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外伝1 松のひこばえ 千歳の緑

明治時代によく似ているけれど、少し違う世界の博多。この街で「甘味処 千代木」を営む三味線の女師匠の一日と、彼女の越し方のお話。博多生まれでない師匠は、どうして博多に住むようになったのか。「天職」の外伝・スピンオフです。外伝の時期設定は、本編の5年後です。

「今日はここまで。かず葉ちゃんもさと乃ちゃんも、しっかり家でも浚っといとくれよ。」

「はい、お師匠さん。」

「お稽古ありがとうございました。」

 かず葉とさと乃が頭を下げる。二人は置屋「まつ乃や」の下地っ子(*1)。半玉(*2)としての御披露目の日も名前も決まったというのに今一つ心構えがなってないというので、置屋のおかあさんに頼まれて、あたしが十日前から心得の仕込みかたがた小唄の稽古を付けている。

「あんたたち、当分は立方(*3)だから三味線は後回しでいいと思ってるだろ。」

「そげなこと、考えておりまっせん。」

 はっとしたかず葉が言う横で、さと乃が神妙な顔を作って頷く。

「そんなつくり顔してもごまかせないよ。いいかい、音が身体に入ってるかどうかは踊りにも出るもんだ。半端な芸はまつ乃やの名折れ、博多芸妓の面汚しさ。そこをしっかり弁えとくれ。」

「お師匠さん、おかあさんとおんなじこと言っとうー。」

「おんなじこと言っとうー、じゃないよ。あんたたち、おかあさんに言われてんなら、あたしにまで念を押されてちゃダメじゃないか。」

「はあーい。」

「返事は短く。そろそろ愛嬌と甘ったれの区別くらい覚えな。いい加減にしないとおかあさんに言うよ。」

「えー、それは困ります。あ、そろそろ行かんと…お師匠さんまた明日。」

「ごめんください。」

 二人はおどけるように頭を下げると、そそくさと譜本をしまった。全く堪えていない風の後ろ姿を見ていると溜息が出る。

 かず葉とさと乃は、何をするにもいつも二人だ。うちに稽古に来るのも二人連れ、踊りの稽古帰りに千代木に寄るのも二人連れ。箸が転げても可笑しいお年頃、いつもどうでもいいことでコロコロと笑っている。御神酒徳利(*4)ってのは、ああいうのを言うんだろう。

 同い年で同じ置屋、御披露目も同日の予定とくれば、仲が良いのも分かるけど、あんなヘラヘラした様子じゃ先が思いやられる。かず葉のねえさん芸妓はきぬ葉になるらしい。きぬ葉はこっちが「来るな」と言わなきゃ稽古に来る性分だから、さぞ骨が折れるだろう。―さて、次は誰の稽古だったか。

「すんまっせん、お師匠さん、遅うなりました。」

「ああ、きぬちゃん。前のが長引いてたからね、ちょうど良かったよ。」

 噂(あたし一人だけど)をすれば影。きぬ葉だ。顔良し、芸良し、座持ち良しで若い芸妓では一番の売れっ妓で、夜の座敷に券番(*5)での稽古、料理屋への挨拶回りと予定はびっしりのはずなのに、こうやってうちにも稽古に来る。あの子たちに爪の垢を煎じて飲ませてやってくれないかな。

「あん二人の稽古でっしょう。よう言うておきますけん。」

「きぬちゃんが謝ることじゃないけどね、ありゃあ手強いね。」

「あん子ら自分で半玉になりたかー言うて『まつ乃や』に来たとに、なしてあげなんでしょう。」

 そう、かず葉もさと乃も自分の意思で道を選び、この街に来たはずだ。理由は違っても昔のあたしと同じように、それもずっと歳がいってから―。

「お師匠さん?」

 きぬ葉の怪訝そうな声で我に返る。

「ああ、ごめんよ。あの子たち、あんまり酷かったら御披露目延期でいいんじゃないかい。あのまま座敷に出すわけにはいかないし、ちょいとお灸をすえてやったほうが本人のためだよ。」



