18.二階堂ユウリの朝は早い(前編)
二階堂ユウリの朝は早い。
まだ薄暗く、鳥たちですら眠りについている明け方。
もう少し、あと五分だけ。そんな誰しもが感じるであろう布団の誘惑を微塵も感じさせない表情で、彼女は洗面を済ませ、ジャージに着替える。
淑女たるもの、日々の鍛錬を欠かすべからず。
一代で莫大な財を築いた祖父の教えに従い、今日も彼女は日課のランニングへ出かける。
距離にして3km。月曜の朝方にしてはハードだが、優等生である彼女にとってはそれこそ朝飯前だ。
午前七時。シャワーで軽く汗を流し、朝食の準備に取り掛かる。
今朝の献立は、アジの塩焼き、ほうれん草のおひたし、それに豆腐とネギの味噌汁。
人工調味料やインスタント食品は使わない。
健全な精神は健全な肉体に宿る。そして、健全な肉体を形作るのは健全な食品である。
最後の大和撫子、と謳われた祖母の教えを忠実に守り、丁寧な調理を続けていく。
それから十数分後。
二人分の朝食が食卓に並ぶ頃、同居人のエミリーがのっそりとダイニングに現れた。寝起きのようで、紺色のサテンパジャマの裾で、眠たそうに眼をこすっている。
「ふわぁ……」
「あらエミリーさん。ごきげんよう」
たとえ親しい仲であっても、彼女は礼儀を忘れない。
優等生としての立場がそうさせるのか、それとも生来の気質なのか。いや、その両方だろう。
そして朝食。
たとえ食事の場であっても、彼女は優等生である。
「あら、エミリーさん。ほっぺに米粒がついていますわよ」
「本当デスか? けど、困りマシたねぇ。両手が塞がってて、自分じゃどうしようも……」
「……どうしてこちらを見ているんです?」
「ユウリは他人想いの優等生デスよ」
「…………」
「…………」
「ま、まったく、世話が焼けるんですから」
可憐な花のような笑みを浮かべ、彼女は同居人の頬についた米粒を払う。
それから少し経って。
周りへの注意を欠かさない彼女は、同居人の箸が進んでいないことに気がついた。
「あら、お口に合いませんでした?」
「ノン。いつもと同じで絶品デス。特にこの味噌スープは飲んでいると幸せな気分になれマス」
「あらあら。お上手なんですから」
「ただ……」
「ただ?」
「両手を動かすのが面倒になってしまって」
「……」
「困りました。お腹は空いてるんデスけど……。あぁ、こんなとき、誰かが食べさせてくれたら。『あーん♡』って感じで」
「……どうしてこちらを見ているんですか?」
「ユウリは気配り上手の優等生デスよ」
「…………」
「…………」
「……あ、あーん♡」
気配り上手の彼女は、同居人の無茶ぶりにも笑顔で答える。
そうして食後。
「エミリーさん、そろそろ大学の時間です。早く着替えましょう?」
「困りました……着替えたいのは山々なんデスが、どうにも体が動かなくって」
「……」
「優等生で気遣いのできる誰かさんが、着替えさせてくれまセンかねぇ……『ほら、ばんざーい♡』みたいな感じで」
「…………」
「…………」
「や……」
「や?」
「やってられるか!」
頭上のウィッグをつかみ取り、それを床に投げつける。
「なにするんデスか!」
「なにするんですか、はこっちのセリフだよ!」
日常生活で架空の人物・ユウリを演じ、サークル潜入へ備える。
朝から黒髪ロングのウィッグを着けて『ごきげんよう』とか歯の浮くようなセリフを言っていたのはその一環だったわけだけど、エミリーがあまりに調子に乗るものだから思わずキレてしまった。
先週の日曜日――始めてからかれこれ二日になるが、未だに慣れない。というかやめたい。
……ちなみに僕の祖父は農家だ。富豪のふの字もない。祖母は最近サンバを習い始めたらしい。
