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外伝3 糸の縁

「甘味処 千代木」でおイネさんを手伝う「千恵ちゃん」は、本業は和裁師の見習い。下級武士の家の長女で女学校も出たけれど、好きが昂じて親の反対を押し切り仕立ての道に。一人前になろうと奮闘中の千恵ちゃんの、もどかしくも明るい日常。

分かりにくい言葉(*がついています)は、注釈ページをご参照ください。


1 堀裁縫所にて


ドーン―午砲(*)が響いて、障子の桟が震える。お台場から正午を知らせる空砲が打たれるようになって何年か経つけれど、どうも慣れない。毎度びくっとする私をよそに、堀先生は静かに針を動かし続ける。それが、ここ「堀裁縫所」の毎日の風景になっていた。

いつか、先生みたいに何にも動じず仕事ができるようになるだろうか―私は深く息を吐く。と、先生が黒紋付を縫う手を止めて顔を上げた。

「千恵ちゃん、今日は千代木に手伝いに行くとやろ。支度したら。」

「あ、そうでした。」

一人前の縫い子には程遠い私は、足りない分を稼ぐべく、二日に一度ほど、近所の甘味処「千代木」でも働いている。

キリの良いところまで縫ってから、針の数を三度確かめて、針箱を棚の決まった位置にしまう。

「先生、鏝(*2)はどうしましょう。」

「私も使うけん、そのままでよかよ。」

「分かりました。」

 自分の風呂敷包みを抱えると、私は部屋の端に座って居ずまいを正した。

「先生、明日も宜しくお願いします。」

「はい、また明日。」

表の通りに出ると、風が顔をなでていく。ついさっきまで鏝を温める火鉢のそばにいたからか、真夏の空気さえ心地よい。私は足早に千代木に向かった。


弟子入りして丸六年。もともと針仕事とお洒落とお芝居が大好きで、女学校の裁縫科の先生に相談し、卒業と同時にここで修行することを選んだ。

堀裁縫所は、普通のきものだけでなく、芝居の衣装や芸妓の引き着(*3)の仕立ても引き受ける。堀先生は、もとは京の然るお公家様のところの御物師(*4)だった方で、袿袴(*5)のような町方には縁の薄い装束も能くし、参内用の誂えの相談もたまにある。華やかな衣装を作りたい私にとって、これ以上ない修行先だ。裁縫科の先生は、

「芸は身を助けるといいますが、身を助けるほどの芸は簡単に身に付くものではありません。しっかり修行なさいね。好きで選んだからには、人に何を言われても気にしてはいけませんよ。」

と励まして送り出してくれた。堀先生も、惜しみなく教えてくださる。

ただし、この二人の恩人を除くと、私の選択を理解してくれている人はほとんどいない。他の先生方は本格的な裁縫修行には良い顔をしなかったし、母上は、

「せっかく女学校に行かせたのに、なんでお針子に。」

 と嘆くし、父上にいたっては、

「武家の娘が外で働くなぞ、外聞が悪い。弟の縁談に障ったらどうするんだ。」

 と私に怒るだけならともかく、

「もともと千恵は大人しい娘だった。お前が千恵を芝居見物なんかに連れて行くからだ。」

と母上をなじったり、

「あの何とかという裁縫教師、止めるどころか裁縫所なんか紹介しおって。女を学校に行かせると碌なことにならぬ。」

と、恩師のせいにし始めるから、始末が悪い。

ああ、腹が立つ、腹が立つ。武家と言ったって、うちは下から数えたほうが早いじゃない。うちみたいな「ちんちく殿(*6)」の懐事情は、皆知ってて言わないでくれているだけのこと。家で内職するのと外で働くのとで、何ほどの違いがあるっていうのかしら。

だいたい、父上は私のことをちっとも分かっていない。小さい時からずっと、私は綺麗なものを見るのも作るのも好きだった。裁縫所で修行している今の私は、千代紙で姉様人形を拵えていた幼い私と地続きだ。母上の育て方や女学校の影響ではない。父上が私の表面しか見てこなかっただけ。女に生まれたからって、ちんちく塀(*7)の中に一生いるのはまっぴら御免よ。

