春の嵐と恋の風【78】
更新日が間に合わなくて、ズレてしまいました。
ご迷惑をお掛けします。
本日は、シルヴァス視点のみです。
シルヴァスは、いつ挙げても良いように準備をしておいた精霊界での結婚式を終えて、ようやく現世に戻ったと同時に疲れて眠ってしまった新妻のあどけない顔を悠然とベッドに横たえてから、目を細めて眺めていた。
先程まで里帰りの為に精霊そのものだった姿は、今は普段通り『現人神』のシルヴァスである。
パッと見ても非常に見目が良いというだけのただの人間で、ハーフっぽい茶髪のお兄さんだ。
色々と一段落したばかりのシルヴァスは、シャワーを浴びてからスウエットに着替え、カヤノの眠るベッド近くに椅子を移動させて、眠るお姫様の姿を堪能しつつ、水割りに口付けていた。
何となくウィスキーな気分で、今日の終わりに自身に向かって『お疲れ様』を呟く。
精霊界では葡萄酒ばかりを勧められたから、ワインな気分ではなかった。
今日は、正式な精霊界の夫婦として認可された記念すべき日の為、そのまま現世の自宅には帰らず、少し贅沢なホテルに部屋を取った。
少なくはない金額を請求されるその部屋は、最上階にほど近く、壁の大半を占める大きな窓には、大和皇国最大都市の夜景が、もう遅い時間だというのに宝石をちりばめたように広がっている。
「人間はすごいな。無力かと思えば、下手をすると地上を星空より煌びやかに変えてしまうのだから。」
人間の街の灯りは好きだが、大昔から比べるとこの煌びやかさは、美しい精霊界の者ですら魅了されて目を瞠るとシルヴァスは唸る。
今日は当然、新婚初夜となるのだから、それなりの部屋をと思い、空きがあるというのでロイヤルスイートを用意してもらったのだが、すぐに新妻に眠られてしまっては特に意味はなかった。
この美しい夜景も、今日は二人の間でロマンチックさを演出するのに、役に立ってもいない。
それでもシルヴァスは、別段勿体なかったとは思わない。
それどころか、何日かここに滞在して、カヤノに新婚気分を感じさせてやるつもりでいる。
その為にも、滞在期間を考慮して、それなりの広さと書斎を完備しているこの部屋が妥当だと判断した。
「明日になれば、カヤノも夜景に目が行くだろう。今日はホテルのフロントに着いて早々、目を何度も擦っていたからな…。」
ハネムーン旅行などは、彼女の体力と神力が完全回復をしてから考えるので、せめて気持ちだけでも先に、しっかり自分達が男女の仲になった事を知らしめてやりたいと、シルヴァスはホテル泊を決めた。
カヤノが冥界から戻って来る予定だった日。
用意していた夕食の生ものや作り置いたテーブルの料理は、先程、彼女が眠りについたのを見計らい、颯爽と自分一人で処分しに戻り、ついでにしばらく家を空けても良いように冷蔵庫の中身の処理や着替えをいくつか持って来たので、これから数日は何も心配なく非現実的な空間でカヤノと睦み合う事ができる。
真に勝手ながら、元・上司の尻拭いで取りたくても取れずに溜っていたリフレッシュ休暇を強引にもぎ取る連絡も、既に職場に入れてある。
クシティガルヴァスも休んでいるそうで、連絡がつかなかったので、急遽、後輩に頼んでおいたのだが…。
「クーガ、最近やけに疲れてたからな…。確かに相棒も僕もそろそろ纏まって休んだ方が良かったのかも。家に戻ってからは、しばらく慌ただしくなるだろうし。」
シルヴァスは今、住んでいる自宅を近々処分するつもりだった。
だから、ホテル暮らし明けは、その準備などで忙しなくなるのが予想される。
住処を新しくするのは、お嫁さんになったカヤノに心機一転させて、関係性が変わった事をわかりやすく実感させてやりたいからだ。
行動の早いシルヴァスは、既に何件か新しく住み替える家の候補も用意してある。
「カヤノの体調が安定したら、本人にどこがいいか選ばせるとしよう~。」
シルヴァスはカヤノの反応が楽しみだと、また水割りを一口飲んだ。
「それにしてもよく眠っているな。寝返り一つ打たないよね、僕の眠り姫は…。」
