求める
正午、つまり十二時。
本日起きてから初めて見た時間だ。
完全に遅刻だ…
ああ、そうだった、俺は学校に泊まったから遅刻はないのだ。いやそうじゃない、もう既に授業が始まっている時刻なのだ。
俺はとりあえずスマホで時刻を確認するが学校の時計と寸分の狂いなく合っている。
つまり、完全な職務放棄だ。
なぜ校長先生は俺を起こしてくれないのか不思議だがそんなことを考えている暇すらない。
俺は急いで自分の机にかかっているスーツ一式を手に取り着替えようとする。
その瞬間、自分の机に目を奪われた。
スーツで隠れていた机には今月の予定表が置いてあったからだ。そしてそこには、本日は午後一時からガイダンスと書いてあった。
「あせったー」
俺は自分の椅子に持たれて口を開いた。
変な汗を掻いているので本当に焦ったことは確かだ。もちろん汗は搔きたくなかった、が職務放棄するよりはマシだと気持ちを切り替える。
そういえば、俺は昨日シャワーを浴びていなかったな。
汗から連想されたシャワーで昨日を思い出す。
それと同時に、お腹が鳴る。
本日はまだ何も食べていないから仕方がない。
俺はカバンに入っている、昨日の朝コンビニで買った消費期限切れのおにぎりを食べる。
味はいつも通り美味しい。
少し消費期限が過ぎたくらいでつべこべ言って食わない人に食べさせてあげたい。
そう思いながら俺は賞味期限は切れていないおにぎりを完食した。
「シャワー浴びるか」
食事を終えた俺は自分の体臭を確認してから固く決意した。三十歳の加齢臭は冗談では済まされないレベルだとテレビでやっていた。
自分では自分の体臭には気づかないのが体臭の難しい点だ。
でも今は、正直わかる、自分でさえも。
流石に笑えないのでそそくさと準備する。
まずはバスタオル、これは学校にあるので心配ない。
次に問題の下着と靴下だ。
俺は、下着を履き替えずにそのまま下着の上から学校指定の運動用ジャージだけを着て寝た。ジャージと下着類は今日家に帰ってから洗えば済むがそれでは手遅れだ。
替えの下着がないと今日一日、昨日と同じ下着で過ごさなければならないから。
毎日きちんとシャワーを浴び下着を履き替えている身としては不快感がとてつもない。
でも、あと一時間で準備しなくてはならない。
ゆっくりしていられる時間もないので仕方なくシャワー室に向かう。
シャワー室は職員室の中にある。
俺が寝ていた職員室後方には扉がありそこを開けると更衣室がある。そして更衣室の奥の扉を開けるとシャワー室がある。
俺はとりあえず更衣室に入るために扉を開けた。誰もいない更衣室には紙とビニール袋だけがあった。
紙には『これ使ってください、校長より』と書いてありビニール袋の中身は俺が求めていた下着と靴下が入っていた。
開封されていないので新品みたいだ。
昨日、コンビニで買っておいてくれたのだろう。どこまでも用意周到な校長先生に脱帽しながら服を脱ぎシャワー室に入る。
シャワー室は大人一人分ぐらいのスペースしかないが、とても綺麗にされており清潔感がある。学校のシャワー室とは思えないほど綺麗な空間は旅館に匹敵するほどだ。
そして、校長先生の偉大さを噛みしめながらシャワーを浴びた。
髪を洗い身体を洗い清潔になった俺は、一通りシャワー室全体を水で流し排水口に溜まった髪の毛を回収してからシャワー室を後にした。
髪の毛の水分をできる限り吸収し身体を拭き終わって、ようやく校長先生が買ってくれた下着と靴下に着替えた。そして、スラックスとワイシャツを着て更衣室から出た。
時計を確認して、残り二十分で一時になることを理解する。
俺は元々、風呂自体が長いということと、シャワー室を洗っていた時間も相まってこの時間になってしまった。
残り時間で髪の毛が乾くわけがないので、濡れた髪で生徒たちと会うことが少しばかり恥ずかしい。いや今は、そんなことよりも校長先生に挨拶とお礼をしなくてはならない。
たぶん、校長室にいると思うので職員室前方にある扉を三回ノックする。
校長室と職員室が繋がっているのは昨年度の学校と同じ創りだ。
「はい、どうぞ」
扉をノックすると校長先生の返事が聞こえる。
その声を聞いてから俺は扉を開けて一言。
「失礼します、校長先生」
「そんな畏まらなくてもいいですよ」
常識的な発言だが校長先生にとっては芳しくないみたいだ。
「以後、気をつけます」
「早速ですよ、悠太先生」
もう畏まってしまったがそれも仕方がないことだ。
昨夜いろいろ話し合ったせいか、恥ずかしさが一晩経って襲ってきているから。正直なところ、どう接していいかわからなくなってきている。
少し気まずいとさえ感じている。
でも、校長先生は昨日と変わらぬ態度で俺と接しているみたいだ。
「まぁいいですよ、ところで悠太先生、シャワーを浴びたようですね」
校長先生の言葉で俺はここに来た理由を思い出した。
「ああそうです、浴びました、それと、ありがとうございます、校長先生。
下着と靴下まで買っていただいて、本当に助かりました」
「いえいえ、あれぐらいはね」
校長先生は謙遜するが、あれぐらいの配慮はやろうと思っても中々できない。
もっと欲張るというか自慢してもいいと思う。
まぁ、それをしないからみんなに感謝されるのかもな。
「あ、そうだ悠太先生、髪濡れていますよね、ドライヤー使いますか?」
学校にドライヤーあったのか、だったら昨日の悩み事は…それは別にいいか。
「是非使わせていただきます」
感謝を伝え校長先生からドライヤーを受け取り職員室にある洗面所のコンセントに指す。
そして電源を入れて頭を乾かし始める。
俺は、最近床屋さんに行ってないので毛量は人より多い。
そして、ドライヤーの性能を考えると乾かすのに最低でも十分はかかると算出する。
まぁ、準備するものはもう自分の机の上に用意してあるので残り十分もあれば充分だ。
それに、髪を乾かしながら歯磨きもしている一石二鳥状態なので時間に余裕を持てる。
右手で歯を磨き左手で髪を乾かす、時々手を逆にするなど巧みな腕前で清潔感を演出していく。
そして、三分で歯磨きを終え予想通り十分で完全に髪を乾かした俺は、ドライヤーを校長室に返しに行った。
「校長先生、ドライヤーありがとうございました」
「あれ、意外と早かったですね」
校長先生は俺の毛量をチェックしながらそう言った。髪を乾かすのは中学生辺りから毎日行っているので、無駄がない動きで的確に乾かすことができる。
まぁ、毎日やれば誰でもできるけど。
「これぐらい普通ですよ」
俺は校長先生にドライヤーを手渡しながら言ったが、校長先生にとっては普通ではないらしい。
校長先生は髪が無いわけでも薄いわけでもないので髪の話題は別に問題ないが、そろそろ時間なので話題を変える。
「校長先生、昨夜は本当にありがとうございました。
また今日から、一から頑張りたいと思います。
生徒たち、みんなに必要とされる教師になれるように。
みんなの力になれるように」
校長先生の眼を見ながらそう言った。
校長先生は一瞬こわばった表情になったが、俺の話を聞いていくうちに目尻が垂れていく優しい表情を見せてくれた。
「そうですか、悠太先生。
私は応援していますから、胸を張ってください」
両手にドライヤーを持った校長先生が励ましてくれる。
「はい」
俺は返事をすると校長室を後にして自分の席に着く。
時計を確認すると、時刻は12時55分。
後五分で開始なので自分の席に着いてゆっくりしている暇はなかった。俺は用意してある荷物を再度確認する。
…どうやら足りないものはなかった。
まぁ、そんなに荷物なんてないし、もし仮に忘れたら職員室に取りに戻れば済む話だ…
でも、先生だからできる特権を行使することはできる限りしたくない。
ずるいよな…だって…
生徒はダメで教師はオッケー、これはフェアじゃない、教師としても一人の大人としても。
生徒と教師、この圧倒的上下関係を使い生徒たちに悲しい思いや苦しい思いをさせてはならない。職員室だけクーラーの設定温度が低いとかもってのほかだ。
同じ学校で生活するなら条件は同じにしなくてはならない、子供と大人、生徒と教師、立場は違えどルールはお互い守らないとな。
今の俺は、そんなことを言える立場にいるかどうかはわからないけど。
まずは、校長先生が言っていた向き合うことから始めよう。
俺は椅子に掛けてあったスーツのジャケットを羽織、職員室のドアを開ける。
昨日とは何も変わらない日常だが、歩き方が変わった気がする。
そして俺は、その歩き方のまま教室へと向かった。
今日も教室の手前で深呼吸する。
昨夜、校長先生と話し合ったこと、自分で考えたことが頭を巡っている。
そして、三回深呼吸を行ったところで俺は小さな声で、
「よし」
とだけ言って怨念を振りほどき、それから俺はドアを開けた。
ドアの向こう側では既に全員が着席していた。
いなかったら遅刻確定なのでこの景色は当たり前だ。俺が時間ギリギリに入室しただけだ。
教室に入って無言は可笑しいので俺はみんなに向かって挨拶する。
「おは…こんにちは!」
俺は思わず朝の挨拶をしてしまうところだった。若干、口に出してしまったことは否めないが。
「「「「こんにちは」」」」
みんなは間違えることなく挨拶してくれた。