そう思いながら歩いていると、歩き方が段々荒っぽくなってくる。いけない、いけない。お気に入りの着物の裾が汚れてしまう。私はあわてて歩みを緩める。

千代木の暖簾が見えてきた。店の前を通り過ぎ、角を曲がって木戸番のおじいさんに挨拶をする。木戸から路地に入ると十五歩ほどで、千代木の勝手口だ。私は手拭いで汗を拭き、息を整えて、引き戸を開ける。

「おイネさん、こんにちはー。」

「あー、千恵ちゃん。今日は早かねー。」

「ええ、ちょっと早歩きで来たんです。」

 おイネさんは、ずっと前から千代木で働いていて、ここのお菓子作りを一手に引き受けている。歳は母と同じくらいか少し年上。だけど、母よりはるかに覇気があって明るくて、どっしりしている。よくよく見ると実は気遣いの塊なのだけど、他人の顔色を伺っているのとも違って、「頼れるおかあちゃん」といった風情だ。何をするにも手際が良くて、惚れ惚れするほど無駄のない動きは、堀先生と似ていると思う。

「今日は、蜻蛉とんぼやね。涼しげで良かね。自分で作ったと?」

 おイネさんが私の衿を見て言う。去年買っておいた青磁色の絽の端切れに、菅繍(*8)で蜻蛉を刺した自信作だ。

「そうなんです、何とか季節に間に合いました。」

「仕立ての仕事をして、家に帰っても縫物するんやけん、本当に千恵ちゃんはお裁縫が好きなんやねえ。」

 そう言いながら、おイネさんが賄いの稲荷寿司を出してくれる。千代木は料理を出さないから、お昼時は結構空いていて、ご飯を流し込むように食べなくていいのも有難い。

「針と糸だけで、形や模様ができていくのは楽しいですよ。自分で使うものは好きなようににできますし。」

いや、「好きなように」というのは嘘だな、と思う。この端切れにはうっすらと観世水文様(*9)があったから、最初は柳橋水車(*10)を刺そうかと思ったけどやめた。刺繍たっぷりの衿が似合うきものを私は持っていない。殊に、裁縫や甘味処で働くという場面には全くそぐわない。釣り合いがとれていない格好は、堀先生も良しとしないし、この店の主―おイネさんと私は「奥様」と呼んでいる―が最も嫌うものだった。

本当に思いのままに何かを作ることができるなら、何を作るだろう。とりあえず、小さな端切れに地味な文様を刺すのは違う。大きな布に、惜しみなく糸を使って…そう、裕福な家の御令室や御令嬢が使うような総刺繍の帯とか。花嫁が着る黒の引振袖もやりがいがありそう。

頭の中に図案を思い描きながら稲荷寿司を頬張る。辛めに炊いた揚げの中から、刻んだ青紫蘇と胡麻の香りが口いっぱいに広がった。



2 楽屋見舞い

「そうそう、今日は楽屋見舞いの注文が入っとうよ。出前で持って行ってほしいって。」

「え、ほんとですか。」

 私が千代木で働く理由は、お給金と賄いだけではない。ここの土地柄か、千代木には芝居小屋がらみの注文が結構入る。今日みたいな楽屋見舞いの配達もあるし、役者さん方から出前を頼まれたりもする。届け物は、楽屋口から入る。さすがに楽屋の中には入れないけど、廊下とかで役者さんを間近で見られる。もちろん、私の目当ては芝居の衣装だ。それぞれの頭取(*11)さんとも顔見知りになれるし、いつか何かの仕事につながるかもしれない。

「さて、そろそろお客さんが入ってくる頃やね。」

窓から外の人の流れを見ていたおイネさんが、湯呑を持って立ち上がった。

「そうですね。」

 私も立ち上がって、襷をかける。

「さ、気張って働きましょう。」


 …重い。昼下がりの表通りを歩きながら、私は楽屋見舞いを恨めしい気持ちで眺める。楽屋見舞いの品は季節の変わり羊羹。羊羹自体は大した重さではないけど、ぬるくならないように、氷を詰めたお櫃に収めてある。届け先の芝居小屋が近所で良かった。出前先が浜新地(*12)だったら途中で泣けてきただろう。抱えていると冷たさがほんのり伝わってくるのは救いだ。