 あたしが博多の街に来たのは数え七歳の春。父が小さい人形芝居の一座の頭をやっていたせいで、物心のつく前から、ひと月かふた月ごとに町から町への旅暮らしだった。母のことは、覚えていない。あたしが二つの頃に、父と別れたらしい。どこの興行先にも定宿があって、行く度に温かく迎えてくれたけれど、つまるところは他人様の家。父は父で、昼の間は芝居小屋にいるか新しい台本を書いているかだし、夜は連日ご贔屓さんの宴会で、さっぱり頼りにならなかったから、他家で寛げない性分の人には馴染めない暮らしには違いない。母もおそらくそうだったんだろう。

 そんなこんなで、あたしは他人ばかりに囲まれて育ったけど、暇つぶしには困らなかった。手が空いている若い座員か宿の仲居さんが遊び相手になってくれたし、宿の主が父のご贔屓さんだったりすると、何くれとなく世話を焼いてくれたからだ。ただ、居所がないような落ち着かないような気持ちが絶えず付きまとっていた。


 数え六歳の秋、京の鴨川沿いでの興行を終えて大坂に出立する前の夜のことだ。座元やご贔屓筋の宴会が終わり、宿に帰ってきた父が、その日限りで引退する安太郎さんという義太夫の三味線弾きを部屋に呼んで飲みなおしていた。先に隣の間で寝ていたあたしは、切れ切れに聞こえる二人の声で目が覚めた。

「座頭、来年はお嬢も七つ、来年の今頃は学校にあがる年やおまへんか。」

「そうやな。早いもんや。」

「年寄りがいらんこと言うようやけど、気い悪うせんと聞いとくんなはれ。座頭、お嬢をこのままずうっと年中連れ歩きますのんか。ひと月やふた月で違う学校に移っとったら、友だちもでけへんし、いくらお嬢が賢うても頭が消化不良を起こしはせんやろかて、わしは気がかりなんだす。」

「あれは旅芸人の子や。そんな学問をやらんでもええ。遊び相手には困っとらんみたいやし、わしが芸を仕込めば食うていけるやろ。」

「せやかて座頭…。」

―じょうだんじゃないよ、なんであたしにきかずにきめるのさ、だいたい芸をしこむって、あたしは猿や犬じゃない、やすたろうさんのほうが、よっぽどあたしのことかんがえてくれてるじゃないか―。

 子供心に沸々と怒りがわいてきて、なぜか言いようのない寂しさも込み上げてきた。安太郎さんみたいに長く勤めてくれる座員は多くはなくて、所帯を持ったり子供が生まれたりすると、商売替えして旅暮らしから身を引く人も多かった。誰か一人辞めると、次の人が入ってくる。生まれてたったの五年だけど、五年間一緒だった大人は思いつかない。決まった場所に住んでいないことよりも、人が次から次へと通り過ぎていくことが、寂しい。父が自分をちゃんと見ていないこと、見ていないくせに分かった気になっていることが、腹立たしい。薄々感じていた落ち着かなさの正体が見えた気がした。

 父のいうとおり芸人になって、父みたいに一座の中心になれば、居場所はできるんだろうか。いやその前に、あたしは父と同じ仕事をやりたいのか。先のことは分からないけど、今のままはいや、それは確かだ。

 七つの夏までに、何とかして、父から離れてどこか決まった場所に住む―そう決心した。


 どこで、誰を頼って、いつ飛び出すか―。父も座員も出払うと、毎日脱走計画を頭に思い描いた。一回失敗したらおしまいだから、絶対に成功するやりかたを考えないと―。

 今いる大坂はどうだろう。船場の松中屋さんは、「おやだんさん」(*6)も「おえはん」(*7)も子供好きだし、うちのご贔屓さんだから、うまいこと取りなしてくれるかもしれない。いや、だめだな。あんな街中で騒動を起こしたら、父はともかく他のみんなにも迷惑がかかる。