タイミングや声のトーンはまばらだったが、みんなが挨拶を返してくれたことは確かだ。
俺は教卓に資料などの荷物を置いた。
そして、チャイムが鳴るのを今か今かと待ち続けている。別にチャイムが鳴る前から始めないと間に合わない内容ではないのでひたすら待つしかない。
ただ、俺と生徒たちの距離感を示しているこの沈黙が気まずい。俺は沈黙が早く消えてくれることを願うばかりだ。
するとすぐに、その願いが叶ったのか沈黙が消えた。
チャイム音ではないが。
「せんせー、私お手洗い行ってきてもいいですか?」
もう声だけでわかる、この声は中山だ。
これから始まるというのに中山は今からトイレに行くと。沈黙が消えることはありがたいが、また別の問題が生まれてしまった。
まぁ、断る必要もないので認めるけど。
「中山、別に構わないけどな。
もう中山は高校生なんだから、もう少し時間に余裕を持って行動しような」
言うべきことは言っておく。
社会人になる前にこういうことは言っておかないと、後々生徒たちが面倒くさいことに悩まされてしまう。
俺が実際それだったから。
まぁ、俺が悪いんだけど。
俺みたいになってほしくないからな、みんなには。
「はーい、せんせー」
本当に理解しているのか不安になる中山の返事だ。
『頼むぞ中山、俺みたいになるなよ』言葉にはしないがそう思いながら中山が席を立つのを見守る。
中山が席を立ちドアに向かって歩き始めようとした頃、俺は教室のドアを開けてあげるために教卓からドアの方へ移動した。
そして、俺はドアを開けてあげた。
「先生、それは逆に困ります」
声の主は江口だ。
だが、それよりもなぜドアを開けたら困るのか、俺はそこに意識が集中している。
俺は良かれと思ってやったことだ、中山を困らせようなんて微塵も思っていない。
それなのに、なぜそんな鋭い声で否定されてしまうのか。
俺の行動のどこが間違っているのか。
昨日までの俺なら、ここで『すまない』と言って話を終わらせていただろう。
でも、今は違う。
ここで逃げはしない。
俺は怒りでもなく悲しさでもない感情で尋ねた。
「…どうしてダメなんだ…江口…」
よそよそしい声だと俺は自分でそう感じた。
昨日と何一つ変わらない、何かを恐れる声のようにも聞こえた。まだ、俺が完全に心を開いていないことは確かだ。
「常識ですよ、当たり前ですよ、教師なら知っていて。
中山さんは目が視えません、従って教室のドアを手で確認して、ドアを開けたと認識してから廊下に行きます。
それなのにドアが開いていたら、中山さんはいつまで経ってもドアを確認できずに、そのまま歩き続けてしまいます。
ドアは一つの目印です、それを確認できなければ自分がどこにいるか自分一人ではわからなくなってしまいます。
そして、どこにいるかわからずに障害物にぶつかって怪我を負ってしまうかもしれません。
特に高校に入って間もない現在はその可能性が高いです。
『ドアの前に敷かれたマットなど目印があるから大丈夫』とは言えません。
目印が一つでも確認できないと私たちは不安になります。
ですから、先生がドアを開ける必要はありません」
江口の指摘には何も言い返せない。
みんなのことを全く理解していない俺が完全に悪いから。
俺は真空となった教室でそう悟る。
目が見えないのだから音や手の感覚に頼って生活している中山にとってドアは大切な目印だ。
俺はそれを勝手に排除してしまったのだから正しい行為ではないと思う。いくら中山のためにした行動とはいえ中山にとって迷惑行為なら意味はない。
こんなこともわからない、理解してあげられない俺は本当にこの学校に居てもいいのか不安になる。
それに、誰かに必要とされる人間になりたいと思っていた自分に吐き気がする。
誰も助けてあげられない、こんな俺を必要としてくれる人なんているわけがない。
ああ、これはまた昨日と同じ状態だ。
感情が進むことなくループしている。
もう、面倒くさいだけだな。
「…そうだな江口、悪かったな、そんなこともわからないでな」
俺はもう全てをシャットダウンするつもりだ。
考えることも、悩むことも、見ることも、何もかもを。
無駄な気がするから。
だって実際、昨夜の校長先生との会話が意味なかったから。
…もう閉ざそう…
「キーンコーンカーンコーン」
ここで開始の合図であるチャイムが鳴る。
シャットダウンしようとした俺を引き留めるチャイムは、これまでの人生で聞いたどのチャイムよりも最悪の音だ。
俺はこのチャイムがせめて鳴り止まないことを願うが、定刻通りにチャイムは音を吹き込んでから姿を消した。
俺は今から何を始めればいいのか全くわからない。
何を口にすればいいのか。
何も言わずに予定通りに進めるのが正しいのか。
チャイム音が完全に消え去り、ただ時間が過ぎ去っていることを自覚する。
ただ呆然と立ちすくむ俺は惨めかな。
どう見えているのかな…
…
「…先生は間違ってないと思います…たぶん」
薄目で聞こえてきたのは静間の声だ。
決して大きい声ではないが俺には響くように聞こえる。
『間違ってない』と言ってくれるが俺が正しいとは言わない。そこが気になったので、俺の身体の内側を反響しているのだと思う。
「先生は、悠太先生はね。
きっと、中山さんを気にかけてドアを開けてくれたんだと思う。
確かに、声もかけないでドアを開けることは良くないけど、悪気があったわけじゃないし、それに中山さんのためを思ってやってくれたことだから…
そんなに…強く言わなくてもいいんじゃないのかな…江口さん…」
「でもね、言わなきゃいけないことは言わないといけないの。
例え、仮にそれが誰かを思ってしたことでも、その誰かが迷惑だと思ったり嫌だなって思ったりしたら、それは意味がないの。
ドアを開ける行為自体は思いやりがあって素晴らしいことかもしれないけどね、その優しさはね意味がないんだよ。
気を遣われたって嬉しくないんだよ」
「意味がないことはない…はず…
例え、それが迷惑で嫌だと思われてもその後が大切なんだと思う。
『悪気はない、あなたのためになると思っていた』まずはそう伝えて、それから『ごめん』って謝れば相手にもわかってもらえると思うの。
そうやってお互い理解し合えるはず。
そうすれば、その迷惑だと思っていた行為が、相互理解の第一歩になると思うの…
…でも…ね…これが綺麗ごとだということはわかっている…それに私の意見が正しいわけでもない…そのつもりだけど…」
…
…
…
「…そんなの…そんなの…ずるいよ…ちーちゃん…
私だって…私だって…もう…何が正しいのか…なんて…わからないよ…」
…
何もできない。
俺が原因なのに。
俺が配慮に欠けたから江口は俺に伝えてくれた。そして静間は、俺に悪気がないことを理解して江口にそれを伝えてくれただけ。
悪いのは俺だ、二人にここで言い合ってほしくない。それに、このままこの場を放置したら一生仲違いする。
それは理解しているが、二人に何を言ってあげればいいのかわからない。こんな状況になったことがないし、対処法も書いてなかった。
せめて、事前にこうなると知っていれば…
そんなことはできないのは知っている、でもどうしたら。
何もしない俺は視界に入っている江口に恐る恐る焦点を合わせる。
すると、江口の身体は震えていた。
江口も何かを怖がっているのかもしれない。
でも、それは違った。
江口の顔を見てみると唇が微かに動いている。
きっと、何かを伝えたいのだろう。
江口の震えはただの恐怖ではなく、恐怖を振り払うためと何かを伝えるための動きだった。
恐怖を跳ね除けようと必死に動いているだけだ。
静間はそんな江口の声を聴こうと江口の方をずっと見ている。
二人の中にはもう俺はいない気がする。
そして、十秒ほど経過したとき江口が声を出す。
「…私はね、目に障害を負ってからずっと人に気を遣われて生きてきたの。
私は、私は、それがすごく辛かった。
中学二年生の時に目が不自由になってそれから約一年間入院していた。
入院して半年後の中学三年生のときに、一回中学校に行ってみたらその間に全てが変わっていたの、今までの人間関係も環境も。
教室が変わるのは当たり前だし教科担任が変わるのも当たり前だけど、学校のみんなの接し方まで変わってしまった。
それが…それが…辛かった。
もう違うんだって…今までの私じゃないんだって…
それに、私の悪口を言う人がいなくなった。
一切誰も、一言も。
私は気が強い性格だったから、言いたいことはその場で言う人間だったし、すぐ感情的になっちゃう人だった。
だから当然、私を嫌う人は多かった。それに友達も少なかった。
それ自体は困ることではなかったし悪口を言われることも慣れていたし、私も人の悪口を言ったことがあるからお互い様だと思う。
それに悪口、陰口は中学校のお決まりだから仕方がない部分もある。
もちろん、それでキズつくことはあったけど。
でも、それが一切無くなったの。
誰一人として私を攻撃しようとした人はいない。嫌がらせもいじることすらもなくなった。
みんなは、私が歩いていると『大丈夫』って優しく声をかけてくれる様になった。
それに、私が困っていたらすぐに助けてくれるし、何もなくても声をかけてくれた。
でも私はその優しさを素直に受け取れなかった。