川べりに、役者の名前を染め抜いた色とりどりの幟が見えてきた。私は一つ前の角を折れて、小屋の楽屋口に向かう。

「こんにちはー、千代木でーす。」

入口から声をかけると、すぐそばにある頭取部屋から、

「おー、千恵ちゃん、お疲れさん。」

 という返事と一緒に、きれいな白髪の頭取が出てきた。

「加美屋さんから皆様宛ての、楽屋見舞いです。」

 受け取った頭取は、その重さに驚いた表情を浮かべて、困惑気味の声で言った。

「まさか、ご飯とかじゃないよね。」

「ふふ、開けてみてください。」

 頭取は、楽屋見舞いを台に降ろして、風呂敷包みを解き、杉蓋を開ける。

「いやあ、これは洒落てるねえ。」

 杉のお櫃の中には、砕いた氷の上に青楓が一枝。枝を退けると、青柚子羹の入った義山(*13)や染付(*14)のお猪口が目に飛び込んでくる趣向だ。

「お猪口に入った一口羹なら、楽屋で役者さんが食べやすいんじゃないかって、おイネさんが。」

「うん、これはありがたい。切る手間もいらないし、手も口も汚れないね。」

「普段より少し固めにしてありますから、こちらの楊枝で刺して召し上がってください。」

「ありがとう。しかし、これは重いねえ。ほんとにお疲れさん。」

「私、力持ちなんで、大丈夫です。」

「おひつと器は、若いのに店に返しに行かせるよ。」

「いいですよ、次の出前の時に返してもらえれば。」

「おお、商売上手。」

 頭取は、通りがかった浴衣姿の若い役者さんに楽屋見舞いを預け、頭取部屋に戻りながら冗談めかして、

「刺繍、上手くなってきたよね。今度、うちの役者の衣装頼もうかな。」

「甘味も衣装も、ご注文お待ちしています。」

 私も笑って答えて、楽屋口を出る。

 広い道に出ると、川の中に大勢の人がいるのが目に入った。長い長い布を水に晒しているようだ。この辺に染工場なんてあったかな―私は立ち止まって目を凝らす。

「あ、幕洗いか。」

 九月の放生会(*15)の時、博多の人達は、町内の人とかお店の人全員とか、大人数で御馳走やお酒を持って箱崎の松原に繰り出す。宴の場にはそれぞれ幔幕を巡らせて空間を区切る。この松原での野宴が「幕出し」で、夏の間に町内の若者たちが幔幕を洗っておくのが「幕洗い」。私は那珂川より西で育った(*16)から、どちらもあまり馴染みがなかったのだけど、幔幕には凝った文様が描かれていて見ごたえがある。特に、幕洗いは、幔幕の色柄が夏の日差しと水で一段と鮮やかに見えて、大好きな光景だ。

 今日は、運がいい日だな―。私は気分よく千代木への帰り道を急いだ。



3 常連さん

「おイネさん、戻りました。」

「お帰りー。暑かったやろ。」

 おイネさんが、冷たい水を出してくれる。

「お櫃の氷で助かりました。お店のほうはどうでした。忙しくなかったですか。」

「何とか大丈夫。」

「良かったー。」

 襷を掛け直しながら店の中を見渡すと、読書をしているらしい、つぶし島田(*17)の後ろ姿が見えた。他にお客さんはいない。

「こんにちは、きぬ葉さん。お稽古帰りですか。」

「あら、千恵ちゃん、こんにちは。」

博多でも指折りの売れっ子芸妓、きぬ葉さんだ。歳は私より二つ上なだけなのに、ずっと落ち着いていて大人っぽい。そして、ものすごい美人。美形の多い博多といえども、初めて会った人の口が揃ってぽかんと開いてしまうほどの人は、そうそういない。

「これ、この前千恵ちゃんに教えてもろうた本、ほんとに面白かね。」

 きぬ葉さんはそう言いながら、栞を本に挟み、そっと閉じた。こういう普通の動作が、どこまでも優雅で清麗で、女の私ですら見とれてしまう。この上、芸達者で気立ても良いときたら、そりゃ大概の男は惚れるよね―。

「はい、水羊羹と麦湯ー、お待ちどうさま。」

 打っ手切ぶったぎるように、おイネさんの大きな声がする。

「ありがとうございます。」

 きぬ葉さんは、おイネさんときちんと目を合わせて、にこやかに受け取った。黒文字(*18)で羊羹を小さく切って口に運ぶ。

「きぬ葉さん、今日の帯、雪輪(*19)なんですね。」

「今月のお芝居は橘家さんやないけん。」

 橘家さんというのは上方歌舞伎のご一門で、当代きっての花形役者の雪之助さんもこの一門だ。雪之助さんは、博多に来たら必ず楽屋に出前を取ったり、店にも寄ってくれるのだけど、何年か前の夏、きぬ葉さんがいる時にふらりと現れたことがあって、その時きぬ葉さんが着ていた雪華文様(*20)のきものを、

