16.家庭教師(前編)
あの後、何度か女声の練習をしてみた。しかし、数十秒話し続けるだけ声がかすれ、それ以上は喉に痛みが走る。
いくら僕に女声の才能があると言っても、今の状態で女声を出し続けることはできないらしい。
才能と能力は別物、と高校の担任が言っていた。
そんな当たり前のこと、今さらなに言ってるんだ、と当時は聞き流していた。けれど、当たり前のこととは得てして重要なものだ。
初めから持っている才能に努力をかけ合わせて、初めて能力は手に入る。
筋トレや勉強もそうだ。
ちょっと腕立て伏せをしただけでスーパーマン並みの肉体が手に入るわけでもなければ、教科書を読むだけでテストで満点が取れるなんてことはありえない。
地道な努力があって初めて、能力が身に付き、望む結果を手に入れることができるのだ。才能とはスタート地点を押し上げる道具に過ぎない。
『変声は反復練習が基本デス。喉を慣らすためにも、空いた時間でこつこつ練習することをおススメしマス』
僕を追い出したサークルに復讐するため。手を貸してくれる親友を裏切らないため。
必ずや女声をマスターし、サークルに潜入する。
そのための努力を怠るほど僕は不真面目じゃない。
練習のための空き時間というのはよくよく探すと転がっているみたいで、たとえば今なんてぴったしだ。
喉に力をこめ、声帯を絞る。そして───
「『お、お姉ちゃんのことなんて全然好きじゃないんだから!』」
「……はい?」
かちゃり。
シャーペンが机に落ちる音。
少女が数学のテキストから視線を上げ、呆気にとられた顔で僕を見ている。
───やってしまった。
過ちに気づき、後悔が津波のように押し寄せてくる。
努力も重要。しかしTPOはそれ以上に重要だ。
ジムで連立方程式を解いてたら奇異の目で見られるだろうし、予備校で腕立て伏せをしようものなら追い出されるだろう。
女声の練習は、家庭教師のバイト中にふさわしい行為か?
───答えは否。断じて否。
「センパイ、なんですか今の?」
「……なんのこと?」
「いや、センパイから女の人の声が」
「僕は男だよ?」
「いやでも」
「気のせいじゃない?」
「……うーん?」
腑に落ちない、といった様子で彼女は首を傾げる。明るい栗色のポニテが揺れた。
対する僕は真顔。これでもかというぐらいのポーカーフェイス。
「でも、確かに聞こえたんですって」
「勉強はストレスが溜まるからね。気のせいだよ」
「気のせいかぁ」
「そうだよ。ほら、まだ問題解けてないでしょ。集中して集中」
「……りょーかいです」
僕に促されるがまま、彼女は手元の問題集を再開した。
あっぶな……。
額の冷や汗を拭い、なんとか誤魔化せたことに安堵する。
彼女がテキストを解いていたからよかったものの、声を出すところを見られていたら僕の人生は終わっていた。いや、そこまで深刻にはならなかっただろうけど。少なくとも、このバイトはクビになっていたかもしれない。
高校の後輩である彼女――佐藤美紀――の家庭教師を受け持つことになったのは、今年の四月。大学に進学してからだ。
高校の後輩である彼女は僕の妹と同級生で、この家庭教師の依頼はそこから舞い込んできた。というのも、僕の進学先を知った彼女の親が美紀ちゃん→妹→僕、といった経路で話を通してきたのだ。
彼女とは以前から少しだけ面識があり、色々な事情があって僕もバイトを探していたので二つ返事でOKした。
土曜日の午後だけの限られた時間ではあるが、時給がいいのでそこそこ気に入っている。
「それより、解けた?」
「なわけw」
「あのさぁ……」
時給はいいんだけどなぁ……。
問題は彼女の性格だ。不真面目。軽い。チャラい。
「問題難すぎてガン萎えなんすけど。てゆーか、休憩にしません?」
「ダメです」
「センパイの堅物ー」
「こっちも親御さんからお金を貰ってるんだから。適当じゃダメなの」
「ぶー」
口を尖らせて抗議する彼女。
ここ数か月間の経験から判断するに、彼女はすっかり集中力を失っているようだった。開始から40程度しか経過していないが、そもそも人間の脳は何十分も物事に集中できるように作られていない。このまま無理に続けても効果は薄いだろう。