 六歳の頭で考える脱走計画は、毎日「人に迷惑をかけない」の壁にぶちあたって堂々巡りを続けた。駆込み先と思い付く人は、みんな目抜き通りに店を構えていて、人目が多すぎるのだ。妙案を思いつかないまま、秋が過ぎ、冬が過ぎ、数え七歳の春になった。父の一座とあたしは博多にやってきた。

 父の一座は春と秋に新作の御披露目をする。春は博多、秋は京と場所も決まっていた。どちらの街のお客さんも芸に厳しく反応が正直なこと、父の信頼する人形師の親方がいて新作に向けた準備がしやすかったのが理由らしい。父が練った台本(作家を雇う余裕はなかった)で、新作の準備と稽古をし、旧作で使った道具の手入れもする。そんなこんなで、博多には他の街より長く逗留するのが常だった。

 どの街も良いところがあるけれど、博多の街は特に好きだ。人が気さくで、言葉に表裏がない。街全体に漂う、余所者を受け入れる明るい空気もあって、旅暮らしの身も少し羽根が伸びるような感じがした。

 そうだ、あたし、ここに住もう。ここなら何とかなる気がする。問題は、誰を頼るか―。

 博多入りから数日後、父と座員のみんなと一緒に、あるお社に新作興行の成功祈願に出向いた。考えても答えが出ない難題に、あたしは神様を頼ることにした。ご祈祷の間じゅう、「ここにずっと住みたいです。神様どうぞ叶えてください。」と願ったのを、神様は苦笑いで聞いてくだすったのだろうか、間もなくツキが巡ってきた。


 初日を前にして、座元(*8)とごひいき筋で盛大に前祝の縁を催してくれることになった。普段は宿で留守番のあたしも呼んでくれるという。宿の仲居さんに髪を整えてもらい、とっておきのよそゆきに着替える。白の縮緬に朱で亀甲を取って摺り疋田を詰め、所々白く残したところには松竹梅をあしらった一張羅は、前年大入満員が続いたときに、珍しく父が祝儀に買ってくれたものだった。

 夕方になり、提灯を下げた迎えの人の先導で向かった先は、博多でも指折りの大きな料理屋だった。広い広い座敷に畳敷の床の間、子供の目にも立派と分かる三幅一対の掛け軸。黒光りする御膳、鮮やかな器の数々、すべやかな艶のある座布団がずらりと並ぶ。床の間の前で、座元とご贔屓さんと父の、席順を巡る譲り合いが決着した後、座員は適当に顔を見合いながら阿吽の呼吸で席に着く。あたしは下座の、いつも遊んでくれる若い座員の隣に座った。

 座が落ち着いたころ、さっと下座の襖が開いた。御召納戸に金の敷松葉の裾模様(*9)を着た女の人を先頭に、色とりどりの裾引姿の一団が入ってきた。鴇色や花浅葱、支子くちなし色に華やかな柄を染めた振袖の半玉が3人、濃紫や草色の着物に博多献上帯を柳に結んだ(*10)芸妓が5人。めいめいお銚子を手にしている。

「いやあ、これはまた豪勢な。」

さすがにあっけにとられた父が言うと、

「今日は特別、まつ乃やさんの芸妓さんと半玉さん全員に来てもらいました。」

 と座元。

「こら困りましたな。ひと月の間大入満員を続けなあきませんやんか。」

おどけた調子で答えた父は、心の底から嬉しそうだ。

 酒が大人に行き渡り、宴が始まった。お座付き、堅苦しい挨拶、お杯、しばし歓談の後、芸妓衆の余興の踊り。余興が済めば、また歓談。あたしは御馳走を食べながら、大人の様子を眺めていた。余興が終わった芸妓や半玉の人たちは裾さばきも鮮やかに席を回り、名刺を配ったり、お酒を勧めたりしている。段々酔いの回ってきた大人たちも、お銚子をもって他の席を回ったり、冗談を言ったりお世辞を言ったり、忙しそうだ。―せっかくのごちそうが冷めちまうじゃないか。あたしは黙々とお膳の鯛をつついていた。


 どれくらい経った頃だったろう。

「まー、かわいかお客さんやねえー。」

 の声に顔を上げると、目の前に敷松葉の女の人がにこやかに座っている。年の頃は三十七、八といったところ、色白で丸顔の、柔らかい感じの人だ。島田くずし(*11)の前髪が顔によく沿っていた。