優しさに溺れるのが怖かったという面もあるけど、それよりも優しさが苦しかったから。
私はみんなの優しさを踏みにじる人間になってしまった。みんなの優しさに文句を言うこと自体が間違っている。
私が素直に受け取れば済む話だということもわかっている。
私が抱いているこの感情が正しくないことはわかっている。
なら私は、どうすれば良かったのかな…
あの時…私は…どうしていたら…」
…
私や先生だけでなく、みんなが江口さんを見て頷くことしかできなかった。
江口さんの気持ちを聴くことしかできない。
昨日は江口さんのことを理解したつもりでいた、江口さんの立場と同じ目線から見ていたつもりでいた。
でも、いくら江口さんの感情を察したところで相手と同じ立場には立つことはできない。
私はそれを実感した。
江口さんの感情を引き出してしまった張本人は私だ。
だから私が責任を持たなくてはならない。
原因の初動は、先生が中山さんのためにドアを開けただけなのに、江口さんが強い口調で先生に意見していたこと。
でも江口さんは、別に難癖つけて先生に文句を言っているわけじゃなくて確かな意味がそこにあった。
誰か悪人が存在するわけじゃないし、誰も悪気があるわけでもない。
それは、江口さんを初め、みんな理解していたはず。
それなのに私は、『自分は正しいわけじゃない』って…
私はずるいな…
そんなの、ここにいるみんなそう思っている。
なのに、私だけそれを言ってしまったら、みんな悪人と言っているのに等しい。
そんな私が、今更江口さんにかける言葉なんてあるわけがない。
江口さんの気持ちも理解してあげられない、ただ自惚れていた私なんかが…
…でも、江口さんの気持ちも理解してあげられない私だけど、それでも、そんな私でも江口さんの助けになりたい。
迷惑で邪魔で嫌な存在になるかもしれないけど、私にできることはしてあげたい。
だって今、江口さんはこんなに辛そうなのだから。座っているけど身体は椅子を揺らすほど小刻みに震えている。
顔の表情までは私にはわからないけど、私には音が聴こえし見える。
助けを求めるその音が。
その主の声が。
そんな助けを求める江口さんが計り知れないほどの勇気を振り絞って、今まで溜め込んできたその感情をみんなの前で声に出しているのだと思う。
それを理解していて見捨てる人でなしには私は絶対にならない。
助けを求めているなら私が絶対に助ける。
目が視えなくとも。
「江口さん、私には江口さんの気持ちは完全に理解できないと思う。
でもね、私は江口さんの助けになりたいの。
私はずるい人間だし卑怯な人間かもしれないけど、それでもずっと江口さんの傍にいたい。
江口さんに嫌われても邪魔だと言われても私は折れないから。
だから、私を頼って、私を利用して、私を見て」
安い言葉を並べただけの文章だ。
でも、事前に用意した言葉じゃない。
これは今、私が感じたことだ。
言葉自体は誰にとっても平等な価値なのかもしれないけど、音にした私の言葉は受け取った人次第で価値はいくらにでも変わると思う。
江口さんは私の言葉にどれだけの価値を見出してくれたのだろうか。
それは私にはわからないけど、江口さんの震えは止まった。
私はそんな江口さんの言葉を待つ。
…
「…私たちも同じだよ、江口さん」
声の主は中山さんだ。
思わぬ方から聞こえた声に私は咄嗟に耳を傾ける。
「江口さんが苦しんでいることは私にもわかるの。
もちろん、全部わかるわけじゃないよ。
…あのね…私には中学二年生の弟がいるの。
その弟は反抗期なんだけどね、私には何も言ってくれないんだよ。
お父さんとお母さんには、『うるさいジジイ』とか『うるさいババア』とか言うけど、私にはそういうことは一切言ってくれないの。
それが、少し寂しいというか切ないというか…
それに、弟は何でも一人で解決しようとして私を一切頼ってくれないの。
それなのに、私が荷物を持って廊下を歩いていると手伝ってくれるの。
それがさ、嬉しんだけどね…
…私もその優しさが素直に受け取れないの…
私のために行動してくれているのはわかっているけど、逆にいろいろ言いたくなっちゃう。
私のためにだから、それに対して文句を言うのは失礼だとわかっている。
それが余計、難しいんだよね、こういう感情ってさ。
でも私は弟だから、家族だからまだ伝えやすいけど、江口さんは学校の人たちに対してだから私以上に大変だったと思う…
…その…結局、私が言いたいことはさ、
私も江口さんの傍にいるからってこと。
辛かったら私にも話してほしいの。
絶対力になれると思うから。
それに…私もさ…そういう相談を江口さんとかみんなにしたいの。
…それにね、それは佐山さんも同じだと思うの」
「う、うん!私も一緒だよ江口さん。
私も静間さんと中山さんと一緒で、江口さんの力になりたいの。
江口さんが求める私になれるか不安だけど、頑張るから私。
だって、江口さんがこんなに苦しくて辛い話をしてくれて私はすごく嬉しいから。
それにきっと、今まで人には言ってこられなかったことだと思うから、それを聴けただけでも私は嬉しい。
それだけ私たちに打ち明けてくれているんだから、私たちもそれにちゃんと答えるよ。
見捨てないよ、絶対にね」
やっぱり、二人とも同じ気持ちだった。
急に振られた佐山さんの言葉も中山さんの言葉も嘘偽りのない言葉だ。
私にはわかる。
通じ合っているから。
私たちは、私たちの言葉が江口さんに届いていることを願う。
何も視えはしないけど、何かは見えてくるはず。
見ようとする気持ちさえあれば。
佐山さんが話終わってから三秒ほど経過した。
聴こえてくるのは、江口さんの荒い呼吸だけだ。荒い呼吸ではあるが、それは深い呼吸でもある。徐々に江口さんの呼吸は落ち着いていることがわかる。
そして、酸素不足を補うための呼吸から、自分を整える呼吸に切り替わった頃、江口さんが私たちにその声を届けてくれる。
「…私はね…私はね…
私はね、交通事故が原因で目に障害を負ったの。
中学二年生の二月にタクシーに轢かれたの。
何もない普通の休日に。スーパーに一人で歩いて買い物に行った帰りに。
次に目を覚ましたら何もかも変わっていた。
文字も景色も親の顔も見えにくい状態だった。
親は何も悪くないのに、『ごめんね』とか『悪かったね』とか言ってくるの、悪いのは運転手なのに。
あの日、あの時、あの瞬間に私を轢いた運転手が悪いんだって、私はそう思っていた。
だから、親は謝る必要はないって…
でもね、運転手は既に亡くなっていたの。
交通事故が原因じゃなくて心臓発作で。
私を轢いたときはもう意識はなかったみたい。
アクセルを踏んだままの足で、ハンドルから離れた手で、制御を失った車が歩いている私に激突した。
その運転手は七十三歳のおじいさんだったの。
でも、高齢者ドライバーで心臓発作だからって私は許せなかった。
だって、運転しなければいいだけだから、高齢者だからって私が轢かれてもいい理由にはならないって、視覚に障害を負ってもいい理由にはならないって。
でもね…その人はね…アルツハイマー病を患っている奥さんのために働いていた、理由はそれだけだった。
その奥さんは、おじいさんのことをもう覚えていない状態だったのに。
おじいさんが会いに行っても名前を呼んでくれるわけでも、会話できるわけでも、記憶があるわけでもないのに、おじいさんは毎日欠かさず奥さんのいる病院に通っていた。
奥さんがたった一人の家族だから。
奥さんには記憶がなくとも、奥さんは奥さんだからって。
そんな唯一の家族である奥さんのために、できる限りの医療を受けさせてあげたい思い、二人のたくさんの思い出が詰まった場所に連れていってあげたい思いで働いていた。
何か思い出すかもしれないから、それと二人の新しい思い出を創るために。おじいさんもそれが人生の楽しみだったみたい。
それにおじいさんは、小学生の通学路に立っていて横断歩道で黄色い旗をよく振っていて、小学生からも保護者からも人気のある人だった。
別に、ただ運転していたいだけのおじいさんでも、性格の悪いおじいさんでもなかった。
誰にでも優しい、そして誰からも愛されるおじいさんだった。
奥さんのためだけじゃなくて地域の人のためにも身を粉にして働く、そんなただの素晴らしい人だった。
そんな人、私が恨めるわけないじゃん。
恨もうと思えばできるけど、それはなんか負けた気がするの。
しょうもないけど、私のプライドがそれを許さないの。それに、今更恨んだところで何かが変わるわけじゃない。
今までの視力に戻るわけでもない…
…わかってる…全部わかってるけど、
私は、私の視覚に障害を負わせた加害者を心の底から恨みたかった。
一日中恨んで、いつまで経っても恨んで、加害者はそれを何年経っても、そして死ぬまで背負い続けて苦しんで生きていけばよかった。
それか、人を轢いても障害を負わせても、痛くも痒くもないそんなクズ人間でも良かった。
私が恨んだところで、へでもないと思うようなクズ人間。
そんな人なら、私や私の家族も心置きなく恨むことができた。
『ふざけんな、くたばれ』そう言ってやりたかった。
それなのに、
なんで、私を轢いて障害を負わせた加害者がいい人なんだよ。