「あ、私の柄。」

 と嬉しそうに指差して以来、きぬ葉さんは、雪之助さんの博多滞在中、絶対に雪の文様を身に付けなくなった。

 二人の関係は、微妙で良く分からない。おイネさんや置屋「まつ乃や」のお姐さんたちの話からすると、二人は十年来の顔見知りだ。といっても、雪之助さんがご贔屓筋に招かれた宴席に、きぬ葉さんたち芸妓衆が呼ばれて行く、という程度。それなのに、雪之助さんは、千代木できぬ葉さんと居合わせると、必ずからかって遊ぶ。きぬ葉さんは、いつもよりほんのちょっと多めに感情が顔に出る。

やりとりを見ていると、そこまで艶っぽい感じではない。兄妹のような関係というのが近いような気もするけど、そう言い切るにはやっぱり何か違う。長年の顔なじみという以上の深い絆、というべきか―見ている私のほうが、もやもやする。

いっそ、付き合っちゃえばいいのに。お互い嫌いじゃなさそうだし、美男美女でお似合いだし。一度、おイネさんにそう言ったことがある。おイネさんは苦笑いを浮かべて、一言、

「千恵ちゃん、お芝居の見すぎや。」

 と言った。

そんなことをつらつら思い返していると、

「千恵ちゃん、どうかしたと?」

 と、きぬ葉さんの心配そうな声がした。

「あ、ごめんなさい。ちょっとぼーっとしちゃって…。ここのところ寝苦しくて、寝不足かも。」

「手先を動かすお仕事やのに、大変やね。」

「お気遣い、いたみいります。」

 私がおどけて頭を下げると、きぬ葉さんは微笑んだ。

「千恵ちゃんの半衿、いつも刺繍入りできれいやね。売り物にはせんと?」

「まだ自分用しか作ったことないし、堀先生が許してくれるかなあ。」

「もし堀先生が認めんしゃったら、うちの半玉に作ってもらえる?」

「え!?」

「今度妹を引く(*21)ことになったんやけど、その子のお披露目のお祝いに別誂の半衿をあげようて思っとうと。どげなきものに合わせるかはまだ決めてないんやけど。」

「えー、素敵。絶対やりたい!明日、堀先生に聞いてみるね。」

「うちも、千恵ちゃんにお願いできたら、うれしか。」



4 日課と手紙

夕方、店を片づけ終えると、家路につく。千代木から少し歩いたところの三軒長屋の真ん中が、今の私の住まいだ。堀先生の親戚がいくつか長屋を持っていて、格安で住まわせてもらっている。両親の反対を押し切って裁縫修行を始めた手前、さすがに家にも居づらかったから、人の情けが身に染みた。

買ってきた夕飯もそこそこに、私は文机の上に紙を広げる。その日に心に残ったものを絵に描き留める、日記がわりだ。今日は…そう、氷の上の青楓、ちらっと見えた芝居の衣装、川に揺れる鮮やかな幔幕。それから、賄いを食べながら空想した刺繍帯の図案。

何枚も描いていると、幕出しの風景を描いた引き着なんかがあったら面白そうとか、半衿に青楓越しの円窓を表すとしたら、どう柄を配ろうかとか、いろんなことが頭に浮かんでくる。思いついた図案を新しい紙に描き、覚書もつける。

夢中になって描いていると、あっという間に時間が過ぎる。しみじみと一人暮らしの幸福をかみしめるのは、こういう時だ。親の家にいたら、やれ食事の支度を手伝えだの、風呂を沸かせだの、行燈の油がもったいないから早く寝ろだの、五月蝿く言われて、おちおち机の前にもいられない。父上の世話をしているうちに、せっかく思い付いたことも頭からこぼれ落ちてしまう。

お前の作るものなど、どうせ大したものでもあるまい―父上の声が頭の中で響く。父上は、私が画や裁縫で表彰されて作品が展示されても、一度も見には来なかった。見たこともないくせに決めつけて、人の人生を縛ろうというんだから、本当にうっとうしい。