物音を立てようが、触れようが、全く起きないカヤノが、ここまで疲れてしまったのは仕方がない。
シルヴァスにとっては常日頃から予定していたものでも、彼女にとって今日の結婚式は、酷く急ぎのモノだったのだ。
冥界で拉致られ、救出後目覚めた途端、速攻で自分のプロポーズを正式に受けさせ、その足で学校に卒業証書を受け取りに行き、その日のうちに式をあげて、精霊王に精霊界の仲間入りを認めさせて来たのだ。
いくら用意周到にしていたとしても、こんな短時間でそれらを全て集約してしまう事自体、風の精霊ならではの所業で、常識的にはあり得ない話だ。
自分に最初から最後まで運ばれているとはいえ、つき合ったカヤノが疲弊するのも当然である。
加えて、冥界での事件でカヤノは今、神力も体力も極端に落ちていた。
本来ならば、現人神の医師に元へ直行して、神力回復の施術を行ってもらわなければならなかったのだ。
「プロポーズにも感動してくれて…考えてみれば、よくここまで文句の一つも言わずにつき合ってくれたなぁ。まあ、僕がカヤノに文句を言う隙を与える間もなくコトを進めてしまったんだけどね…。」
シルヴァスは少しだけ悪びれた表情を演出しては、実際は少しもそう思っていない事がわかるように、クスリと笑んだ。
カヤノは大和皇国系統の現人神なので、神力の質もそれに沿った回復方法があった。
施術に使う術式も、本来は同系統の現人神でないと組み立てられないだろう。
だが、今のカヤノはシルヴァスの花嫁になったのだ。
つまりは大和皇国の現人神でありながら、精霊の花嫁になったのである。
精霊王の正式な契約承認の元、精霊界の者になったカヤノならば、神力の減退もシルヴァスの力で治す事ができる。
何の事はない…自分の力を分けて、少しの間、共有してやればいいだけだ。
正式契約で、お互いの寿命を分け合った夫婦ならば、力の質も強い方に引っ張られる。
つまりカヤノがシルヴァス寄りの存在になったのである。
一応、念の為、明日、現人神の医師に診てもらう予定だが、現世に戻ったと同時にシルヴァスは、カヤノに精霊用の回復呪文と施術を行っていた。
そのくらいなら、医者でなくても、力のある精霊であるシルヴァスにもできる。
効果はすぐに表れ、元々、目を擦っていたカヤノは、すぐに眠りの世界に誘われてしまった。
回復系の施術は、疲れ具合やダメージの大きさによって、非常に眠くなってしまうのだ。
しかし、目覚めた時には、かなりの神力と体力の回復が期待でき、スッキリとしている筈だ。
シルヴァスは、そっとカヤノの黄土色の髪を撫でて前髪を上げ、控えめで肉感的な可愛らしい唇に指先を這わせた。
「カワイイなぁ。初夜だって言うのに…しばらくお預けなのが辛いよ。けど我慢だ。カヤノに負担を掛けたくないからね。色々、飛ばして連れまわしちゃったし…これ以上無理はさせられない。」
カヤノを連れて精霊界に降り立ったシルヴァスは、過去に持ち出した賭けの一件と同時に、精霊界の凄腕デザイナーに依頼していたウエディングドレスを取りに行った。
カヤノは簡単にウエディングドレスが用意された事に、精霊界のデザイナーはスゴイと感激したようだが、何の事はない…シルヴァスが前から注文していただけなのである。
その事はカヤノには言わず、シルヴァスは黙って笑顔だけでやり過ごした。
カヤノには内緒にしていたが、魔神の一件で助け出したカヤノを連れ帰ってから、シルヴァスは既に(嫁入り道具以外にも)彼女を娶る用意を着々と進めて来た。
ウエディングドレスの用意もその一端である。
精霊の花嫁が誰でもウエディングドレスを使用するわけではないが、自分の人間界育ちの可愛らしいお嫁さんには、できるだけ人間の女の子の理想に近い式を挙げてあげたいと思ったのだ。
カヤノは自分が現人『神』である事を誇張し、それを目指して学校でも学んできたので、自分の人間らしさを否定する節があるが…シルヴァスにしてみれば、神に愛されてその力を受け継いだ可愛い人間のお嬢さんである。