なんで、家族が奥さんだけなんだよ。
なんで、アルツハイマーで記憶ないのに毎日会いに行くんだよ。
なんで、血の繋がってない小学生なんかのために通学路に立ってんだよ。
なんで、そんないい人なんだよ。
なんで、私は恨んではいけない雰囲気なんだよ。
少しでいいから、恨ませてくれよ。
加害者なんだから。
なんで…なんで…
なんで、被害者である私がこんな気持ちにならないといけないんだよ。
私は何も悪いことしていないのに、
私はただ歩いていただけなのに、
なのに…なんで…どうして…
なんで、今、私は生きているの。
もう、わからないよ、全部、全部。
私は、今どうすればいいの。
どんな気持ちで生きればいいの。
誰か、誰か、教えてよ、私に」
…
…
…
「…とう…あ…とう…ありがとう…ありがとう…江口さん…」
…
「…なんで…笑顔なのよ、静間さん」
私は笑っていた。
私は江口さんに言われてから初めて自分でも気づいた。どうやら私は無意識のうちに笑っていたらしい。
普通、そんなやついないと思う。
人が苦しい思い打ち明けているのに、それを笑うなんて人じゃない。
嫌われるに決まっているけど、私は江口さんに嫌われてもいいかな、そう思えた。
嫌われたら困るし辛いことはわかっている。
でも嫌われたら、また仲良くなればいい、それだけの話だ。
たぶん…いや絶対に、私たちの縁が切れることはない。
そう思った。
「…あのね、江口さん。
私はね、すごく今嬉しいの。
こんなに嬉しいと感じることは人生でそう何回も訪れないと思う、それぐらいね」
「…だから、なんで笑っているのよ。
人が今まで隠してきた辛い気持ちを全部ぶちまけているのに。
どうしてそんないい笑顔なのよ」
「それはね、すごく嬉しいからだよ」
「だから、私はその理由を聞いているの」
「うん、そうだね」
「バカにしているの?私を」
「そんなことはしないよ、絶対に」
「じゃあ、教えてよ」
「…私はね、ずっとこんな学生生活を送りたかったの。
クラスの人と意見が対立して言い合ったり、文句を言い合ったり、それで誰かに嫌われたり、喧嘩したり、それで仲直りしたりね。
私はお互いの気持ちをぶつけ合うことをしたことがなかったの。
誰かの感情に一喜一憂して、『あの子に嫌われたんじゃないのか』とか『あの子怒ってないかな』とか、『あの子にウザイって思われてないかな』とかね。
こういう普通の学生の日常を味わいたかったの。
私はね、いつでもどこでも基本的に誰からも優しくされていたし守ってくれていたから、そういうことしたことなくてね。
でも今、江口さんに嫌われているかもしれないとか、怒っているかもしれないって、感情になっているの。
それが嬉しい、普通の高校生みたいで、だから笑っているんだと思うよ…
…だからね…私に日常を与えてくれて、ありがとう。
こんな感情を与えてくれて、ありがとう」
…
「…なに、それ、そんなことが嬉しいの…
…何言っているの…私…そんな…こ…と…言われても…別にうれしく…なんかない…よ…」
「江口さんどうしたの、泣きたいの。
いいんだよ、泣いても、私たちがいるからね、ねー、みんな」
…
「…別に、泣かないもん、私。
だって、別に嬉しくないもん、私。
そんなこと言っても信じないもん、私。
騙されないもん、私」
「喋り方変わっているよ、江口さん」
「もう、うるさいよ……ちーちゃん…」
「あー、あだ名で呼んでくれたね、私また嬉しくなっちゃう」
「うるさい、うるさい、もう」
「私、江口さんに嫌われちゃったかな」
「もう、嫌い嫌い嫌い、ちーちゃんなんて絶対に大嫌い」
「ありがとうね、江口さん」
「だから、なんで喜ぶのよ」
「だって、私のこと見てくれるから」
「…いきなり私のことそんなまじまじ見ないでよ」
「いいじゃん、別に」
「恥ずかしいよ、ちーちゃん…
…でもね、恥ずかしいけど嬉しいよ、私のこと見てくれて。
…だからね、私も、ありがとう…
ちーちゃんも、佐山さんも、すーちゃんも、みんなありがとう」
「…こちらこそ、ありがとうだよ、江口さん」
「…でもね、ちーちゃん、一つだけ言っておくけどね。
さっきから、一喜一憂って言っているけど、ちーちゃんは全く一喜一憂してないから。
嫌われる、ウザがられる、怒られる、これ全部心配事だからね。
それに、ちーちゃんの場合全部喜んでいるから、そもそも破綻している。
後ね、これは大切なことだけど、人から嫌われてウザがられると結構辛いからね。
ちーちゃんみたいな人は、普通いないから。
これ大切だから」
「それは大丈夫、だってみんながいるから」
「だめ、全然理解していない」
私たちと江口さんは、せき止めていたダムが決壊した。
結果として、感情が辺りを浸食している。
でも、修復する必要はもうない。
綺麗な水ではないけどその分栄養が詰まっているから。
ずっとこのままでいい、みんなの前なら。
…
「…あのね…あのね…江口さんにあだ名って…あるのかな…なんてね…」
声は、私と江口さんの間から聞こえてきた。
それは佐山さんだ。
「…どうしたのいきなり」
私が佐山さんに問いかける。
江口さんが聞くのが普通だけど。
「…あ…あのね…そ…その…気になっちゃって…」
「あーそれ、私も気になる」
佐山さんを援護したのは中山さんだ。
でも、確かに私も気になるところではある。
想像がつかないからかな。
「…いやー、あったにはあったんけどね…うん…一応ね…」
これは聞かれたくないやつだな。
昨日までだったらここで止めていたが今は違う。
こんなところで立ち止まる人はいない。
「えー聞きたいよ、私たち、それに私はすーちゃんって教えたじゃん」
中山さんはとどまることを知らない。
さっきまでの繊細な会話はどこに行ったのやら。
「ちょ、待って、絶対に教えるから、絶対に、ね。でも、今はまだ気持ちが出来てないからさ、ね、みんな、ね」
「じゃー、楽しみにしてるね、江口さん」
私は含みを持たせた笑顔で江口さんにそう言った。本人がどんな表情をしているのか、非常に気になるがこればっかりは仕方がないので諦める。
…あれ、まだ一人あだ名を知らない人がいた気がするな。
「で、佐山さんのあだ名は一体どんなのかな」
私と同じことを思い、それを実際に問うのはもちろん中山さん。
中山さんが繊細な人だということは初見では絶対にわからない。話して見ないとわからないとは、こういうことだ。
「…わた…私はね…一回もね…あだ名で呼ばれてことがないの…だからね…付けて欲しいな…なんてね…」
「いいよ、付けてあげるよ」
即決した中山さんは早速お悩み中だ。
『ん~』という声を発しているのでわかりやすい。まぁ、最初のあだ名ぐらいはみんなで決めよう。
「みんなでゆっくり決めようね、佐山さん」
まだあだ名を教えてくれない江口さんの声だ。
江口さんとしては、あだ名をゆっくり決めることで、自分のあだ名を教える時期を遅らそうとしているけど、私にはバレバレだぞ。
絶対に時期は遅らせないために、佐山さんのあだ名は真剣に考えよう。
私は早速、佐山さんのあだ名を考え始めようとした…
…
「ドン!」
その時、床に何かが当たったであろう鈍い音が聞こえた。音の発生源は把握できても要因までは把握できない。
つまり私と中山さんは、今なにが起こったのか何一つわからない状況だ。
そんな状況では、何もできない、私はわかる人の声を待つ。
「な、なに、なにしているんですか先生!」
江口さんが大きな声を出している。
江口さんが大きい声を出さないといけない状況とは一体。
先生は一体何をしたのか。
たぶん、先生が何かを落としたのだと思う。
学校の大切な備品とかを。
「江口さんどうしたの?何があったの?」
私は江口さんに尋ねてみた。
何があったか知りたいから。
先生が何をしたのか。
先生が何をしているのか。
「なにって、先生が、先生が、土下座しているんだよ!」
なんで!どうして。
なぜ、いきなりそんな状況になるのか。
そんな展開じゃなかったじゃん、今まで。
益々、わからなくなった。
どうすればいいの私たちは。
でも、先生がずっと土下座している状況は流石にヤバイ、というか居心地が悪い。
しかもそのレベルが尋常じゃない。
とにかく先生に今の土下座の状態を辞めさせないと。
「先生、土下座なんて今すぐ止めてください。
それに、土下座する理由やタイミングなんて一つもなかったですよ。
なのに、どうしてそんなことするんですか。
先生、何か言ってくださいよ」
言葉を頭で考えることはせずに即興で先生に伝えたので少し後悔する。もっと先生に届く言葉があったのではないかって。
しっかり考えてから話せば、この先の何かが変わったんじゃないかって。後悔したところでもう手遅れなことは理解している。
今は先生の返答を待つしかない。
…
「…すまなかった…みんな…」
先生の声は椅子に座っている私の下から聞こえてきた。
この時、初めて先生が本当に土下座していると自分の感覚で理解した。
先生からの返答はこれだけだったけど、先生がどこで何をしているのか認識できた。
それでも疑問は残る。
一体何が『すまない』のか、なぜ土下座するのか。先生からの言葉が足りないので、現状を変えることはできない。
「先生、それだけじゃ何もわかりません。
