12.邂逅(前編)
「ふぅ……」
靴を履き、玄関を出る。
時刻はもう夕方で、マンションの廊下には夕日が差し込んでいた。真新しい大学のキャンパスが夕日に照らされ、キラキラと輝いているのが横目に見える。
エミリーは財布を探しているらしく、まだ部屋の中だ。
仕方がないので壁にもたれかかり、彼女が来るのを待っていると───
「あれ、悠弥くん……?」
不意に、呼び止められた。
聞き覚えのある声。
振り向くと、そこには黒いワンピースの少女が立っていた。人形のように真っ白な肌と、幼さの残る顔立ち。黒曜石のような瞳は、不思議な光彩を放ちながら目の前の僕を見据えている。
「エミ、ちゃん」
『また脅されたら嫌だし……』
昼間の彼女の態度を思い出し、焦る。
彼女は僕を性犯罪者だと思っている。もしかしたら、大声で助けを呼ばれるかもしれない。
僕の焦燥をよそに、彼女の小さな口が開く。
「どうして、ここにいるの?」
攻めるような口調ではない。ただ友人がいたから話しかけた。そんな雰囲気だ。
緊張が弛緩する。
それと同時に、困惑が頭を満たす。
どうして話しかけてきたんだ。彼女からしたら僕は性犯罪者で、話しかけたくもないはずなのに。
「……エミちゃんこそ、どうしてここに」
「私、ここに住んでるの。話さなかったっけ」
そういえばいつか、学生寮に住んでいる、と話していた気がする。
「悠弥くんは、どうして? 寮住みじゃないよね」
「友人に用があって……」
「友人って……翔平くん?」
そんなわけないだろ────思わずそう言いたくなったが、すんでのところで抑える。
翔平は僕に失望し、あれ以来連絡してこなかった。もちろん、僕からもしていない。
そんなこと、ちょっと考えればわかるはずだ。
エミちゃんは被害者だ。けれど、昭人の言葉を鵜呑みにした彼女にも問題はある。いつも僕を癒してくれていた彼女の天然さに、少し腹が立った。
「……別に誰だっていいでしょ」
ささくれだった心から、突き放すような言葉を口にしてしまう。ちくりと胸が痛んだ。
「……やっぱり、怒ってる?」
「は?」
「昼間、あんなこと言っちゃって。それに、この前も部室で……」
申し訳なさそうに、顔を伏せる彼女。
なんでそんな顔をするんだ。昭人の言うことを真に受けて、僕のことを責めていたはずなのに。
ただただ困惑する。彼女がなにを考えているのか、さっぱりわからない。
がちゃり。扉が開く音が、背後から聞こえた。
「……ユウ?」
振り返ると、エミリーがいた。
「エミリー。財布、見つかったんだ」
「そんなことはどうでもいいデス。それより……」
ちら、と僕の顔を見てから、エミちゃんに視線をやる。
すると、一瞬で表情が切り替わった。
底冷えするような真顔。感情というものが一切感じられない表情で、エミリーは目の前の彼女を睥睨する。
「えっ……悠弥くん、この人と知り合いなの?」
当の彼女は、そんなエミリーの様子を気にしていない───というか気づいていない様子で僕とエミリーを見比べ、ただただ困惑している。
「それに今、同じ部屋から……」
僕とエミリーは、大学で全くと言っていいほど交流がなかった。そんな僕らが同じ部屋から出てきたのだから、彼女が驚くのも無理はない。
「ユウ、行きましょう」
ぐい、とエミリーに引っ張られる。
「すこし待ってよ。エミちゃんもいるし───」
「いいデスから。買い出し、行くんでしょう」
そう言う彼女の声音は、どこか不機嫌そう―ーいや、明らかに不機嫌。怒っている、といってもいいかもしれない。無表情とは裏腹に、強い情動が感じられた。
思わず、開きかけていた口が閉じる。
「ちょっと、悠弥くん!」
背後から、僕を呼び止めるエミちゃんの声が聞こえた。けれど、エミリーの足は止まらない。僕の腕を掴んだまま、ずんずんと廊下を進んでいく。
少しためらう。
しかし結局、僕は振り返ることなく寮を後にした。
──────
「ちょっと」
「…………」
「ちょっと、エミリー?」
「……なんデスか」
「どうしたの、そんなに怒って」
寮から5分程度歩いただろうか。僕らは駅方面のスーパーへ向かう道を進んでいる。
「あの女、神崎恵美デスよね」
「知ってるの?」
「ユウと話しているとこと、何度か見てましたから」
僕はエーミールにサークルメンバーの話をしていた。そこには当然エミちゃんも含まれている。なにより告白の一件があったので彼女がエミちゃんのことを知っているのは当然だ。
しかし、外見まで知っていたとは。同じ大学に通っているのだから当然かもしれないが、少し意外だった。
「それがどうかしたの?」
「ユウは、あの女を見てもなにも思わないんデスか?」
「そりゃ……思うとことはあるけど」
腹が立たないのか、という意味だろう。
彼女はサークルメンバーで、僕を追放した一人でもある。
「そのわりに、話足りない、といった感じデシたが」
「それは……向こうから話しかけてきたんだよ。別に好きで話してたわけじゃない」
「……まだ好きなんデスか?」
「え」
「あの女のこと」
エミリーは僕の腕を掴んだまま、前に進む。
その顔を見ることはできない。ただ、不機嫌であることは声音からわかる。
「そんなこと――」
───ない、と言おうとした。けれど、そこで僕の口は止まった。いや、反射的に止めてしまったのだ。
僕は彼女の対応に腹を立てている。僕が犯人であると決めつけ、食堂であんな反応をしたのだ。それは許せない。
けど。僕は心の底から彼女を憎み切れていない。それもまた事実だった。
「……どうして黙るんデスか」
エミリーが振り返る。
彼女の口は堅く結ばて、瞳は細められている。納得いかない、説明してよ、とでも言いたげな顔。
「……まだ、心の整理がついてないんだ」
僕は彼女が好きだった。けれど、ここ数日でその思いは薄れつつある。
しかし、こうも思うのだ。
彼女は周りに流されているだけで、本当に僕のことを嫌っていないのかもしれない、と。
彼女はおっとりしていて、天然で、自己主張が激しいタイプじゃない。昭人や周りのメンバーの勢いに押されているだけで、あれが冤罪であることに、うすうす勘づいているのではないか。そんな淡い希望が、僕の胸にはあった。
そう思うと、彼女を完全に嫌いになることはできなかった。
「……そうデスか」
エミリーはそう呟くと、それ以上追及してこなかった。
納得してくれたのだろうか。
「あの、エミリー」
「……」
「脇腹、痛いんだけど」
無言で脇腹をつねられる。
結局、寮に帰るまでエミリーは返事をしてくれなかった。