いくら本人が、自分は現人神だからと言っても、きちんと人間のお嬢さんが憧れるようなストーリーを再現してあげたいと思うのは、精霊騎士として、人外の夫としては当然の事ではないかと思う。
良い意味でも悪い意味でも欲望に素直な純・精霊のシルヴァスは、好きな子を蕩かしたいとか愛したいという欲求にも正直だ。
結果、人間や己を律するタイプの神の系統である現人神から見ると、底知れず愛する妻に甘くなるどうしようもないデレ夫になろう事が確実だ。
(恐らく、まだ妻も知らぬ性癖も二人の時は全開になるだろうが…。)
シルヴァスは、今日の一日を振り返って、カヤノの満足度を分析しつつ、今後の彼女に対する甘やかし対策について思いを馳せる。
「絶対にドロドロに溶かしこんで、僕がいないとダメになってもらおう。今までずっと自立や僕から離れようとばかりして足掻いてたし…ようやく降参してくれたみたいだけど、これを機に二度とそんな考えを持てないように、色々と対策を強化しておかないとね。」
シルヴァスは、まずはカヤノに自分が思いっきり幸せであるという満足感を集中的に与える事にした。
ようやくここまで来たのだ。
ちょっとイジメて泣かすのは、すっかり自分の事を受け入れてくれた彼女を腕の中でたっぷりの信用と安心感を抱かせた後だ。
そうでないと、カヤノの思考はまた明後日の方向を向いて、自分が愛されていないとでも勘違いする可能性がある。
自己評価が低いカヤノに必要なのは、自分に彼女自身が深く愛されているという実感を不動に持ってもらう事なのだ。
「本人も僕に甘やかされて、自分がダメになるって事に本能的に怯えている節があったみたいだけど…余程、度重なる怖い思いで打ちのめされたんだね。そんな正常な感覚も麻痺してしまったんだろうな。諦めて僕のモノになる覚悟をしてくれたようで良かった。」
そう自身で頷きながら、再び本日の結婚式をシルヴァスは思い起こしてみる。
カヤノの知り合いは一人として参列する事のできない式だったが、初めて会う精霊王と精霊界の美しさに息を呑むカヤノは、恐らく人間界の教会や式場で挙げる式よりも満足してくれたのではないかと自負している。
祝福や参列者においても、お祭り好きな妖精達がこぞって呼んでもないのに集まってきて、カヤノを歓迎したので彼女も寂しい思いをしてはいない筈だ。
式は精霊界で瞬く間に行われたが、今後、落ち着いてきたら人間界でカヤノの好きなように披露宴を催してやろうとシルヴァスは既に画策している。
今度はその日限定で、冥界のハルリンドやアスター達を始め、カヤノの知り合いを好きなだけ招待してやるつもりだ。
「さて、後は明日、医者に連れて行ったついでに統括センターへカヤノの卒業証書のコピーと各種証明書を提出して来よう。そうすれば、カヤノが本格的な回復と同時に僕達の新婚ライフを本当の意味でスタートできるし。」
シルヴァスは相変わらず猫のように両目を細めてニッコリとした。
大変ではあるが、カヤノとの将来を考えれば、顔が緩むのを抑えられない。
精霊界では、シルヴァスの嫁になった事を認知されたカヤノだが、まだ人間界にいる以上、現世の現人神社会でも夫婦になる手続きは必要だ。
一般的に婚姻が認められる為には、現人神統括センターに結婚届を提出すればいいだけなので、人間社会と変わらないが、現人神社会では一時保留制度という制度がある。
女性の少ない神様社会では純人間の花嫁を娶る場合以外は、現人神も同様に数の少ない現人神女性をゲットする為、相手がまだ籍を入れられない年齢でも婚約をする場合が多い。
少しでも花嫁に逃げられたくない男性側が、本人の同意さえあれば結婚できる事を逆手にとり、判断力の乏しい小さなうちに本人の了承を得て、相手の両親を口説き落として婚約に持ち込む。
そして、この一時保留制度を利用してセンターに結婚届を先行して提出するのだ。
相手の両親を口説かなければならないので、基本、それなりに力や地位のある現人神にしかできない芸当ではあるが、一時保留制度は結婚年齢が満たない相手…もしくは正式に現人神養成学校卒業をする前でも結婚届を受け付けてもらえる制度なのだ。