理由を教えてください、そして土下座を止めてください」
「…本当に…すまない…」
「だから先生、それだけじゃ何もわからないです。
とりあえず顔を上げてください。
それから、立ち上がってください」
「…それは…できない…
今はこのまま状態でいないと気が済まない。
だから、許してくれ」
「…先生が何も話をしないで、私たちに何一つ教えてくれないなら私にだって考えがあります。先生がそのままずっとその状態なら、私も同じように土下座します。
先生が土下座を止めるまで、ずっと
いえ、先生が土下座を止めた後も、ずっと」
「せんせー、私もせんせーと同じ土下座するよ」
「……わ…私…だって…土下座しま…す…先生が…その気なら…」
「…じゃあ、私も仕方なく土下座しようかな」
「なんでだよ、なんでお前たち全員土下座するんだよ。そんなことする必要ないだろ」
先生がやっと顔を上げてくれたみたいだ。
さっきまでは声が床に反射していたけど、今は声が私たちに直接届いているからわかる。
私の土下座をする宣言が効いたのだろう。
いや、私たちみんなの効果だろう。
私たちは本当に土下座するつもりだからその効果は絶大だ。流石に、教え子たちに土下座をさせたくはないと思う。先生は、優しい人であり臆病な人でもあるから。
それは私たちみんなが知っている。
そんな先生に私はもう一度話しかける。
「先生だって、土下座する必要はないです。
だって先生は悪い人じゃないから。
それに、先生は私たちのことを考えてくれるいい人です。
それを私たちは知っていますから」
「そうだとしたら、それは間違いだ、静間。
俺はそんな出来た人間ではない。
お前たちに顔向けできない人間だ」
「そんなことないです、絶対に。私たちがそれを保証します」
「なら、俺が自分のクズさ加減を保証しよう。
土下座した理由も含めて、如何に俺がダメな人間なのかを」
「なんで、そんなに自分を卑下するんですか。
私たちが先生を認めているのに」
「自分の価値を決めるのは、他の誰でもない自分自身だからだ」
「……恐らく…もう何を言ってもこの繰り返しですね…先生…
そんなに自分はクズだと言うなら聞かせてくださいよ。
全部、包み隠さず、私たちに、是非」
先生は今、何を言っても響かない。
完全に殻に閉じこもっている。
原因は、さっきの私たちのやり取りの中にあることは理解しているけど、細かい所まで理解することは難しい。
私たちが人と向き合って打ち解けていく姿にいたたまれなくなったのかな。
自分はそんなこともできない人間だって、高校生という若い人たちができているのに三十歳の教師は、そんなこともできない情けないダメ人間って。
もしそうなら、私も先生と同じく殻に閉じこもると思う。それに、高校生なんかに同情されたら余計に閉じこもる。
それが間違っていると理解していても。
なら、今は優しい言葉をあげるのではなく話を聞くことが賢明だ。
私は今そう思った。
話を聞いた後は、もうどうでもいい。
そんなこと考えたところで無駄だ。
そんなことは、話を聞いた後の自分に任せるしかない。
今の自分には未来のことはわからないから。
私には、その時の感情を伝えるしかできない。
そう思い、先生を見つめる。
先生が今どこを見て何を感じているのかはやっぱりわからないけど、ただ見つめるだけだ。
…
「…俺は…俺はな…
この学校に赴任することが決まった時、溜息をついた。
そして昨日、高校初日も学校に来る途中のバスで溜息をついた。
嫌だから、生徒と顔を合わせるのが。
嫌だから…視覚に障害を負った生徒を…サポートするのが…
大変だから、普通じゃないから、面倒くさいから、責任が大きいからって。
…こんな教師普通いるか、こんな人間見たことあるか。自分のことを他の誰よりも優先して生きていく人間。
常に自分が辛くて苦しい思いをしないように自分を守り庇いながら生きていく人間。
それが俺なんだよ。
救いようのない、生きている価値が皆無な人間が俺なんだ」
…
「それだけの理由で土下座するんですか、先生」
「…それにな…俺は…俺はな…
俺が、昨年度担当していたクラスを学級崩壊させたんだ」
「学級崩壊なんてよくあることですよね、先生」
「違う、俺は、俺は、わかっていたんだ。
学級崩壊した本当の原因を。
俺は、わかっていながら理解しながら目を背けていた。
自分が、自分が、キズつくことを恐れて何もしなかった。
俺があの時、自分がキズつくことを恐れずに生徒たちと真剣に向き合っていれば学級崩壊はしなかった。仮にしたとしても修復することは出来た。
それもわかっていながら俺は逃げたんだ。
他人よりも自分が大切だから。
所詮は他人だから。
他人と同じ立場で物事を考えることは不可能だから。
そう思い続けて俺は生きてきた。
自分が正しくないことは理解していたのに。
俺は結局、その程度のクズだ」
「先生、過去は過去ですよ
今更、去年のクラスのことを考えてもどうしようもないですよ。
それなのに、今になって苦しい思いしたって手遅れですよ。
それに、その感情はもう無駄ですよ。
だから、もう捨てましょうよ、そんなの。
そんなの持っていたって使い物になりませんから」
…ごめんね、先生。
今、私が先生に言っていることは間違っているよ。過去に培った感情が無駄になることなんて絶対にないよ。
でもね、先生、今だけは許して。
開き直ってもいいんだよ、先生。
「でも、そうしないと俺は償えない。
彼らにとっては、生涯に一回だけの高校生活だ。その一回で得るもの経験するものは数多く存在する。
俺はそれを、自分を優先したいがために汚した。そんな彼らの一度きりの青春を俺の自我で汚した罪は大きすぎる。
だから、俺は苦しまないといけない。
そして、この苦しみを捨てることは許されない。
それが、俺が犯した罪の代償だ」
「それは違います、先生。
確かに、先生は学級崩壊した原因を理解しながら自分がキズつきたくない一心で、目を背けてきたことは取り返しのつかない行為で、教師として失格の行為だと思います。
それにさっきも言いましたが、教師として失格の行為は今更どうもできません。
でも、その経験は絶対に何かに影響を与えています。
今だって影響を与えているじゃないですか。
今、先生が土下座しているのはなぜですか。
今、先生が私たちに謝っているのはなぜですか。
それはきっと、その経験が先生を突き動かしているんですよ。
また同じことを繰り返さない様に。
今度は、生徒たちと真剣に向き合うって。
正面から私たち一人ひとりと向き合うって。
今度は、生徒たちを真剣に見ようって。
正面から私たち一人ひとりを見ようって。
自分がキズついたとしても。
それに、昨年のことを後悔しているからこそ今の状態なんです。昨年の出来事を自分で後悔していなければ土下座なんてできません。
教師が生徒なんかに対して。
例え、後悔していたとしても普通は土下座まではできません。
先生は今、この瞬間にその罪を償ったと私は思います。
だって、そんな涙目な声で土下座までして苦しんでいるんですから。
過去の自分、現在の自分と正面から向き合うことをしなければ辿り着くことは決してできないと思います。
つまり先生は、今までの先生から確実に変わりました。
それが良い事か悪い事かはわかりませんが、私は今、先生に対して不の感情は抱いていません。
私は今の先生をもっと見ていたいと思っています。
私たちのことをどう思って、先生は今何がしたいのか、何を思っているのか、私は先生のことを知りたいです。
だから、是非教えてください、私たちに、先生」
…
「俺はな、結局、偽善者なんだよ。
誰かのために生きようとか、誰かに必要とされる人になろうとか、そう思っているだけで実際に行動に移すことができない偽善者なんだよ。
だから、みんなにもそう接していた。
みんなにダメな人間って思われないために、常にみんなと向き合うことを避けていた。
生徒と向き合えば、確実に文句を言われるし嫌われることもある。
俺はそれが怖かった。
生徒に文句を言われて嫌われて、自分がキズついてボロボロになることが。
たかが生徒から嫌われる、そんなことが怖い臆病者だ。
『誰かに嫌われてもいい、そんなの気にするな、自分らしく生きろ、誰に何を言われても』
俺は、そんな生き方はできない。
関係ない人から文句を言われただけでキズつくし、周りの目を気にして生きていくことしかできない。
俺はずっと、そうやって生きてきた。
そんなことが怖くて俺は、みんなと距離を置いて目を背けた。
そして俺は、それを自分の中で正当化しようとした。
自分は悪くないって、自分は間違っていないって。
いくつもの偽りの感情を上書きすることで、自分の本心を隠して自分自身でもどれが正解なのかをわからなくしようとした。
俺が自分の生き方を否定したら、自分で自分の生きている価値を否定することと同じだから…
…こんな俺がみんなにとって必要なのか…俺にも教えてくれよ」
…
「それの、何が悪いんですか!」
「え?」
「そんなの当たり前じゃないですか!」
「これが、当たり前なのか?」
「そうですよ、それなのにうじうじ泣いて」
「でも…」
「『でも』じゃないです、いいですか、先生。