「まつのやの、きみかです。お嬢ちゃんにもお名刺さしあげよう。」

 そういうと、帯の間から納札(*12)ほどの大きさの紙を取り出した。右に小さく「まつ乃や」、真ん中に「きみ佳」とある。白地に天紅(*13)のみの名刺は、ぱっと見は愛想がなかったけど、左上には松が刷り込んであり、角度を変えるときらきらと光った。

「この松、きれい。」

「お、ものの分かるお嬢ちゃんやねー。これは光琳根上がり松言うて、うちの紋。雲母きらっていう絵具みたいなので刷り込んであるとよ。」

「おねえさんは、芸妓さん?」

「だいぶん前は芸妓で出とったけど、今はまあ、おかあさん見習いみたいなもんやね。」

「おかあさん見習い?」

「『おかあさん』いうんは、芸妓や半玉を家に住まわせて、一本立ちするまで育てて見守るのが仕事。行儀や言葉遣いを教えたり、うちで芸事のお浚いするんを見たり、こういうお座敷の約束を調整したり。その見習い。まだおかあさんやないから、皆からの呼び名はおねえちゃん。」

「ふうーん。」

 それで白塗なしなんだ。きみ佳さんは大人に呼ばれて席を移ったり、半玉の妓たちに何か言ったりしながら、時々戻ってきて話し相手をしてくれた。大人たちがあちらこちらで唄えや踊れのどんちゃん騒ぎになった頃、またきみ佳さんが戻ってきた。

「お嬢ちゃん、退屈やろ。炭酸水か何かもろうてこようか。豊後臼杵のかぼす入りがあるって。」

「筍の天ぷらと炭酸水は合わないよ。」

「あはははは、そらそうたい。」

 きみ佳さんは豪快に笑って言葉を継いだ。

「それじゃあ、唄でも唄おうか?誰も聞かないかもしれんけど。」

 唄なら得意だ。義太夫の「五条橋」(*14)とか、皆の稽古を聞いて覚えた曲もあるし、安太郎さんが、「わしもちゃんと習うたわけやなし、よそで『安太郎に教えてもろうた』言うたらあきまへんで」と言いながら、清元(*15)や端唄(*16)をいくらか教えてくれたから。

「『ところ千代まで変わらぬ色の~』ていうのはできるよ。」

今にして思えば、子供とはいえ玄人相手に恐ろしいことを言ったものだ。

「『四季三葉草』(*17)の最初やね。ちーっと長いから、もちょっと短いのがええかな。」

「じゃあ、『さつまさ(*18)』にする。」

「はいよ、『さつまさ』ね。お嬢ちゃんなら七本(*19)かな。」

きみ佳さんはそういうと、手早く三味線を二上り(*20)に合わせた。


薩摩さ こりゃさ 薩摩と急いで押せば

汐がこりゃさ そこりで櫓が立たぬ


「お嬢ちゃん、大したもんやねえ。間の取り方も息の使い方も良か。」

お世辞と思っても、知らない人に褒められるのは嬉しい。でも、もう安太郎さんは里に帰ってしまったから、新しい唄を教えてくれる人はいない。ついそのことを言うと、

「そんなら、うちに遊びに来たら良か。うちのおばあちゃんは清元も端唄も年季が入っとうよ。」

「本当に行っていい?」

「お嬢ちゃんに嘘やら言うてどげんするね。仕事はあたしとおかあさんで回しとるけん、おばあちゃんは暇にしとんしゃーし、ボケ防止にちょうど良か。座頭と宿の人に一言断っとくけん、安心して来り。」

―これは、神様が投げてくだすった命綱に違いない。あたしは、翌日から四日に一度くらい、まつ乃やに通った。おばあちゃんは「きみ千代」という元芸妓で、現役時代は清元が表芸、少し前まで弟子を取って教えていたというだけあって、糸の音も声も磨き抜かれて教え方もうまかった。安太郎さんは男の声だし義太夫の人だったから、おばあちゃんに教えてもらうと、それまで分からなかったところがすんなり腑に落ちた。父から逃げ出すという最初の目的を脇においても、まつ乃やに稽古に行くのは楽しみになった。


