが手にしてる平打簪に目を止めた。
「いい簪だね。」
うちは黙ってうなずく。
「千鳥は三羽か、なるほどね。」
「なるほどって、何ですか。」
「千鳥の数に決まりはないんだけどね、一羽っきりで波に向かうのは健気すぎるし、二羽だときぬちゃんみたいな若い妓が使うには意味深だろ。三羽連れは、いい線じゃないかね。」
「あの、お師匠さん。」
「なんだい。」
「雪之助さん、お軸見て『信用されてないのかな』って。」
「ああ、この掛物。今日は達磨さんにして後ろから睨みつけてもらおうかとも思ったんだけど、ちょいと思い付いてね、知り合いに書いてもらったのさ。」
お師匠さんは床の間に近付いて、お軸の散らし書きを読み上げる。
「苗代の 小水葱が花を 衣に摺り なるるまにまに あぜか愛しけ―(*12)。万葉集の東歌なんだけどね。『この歌の男みたいに、きぬ葉をたぶらかしたら、ただじゃおかないから』っていう、宣戦布告。」
思わずふき出したのを見て、お師匠さんもふっと笑う。
「ま、大丈夫だったみたいだね。ああ、そうだ。帰りに店に寄ってきな。今日はあたしのおごり。おイネさんにも言ってあるから。」
外を回って千代木に入ると、おイネさんがいつも通りの元気な声で迎えてくれる。二人掛けの席に座ってると、千恵ちゃんが向かいの椅子に陣取った。
「今日は質問は?」
「え、何もないよ。それより、何食べる?」
「秋やし、栗ぜんざいにしようかな。」
「おイネさん、栗ぜんざい一つお願いしまーす。」