自分がキズつくことが怖いのは世界中の人々の共通点です。
人それぞれキズつく要素は違えど、自分がキズつくことを良しとする人はいません。
それに、過去の自分を現在の自分が否定することを望む人もいません。
だからこそ人は、他の人の生き方を否定して自分の生き方を正当化するんです。
他の人の生き方を認めてしまうと自分たちが哀れに見えてしまうから。
でも、先生はそれをしなかった。
自分の生き方は間違っていて、他の人は正しい、これが先生です。
普通はそんな考えにはなりません。
自分を否定しないために他者を否定する。
これが普通です。
それでも先生は、自分の生き方を否定しながら生きてきました。
『偽りの感情で自分を正当化』とか言っていましたけど、先生は結局それができていません。
だって、他者を否定していないからです。
自分を正当化するには、まず対象人物が必要なのにそれを用意しなかった。
全部、自分の中で消化しようとした。
だから、正当化できなかったんですよ。
それに、既に偽りの感情が支配していたら今こんな地獄みたい状況にはなっていません。
先生は『目を背けた』とか『逃げた』とか言っていますけど、本当に逃げ出して目を背けた人は、そんなこと思いませんから。
先生は私たちを見ていないだけです。
これは目を背けることとは別の意味です。
先生は背けてはいません、その眼を開いて見ていないだけです。
その眼は私たちに向いています」
…
「…そうだよ、俺は自分しか見てこなかった。
他の人なんかどうでも良かった。
自分さえ良ければなんでも良かった。
俺はそんなクソみたいな生き方をしていた」
「クソなんかじゃないです。
先生の今までの生き方は、自分を守るための自己防衛です。
それを、誰かに否定する権利はありません。
自分には否定する権利はあるかもしれないけど、その必要はないと思います。
だって先生は、人を殺したわけでも、人からお金をだまし取った犯罪者でもないし極悪人でもないからです。
先生は、一人のただの人間なんです。
自分が大切で他の人なんかどうでもいい、それが人間です。
それに、私だってそうですから。
私だって自分のために生きていますから」
「自分のために生きている人が、俺に手を差し伸べてくれるわけないだろ」
「私は今、自分のためにやっています。
先生のためではなく、自分のために」
「どういうことだよ、なんで俺に手を差し伸べることが静間のためになるんだよ」
「…それは、私が誰かに必要とされたいからです」
…
「…俺に…」
「私は今まで家族以外の誰かに必要とされたことがありませんでした。
私が傍にいないと困る人や寂しくなる人、反対に私が傍にいれば安心して嬉しくなる人。
そんな人に私はなりたかったけど、今までそんな人になることができなかった。
でも、今は違う。
ここには私を必要としてくれる人がいる。
誰かのためになれる私がいる。
私は、先生にとってもかけがえのない存在になりたい。
もしそうなれば、私が幸せになれるから」
「怖くないのか、俺に心を開いてもそれを俺に拒絶されてしまうことが」
「それは、もちろん怖いです、それに嫌です。
そんなことされたら、三日三晩閉じこもります。そしてもう一生、先生とは会話しないと思います。
それに、人間不信に陥るかもしれません」
「…じゃあなんで、そんなに俺を、他にも静間を必要としてくれる人はたくさんいるはずなのに」
「そんなの、決まっているじゃないですか。
先生が私たちと向き合う覚悟があるからです。
それに、先生が私たちに必要とされたいって思っているからです。
そして、私たちには先生が必要だと思ったからです」
「確かに、必要とされたいと思っていたけど俺は何もしなかった。
俺はただの偽善者なんだよ」
「思ってくれるだけでも充分です、先生
行動に移すことが一番重要かもしれないけど、そのきっかけは私が創ります。
それが、私にとっても先生にとってもお互いに必要な存在になれるから」
【…きっかけぐらいは俺が創らないとダメだろ…】
「私はね、誰かのために行動するのは今日が初めて。
先生が苦しんでいるから、江口さんが苦しんでいるから助けてあげたい。
私にも誰かを助けてあげることができるって。
いつも助けたいと思っても私なんかは力になることができなかったけど今は私でも力になれる。
初めてそう思えたんです。
だから、私にも任せてください」
…
「…初めからそうだったんだな、みんな」
「初めからって何が…ですか?」
「初めから、壁なんてものは存在しなかったんだよ」
「壁って?」
「みんなに初めて会ったときから、俺とみんなを遮る壁なんて存在しなかった」
「それは…どういう」
「なのに、俺は壁を感じた。
これは、俺がみんなと繋がることを避けていた証拠だ。そして俺が拒否していた隠滅できない証拠でもある。
本当に救いようがないな」
「…最初に壁を創ることも当たり前です。
私たちが異常なだけです。
壁を創らずに、むしろ積極的に相手のことを知ろうとして繋がることを避けようとしないから。
でも、100%壁がないわけではなくて少なからず壁はあります。それをお互いに手探りで徐々に溶かしていくんです。
もし、壁を創るのが犯罪なら全員犯罪者になっちゃいますよ。
それぐらいの普通です」
「俺はその壁が最低なんだよ、それでも普通と言えるか」
「じゃあ言ってみてくださいよ、私たちが聴きますから」
…
「…俺は…お前たちを…視覚障がい者の生徒としてしか見ていなかった…」
「………」
「こんな壁が普通なのか、みんなを決めつけてその概念の中でしか人を判断していなかった。
『こいつはこうだからこれ、あいつはあれだからあれ』そうやって判断していた。
俺はみんなを、視覚に障害を負ったから視覚障がい者だって。
それだけでしか俺は人を見ていなかった。
同じ人間なのに、俺と同じで自分の感情を持って生きているのに、なんら俺と変わらないのに。それなのに俺は、俺たちとは違うと決めつけた。
そして、可哀想な人たちと思っていた。
視覚障がい者は普通じゃないから、俺たちと同じ日常生活を送ることができないから。
歩くことも、自転車に乗ることも、自動車を運転することもままならない可哀想な子。
俺はそうやって、俺との違いしか見ていなかった。
俺たちと同じ共通点の方が遥かに多いのに。
それなのに登山しただけで感動して、踊っただけで感動して、俺たちと同じなのに、わざわざ違いを見つけていた。
そうやって、自尊心を高ぶらせていた。
視覚障がい者などの障がい者は、俺たちが守るべき存在だって。
でもそれは、俺の薄っぺらい自尊心を守るための口実だ。
障がい者を障がい者としか見ないで他の一面を見ようとしなかった。
一人の人間だって、一人の女子高生だって、一人の子供だって、そう見ようとしなかった。
俺にとって大切な存在なのに。
でも俺は、みんなを弱い人としか見ていなかった。
俺たちがいないと何もできない人だって。
俺はそうやって判断していた。
これが普通なのか、みんなはこんなやつが憎たらしくないのか。
自分のために、障がい者を利用していた人間を。
みんなを守るためにじゃなくて自分を守るために。
自分がいい人って思われたいがために。
…もう一度聞いてもいいか、本当に俺が必要かどうか」
…
「私たちが視覚障がい者ということは紛れもない事実です。
それ自体は何一つ間違っていないです。
そして、視覚障がい者の私たちが自立した生活を送ることが困難ということも事実です。
私たちだけで生きていくことはほぼ不可能です。
つまり、先生みたいに私たちを支えてくれるサポートしてくれる人たちがいないと、私たちは今日を生き抜くことができません。
そこで、先生たちが私たちのことを日々考えてくれます。
『どうしたら私たちの生活がより安心で快適なものになるか』とか。
それから、バリアフリー化されて私たちが就職できる企業も増え、自分たちでお金を稼ぐことができて自分たちだけで生活できて、時代とともに私たちはより安心で快適な生活を送れるようになりました。
これは簡単なことではありません。
なので、私たちは貢献してくれた人々に感謝しかありません。
直接的に事業に関わらずとも、私たちが生活できるように声を上げてくれる人や思い続けてくれる人にも感謝しています。
もちろんそこには、全く善意がない人もいたと思います。
何かしらの成果を得るための実績作りとか、表向きをよくするための一つの事業とか、私たちをアピールする道具としてしか見ていない人もいると思います。
最悪、私たちを利用してお金を稼ごうとしか考えていない人もいると思います。
でも先生は、私たちを思い続けてくれただけの人です。
先生は勘違いをしているんです。
先生は私たちを悪意で利用なんかしていないです。
先生が私たちを守ってくれているんです。
先生が私たちを救ってくれているんです」
「いや、でもそれは、自分がいい人って思われたいがために」
「それは、私だってそうです。
私だって今、先生にいい人って思われるために会話しています。
全部先生のためではなくて、私が自分が、先生に必要とされるためにやっています。
少なからず、自分のためにやっているところはあるんです。