これは、正式な婚姻が認められるわけではないのだが、一時的にセンターで届け出を預かり、女性側の年齢が満ち、養成学校卒業資格を得て晴れて一人前の現人神と認められると、自動的に婚姻届けが受理されるというシステムなのだ。
届け出の書類には、最初からその時期が来ると婚姻届けとして提出される術が施された特殊な契約用紙を使用しているので、一度出してしまえば再確認や手違いで未提出になるような事故もない。
このシステムを利用できる資格は、お互いが同意し婚姻届けに自筆でサインを入れられることが条件で、親の代筆は認められない。
だから、どんなに小さくても自分の名前を最低限自分で書けなければ婚約は成立しない。
逆に言えば、仮に幼児だろうが、自分の正式な名前さえ書ければ、契約する事ができてしまうのである。
つまり、悪い現人神のおじちゃんが、娘の両親をたぶらかしてしまえば、あとは娘におもちゃやお菓子で釣ってサインさせるという事も起こり得るのである。
とはいえ、現人神の親は自分の娘が不幸になったり、不利になるような結婚は望まないので、それを承諾するのは、結果的にかなり好条件の相手という事になり、今までに問題になる事件は起こっていない。
相手の男だって、小さいうちから娘に自分が婚約者だという事を刷り込んでいるのだから、それなりに娘も好意を持つようになるし、男は本人の知らぬ所で周りの他の男を牽制し、両親に甘やかされて育った少女が成人して18歳やそこらになった所で、自分から婚姻届けを破棄する手続きをしに行くという気転など利かない場合が多く…気付いたら嫁になっていたというケースの方が圧倒的に多い。
一時保留制度は、登録機関中にどちらかが婚約破棄をセンターに申し出れば、届け出を止められるのだが、成人し、現人神として一人前になるまでの間と言うのが曲者で、本人が一人前になったと同時に受理されてしまう為、うかうかしている間に時が過ぎ、女性が気付いた頃には既に夫婦として婚姻が成立してしまっている事が多い。
そして、神の婚姻には基本、離婚という概念がない!
つまりは一度結婚してしまえば、こっちのものなのである。
とはいえ、本当に深刻な問題がある場合は、離縁への道が全くないわけでもない。
ただ、滅多に神様同士の離縁は存在しないというだけである。
それに余程、夫や妻の他に愛する者がいて、どちらかにはめられた形で夫婦にでもなった場合くらいしか離婚が認められないのだ。
その場合は縁切りの神が活躍してくれるので、お互い二度と顔を合わせる事もなくなるのだが、一般的に神様もしくは現人神は、男も女もそれなりに魅力的なので、一度一緒になった者がどうしても嫌だと思う事は実際には少なく、結ばれた場合は縁を大切にする方が圧倒的に多い。
そう言う事情で、強制結婚に及んだ女性現人神なども、案外、結婚後はうまく行っているケースが多いというのも否めないのである。
「まさか、カヤノは自分がこの制度を利用しているなんて、露も知らないだろうねぇ。いや、制度そのものを知らないかもなぁ。養成学校では女子にはこの辺の教育しないから…。」
つついても起きないのを良い事に、無邪気な姫君の寝顔にキスを落として、シルヴァスは言う。
酒臭いキスなど、気持ち良く眠る新妻にすべきではないとわかっているというのに…基本、酒に強くない精霊様は、少々ウィスキーが回ってきたようだ。
カヤノに神力を供給する為に、自分の力を分け与えまくったのも、酔いの速度を上げる理由としては大きいだろう。
「はは。もう酔って来たかな?ちょっとフワフワして楽しくなって来た。僕も全く疲れていないわけじゃないからな。水割りにしたのに…酒に関しては、本当に僕ってもとが取れる体質だよねぇ。」
シルヴァスがまんまとカヤノに『賭け』を持ち出した日。
カヤノは迷った挙句、シルヴァスにうまい事のせられて、賭けを了承し、内容の確認もしていない真っ白の書類にサインをしてしまった。
精霊である自分が出した文字のない紙など、相当、妖しいと察している筈なのにも拘わらずだ。
それが、一時保留用・婚姻届けだったのである!
