52. 決裂。そして?
昭人に襲われた翌日。
昨晩の酒のせいか初の二日酔いで朦朧とした意識のまま、けれども休むわけにもいかないので、講義に出席していた。
体とメンタルはだいぶ痛めつけられたけど、大きな進展を得られたのも事実。疲労と充実感、残ったアルコールによる頭痛がないまぜになって、半ばトリップ気味で受ける講義は新鮮だった。
──そして、それは突然やってきた。
「なぁ矢野。あの噂、本当なのか?」
午前の講義の終わりに、同じ学科の司馬が、やや引きつった顔でそう聞いてきたのだ。
「あの噂……?」
「アニ研で、神崎さんにセクハラしたって聞いたんだけど」
「っ──!?」
瞬間的な驚きはやってこなかった。ただ、じわりと背中に嫌な汗が浮かび、絶望感がゆっくりと押し寄せてきた。
──誰が話したんだ。昭人? エミちゃん? というか、どうしてこのタイミングで? 司馬が知ってるなら、学科内には知れ渡ってるのか?
疑問が次々と浮かび、一瞬、硬直する。
どうにか弁明しなければ、と思ったが、とっさに言葉が出てこなかった。
「お、おい。矢野? なんか言ってくれよ」
そして、その隙は致命的だった。友好的だった司馬の表情が、少し険しくなる。
「あっ……で、デマだよ」
「本当か?」
「もちろん、本当だよ」
「……だ、だよな。お前がそんなことするわけないもんな!」
彼はそう言い残し、遠くから様子を伺っていたグループに戻っていった。そんなことするわけない、と言いながらも、その目が猜疑に満ちていたのを僕は見逃さなかった。
『どうだった?』
『いや……もしかしたら本当なんじゃないか。なんか怪しい反応だったし……』
『でもなぁ、信じられないけど』
『俺もだよ。セクハラするよりされる側だと思ってたんだけどなぁ』
『案外常習犯だったりして。あの見た目で油断させて、とか』
『実質百合だろ、それ……』
とんでもない名誉毀損をされているようだったが、とりあえず意識からシャットアウトする。辛いし。
そのまま周りの視線から逃れるように、早歩きで講義室を後にした。
幸い、その後は司馬のように声をかけてくる人はいなかった。けれども、事態が深刻であることには変わりない。気分は最悪だった。
「それは……不味いことになりましたね」
夕方になり、部屋に戻るとエミリーにそのことを話した。
ちょっとのことじゃ動じないエミリーも、流石に焦っているようだった。基本ポーカーフェイスの彼女だが、珍しく険しい表情をしていた。ツインテも小刻みに揺れている。え、怖。
「実を言うと、ワタシもその噂を聞いたんデス」
「うわぁ……」
ということは、他の学部まで知れ渡っていると見て間違いないだろう。
「お……終わった……さらば僕の大学生活……」
「フッ、諦めるにはまだ早いデス」
「早いって……どうしろっていうのさ。もう詰みでしょこれ」
「ワタシを誰だと思ってるんデスか。大英帝国の頭脳、エミリー・チャーチルとはワタシのことデスよ」
「初耳なんだけどその異名」
大英帝国の頭脳かはさておき、彼女は聡明だ。この状況を打破する考えをポンと出してきても不思議じゃない。いやむしろ、そうしてくれるんじゃないかという予感すら感じる。
僕の期待に満ちた眼差しを、したり顔で受け止めた彼女は……
「いっそ、これから先はユウリとして生活するのはどうでしょう。そうすればいくらユウが変態のレッテルを貼られてもノーダメで済みマスよ」
「わかった。死ぬよ」
「と、というのは冗談で……」
こんな状況で冗談言わないでほしい。
「これはもう、正面対決しかないでしょう」
「正面対決って……」
「あの女とデス。あの女の本性と罪を暴露し、ユウの潔白を証明するのデスよ」
昨日の昭人ととの一件は、今朝、エミリーに話してある。
昭人は潔白だった。いや潔白と言うには語弊があるけど、少なくとも計画的に僕を陥れた犯人ではない。
アザラシ、翔平、昭人はシロ。消去法で主犯はエミちゃんだ。今朝のエミリーも同じ結論に至ったようで、ツインテを逆立ててお隣に突撃しようとするのを必死になって引き留める羽目になった。今朝はそれでなんとか引き下がったものの、今の話を聞いてそれがまた再燃したようだった。
「善は急げ、というやつデス。今すぐにでも隣にカチコミに行きましょう」
けれど、僕は動けなかった。
「……ユウ? どうしたんデスか、いきなり黙って」
「いや……もういいよ」