 博多での興行も千秋楽を迎えた。興行が終わっても父と座員は道具の手入れや修理に忙しく、あたしへの注意は薄いままだ。あたしはバタバタとしている宿をこっそり抜け出して、まつ乃やに向かった。ついに脱出計画実行の時だ。

「ごめんください。」

勝手口から声をかけると

「はーい。」

 と可愛らしい声がして、一重梅色(*21)に白く桜を表した着物に鶸色(*22)の兵児帯(*23)をした子供が出てきた。たしか、きみ佳さんの娘さんだ。

「あれ、お嬢ちゃんやないの。どうしたと?」

「ええと…。」

あたしは急に不安になった。あんなに「この家しかない」と決めていたのに。顔が熱くなって喉も渇いてくる。まごまごしているうちに、娘さんは

「お母ちゃん呼んでくるけん、待っとって。」

 と言って暖簾の奥に戻って行ってしまった。

「あれえ、どうしたと。何か忘れものしとったかな。」

 現れたきみ佳さんの声を聞いた途端、頭まで真っ白になって、あたしはうつむいてしまった。普段と違う様子に気が付いたきみ佳さんは、

「まあ、ここで立ち話もなんやけん、あがり。」

 と言ってくれたが、動けない。裸足に下駄を突っ掛けて走ってきた自分の足の汚れが見える。

「足袋、忘れちゃった…。」

 人の家にあがる時はきれいな足袋を履く。父に煩くそう言われていた。ああ、何か月も脱走計画を考え抜いたのに情けない。涙が浮かんでくる。

「そんなん洗えば良か。べそかいて、あきれた子やねえ。」

 きみ佳さんは、畳に反故紙を広げ、あたしを土間から抱き上げた。娘さんが持ってきたお湯の入ったたらいに足を浸け、手拭で拭く。

「はあ、きれいになった。これでもう泣かんでよか。」

 きみ佳さんはそう言って笑うと、膝から降りたあたしを正面からじっと見つめた。

「あんた、何ぞ大事な話があって来たとやろ。」

 あたしが金魚みたいに口をパクパクさせて、でも言葉が出てこないのをじっと待っている。

「ここに、住みたい。」

 やっとの思いであたしは言った。

「へ?今何て?」

「ここに、住みたい。この街に、ずっといたい。」

「うん?」

「あちこち、行きたくない。学校いうのに、ちゃんと行ってみたい。」

 気配に気づいたおばあちゃんも出てきた。

「お父ちゃんが、芸人の子は学問せんでええって。ずっと今までどおり興行にくっついて歩いて、あたしも芸人になればええって。芸はきらいじゃないけど、あちこち行くのはいや。学校行きたいし、何して暮らすのか、お父ちゃんに決められたくない。」

 だから、この街にずっといたい、その手助けをしてほしい―そう続けようとしたのを

「よし、気に入った!」

 の声が遮った。おばあちゃんだ。

「この歳で、こんな気概のある子、なかなかおらん。それに、この子の言うことは道理が通っとる。」

「お、おばあちゃん。」

 きみ佳さんが慌てるのをよそに、おばあちゃんは高らかに宣言した。

「あたしが座頭には話をつける。きみ佳は座頭に手紙ば書いてくれたら良か。」


 夕方になって、父がドタドタと足音を立てて、まつ乃やの玄関に現れた。玄関といっても、四畳半ほどの畳敷きの部屋になっていて、吊床(*24)や小さな棚もある応接の場だ。押入れには二階に続く隠し階段があった。