まさか、シルヴァスもカヤノがこんなにあっさりと白紙の書類にサインするとは思わず、本気で自立するなどほざいている養い子を酷く心配したものだ。
『愚か!』の一言に尽きる…と。
最初は渋々引き取った単なる保護対象の子供だったカヤノだが、同居が始まると弱々しい少女は、シルヴァスにとって可愛くて仕方なく、純粋培養してしまった自覚はあったものの『ここまでだとは…』と、いよいよ自分の手元から離す事など爪の先程も考えられなくなった。
シルヴァスは、賭けの書類が白紙である事に関して、カヤノから抗議や質問を受けると思っていたのだ。
その後に、勿体つけて『仕方がないなぁ』とでも言いながら、賭けのルールに関して説明した文字を浮かび上がらせて見せるつもりだった。
最初から、きちんとした書類を見せれば、相手は疑いを持ってその書類を念入りにチェックするが、そもそも白紙の書類を『契約書だよ』と出せば相手は憤慨し、その後にきちんと文字の書かれた状態の物を用意する事で一度頭に血が昇った後もあり、二度目の書類に関しての警戒心が減るからだ。
要は相手の腹を立てさせてから、まともな書類を出して、イライラを利用して冷静さを失った状態で書類に向き合わせる為のパフォーマンスだったのだ。
それなのに…そのパフォーマンスの状態の書類に、一度は疑った筈の自分を信じて白紙の書類にサインをしてしまうカヤノに関し、シルヴァスは焦りと同時に完全に自分の物にする事を確定したのである。
「ボヤボヤしていたら大変だと思ったもんなぁ…事実、ちょっと泳がしただけで、カヤノは色々やらかしてきたもんね。本当に危なっかしくて目が離せない。」
自分の目の届く所にいた間は良かったが、サルマンの家に世話になり始めたと同時に冥界に行ってサメの魔神に攫われそうになったり、賭けの最中だとう言うのに、約束を破って自分に何も言わずに統括センターにやって来ては、バイト先で目を付けられた因幡大巳から違法記憶処理の医療行為を受けたり…そこから、色々と振り回されたのだ。
常識的には、バイト先の人間と一緒にどこかに行こうが、カヤノの年齢を考えればおかしくないのだろうが、シルヴァスはカヤノを一人で遠出させた事などなかった。
どこかに行きたいのであれば、冥界にだってどこだって、近隣以外は自分が同行して連れて行ってやるのが当たり前だったのだ。
カヤノは大人しい性格な上に、精神的なトラブルまで抱えていたのだから、そうしないと心配だった。
だが、サルマンからしたら、ティーンエイジャーが保護者付きでなければ、どこかに行った事がないなどとは露も思っていないのだろう。
だから、シルヴァスに冥界行きに関して、連絡一つ入れなくても、何の後ろめたさもなかったのだ。
その結果はどうだ?