「ねぇ、エミリー」
「なんデス?」
「さては楽しんでる?」
「…………」
じっと彼女の目を見つめる。そらされた。
そのまま無言でツインテールの先をくりくりと弄っている。
「楽しんでるよね? じゃなきゃ、あんなことしないもんね」
「あ、あれは……練習の一環デスよ」
「『あーん♡』と『ばんざーい♡』が?」
「………そうデスよ?」
「今の間、なに?」
こっちから目を逸らし、ぴゅーぴゅーと口笛を吹くエミリー。
絶妙に腹立つ仕草だなぁ……。
「とにかく。さっきみたいな無茶振りしてきたら、アパートに帰るから」
「ヘイ、ちょっと待つデス! そこは『実家に帰らせていただきますわ!』って言うところデスよ」
「うんそっか。それじゃあ実家に帰らせいただきますわ。今すぐ」
「そ、そんな……ワタシとユウリちゃんの甘々新婚ライフはどうなっちゃうんデスか!?」
僕の日常生活こそどうなっちゃうんだ。
─────
今日は月曜日だ。
土曜日は家庭教師のバイトで、日曜日──昨日は練習と称してショッピングモールに連れていかれた。もちろん女装姿で。散々な目にあったので詳しいことは思い出したくない。いつかは振り返る日が来るのかもしれないけど、まぁ当分先だろう。
おまけに朝からあんなハイテンションな会話をしたせいもあってか、体が重い。疲れてる。
けれど大学を休むわけには行かないので、講義には真面目に出席した。
幸い、まだ僕の冤罪は広まってはいないようだ。誰も僕に気を止めないし、噂されている様子もない。
そんなわけで午前の講義が終わり、昼休み。
「ふわぁ……」
あくびを噛み殺しながら廊下を歩く。当たり前だが、となりには誰もいない。ぼっちだ。
けれど、先週のような───孤独感というのだろうか。一人でいることへの焦り、不安は不思議と薄まっているように感じられた。
なんでだろう、と考え、ある可能性にたどり着く。
女装。
女の子の姿で街を歩いた昨日に比べれば、ぼっちで大学生活を過ごすぐらいなんてことはない。
そうか、女装って。精神を鍛える効果もあったのか。
もしかしたら、エミリーはこれを狙って……いや、それはないか。
食堂で昼食をとろうと思い、券売機の前に並ぶ。
ランチタイムということもあり列はそこそこの長さで、なかなか順番が回ってこない。仕方がないので時間を有効活用しようと思い、ポケットからスマホを取り出し『ユウリちゃん日常会話セリフ集:その2』と第されたメモに目を通そうとした──そのとき。
「なぁ、ユウヤ」
不意に、肩が掴まれた。
反射的に『きゃっ』と叫び声を上げそうになるもなんとか抑え込み、それと同時にそこまでユウリとしての立ち振舞が身についていることに安堵と絶望を覚える。死にたい。それもつかの間。振り向いた先にいる男の顔を見た瞬間、息が詰まった。
190cmを超える高身長に、整った目鼻。スタイルの良さも相まってモデルのような外見だが、相変わらずの仏頂面が近寄り難さを感じさせる。
「翔平……」
そこにいたのは、翔平だった。
「ユウヤ。少しいいか」
「……なんの用?」
「話がしたい」
話。
あんな対応をしておいて、いまさらどんな話をするって言うんだ。
僕がサークルから追い出されたあの日。彼が僕に向けた冷ややかな目線。
思い出すだけで、胸が苦しくなる。悲しみと怒り、信頼を裏切られた絶望感。
正直、話なんてしたくないし聞きたくもない。
けど、翔平はサークルの人間だ。もしかすると、なにか情報が得られるかもしれない。
「駄目、か?」
……それに、サークルでは、僕は翔平と一番親しかった。そんな彼が真剣な様子で頼みこんでくるのを、断る気にはなれなかった。
「……いいよ」




