14.エミリー先生のよくわかる両声類講座(前編)
時刻は午後8時。
すでに夕飯を終え、風呂が沸くまであと十数分。
やることも無いのでぼけーっとテレビを見ていると……テーブルの向かい側に、エミリーが腰かけてきた。
「それでは、講義を始めマス」
「……なぜにメガネ?」
「雰囲気デス」
雰囲気ですか。
まぁ似合ってるしいいか。
「というか、いきなり講義ってどうしたの」
「女声の練習をするんデス。女装するにしても、声が出せなければ潜入どころかなにも出来ませんから」
「そのための講義?」
「Yes。エミリー先生の両声類講座、スタートデス!」
りょ、両生類?
カエルとかヤモリだよね。思わずメイド服を着たカエルを想像してしまうが、あまりのシュールさになんとも言えない気分になる。
あれがどう女装に関係してくるんだ。
「む……どうかしましたか」
「両生類って、カエルとかヤモリだよね。僕、苦手なんだけど……そもそも女装に関係してるの?」
「What? …………あぁ、なるほど。ユウ、そっちの両生類じゃないデス」
「えっと……」
「男女両方の声が出せる人間のことを、両声類と呼ぶんデスよ。日本のネットスラングデス」
「そうなんだ……」
男女『両』方の『声』が出せる、だから両声類。納得だ。
「女声を出す方法デスが……それを教える前に、男女の声の違いについて話す必要があります」
「男女の違い……声の高さとか?」
「それもあります。でも、それだけではありません」
声というのは、つまるところ空気の振動だ。喉を震わせるだけの単純な現象。性別が違うからと言って、そこまで複雑な要素が絡んでくるとは思えない。
音の高さ以外になにがあるのだろうか。
「エッジです」
「エッジ?」
「男性が声を出すと、なんというか───ガラガラした音が混じっているでしょう。あれがエッジデス」
試しに声を出してみる。
あーーーー……。
「たしかに……聞こえるかも」
「でしょう」
自分の声に耳を澄ますと、確かにガラガラとした音がかすかに聞こえた。
反対に、エミリーの声はすっとしている。なめらかな感じだ。
なるほど。
人間は肉でできた声帯を震わせて声を出す。金属製の機械と違って、そこには収縮やしなりといった――つまりはノイズのような現象が発生する。
そして、そのノイズは女性よりも男性の方が多い傾向がある。
そういうことだろう。
「女声を出すにはどうすればいいか。わかりますか?」
「声の高さを上げて、エッジを無くす」
「その通り」
エミリーが満足そうにうなずく。
声の高さとエッジ。少ない要素だが、どうやって処理していくのだろうか。皆目見当がつかない。
「具体的には2つの方法があります」
メガネをクイッとし、2本指を立てる。
あのメガネをくいっと上げる動作、かっこいいな。実を言うとあれのためだけに伊達メガネの購入検討している時期があった。
今度貸してもらおっと。
……そんなことはどうでもよくって。
逸れかけていた意識をエミリーの説明に集中させる。
「地声から声を上げていき、後々エッジを消す方法。一般的に地声アプローチと呼ばれます。これが1つ目」
「地声アプローチ」
「2つ目は、裏声を調整し、女声に近づけるというものデス。これは裏声アプローチといいます」
「裏声アプローチ」
「そうです、地声と裏声。2つのうちどちらかを選び、そこから女声に接近するのデス」
「その……地声と裏声アプローチ、どっちがいいの?」
「そうデスね……」
彼女の説明を整理するとこうだ。
地声アプローチは、地声を調節していくこともあって喉への負荷が少ない。けれど時間がかかる上、エッジ処理の手間が多いことがデメリット。
対する裏声アプローチは、高い声からスタートするので短時間の習得が可能。それにエッジ処理をする必要がない。けれど裏声を上手く出せない人も多くいるので、万人受けする方法ではないらしい。