「でもまぁ、そうだね」
「?」
「このページが終わったらお茶にしよっか」
「まじ? 約束っすよ」
さっきまでの態度はどこへやら。休憩の約束を取り付けるや否や、精力的にテキストへ取り掛かる。
こうやって作業の終わりを明示してあげれば、少しの間だが人間は気力を取り戻せる。
ノートには数式が書き綴られ、そのまま止まることなく5分ほどが経過し───
「解けたっ」
答案と彼女の回答を見比べる。
「……全問正解」
「やたっ」
小さくガッツポーズ。
そこそこ難易度の高いテキストなんだけど、難なく全問正解するあたり彼女は要領がいい。
この子、地頭はいいんだけどな。ムラがあるというか。気分屋、と表現するのがしっくりくる。
「それじゃ、少しだけ休憩にしよう」
「りょーかいです。んーっ……」
彼女は大きく伸びをして立ち上がり、ベッドに体を投げだした。
「こら、行儀が悪いよ」
「自分の部屋なんだからいいじゃーん」
「そうじゃなくって。ほら、スカート捲れてるし」
「あ、やっぱ気になっちゃいます? 現役JKの太もも」
「いや全く」
そんなニヤついた顔で言われると、興奮よりも腹立たしさを感じてしまう。
というか、年下の高校生、それも妹の友人に欲情するほど僕は見境なしじゃない。
ありえない仮定だけど、もしも彼女に手を出して、それが妹に伝わったら。
考えただけで冷汗が流れる。
「そういえば……ユカはどう。元気にしてる?」
「ユカちん? 元気っすよ。まぁ、最近は生徒会が忙しいっぽいけど」
「そう。ならいいんだ」
ユカ、というのは僕の妹の名前だ。
「……いつも思うんすけど」
「ん?」
「直接聞けばいいじゃないすか。妹なんだから」
「そういうわけにもいかないんだよ。僕、嫌われてるし」
色々と複雑な事情があり、僕と妹の中はあまりよろしくない。まぁ、僕が一方的に嫌われているだけなんだけど。
そんなわけで、近況を知りたいけれど直接聞くことができない。連絡をしても無視されるだろうし、運よく返事があっても適当に濁されて終わりだろう。なので、こうして妹のクラスメイトである美紀ちゃんに聞くことにしている。
「……うーん」
「なに?」
「ユカ、別にセンパイのこと嫌ってないと思うんすけど……」
「いやいや、そんなわけないって。引っ越し直前なんて凄かったんだよ? まともに目も合わせてくれないし」
「そうなんすか」
「そうなの」
今年の3月。大学進学を機に一人暮らしを始めることとなり、荷物の発送やら大学の準備やらで慌ただしい生活を送っていたのだが、あの頃は最悪だった。
妹に何を聞いても「ふーん」という返事しか返ってこない。目も合わせてくれない。RPGのモブでももうちょっと丁寧な対応してくれるんだけどな、
それまでも冷たかったが、あの頃は群を抜いて塩対応だったなぁ。
思い出しただけで辛くなってきた。これ以上考えるのはやめよう。
「そういえば、先輩こそどうなんすか」
「どう、とは」
「大学とかバイトとか……あ、センパイってサークルとか入ってるんすか?」
「入って───る、はず」
「なんすか、その意味深な間」
「……気にしないで」
サークル、と聞いて思い出すのは、やはりアニ研のことだった。
僕を追い出した彼らの顔が脳裏に浮かび、背中がひりついた。
しかし、目の魔の彼女はそんなことする知る由もないので、変わらずに口を開く。
「やっぱテニサーっすか? 酒・タバコ・SEX!みたいな」
「女の子がそんな汚い言葉使うんじゃありません。あと全国のテニサーに謝まろっか」
テニサー=不道徳の塊、みたいなイメージがあるが、あれは半分間違いだ。
大学公認のテニサーではある程度の活動実績が必要だったりするので、真面目に取り組んでいるところが多い。というか、大学に行ってまで参加するのだからメンバーのモチベも高く、中高の部活よりもハードだったりする。
ただまぁ、複数の大学生が参加するサークル(俗にいうインカレ)だったり非公認のテニサーは、優先順位が飲み会>テニスになってる場合が多いのだが。一度もテニスしないとかザラにあるらしい。テニサーとは?