それは私たちみんな、自分が一番大切だからです。
一部の少人数しか全て善意で他人のためには動けません。
それ以外の私を初め多くの人は、自分のためにしか生きることができない、そう思います。
だから、自分は弱い人も守れるヒーローとか、自分のために何かを利用しても良いと思います。
そこに、悪意があってお金を稼ぐ道具としか見ないで利用した人たちを不幸にさせることがなければですが。
とにかく私たち視覚障がい者は、先生たちがいないとダメなんです。
先生たちの助けやサポートがなければ困るんです、生活に支障をきたすんです。
だから、先生はそのまま私たちを守り続けてください。
その分、私たちも助けになるかはわかりませんができる限りのことはします。
そして、先生も私たちに利用されて必要とされてください。
私たちは、お互いを利用して、お互いを必要として、お互いを求めているんです。
自分たちの空いた心を満たすために。
でもそれで、私と先生は今救われているんです。
これも紛れもない事実です。
だから、私は先生にも感謝しています」
…
「…でも…俺は…最低で…」
「だから、そんなに自分を卑下しないでください。
それにさっきから嘘ばっかりです」
「…あれは嘘なんかじゃない、俺の中にあるものだ」
「なんで悪役になろうとするんですか」
「別に、そんなつもりもない」
「いいえ、あえて自分を蔑んでいます。
私たちに文句を言って欲しいんですよね。
私たちに文句を言われて、今までの自分を否定してもらおうとしています。
そうやって殴られて、空いた心を埋めようとしている気がします。
それとも今まで溜まっていた罪悪感みたいなものを消そうとしているかもしれません。
でも、私たちは文句を言いませんし、先生を蔑むこともありません。
さっきも言いましたが、先生は否定される生き方をしていません。
罪悪感を覚える必要もありません。
これが、私たちの答えです」
…
「…そうだよ…蔑んで欲しかった…
そうしないと俺の気が済まないから。
自分だけじゃなくて誰かに今までの自分を否定されないと前に進めないから。
何もしてこなかった俺、みんなに壁を創っていた俺、マニュアル通りにただ動いて逃げていた俺、俺は今までの自分を後悔している。
もっと何かできたって」
「先生、今までの自分を後悔しているのなら、今から動き出しましょう、私たちと一緒に。
そして変わりましょう、私たちと一緒に」
「なんで、みんなと一緒なんだよ」
「先生がさっき言っていたじゃないですか、『自分だけじゃなくて』って」
「あれはそういう意味ではなくて」
「いいえ、同じ意味です。
誰かがいないと生きていけないのはみんな同じです。それを先生も理解しているからそう言ったんです。それに私たちも何かしら後悔して生きています。
だから、私たちと一緒に動き出しましょう。
そして、一緒に生きていきましょう」
「…俺が変われると思うか」
「私もそうですけど、一人ではまず無理です。
人は見たくないものを見ようとはしません。
だって見なくとも生きていけるからです。
自分の嫌いなところ、自分とは全く違う価値観など、見なくても生きていけるのにわざわざ見る人はいないんです。
でも、見なければ人は変わることも動き出すこともできません。
だから、私たちが見せてあげますよ、いろんな景色を。
だから、先生も私たちに見せてください、私たちだけでは見ることができないものを全て。
そうやって、私たちと先生で足りない部分をお互いに補いましょう。
今度は後悔しないように」
「でも、後悔しないように生きるのは無理だ。
人はどの選択肢を選んでも必ず後悔する生き物だ。
『こっちの方が良かったかも、あっちの方が良かったかも』とか言って。
別の選択をした未来という、存在しないものに期待してしまう。
人々は証明できない、見えない、そういう架空の存在や未来に心酔してしまう。
俺はその典型的な例だ。
みんなが俺に景色を見せてくれたとしても、俺は別の選択肢を選んでいたらもっと違うものが見られたかもって思うかもしれない。
みんなも、俺といない方がいい景色が見られたかもしれないと思うかもな」
「でも、先生と一緒じゃなかったら『先生と一緒にいた方が良かった』って思いますよ。
先生の理屈ならそうです」
「…そういうことかもしれないが、ダメージは一人の時よりも大きいだろ」
「私は、どっちの選択肢を選んでも後悔するなら、みんなと先生と一緒に後悔したい!
やって良かった、見られて良かったって思えなくても、みんなが傍にいてくれればそれだけで私は充分。
一人で架空の未来に後悔を投げ捨てるよりも、みんなで後悔の海に溺れていたい。
みんなの後悔も一緒に背負いながら生きていきたい。
そっちの方が、一人で生きるよりも辛くないから」
…
「せんせー、私も一人で生きるよりみんなで後悔した方がいい。
私は孤独の辛さを知っていることもあるけど、それよりも、みんなで会話して旅行して一緒の時間と思い出を共有したいから。
だって楽しそうじゃん、なんか。
別に論文とか明確な根拠なんてものはないけど…まぁでも、そんなもの必要ないと思うけどね。
とにかく、私は一人よりもみんなでいたい。
ダブル『ーちゃん』はそういう意見」
「…中山もそれでいいのか…」
「だから言ったでしょ先生、後悔してもいいって。一緒にいて何か失敗して後悔しても、楽しそうって。
ちょっと矛盾している気もするけどね」
「…そうか」
…
「…わ…私…だって…最初から…そうです…
私の将来の夢…ラジオ番組の話…みんなもう知っている…
あれ…みんなに…話すのすごく緊張した。
思い出すだけでも恥ずかしい。
もう知られちゃったから手遅れだけど。
でも、昨日に戻れても同じことする。
後悔はしているけど後悔はしていない。
私はみんなとこのままの関係がいい。
これから喧嘩しても一緒にいたい。
つまり、そういうこと……です…」
「佐山さんも私とすーちゃんと同じですね」
…
「…な、何よ、一斉に私の方に顔を向けて。
あのね、別に順番なんてものはないし、みんなが言ったからって私も言わなきゃいけないなんてことはないの。そういうことだから」
…
「ああ、もう何なのよ、誰か何か喋ってよ。
だから、なんで私の顔を見てくるの。
そんなに見られても、別に」
…
…
「…ああ、もうわかったよ、言いますよ、ハイハイ。
はぁ~あ…
あのね、私だってね、もう一緒にいるしかないの。
もう選択肢なんて残ってないの、一緒にいるしかないの。
あんなこと話しちゃったし、泣き顔だってみんなの前で晒したし、もう全てが手遅れなの。
まぁ…私だって別に…後悔してるけど…してない…みたいな…
…うん…
…そしてみんなは、あんなこと聞いたんだから私の人生を一緒に背負う義務があるの。
私の今までの人生を全て語ったんだから、これは当然の措置。
ただ話じゃないんだから、あれは。
それに、私の醜態を見た人は今まで家族以外いないから。
だから、一生背負ってもらうから。
そのつもりで。
こんなこと、今更言う必要ないでしょ。
もう決まりきったことなんだし。
今さら変更はしないの。
つまり、そういうことだから」
「江口さんも賛成だって、それで先生はどうするの、ゴールは先生にあるよ」
…
「…でも俺はみんなに壁を創って利用して最低なやつだから…」
「せんせー、さっきから、うるさいよ。
ちーちゃんと話しているときからずっと思っていたけどね。
そんなにうじうじするもんじゃないよ。
開き直っちゃえばいいじゃん、そんなの。
もっと割り切って考えてさ、『あんなこと思っていたな』とか『最低だったな』とか。
正直さ、先生。
私たちは先生の過去とかどうでもいいんだよ。
去年学級崩壊させたとか、その理由わかっても行動しなかったとか、私たちに壁創ったとかさ。
私たちにとって先生が悩んでいること自体がどうでもいいし無駄なの。
…あ、いや、せんせーごめん、どうでもよくないし無駄ではないけど…
だから、その、私たちにとっては今の先生が重要ってこと。
それに、もし過去のことが辛くて耐えられなくなったら、私たちがいるってこと。
つまり、そういうこと」
中山に否定されたわけじゃないけど、否定に近いものをくらった。
それでも、痛みは感じない。
俺の痛覚が狂っているわけではないはず。
それになぜだかわからないが、受け入れることができる。
たぶん、遮る壁がなくなったからかな。
壁がない人の言葉や態度は直接俺に取り込まれる。麻酔の効果があるわけでもないのに、力が入らなくなる。
無力の俺の頭にあるのは『私たちがいる』この言葉だ。
これは俺がずっと求めてきた言葉だ。
聞きたくても聞けなかった言葉。
それは、声に出して言葉にしてもその音は視えない。
でも、確かに見える。
今の俺なら、壁がなくなった俺なら、眼を開いた俺なら。
「俺は今、自分自身でやっと気づいたのかな」
「せんせー、何に」
「俺は見ようとしなかっただけってさ。
視界にはずっと入っていたけどさ、それを見ようとしなかった。
それなのに俺はただ悩んでいた。
大切なのは、まず見ることなのに。
見ているふりでもしていたのかもな。
そして、理解したつもりになっていたのかもな。
これは俺の落ち度だな、申し訳ない、みんな」