思い出しただけで、むかむかしてきた。こういう気分で何か描いても良いことはないし、今夜は絵を描くのは終わり。彩色も明日お日様が出てからにしよう。

座った姿勢から後ろにごろりと寝転がって、目を瞑る。窓から入る夜風に乗って、かすかに三味線と唄が聞こえてくる。「千鳥」というちょっと古い端唄のようだ。二軒先の踊りのお師匠さんが、お弟子向けの振りを考えているのだろう。少し先の季節の唄だし、時々音が止まって同じところを何度か弾いている。しばらくすると、別の端唄が聞こえてくる。


秋の七草 虫の音に 鳴かぬ蛍が身を焦がす

君を松虫鳴く音も細る 恋という字は大切な


それにしても、この国の芸能は恋だらけだ。母に連れられて山ほど見たお芝居も、千代木の奥様が教えている清元や小唄も、愛だの恋だの廓だのが出てこないほうが珍しい。父上は、それを理由にお芝居(が好きな母上)を馬鹿にするけど、学校で習う古今集も新古今集も恋歌の数は多いし、父上が高尚ぶって習っている謡曲にさえ恋の恨みや未練が登場する。何百年も恋ばかりで、よく飽きられないものだ。

まあ、いいや。今は半衿だ。私は描きためた画や図案を収めた箱を取り出して、半衿の図案を選ぶ。おめでたい柄、季節の草花、幾何学模様―。何に合わせるか分からないんだし、麻の葉とかが良いかな。いや、堀先生からお許しが出て、きぬ葉さんと打ち合わせてから図案を起こしたほうがいいよね。そう思い直して、画を箱に戻そうとした時、窓から風が吹き込んで、文机の上に置いていた画が舞い上がった。

「あ、大変。」

慌てて窓の障子を閉め、床に散らばった画をかき集める。と、一枚の紙に目がとまった。弟の清一郎の文字だ。

「やだ、こんな手紙が紛れてたんだ。」

一つ違いの清一郎は五高(*22)を出て、今は東京の大学に通っている。文武両道、眉目秀麗、性格温厚にして剛毅果断。父上自慢の跡取り息子だ。本の虫という共通点以外、私とは似ても似つかない弟だけど、不思議と小さい頃から仲は良い。家の中で唯一の理解者でもある。

この手紙は一年ほど前に受け取ったもので、かねて話のあった某令嬢との婚約が正式に整ったことを知らせるものだった。大学を出て然るべき職に就いたら結婚するという。一度読んだ手紙だし、ちゃんと返事も出したから、特に驚きはない。

けど、清一郎の手紙は、読み返してもあまりに淡々とした文面で、姉として不安になる。

もともと無口な清一郎は、文章もぶっきらぼうで愛想がない。相手と話したこともないみたいだし、喜びいっぱいに書けないのは分かる。学生のうちから、人の人生を背負う責任を突き付けられて、可哀そうな気もする。けど、もうちょっと不安とか戸惑いとか、滲んでても良さそうなものなのに。

その後、許嫁とは会ったのだろうか。準備は進んでいるのか。東京暮らしは、おそらく弟の人生最後の自由時間だ。楽しく過ごせているだろうか―。

いつの間にか、三味線と唄はやんでいた。窓の光の角度からして、月も高く昇っているようだ。そろそろ明日に備えて、寝なくちゃ。画と手紙を片づけて、私は堀先生への切り出し方を考えながら眠りについた。



5 繍の依頼

翌朝。私は普段より少し早く「堀裁縫所」の扉を開けた。

「先生、おはようございます。」

「おはよう、千恵ちゃん。今日は早かね。」

「はい、少しお話がありまして。」

「何やろ。」

堀先生の顔を見ると、急に緊張が高まる。私は大きく息を吸って、昨夜考えた台詞通りに話を切り出す。

「『まつ乃や』から今度新しい半玉さんが出るそうで、そのお祝いに刺繍の半衿を作ってもらえないかと頼まれました。引き受けてもいいでしょうか。」

「刺繍の仕事なら良かよ。」

あっさり許されて、拍子抜けを通り越して腰が抜ける。

「え、良いんですか。」

「頼まれたんが仕立てやったら、もちろんまだまだ認められんよ。でも、半衿の刺繍は仕立てやないし、そっちの腕は一人前やから。」

「ありがとうございます。」

「柄は?」

「まだ、合わせるきものを聞いてないんですけど…。」

そう言いながら、私は図案画の束を見せる。刺繍半衿の制作を認めてもらえなくても、自分の考えた意匠を一度先生に見てもらいたいと思って、結局何枚か持ってきた。

「ふうん、なるほど。」

と呟きながら、堀先生は一枚ずつゆっくりと目を通していく。

「これなんか気が利いてて使いやすそうやね。」

先生が選んだのは、霞の合間から源氏香(*23)を覗かせたものだった。源氏香はぼかしで彩色してあって、自分でも結構気に入っている図案だ。ほっとしたのも束の間、堀先生は別の紙の束を手に取った。

