25.実質乙女ゲー(前編)
くすんだ色の外壁に、インクを垂らしたかのようにツタが這っている。ここ―――アニ研の部室があるC棟はかなりの築年数が経過していて、近々建て替える予定があると風の噂で聞いた。
古めかしい扉を開き、エイル君と並んで廊下を進む。
いざ部室の扉の前に立つと、サークルを追い出されたときの光景がフラッシュバックした。思わず体がすくみ上がる。
「っ……」
「大丈夫かい?」
そんな僕の様子に気づいたエイル君は心配そうに問いかけてくる。
「……心配なさらず。大丈夫です」
大丈夫とは言ったものの、自分の手が震えていることに気づく。
もしも自分の正体がバレたら。今度はあの時よりももっと酷い目に合うはずだ。そうなった時、僕は耐えられるのだろうか。いや、耐えるとか耐えられるとかそういう次元じゃない。
文字通り人生が終わる。
でも。
ここで逃げ出したら、きっと彼女は自分でどうにかしようとするだろう。それはなんとしてでも避けたかった。こんなサークル、彼女には絶対関わってほしくない。
とにかく、今更怖気づいたって仕方ない。
大きく息を吸い、吐く。
数回それを繰り返し、部室の扉を開いた。
部屋の中央。長方形の机を連結させたそこに、丸っこい後ろ姿が見えた。どうやら一人だけらしい。
扉の音に気がついた男が振り返る。
目があった。いや、彼の瞳は瓶底メガネに隠されているので視線が交わったのか確証はないけれど。
「び……」
彼はび、と一言発し、そのまま数秒フリーズ。
なんだ。もしや、僕の顔から僕の面影に気づいたのか?
フィギュアの質感から十の位まで値段を言い当てる特技を持つ彼―――部長ならそれぐらいの観察眼を持ってても不思議じゃない。
かといって逃げるわけにもいかない。死刑宣告を待つ囚人のような気持ちで次の言葉を待っていると――――
「美少女キタ━━(゜∀゜)━━!!」
もはや懐かしさすら感じさせるネットスラングを口にしながら、すごい勢いで立ち上がった。衝撃で机の上のペットボトルが跳ねる。
思わず例の顔文字を連想してしまうほど潔い叫びっぷりだった。
……え、ええっと?
「あの……」
「ぬぬっ、面目ない。少々テンションが上がってしまって。テンアゲというやつですな、俗に言う」
「はぁ……そうですか」
早口でまくし立てられ、僕としては相槌を打つことしかできない。
どうやら身バレせずに済んだらしい。ほっと一息ついたら胸膜の動きに合わせてパッドが上下し、ストレスホルモンが体を駆け巡ったのを感じた。こんなんばっかだな僕。
「ととと、ところで。貴女のような美少女がこんなところに何の用でござるか? テニサーなら隣の部室でござるが……」
「え、えぇっと……サークルの見学に来たんですけど」
「見学……とういうと、まさかユウリ嬢でござるか?」
「はい」
僕がそう答えると、彼は再び数秒間フリーズし
「コポォ……」
風呂の残り湯が排水口に吸い込まれるかのような音を出し、それっきり動かなくなった。
「あの、大丈夫ですか?」
「………」
「もしもしっ」
「―――はっ。衝撃のあまりトリップしてたでござる、失敬失敬―――って近いでござるよっ!??」
「あ、ごめんなさい。心配だったので」
「ぬぬぬっ、別に離れて欲しいわけでは……むしろ近づいて欲しいまであるというか。いやでも決して下心があるわけではなく」
「あの、もう少しゆっくり喋っていただけると……」
「これは失敬。拙者興奮すると早口になってしまう悪癖がありまして。や、興奮といっても淫らな意味合いではなく、俗に言う『萌え』……そう、野に咲く花を愛でる感情とでも言いましょうか―――」
不意に、演説が止まる。
彼の視線の先には、僕の後ろ――扉から半身を覗かせるエイル君の姿があった。
「…………」
「どうも。エイルと申します」
部長は僕とエイル君の間で視線を反復横飛びさせ、何かを悟ったかのように真顔になった。
「スッ………フゥー。ハァ………」
「あ、あの?」
「いや別に、知ってたでござる。拙者に優しく接してくれる女性なんて、彼氏持ちで余裕のある人間か、テスト前にレジュメを略奪していくチャラ女ぐらいのもの」
「そ、そうなんですか」
「あ、出席カードを押し付けられたこともあったでござるな……彼氏の合わせて2枚。ややっ、目から汗が」
「…………」
「つまるところですな――――やっぱ三次って糞だわ」
なにやら自己完結し、僕らに背を向けて丸くなった。
エイル君は困惑の表情を浮かべ、助けを求めるかのように僕を見てくる。
僕としては頷き返すことしかできない。
大丈夫。これが平常運転だから。
……そう。彼こそがサークル代表、田中剛三。通称アザラシ。
あだ名の由来はそのまんまで、アザラシのような丸っこい外見からきている。
性格は見ての通り、面倒くさ―――繊細なオタクといった感じだ。
その恵体からは想像できないほど気が小さく、『ござる』とか『ワロタ』だの、絶滅危惧種ともいえるネットスラングを平気で使う。
これは『あらかじめオタクっぽいキャラ付けをすることで相手からのハードルを下げる』という屈折した自意識のなす防衛行動なのか、それとも好きだから使ってるのか。
個人的には呪われてネットスラングでしか会話できなくなった説を推してるけど、真相はアザラシのみぞ知る……。
「お二方。出ていった方が懸命でござるよ。むしろ出ていけ。ここ、アニ研はカップルなどという軟弱な輩が踏み荒らしていい場ではないでござる」
「カップル―――かっ、彼とは偶然出会ったばかりです。そういう関係じゃありませんっ」
なんてこと言うんだ!?
たしかに彼はイケメンだし、初対面の僕を助けてくれるぐらい優しいし、紺碧の瞳は吸い込まれそうになるぐらい綺麗だし、脳の奥が痺れるぐらい中毒性のあるイケボだし、今みたいに普通にしているだけで思わず見入ってしまう雰囲気があるし―――あれっ、なんか鼓動が早いぞ。なんだこの感情。
と、とりあえず。いくらユウリとして振る舞っているとはいえ、僕に男色のケはない。はず。
「それなら安心にござる。もしもカップルなどといううらやま……爛れた関係であったらどうしたものかと」
というか男女が一緒にいるだけでカップル認定とか、どれだけ拗らせてるんだこの人。彼の送ってきた人生を想像すると、一同涙が止まらない……。
「というか、このサークルって内恋禁止なんですか?」
「そういうわけではござらん。ただ……」
「ただ?」
アザラシは困ったように眉根を下げると、仕方がない、といった感じで口を開いた。
「身内の恥を晒すようで気が引けるでござるが……実はこの前、男女関係でいざこざがありまして」
「いざこざ、ですか……」
なんだ、いざこざって。
まさか僕の知らぬ間に、このサークルを舞台にめくるめく愛憎物語が展開されていたなんて……と、そこまで考えて。すぐに僕の件だと気づいた。
「詳細は省くでござる。けれど心配ご無用。諸悪の根源はすでに退部させたでござる」
ふはは、と快活に笑うアザラシ。
うふふと、上品な笑みを浮かべ、相槌を打つ諸悪の根源こと僕。
「ぬぬっ、なにやら肌がピリつくでござるな。もしや政府の電波攻撃が……?」
僕の心の中の「絶対許さないリスト」に追加されたことを知る由もなく、彼は椅子に座り直した。
すると不意に、背後から扉が開く音が聞こえた。