シルヴァスは、カヤノを今まで一人で外に出さなかったのは、正解だったのだと実感したのである。
元々、シルヴァスとカヤノとの間に行う事になった賭けは、シルヴァスが負ければカヤノを自由にし、勝てばカヤノが自分のものになる事を確約するものだった。
そして、シルヴァスは、その際の賭けの契約書類にピッタリと貼り付けて…婚姻届けをカヤノに書かせたのである。
実は賭けの書類には、最初から三枚の紙が重なっていたのだ。
一枚目が一時保留用・婚姻届けで二枚目が複写の為のカーボン紙、三枚目が賭けの契約書。
精霊の魔法で、三枚は一枚に見えるようにピッタリとくっついていた。
しかし、目利きの現人神なら、ちょっと見れば見破られるので、最初、サイン部分以外は、精霊の悪戯を装って書類が白紙に見えるようにしていたのである。
カヤノがそこに気を取られてくれるようにだ。
もし、ここで指摘をされれば、一枚目と二枚目を透明にして見せ、三枚目の精霊の契約書の文字だけを浮かび上がらせて見せるというトリックを使うのだ。
精霊の契約書は、瞬時にシルヴァスが書いたものなので、サインの位置は婚姻届けと全く同じ位置に来るように模してある。
そうとは知らないカヤノが一枚目の婚姻届けにサインをすれば、間に入っている二枚目のカーボン紙が擦れて三枚目の精霊の賭けの契約書にもサインが施される。
婚姻届けは正式な書類で、ボールペンか万年筆の黒か青で記入せよとの決まりがあるが、精霊の契約書の方は自分が作ったので、カーボン紙越しの文字でも本人のサインであれば有効であるとの決まりを書類の隅に小さく記入しておいた。
だから、一枚目にサインをすれば、自動的に賭けの書類のサインも手に入るというわけである。
精霊の契約は、基本的にこうしたズルばかりだ。
だから、精霊と契約する時は、相手はただの人間でさえ、警戒しじっくり契約書を確認するのだ。
そして、賢い者や特殊な者は、普通の人間でもトリックを見破って来る場合もある。
しかし、そんな手の込んだ事をしなくても、カヤノは真っ白な契約書にサインをしてしまった!
ハッキリ言って、開いた口が塞がらない…。
が、同時にそんなカヤノがシルヴァスは一層、愛おしくなる。
バカな子ほどカワイイという奴である。
まあ、惚れた弱みとも言うが…。
こうしてシルヴァスは、早速、次の日の仕事ついでに、賭けを装って手に入れた一時保留用・婚姻届けをセンターに提出したのである。
勿論、カヤノの手前、『賭けごっご』もしなくてはならないので執事服まで着て彼女を翻弄した。
黙っていても、人間界においてはお嫁さんにできる相手を心理的にも落とすのは、シルヴァスにとってはカヤノと遊んでいるのも同じで大変楽しい。
しかも、当人は婚姻届けに自分がサインした事も知らないので、センターに異議申し立てをするわけもなく、養成学校を卒業すれば、賭けは終了し、センターに預けられているこの届出が自動的に婚姻届けとして正式提出され、戸籍上はシルヴァスの嫁になるわけだった。
保護者自体もシルヴァスなので、親への説得なども必要なくスムーズに事は進んだ。
カヤノは、賭けの事を考えて、一喜一憂していたようだが、シルヴァスは賭けをネタにして、この一時保留用・婚姻届けにカヤノのサインが欲しかったのだ。
仮に万に一つでも、賭けでカヤノにシルヴァスが負けたとしても、勝敗がつくのは学校卒業までの間で、カヤノが自由を手に入れても、同時に婚姻届けは受理されるわけだから束の間でしかない。
我ながら、うまく計算されたものだと思う。
とはいえ、賭けが終わる以前に彼女が記憶を失った時、既にシルヴァスはカヤノに良い返事をもらってしまった。
記憶を失くした場合の特例は、賭けのルールには記載されていなかったので、特に考慮しなければ、カヤノがシルヴァスを好きだと答えた時点でとっくにカヤノの負けは決定していたのだ。
つまり、必要とあれば、精霊の規約に乗っ取って実力行使もできたし、カヤノに『NO』はなかった。
シルヴァスは、あえてその事を黙っていただけである。