「これは…きものの図案やね。」

半衿の図案よりも一層厳しい眼差しで、見終わったものを二つの山に分けていく。全部に目を通した先生は、私のほうを見て、

「千恵ちゃん、きものはね、着て動いた時の見栄えが一番大事。」

と言うと、二つに分けた紙の山のうち、量の多いほうを手に取った。

「こっちの図案は着たらどうなるか、もう少し考えたほうが良かね。あと、芸妓さんの座敷着は重ね着の色柄も一緒に考えんと。」

「はい、すみません。」

先生はもう片方の図案の山を、トントンと揃えて机の上に置いた。私は恐る恐る尋ねた。

「あのう、そっちは…。」

「まあ、私は縫うのが専門やけん、よう分からんし、今度呉服屋さんが来んしゃったら聞いてみるわ。」

「えー。本当に?」

「全部酷評されるかも分からんよ。」

「いえ、それも本望です。」

勢い込んで答えた私を見て、堀先生は少し笑った。そして、

「ああ、忘れとった。私も千恵ちゃんにお願いがあるとよ。ちょっと待っとって。」

と言って立ち上がると、隣の部屋に何かを取りにいった。


先生のお願い事って、なんだろう。そわそわしていると、ほどなく先生は一閑張(*24)の行李を持って戻ってきた。蓋には博多で一番の高級呉服店の紋が入っている。

「これはね、花嫁衣裳としてお召しになる予定の大振袖。赤と黒と一枚ずつ。」

婚礼衣装のような大事な衣装は堀先生が全部縫う。私の出番はないはずだ。怪訝な顔の私をよそに、先生は行李から振袖を取り出して、さっと広げた。

「うわあ…。」

しっとりと上等な生地、一目で丁寧な仕事と分かる地色の深さ。黒地の振袖の裾には松が、赤地のほうは竹と梅、菊が鮮やかに描かれている。

「この梅とか竹の葉とか、白揚げ(*25)で残してあるやろ。こういうところに刺繍で色を差すのと、この辺りを金駒(*26)で加飾したいんやけど。千恵ちゃん、できる?」

「私が?やっていいんですか?」

「お客様からのご指名やからね。」

「はあ…。」

「放生会着物(*27)もあるし、今から忙しいけど、毎日ちょっとずつやってくれたら良かけん。」



6 依頼者

私を指名したお客様って誰だろう。見当がつかないまま、婚礼衣装の作業が始まった。ちょっとずつでいいと言われても、加飾が終わらないと先生の仕立てに移れないので、のんびりしてはいられない。毎日必死で、呉服店からの指示書きと首っ引きで、色を選び、糸を縒り、一針一針加飾していく。堀先生の口癖の「丁寧に急ぐ」は、こういうことか。

放生会も近い九月の吉日、振袖を納める日がやってきた。いつもなら呉服店の手代さんか丁稚さんが取りに来るのだけど、なぜか今回は私が呉服店に持っていくようにと堀先生はおっしゃった。

呉服店の奥の座敷に通される。大番頭さんが大振袖を衣桁にかけ、豪奢な丸帯を持ってきて振袖の脇に添える。大番頭さんは、私にそのまま座敷に残ってほしいという当主の言を伝えると、座敷を後にした。

広い座敷で一人しばらく待っていると、いかにも良家のお嬢様といった風情の若い女性と、ばあやと思しき年配の女性とが、当主に案内されて現れた。お嬢様は、歳の頃は十六、七、小菊文様の水色の振袖に朱色の帯を締め、髪を鴛鴦髷(*28)に結って、蒔絵の櫛の両側にちりめん細工の小さな紅葉をたっぷり集めた簪を挿している。