彼女はそんな僕を不思議そうに見つめる。言葉の意味がまるでわからないといった具合に。
「もういい、とは?」
「これ以上、この件に関わるのはやめにしよう」
「なに、言ってるんデスか……?」
「エミちゃんが犯人で、他のみんなは潔白ってことが分かったんだ。もう十分だよ」
信じられない、という顔。
呆気にとられていたエミリーだったが、意味を理解したのか、半眼で僕を睨みつける。
「……冗談デスよね。今、こうして追い詰められてるのに泣き寝入りしようって言うんデスか?」
「そうだね」
僕も彼女の立場だったら、同じ反応をしただろう。こんな状況になったのに、まだ甘いことを言っているのかと。呆れを通り越して怒りを抱くかもしれない。
ただ、僕だって考えなしでこんなことを言っているのではない。
これ以上この件にエミリーが関われば、彼女にも被害が及ぶ。この件とは無関係とはいえ、今だって悪い噂を流されているのだから。本当にエミちゃんが犯人だとして。これほど悪意ある人間の矛先がエミリーに向けば、どんな被害が生じるかわからない。
それに、僕自身限界だった。試験を控えている今、そんなことに労力を割けば奨学金を打ち切られる結果になるかも知れない。二日酔いで頭も痛い。今すぐにでも勉強とレポートに取り掛かりたいのに、それを許さない状況に耐えられなかった。
「自暴自棄、ってヤツデスね。あまりにも不合理デス」
「……そうかもね。でも、それだけじゃないよ」
彼女は僕が日和ったと思っているようだった。その瞳が、こちらを責める冷たさを帯びる。
「っ……まさか、まだあの女に情があるんデスか?」
「……そんな理由じゃないよ」
「どーだか。ここまで陥れられてもやり返したくないだなんて、普通ありえませんよね」
「それは……そうだけど」
「ほら。もう認めたようなものじゃないデスか。ユウ、この前言いましたよね。未練はないって。……この話、何度目デスか? いい加減にしてほしいんデスけど」
どうやらなにか勘違いしているようだったが、話してもエミリーはまともに取り合わないだろう。
エミリーが心配だからと正直に話しても、どうせ「ワタシのことは気にしないで」とか言うに決まってる。事実、彼女はハイスペックで、聡明で、強い芯を持っていて……嫌がらせを受けたところで少しも問題はないのだろう。そもそもあれだけ多くの人脈を持っているのだから、根も葉もない噂話なんかで彼女の名誉を毀損できるなんて思えない。どれだけエミちゃんが手を尽くしても、彼女を陥れることは不可能だという確信がある。
けど、それでも僕はこれ以上彼女を巻き込むのが嫌だった。今だって、エイル君との関係を僕に隠してまで協力してくれているのだから。これ以上負担をかけたくない。
けど、エミリーはそんな僕の心の内を知らない。
「私はあなたの為を思って言ってるんデス。……いいデスか。誰かを許せるのは美徳デスけど、それも行き過ぎればただの非合理。いや、むしろ、誰かを罰したくないという自分の弱さを隠すため、道徳という概念を利用している……そんな悪徳にすら思えてきマス」
「……」
少しだけ、腹がたった。
こっちの気持ちも知らないくせに、勝手に僕のパーソナリティを決めつけて、偉そうにそれを指摘してくる態度。なまじその分析が的を得ているのがわかるから、余計に心がざわついた。
ただ、僕ももう子供じゃないので、苛立ちを表情に出さないよう、努めて冷静に言い返す。
「それならせめて、僕一人でやらせてよ。エミリーが直接出向く必要なんてないよね?」
「ハァ? 一人で相談もせずに行動した結果が昨日のアレでしょう。危なっかしくて見てられませんよ」
「うっ……」
「とにかく。ユウはワタシの言うことに従っておけばいいんデス」
このままじゃ彼女とエミちゃんは間違いなく衝突する。それが分かっていても止められない自分に、焦りと苛立ちが募る。
「何度も言いマスが、ワタシはユウを思って言ってるんデス。これまでワタシの指示が間違っていたことがありましたか? ないデスよね。黙って言うことを聞いていれば上手くいくんデスから、大人しくしていてください」
「…………」
「まぁ、それが嫌って言うなら止めはしませんケド? あの女と仲良くやってればいいんじゃないデスか」
「っ──勝手なこと言わないでよ」
思わず語気が強くなる。