「穏便にしたかったしね。記憶を失ってる時も彼女は僕に好意を示してくれたから、今更、他の感情で自分を誤魔化したって彼女の心が僕のモノだって言うのはわかっていたんだ。本人がそれを認めたくなかったとしてもね。それでも、強引には奪いたくなかった。彼女の心の傷が癒えるまでは。」
実に汚い手だとは思うが、この位の事は男神なら誰でもやりかねない範囲だ。
カヤノが騒いだとしても、しっかり書類確認をしなかった本人も悪いという事で、現人神社会でシルヴァスが罪に問われる事はないだろう。
そうした男同士ならわかってしまう嫁取り事情のえげつなさがある為、あの因幡大巳だって反省しているような顔をしていたが、仮にシルヴァスが訴えた所で違法医療を施そうとしておきながら医師免許を取り上げられる事がないのを知っているから、彼なりの賭けに出たのである。
『うまく行けばラッキー!』くらいの気持ちで。
「だから、アイツの診療所をぶっ壊してやるくらいの事は、されて当然なんだよ。」
それにしても、一応、学校では女子部でも契約書に簡単にサインしてはいけないという事を口を酸っぱく教わっている筈なのだが…。
「人間社会以上に契約が効力を発揮する社会の一員になるって言うのに…。一応、後輩だからハッキリは言いたくないけど…サルマンの奴、何を生徒に教えて来たんだ⁈このカヤノの警戒心のなさときたら…授業はどうなっているんだと言いたい!」
シルヴァスは仕事柄、法律にも明るい方で、幅広く色々な部署から駆り出されやすい為、統括センター内で起きた色々な問題のケースにも詳しい。
女性現人神には、その辺のシビアさは一切教育されないので、彼女達は運命的な出会いをしたと信じ、幸せに夫と添い遂げる者がほとんどだが、現人神夫婦の夫がそこに行きつくまでのライバルとの熾烈さに勝ち抜いた様子や狡賢さは、妻達のほとんどは知らない。
冥界神の執着ほどではないが、現人神もそれなりには恋愛が絡めば黒い部分だってあるのだ。
だからこそ、シルヴァスは今まで本当にフェミニストだったのだが…。
自分の事となると、当然、そんな事は言ってられなかった。
全く紳士的にはなれない自分の行動に、シルヴァスはこうして一人、仄暗く笑うしかない。
「本音と建て前は違うもの。所詮、思想は思想。結局、そうあればいいなと思うだけだ。愛する相手を前に余裕なんてあったら、それこそ本物の恋とは言えないんだって事がわかったよ。」
結局、賭けには勝っても負けても、放っておけばカヤノはシルヴァスの妻になってしまうので勝敗など関係なかったのだが、自分の意志で嫁になってもらう為には、その間で得る束の間の自由を彼女に与える事が必要だった。
これについて、自分としては随分自由にさせたつもりではあったが…それを与えきれていなかった事で、猫又の店で飲みに行った時にオグマに指摘されたのだ。
持ち出した賭けは、カヤノにそう言う風になってもらう為にも、そこまで意識したわけではないが…結果的に色々と都合が良かった。
賭けに縛られてるカヤノに他を見る余裕を失くす為にも良い足枷になったし、カヤノが卒業するまでの時間稼ぎにもなった。
焦れば焦る程、周りが見えなくなり、冷静な判断などできなくなるのも良かった。
賭けを通して、カヤノはより自分の事を考えてくれるし、所詮焦るカヤノが新しく他の男と知り合う機会は見合い相手くらいなので、本人が見合いに出会いを絞ってくれればピンポイントで警戒できる。
一応、その他でこれ以上の出会いがないように気を付けつつ、サルマンや因幡大巳さえ彼女の卒業まで、押さえればいいのだ。
その為にはカヤノの再発したトラウマもそれなりに役に立ってくれたなと思う。
賭けを持ち出す前、自室のベッドに押し倒して、危うくカヤノを襲いそうになったが、『一度だけお願い聞いて』の精霊の呪文を彼女に言わせ、自分自身に呪を掛けて何とか堪えた事もあったが、逆にその後には、その手の事に関して自分を縛る効力が無くなる為、彼女に手を出さないという事には苦労を要した。
色々してきた我慢を思えば、ここまでの道のりは遠く、わずか数か月でこれほど自分が振り回される事になろうとは途中から意図していなかったが…だからこそ、気付けた事もあり、彼女と心理的にも強く結びつくのに成功した事は良かった。
それに、こんなに退屈をしなかったのはいつぶりだろう?