どちらも最終的に出る声に差はない。なので、個人の適正によって使い割るのがベスト。とのことだった。
「基本的には裏声のほうが楽デスね。エッジを消す手間が少なく済むので」
「じゃあ、そうしようかな」
「それなら、どんな感じの裏声か確認する必要があります。いいですか?」
彼女に支持され、裏声を出す。
日常生活で裏声を使うことなんてないので、少し息苦しい。
そのまま一言、二言ほど喋ってみる。
「ど、どうだった?」
「……!? …………!!! ………!?」
「あの、もしもし?」
「……! ……がふっ、ごほっ、えほっ!」
「え、エミリー!?」
目を大きく見開き、口を金魚のようにパクパクとさせたかと思ったら、突如としてむせ始めた。
急いでキッチンに向かいコップに水を注ぎ、エミリーに飲ませる。
「ありがとうございます。少しむせてしまいました」
「ならいいんだけど……それで、どうだった?」
「……元の声質からして、もしかしたらと思っていたのデスが……想像以上でした」
「というと」
「ほとんど完璧デス。あとは声量を上げていけば、実戦レベルになると思います」
「本当!? やった!」
「むぅ、教えがいがないデスね……」
彼女が言うに、本来はここで声帯の絞り方や吐息の混ぜ方だったり、いろいろと調整が必要になるらしい。
「才能ありマスよ、ユウ」
なんだろう。嬉しいは嬉しいけど、素直に喜べないなぁ。
「とはいえ、始めたばかりでは出せる音域に限りがありますから。それに喉の耐久力を増やすためにもボイストレーニングは欠かせません」
運動不足の人間が全力疾走をすると心臓に負荷がかかり、体にダメージを負う。喉も一緒で、普段裏声を使わないのに酷使すると潰れてしまうらしい。
適度に練習し、耐久力を増やすことが大切と彼女は説明した。
「というわけで、練習デス」
「なにをやるの?」
「ワタシのセリフを復唱してください。もちろん裏声デス」
「わかったよ」
「それじゃ、いきますよ───おはようございます。今日もいい天気デスね」
「えっと――『おはようございます。今日もいい天気ですね』」
「こんにちは。お昼、一緒にいかがデスか?」
「『こんにちは。お昼、一緒にいかがですか?』」
「こんばんは。エミリーお姉ちゃん、一緒にお風呂入ろ?」
「『こんばんは。エミリーお姉ちゃん、一緒におh───って、ちょっと待って。おかしくない?」
どさくさに紛れてなんてこと言わせるつもりだ。
「ユウ、トレーニングの途中デス。真面目にやってください」
「えっ」
「これは女装の練習デス。当然、セリフも女性が口にするものでなければいけません」
「そ、そうなの?」
「喋る言葉が男のままで、女声が出せますか? 否。そんなこと不可能デス」
「不可能なんだ……」
それにしてはセリフの内容がおかしくないかな。
「喋る言葉だけでなく、心も女性になりきるんです。いいデスか、ユウ。あなたは今、ワタシの妹デス」
「いや、僕は男だけど」
「シャラップ! 『僕』じゃなくて『私』! 学校では真面目で清楚。けれども実はお姉ちゃんっ子で、家では甘えん坊──そんな妹になりきるんデス」
「えぇー……」
やけにキャラ設定細かくない? ちょっと怖いんですけど。
でもまぁ、一理ある……か。サークルに潜入するときは、当然口調も女子になるんだし。そういう時、いちいち頭で考えて女子言葉に変換していたらボロが出てしまう。だから架空の人物になりきる───手段としては間違ってはいないように思える。
「エミリーお姉ちゃん、一緒にお風呂入ろ?──はい、復唱っ」
「うぅ……え、『エミリーお姉ちゃん、一緒にお風呂入ろ?』」
「そうですか、ユウがそう言うなら仕方ありませんね」
「ちょっと待って。なんで脱衣所の方を向いてるの」
「? 入るんでしょう、お風呂」
「入らないよ!? キャラ設定って話でしょ!」
「ちっ」
最近、同居人が怖い。