エミリーはいつも、エミちゃんの話になると不機嫌になる。はじめは親友である僕を傷つけたからだと思っていたけど、明らかにそれだけじゃない。
僕の為、と言っているのものの、何か別の事情が裏にあるんじゃないか? と思わずにはいられないほど、彼女のエミちゃんへの敵対心は苛烈だ。それは……なんというか、僕にとってあまり心地の良いものではなかった。
「確かにエミちゃんのことは好きだったよ? 今も……正直、自分がどう思ってるのかわからない」
「ほら、やっぱり──」
「でも。それとこれは関係ないよ……本当なんだ」
「へぇ。それが本当なら、ここで諦める理由も話せるはずデスよね」
「……」
「やっぱり話せないんデスか? ……語るに落ちる、とはこういう場面で使うんデスかね。親友にすら隠し事デスか。……正直、失望しましたよ」
彼女の言葉を聞いて、自分の中の何かがプツンと切れるような感覚がした。
「……そっちだって、隠し事ばっかじゃないか」
「ハッ、お互い様デスね」
「一緒にしないでよ」
「……ハァ?」
「僕は君に隠し事をしたことはあるけど、嘘をついたことは一度もないよ」
僕は彼女の前では正直でいたかった。だから嘘をついたことはないし、隠し事も……今回のこれが初めてだ。
けど、彼女はそうじゃない。昔からそうだった。彼女は僕の身の上を聞いてくることが多かったけれど、自分のことは一切話そうとしなかった。数年の中で知れたのは住んでいる国と名前、性別ぐらい。いや、それすらも嘘だったから、僕が彼女について知っている情報は本当に少ない。
直接会ってからも、それはあまり変わらなかった。彼女は平気で嘘をついて、本当の自分を徹底的に隠す。
本当は流暢に日本語が話せることも。エイル君の関係も。僕に気付かれないよう、裏で手を回していることも。数日前、エミちゃんに見せた、冷たい本性も。親友と呼んでくれる僕にさえ、それらは隠されたままだ。
これまではそれでもいいと思っていた。別に、彼女が話したがらないなら無理に聞く必要はないし、友人関係を続けられれば満足だったから。
けど──彼女の嘘に気づくたび、まるで自分が信用されていないと突きつけられているみたいで。これまでの関係も、全部作り物の嘘なんじゃないかと疑ってしまう自分がいて。それがたまらなく嫌だった。
溜まりに溜まったフラストレーションが、僕の口を突き動かす。
「……自分の性別すら隠してたくせに、よくそういうこと言えるよね」
「……それ、今関係ありマス?」
「あるよ。ねぇ、騙される僕を見るのは楽しかった?」
「なにを言って──」
「楽しいに決まってるよね。わかるよ。だって、他人を演じてれば自分が傷つくことはないもん。コミュニケーションで失敗しても『これは本当の自分じゃないから』の一言で片付けられるもんね」
「……それは」
なにか不味いことを言っている自覚はあったが、もう止まれなかった。
「僕も女装して分かったよ。他人の皮を被るのは楽だって。どれだけ危ういコミュニケーションをとっても本当の自分に被害が及ぶことはないんだから」
「…………」
「エミリーが羨ましいよ。僕は女装しなくちゃそうできなかったけど、たぶん、君はそういうのを必要としないんだろうね。だからこうして僕と話してる時も、本当の自分をどこかに隠して、上っ面の言葉だけで話してるんでしょ……だから簡単に嘘をつけるんじゃないの?」
彼女の顔から表情が消える。
「ワタシは、そんなつもりじゃ……」
あれだけずけずけと僕にものを言ってきたくせに、自分に矛先が向いた途端、しおらしい態度をとる彼女に余計に腹がたった。
彼女はハイスペックだから、こうやって人から面と向かって批判されたことがないのだろう。批判される辛さを知らないから強い言葉を使えるのだ。そういう点では彼女も昭人と変わらない。
そして……その辛さを知っていてこうして言い返している僕は、一番低劣な人間なのかもしれない。いや、事実そうなのだろう。
「……もういいよ。あとは自分でどうにかするから」
「かっ……勝手にすれば、いいじゃないデスか。別にユウがどうしようと……ワタシの知ったことではありませんし」
「……うん。そうするね」
そうして、逃げるように部屋を後にした。後ろから呼び止められたような気がしたが、振り返ることはなかった。
これでよかったのだ。喧嘩別れのような形になってしまったが、彼女を巻き込まずに済む。
──そう思いながらも、僕の心は鉛のように重いままだった。