 子どもは二階にいるように言われていたけど、気が気でないあたしは、隠し階段の中ほどに座って耳をそばだてていた。きみ佳さんの娘さんも降りてきて、同じ段に座った。

「大丈夫。おばあちゃんは伝説の博多芸妓たい。」

 そう囁いてにっこり笑った顔はきみ佳さんそっくりだ。ぎゅっと手をつないでくれる。おばあちゃんと 父の声が聞こえてきた。

「うちのアホ娘が申し訳ないことで、すぐ連れて帰るよって堪えとくんなはれ。」

「いえ、あのお嬢ちゃんはアホどころか大したおなごやと、うち中が感心しとります。」

「え?」

「親と別れてでも、一つところに留まって学校に行きたいて言うとりんしゃーとですよ。あたしには我儘な願いやとは思えまっせん。」

「せやかて、あれはまだ七つのガキですがな。ガキの気まぐれで余所さんを振り回すことはおまへん。」

「気まぐれやなかって、うちは思います。去年の秋から思い詰めて、やっと今日飛び出して来たとです。座頭が気付かんかっただけでっしょう。」

 父の答えはない。

「考えも気持ちもはっきりしとるし、肝も据わっとるし、人をよう見とる。ちゃんと決まった学校に行ったほうがええと思います。」

「釈迦に説法やけど、芸で食うてくには子供のうちから仕込まなあかんのです。」

 やっと答える父に、おばあちゃんは、

「それはもっともなことやけどな、座頭。お嬢ちゃんは筋がええ。こないだ三味線持たせてみたけど、あの歳であれだけできる子はそうそうおりまっせん。ああいう子ほど、ちゃんと決まったお師匠さんに就いて筋目のええお稽古を積んで、みっちり土台を作ったほうがええに決まっとります。」

 と正論で返し、父はぐうの音も出ない。

「座頭、お嬢ちゃんをこのきみ千代に預けてくれまっせんか。何も養女に出せ言うてるわけやない。さしあたりは里子で預かるだけや。」

「せやけど、屋形は…。」

「まつ乃やを信用できん言いよりんしゃーとですか!」

おばあちゃんは、半ば芝居がかって語気を強める。

「いや、そういうことやあらしまへんけど…。」

 父はあれこれと言い募ったが、結局おばあちゃんの迫力に押されて折れた。あたしは、まつ乃やで里子として育てられることになった。父からの仕送りはおばあちゃんが断った。

 隠し階段で、耳をそばだてていた娘さんは、また丸い顔に笑顔を浮かべて

「今日からうちらは姉と妹やね。あ、あたしは『きみ子』。きみ子姉ちゃんて呼んで。」

といった。

「あたしは、ちとせ。」

「千歳ちゃん。まつ乃やの子どもにピッタリの名前やね。」


 それから二十数年。きみ佳さんは「おねえちゃん」から「おかあさん」に、きみ子姉ちゃんは「おねえちゃん」になり、あたしは清元の三味線方をした後に稽古場を持った。

育ててもらった恩を返すのに、芸妓になろうと思ったけれど、おばあちゃんに、

「芸妓にするために引き取ったんやなか。恩返しなら、もっと清元の修行をして、このきみ千代が驚く糸方(*25)になることや。だいたい、千歳は座敷の仕事に向いとらん。」

 と止められた。

 茶道の稽古で知り合った守恒と結婚するときに、「旦那さんの稼ぎが堅くても、千歳ちゃんの性格だと自分も稼ぎがないと落ち着かんやろ。」と何か店を持つのを勧めてくれたのは、きみ子姉ちゃんだった。店の名「千代木」は松の異名。恩人たるおばあちゃんの名前と「まつ乃や」の「まつ」にあやかった。まつ乃やは今でも実家のような存在だ。

 あたしは自分で選んでこの街に来て、人にも恵まれて生きてきた。だけど、お佳ちゃんや万吉、承之助はどうだろう。ここの暮らしは気に入ってくれてるだろうか。本人の気持ちはお構いなしで突然この世界に連れてこられて、あの子たちが前いた世界はどうなってるんだろう。あの子たちははじめからいなかったことになってるのか、それともおっかさんたちがずっと心配してるんだろうか。前の世界には戻ることはあるんだろうか。前の世界に心配している人がいて、あの子たちが戻れないとしたら、せめて「元気にやってる」と伝える手立てがあればいいのに―。