お嬢様は、本当に嬉しそうに振袖と丸帯を眺め、呉服店の主に丁重に礼を言った。普段は品物を呉服店に納めるだけで、実際に着る人お会いすることはないから、新鮮だ。お嬢様は、呉服屋の主とばあやに席をはずさせると、私のほうに向き直った。

「素晴らしい刺繍を、ありがとうございます。清一郎さんが自慢するのも当然ですね。」

「え、清一郎?」

お嬢様は、微笑みを浮かべて黙って頷いた。ちょっと頭がついていかないけど、状況からして、答えは一つだ。

「もしかして清一郎の許嫁って…?」

「はい、私でございます。亮子と申します。」

「えええ…。」

驚く私をよそに、亮子さんはにこにこと話し始めた。

「清一郎さんとはあまりお会いできていませんけど、お手紙をよく下さって、姉上様のお話も色々伺っております。」

「はあ…、色々と…。」

「信念を曲げない、優しくて強くてかっこいい姉上様だと。」

「かっこいい…?」

「お得意のお裁縫を極めるために、反対を押し切って堀先生に弟子入りしたと聞きました。あと、清一郎さんが五つの時でしたか、理不尽な理由で御父上様に怒鳴られていたら、姉上様は『父上のほうが間違っている』と仰って、清一郎さんをかばって御父上様と取っ組み合いになったそうでございますね。」

「そんな昔の話…清一郎も要らぬことを申しているようで、どうぞ忘れてください。」

「どうして、そんなふうに仰いますの。普段とても大人しい姉上様が、理不尽から守ろうとしてくださったお姿、忘れられないと清一郎さんは仰っていました。その時からずっと、姉上様のように正しく強くありたいと願ってこられたそうでございます。」

まだ飲み込み切れない。けど、意外にも清一郎がまめに文通しているらしいこと、亮子さんが清一郎を気に入ってくれている様子なのには安心した。亮子さんが続ける。

「御父上様と姉上様のあいだがらも伺いました。婚礼の時、御父上様が姉上様を呼ばないかもしれないし、呼ばれても姉上様が断るかもしれない、と清一郎さんは仰っていました。」

「呼ばれれば、行くつもりはありますよ。」

「そうでしたの、嬉しい。」

亮子さんがぱっと笑顔になる。

「まあでも、きっと父が呼んでくれないわね。」

私がぼそっと言うと、亮子さんの顔も曇る。屈託がなくて表情がころころ変わるのが可愛らしい。亮子さんは、また笑顔に戻ってこう言った。

「だから姉上様に刺繍をお願いしたんです。」

「それはまたどういう考えで…。」

「もし御父上様が姉上様をお呼びにならなくても、姉上様の手になる振袖を着ていれば、ご一緒しているのと同じでしょう?」

「はあ…。」

 この人は、純真無垢というか、天真爛漫というか、単純というか―。

「亮子さん、私も一つ質問していいですか。」

「はい、何でしょう。」

「値踏みするようで失礼だけど、亮子さんは相当裕福なお家のお嬢様でしょう。もっと良い縁談がいくらでもあったでしょうに、どうして貧乏士族の清一郎を?」

 亮子さんは、思いもよらないというふうに目を丸くした。そして、ちょっとはにかんでこう言った。

「人生が楽しそうだからです。」

「はあ…。」

「確かに、私にはもったいないほどの家格の方とのお話も、裕福な方とのお話も、いろいろございました。ですが、私は、家柄自慢やお金儲けの話ばかりの方は好きになれません。清一郎さんみたいに自分の力で世に出て、世の中のお役に立とうという方のほうが、支え甲斐があります。」

 世間知らずのお嬢様には違いないけど、亮子さんは亮子さんなりに、明確な考えと覚悟を持っていた。案外、図太くすらあるかもしれない。それに、不愛想な弟からこんなに話を引き出せる人もなかなかいないだろう。

 私は座布団をはずして、姿勢を正した。

「亮子さん、どうぞ清一郎をよろしくお願いします。」

 亮子さんも慌てて座布団を降り、末広を取り出して頭を下げる。

「私こそ、どうぞよろしくお願いします。」


 帰り道、なぜだか笑いが何度も込み上げてくる。そうだ、久しぶりに清一郎に手紙を送ろう。ちょっと奮発して良い紙と墨を使って、挿絵も添えて。今日は良い画が描けそうな気がする。私は文具屋をめざして歩みを早めた。

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