「だから、先生頭をあげてください」
「これは、気づけなかった過去の自分にも謝っているから気にしないでくれ、静間」
「…でも」
「でもね、先生、私はさっきまでの先生でも全然嬉しかったよ」
俺が頭をあげるタイミングで江口が笑いながらそう言った。
「私は逆に接しやすかったよ、先生。
だって、あんなに壮大な壁を創る大人なんて然う然ういないもん。
でも、その壁のおかげで私はそんなに負い目を感じることはなかったよ。
関わろうとしてこないから楽っていうかね。
先生は見ようとしてこないから、私の気持ちをぶつけやすかったんだよ。
校長先生は、すっごい開いているからやりづらい。
善意の優しさが、私は少し苦手だからかな」
「それ褒めてないよね」
「ちーちゃんが言う通り、そう感じるのが普通だよね。
まぁ、褒めているつもりはないから間違ってないね。
こういうのってさ、大体みんなで褒めあって慰めてお終いなんだけどね。
私は、そういうつもりはないからね」
「ああ、そうだな」
「まぁね、確かに先生は最低だよ、うん。
最低とはいかなくても普通よりも確実に下にはいるよね。
それは、教師としても人としてもね。
特に教師として考えたらえげつないよ。
だって、学級崩壊を放棄したり生徒に対して壁を創ったりしているんだから。
間違いなく教師失格ですよ。
こんな大人本当にいるんだって思ったもん。
それに、社会勉強の一環かと思ったもん。
それぐらい、先生は私と同じで酷いですよ」
「…そうか」
「…わ…私…も、江口さんと同じ思いです」
「佐山さんもそうなの」
「うん、先生は、いい人ではないと思います。
今までずっと自分勝手で自己中心的だからです。
もっと周りの人を大切にするべきです。
それができないと私たちも先生を大切にしませんから。
先生と会話も一切しませんから。
もう一切、先生と関わることを止めますから、そのつもりでお願いします」
佐山さんも江口さんと同じ。
そして、それを先生にハッキリ言っている。
音からして二人とも先生の顔を見ながら。
言われている当事者の先生は、どこか安堵の表情を浮かべている、それは視えなくともわかる。
目だけが人を判断する能力を持っているわけじゃないから。
先生と出会ってから聴いてきた、言動や態度で表情などもわかる。
でも、先生が今どんな気持ちなのかはわからない。
私は何となくでしか感じられない。
でもそれは、先生も同じ。
先生も今の私の気持ちなんてわかるはずがない。
気持ちは、相手に伝えないと伝わらないから。
それに、気持ちなんて相手が勝手に汲み取ってくれるわけがないから。そう思うのは相手に負担を強いる人がやることだ。
だから、先生に伝えなくちゃならない。
自分の言葉で。
「先生、私はね、自己紹介のときに先生に名前で呼んでもらったときすごく嬉しかったの。
先生は、教師としても人としても最低で酷い人間かもしれないけど、私が嬉しくなったことも紛れもない事実だから」
「嬉しくなっているところ悪いが、あれも偽善だ。
俺はみんなの名前と顔とか全部暗記したけど、あれは義務だから。
名前を呼んだのだって、自分を守るため。
喜ばれるべきではないと思う」
「でも嬉しかったの、偽善でもなんでも嬉しかったの」
「…偽善でもか」
「だからそう言っているでしょ、嬉しかったって。ていうか、そもそも名前を呼ぶのに偽善とかないから。
あれは、先生の素の心だと思う。
もし仮にだけど、それが偽善だとしても、それは偽善に救われることもあるということだから」
「…偽善に救われることも…」
「もうどっちでもいいよ、そんなのは。
とにかく、今までも名前を呼んでもらったことはあるけど、それらとは違ったの。
今まではずっとね、名前の前に障がい者って看板があったの。
仕方ないことだとはわかっていたけど、それがずっと辛かったんだよね。なんか遠いっていうか、私を見ていない気がするってね。
でもね、あの時はね、先生に名前を呼ばれたときはね、私はそれを感じなかった。
たぶん、先生が名前を呼ぶときだけ普通に接してくれたからだと思う。
何も思わず何も感じず何の看板もなく、ただ普通に名前を呼んでくれた。
その時思ったの、この先生は今まで出会ってきた先生とは違うって。根拠があるわけじゃなくて何となくの直感だけど。
人によっては、先生のことが嫌いって人もいるけど、私は先生みたいな人も好きだよ。
なんかラフっていうか、家族に近い感じがしたの。それに、わざわざ私たちの名前を呼んでくれたでしょ。
それも嬉しかったよ。
私って生きているんだって、私は確かに存在しているって、私を認めてくれた気がしたの。
目が視えないけど、自分の顔もわからないけど、私の存在を証明してくれた。
たかが名前を呼ぶだけなんだけどね、私にとってはそれが物凄く大切なの。
私を示すものだから。
私の名前は、私の名前でしかない、それ以外の意味はない。
そう思っていたの。
そして、私が望んでいたことを先生は無意識のうちにしてくれた。
だから、私には先生が必要なの。
先生は私に見せてくれたから」
「…そっか…そう見えていたんだな」
「それとね、先生。
私たちの見ている景色や感じたことは、先生にはわからないと思う。
でもね、それと同じでね、先生がどんな景色を見てどんなことを感じているのか、私たちもわからないの。
でも、それを伝えることはできる。
目が視えなくとも、耳が聞こえなくとも、どっちも機能しなくとも人には伝わると思う。
伝える努力を惜しまなければ、気持ちさえ向いていれば。
だからね、先生、さっきも言ったけど、私たちにもっと見せてほしいの。
これから沢山の景色を、先生の感情を。
その代わりに、私たちも先生に見せるからね。
一人だけでは見えないものを…
あとね、もう一つだけあるの。
『人は自分が一番、自分のためにしか生きられない』って言ったことについてだけどね、別にそれを覆すわけじゃないんだけど。
人は、誰かのために生きることが自分の幸せになると思う。
結婚とかもそうだと思うけど、自分のために好きな人とか大切な人を認識して、それを自分の糧というか生きる意味にするんだと思う。
そうやって、自分を幸せにするんだと思う。
…
だから、その、ね、私たちと一緒に生きることを幸せにしてほしい。
そこに、幸せを感じてほしい。
…つまり、そういうこと」
…
…
「せんせー、泣いてもいいんだよ、」
「…そうです、耐えなくていいんです」
「そうよ、私だけ晒すなんて不平等だ。
だから、さっさと泣いてください、見ていてあげますから」
俺はひたすら耐える。
人前で泣き顔を晒したくない、そんなくだらないプライドが邪魔してくる。
それと同時に、俺を助けてくれている。
そのプライドに感謝すべきかそうでないか迷うところだ。そして、迷っている最中には既に涙は引いていった。
「別に先生を泣かせるために言ったんじゃありませんからね。先生と私のためにと思って」
「わかっているよ静間、それにすっごい救われたから感謝している、ありがとう」
「ちーちゃん、今そんなこと言ったら私が最低な人間に見えるでしょ」
「…そうだよ、私も最低な人間に見えちゃうじゃん」
「大丈夫だよ、分かっているよ、俺のためにってことぐらい。
だから、江口と佐山にも救われた、ありがとう」
「まぁあ、わかっているならいいのよ、うん」
「…わ…私もそれならオッケーです」
江口も本当にいい子だ。
俺の罪悪感を消そうとしてくれた。
それに、佐山は江口一人を悪役にしないで自分も一緒になった。
空気が読めるし行動力もある。
俺は幸せ者だな。
「せんせー、私を忘れてはいませんよね」
「もちろんだよ、安心してくれ」
それに今は、実は中山が繊細な子ってことも知っている。
みんなに感謝だな。
ひとしきり感謝してから、浮いた思考を俺の脳がつかみ取る。
『俺はこの学校に来てなかったらどうなっていたのかな』ってことについて。
これも結局、意味が無いことだが考えてしまう。
でもまぁ、今はどうでもいいか。
だって、今が幸せだから、たぶん。
「ねぇ先生、いつまで正座しているの」
そうだった、俺はずっと正座していたんだった。
静間に言われなきゃ暫く気づくことはなかった。
あの時は、自分の情けなさというか自分が空虚に感じて勝手に土下座していた。
普通に考えて、先生に土下座されるなんて生徒からしたら夢見心地が悪くなるよな。
でも、まだ暫くはこの態勢でいたいな。
これは俺のケジメみたいなものだ。
みんなから言われてもこれは譲れない。
今までの自分から変わるために必要なことだから。
つまらないプライドだけど。
「ごめんな、まだ暫くはこ…」
俺の続きの言葉は校内アナウンスによって遮られた。
「ええ、悠太先生、悠太先生、校長室までいらしてください」
その言葉の前には俺のプライドなど存在しない。
校長先生に呼び出されてしまったらそれは仕方がないことだ。
俺は校長先生を待たせまいと早々に立ち上がる。まぁ、想定通り俺の足は痺れているけど立てないほどではない。
「先生、おじいちゃんだね」
江口は俺が立ち上がる姿を見てそう言った。
念のために腰を入れて立ち上がったのが年寄りに映ったのだろう。
それを聞いて生徒たちは笑っているが俺はそれを無視して教室を後にする