稽古が全部終わって、三味線の糸を緩めながら、そんなことをぼんやり考えていると、

「ただいまー。」

の声より早く襖が開き、めいが入ってくる。

「ああ、おかえり。今日は早かったね。」

 返事をしながら、駒を落として三味線を長袋に収め、箱に立てる。

「今日は代講の先生やったけん。」

 めいは風呂敷包みを放り出し、大げさに倒れ込む。

「ああー、お腹空きすぎて宿題できない~。」

「なんだい、みっともない。」

 ああそうだ、この子も選んで生まれてきたんじゃないよね。「親を選んで生まれてくる」とか言う人もいるけど、あたしは信じない。それに、親を選ぶってのが本当だとしても間違えることもあるだろうし、生まれた後で選び直したっていいじゃないか。めいも、自分の思うように生きたら良い。

「さてと、今日のご飯は何にしようかねー。」



*1 下地ッ子:芸妓などとしてお披露目される前の、行儀や諸芸を習得中の見習いのこと。

*2 半玉:お座敷には出ているが、まだ芸妓になるための修行期間中の年少芸妓。

*3 立方たちかた:舞踊を専門とする芸妓のこと。

*4 御神酒徳利おみきどくり:御神酒は必ず2本で一対の瓶子でお供えすることから、いつも二人で連れ立っている人のこと

*5 券番:芸妓の取次、花代の計上などを取り仕切る事務所のこと。「検番」あるいは「見番」と書くことが多いが、博多では「券番」の文字を用いる。

*6 おやだんさん:商家の主人の父親のこと。

*7 おえはん:商家の主人の母親のこと。

*8 座元:劇場の所有者のこと。

*9 敷松葉の裾模様:敷松葉は松葉が地面に散り敷いた様子を文様化した柄、裾模様は裾にのみ柄を配した着物のこと

*10 柳に結ぶ:柳結びは帯の結び方の一つで、幅広の帯を後ろに長く垂らす。

*11 島田くずし:日本髪の一種で、花柳界の女性などに結われた。

*12 納札:社寺参拝時に納める自分の名を記した札。千社札。

*13 天紅:懐紙や名刺などの上辺を紅色で縁取ったもの。

*14 五条橋:義太夫節『鬼一法眼三略巻』5段目。牛若丸と弁慶の五条橋での出会いを描く。義太夫節は17世紀末に竹本義太夫が創始した浄瑠璃で、太夫による緩急をつけた「語り」と太棹三味線による低く迫力のある伴奏で構成される。

*15 清元:清元節は19世紀初頭に清元延寿太夫が創始した浄瑠璃。太夫による「語り」は、高い音域と技巧的な発声、細やかな節回しに特徴があり、中棹三味線による澄んで柔らかな音色の伴奏で、太夫の技巧を生かす。

*16 端唄:江戸中期以降の流行り唄。1曲数分程度の短いものが多い。

*17 四季三葉草しきさんばそう:清元節のご祝儀曲。

*18 さつまさ:薩摩の舟唄をもとに作られた端唄。

*19 七本:三味線を調弦する際は、「〇本」の語で音の高さを示す。一の糸(一番低い弦)をいわゆる「ピアノの真ん中のド(一点ハ音)」に合わせるのが「四本」、半音上に合わせるごとに「五本」「六本」と数字が大きくなる。

*20 二上り:三味線の調弦の1つ。一の糸、二の糸、三の糸の音の差は、「ド・ソ・ド」

*21 一重梅色ひとえうめいろ:桃色より黄みがかった明るい紅赤色。

*22 鶸色ひわいろ:青みがあり、わずかに緑寄りの鮮やかな黄色。

*23 兵児帯:薄く柔らかく織った生地に芯を入れずに仕立てた帯。現代でも子どもの浴衣などに合わせる

*24吊床:床の間の形式の一種。床の間の要素のうち、落とし掛け(天井からの横木)など上部のみを設え、床柱や框、床板を省略した簡易な床の間。

*25 糸方:三味線と唄・語りで構成される音楽の、三味線を担当する人のこと。唄は「唄方」という。


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