「いやでも、テニサーに限らず大学生ってそういうイメージじゃないすか」
「とんでもない偏見だ……」
「偏見って……違うんすか?」
「僕は、というか半分ぐらいの大学生は真面目に生活してるよ」
「ストゼロ飲んだり……」
「しないよ。未成年だし」
「メビウス吸ったり……」
「しないって。未成年なので」
どこで覚えたんですか、そんな商品名。
「女、部屋に連れ込んだり……」
「そんなことしない───」
瞬間、金髪ツインテールの少女がフラッシュバックする。
二日前の夕方。泣きじゃくる彼女をなだめるため、僕はやむなく部屋に入れた。あれは連れ込んだ、と言い換えることができるのでは?
反射的に口を止めてしまう。
「……しないよ」
「え、したんですか?」
すぐに言葉を繋いだが、今の間は致命的だった。
「してないって」
「したんですよね」
「いやだから、そんなことは」
「部屋に? 女を? 連れ込んで? そのまま朝まで?」
「……朝まで?」
「そりゃもうセッ──」
「──女の子が汚い言葉使うんじゃありませんっ」
少しぐらいためらってくれないかな、ほんと。ここまで口が悪いとJKというよりかはセクハラ親父みたいじゃないか。
「てか、え、マジすか? そんな人畜無害みたいな顔しといて」
「……事情があったんだよ。それに、いかがわしいことはしてない」
「事情? 情事じゃなくて?」
「その『上手いこと言ってやった』、みたいな顔やめてくれない? 腹立つんだけど」
というか、どこでそんな言葉覚えたんだ。この前の現国のテスト微妙だったのに。
「……それを言うなら、今はどうなるの。僕と美紀ちゃんの性別は違うのに、一緒の部屋にいるじゃないか」
「仕事とプライベートは別物っすよ。それなら引っ越し屋とかどうなるんすか? いろんな人の部屋に上がるわけですけど」
「……まぁ、そうだけど」
いきなりの正論にたじろいでしまった。急にIQ上げないで欲しい。
「やっぱ彼女っすか?」
「いや。そういう関係じゃないよ」
「えっ……セフレはマズいでしょ」
「あのさぁ……」
マズいのはお前の頭じゃないか。と思っても口には出さないでおく。
彼女じゃない=体だけの関係、とかどんな論理展開だ。
「その子はただの友人。その……男女関係とか、そういうのは一切ないよ」
「へー……」
「……なにその目は」
「いや、べっつにぃ……?」
「ほんとにただの友人だから!」
だめだ、どうしても言い訳がましく聞こえてしまう。
後ろめたいことはなにもないのだから堂々としていればいいんだけど、ここまで追及されると、まるで自分が大罪を犯したような気がしてくるから不思議だ。
「というか、そんなに驚くことじゃないでしょ。友人を部屋に上げることぐらい……」
「異性を部屋に上げることが普通。さっすが、華の大学生は言うことが違いますねぇ……」
「うるさいな。普通は言いすぎたけど、そこまで追及されるようなことじゃ――」
「それじゃあ、私も遊びに行っていいすか。センパイの部屋」
「え」
突然の提案。
部屋に女子を上げることを正当化してしまった手前、高校の後輩である彼女がした提案を断ることは難しかった。
「……いいよ」
「マジっすか!」
「住所は教えないけど」
「それ無理じゃないっすか!」
平常時なら、まぁ、百歩譲っていいけども。今はエミリーの部屋に住んでるわけだし。下手に約束を取り付けて藪蛇になるのは避けたかった。
その後、どうにかして彼女の追及から逃れることができたが、テキストはほとんど進まなかった。
「ちょ、この課題の量……冗談っすよね」
「頑張ってね。できなかったら親御さんに伝えるから」
「センパイの鬼!」
課題の量を増やなければいけないのは心苦しかったが、まぁ、彼女の自業自得だろう。