カヤノは僕の平らな日々に潤いと安らぎ…今は更なる喜びを与えてくれる。
「やはり、僕に追い風が吹いていたんだな。運命ってこういうのを言うんじゃないかな?フフ。」
卒業後は動きがある事が予想されるサルマン対策の為にも、卒業と同時に彼が何をしても手に入らないようにできるこの婚姻・一時保留制度を利用して、先手を打ったのは大正解だった。
「残念だったな、サルマン。出遅れは大きなデメリットだ。今回は縁がなかったという事で。それにしても、本当はもっとゆっくりカヤノが僕に堕ちるのを待ってあげたかったのに…お前がデバって来るから、急ぐハメになったんだぞ?」
サルマンは、生徒への恋情を卒業まで隠しておくべきだったのだ。
そうすれば、シルヴァスも急いで養い子を騙すような事はしなかったかもしれない。
もしかしたら、サルマンにも有利なチャンスが巡ってきたかもしれないのだ。
宝物を盗られるれるかもしれない危機感から、シルヴァスだって少々無謀な行動を出ざる得なかったのだから、サルマンは自ら、自分のチャンスを潰してしまったと言えよう。
「アイツはまだ青いな。先輩の僕がこの年まで独身だったのに…嫁もらおうなんて千年早い。若い奴はもっと働けっての。お陰でカヤノを自由にさせる時間まで作らざる得なくなっちゃったんだぞ?」
自由と言っても、養殖場の魚のように、シルヴァスの用意した世界での自由に他ならないのだが、カヤノならばそれでも充分、自分の意志でそこにいて、自分が自由だと思えた筈だ。
にも拘らず、自分の把握している範囲での安全だと思われるフィールド内ですら、カヤノは狙われるのだという事がわかったので、今後はやはり手元でしっかりと守ってやらねばならない。
物の例えからして、自分を多分、草花か何かの類程度にしか思っていないであろうカヤノだが、雑草だってこの国、原産の物は外来種に押されて絶滅寸前なくらいに弱いのだ。
シルヴァスは、温室に囲って保護してやるのが良いと思う。
だが、時代の流れで自力では生息できないとわかっても、草花は外の風を夢見るだろう。
「外部と遜色ない管理された敷地で、風なら僕の吹かせた風だけを受けていればいい。」
そこが海であれば、魚も自分が囲われているとは思っていないように…カヤノも既に書類上の鎖さえ見る事がなければ、自分は自由だったのだと疑う事などない。
現に卒業証書を受け取った段階で、婚姻届けはセンターに提出されている筈だが、カヤノは今も全く気付く由もない。
目覚めて医者に受診をしている際に、シルヴァスが事前に用意しておいた普通の婚姻届けにサインをさせ、卒業証書と共に出してきたと言えば、その通りに信じるだろう。
だが、まだ今の段階では、とりあえず賭けと二枚重ねの保険をかけ、逃げ道を塞ぐ事に成功しただけの状態だ。
「明日からは、本気で愛し合って、完全に奥さんになってもらわないとね。」
そう新婚の意気込みを語るシルヴァスは、不意に何か考えるように顎に手をやった。
「もしかしたら、アレステル・オグマ辺りはヤケに協力的だったし…僕が本気でカヤノをロックオンしたと悟った時点で手遅れだと気付いていて知らないフリをしていたのかもしれないな。」
なかなか、抜け目のない男なのは知っている。
だが、奴がいつも生徒第一な事も嘘ではない。
「諦めただけとはいえ、そんなオグマセンセにカヤノを託されたんだ。勿論、責任を持って幸せにするつもりだよ。宣言通り、わずかな世の中の汚い部分だって、これからはカヤノには見せないし近寄らせたりはしないからね。」
シルヴァスは眠るカヤノに甘く囁きかける。
サメ型魔神やマッド・チルドレンの件は、自分の腕の中からカヤノが抜け出してしまった結果なのだ。
これらの事を踏まえてもシルヴァスは、やはりカヤノには自分の庇護が必要である事を実感している。
自分の腕の中にいてさえくれれば、そんな怖い思いをさせずに済んだのだ。
正直、少しの間だからと思って、オグマやアスターを信じ、カヤノの好きにさせたけれど、起きた事態を考えれば、周りもカヤノの箱入り度合と一人では生きていくのが困難な事がよく理解できただろう。
「現に僕だって目を離すと、カヤノがここまでトラブルを寄せ付ける星回りだとは知らなかったよ。そりゃ、トラウマになった子供の頃の事件の時だって酷い目にあう筈だね。だって、戦闘系と間違えられちゃった段階でかなり不運体質だよ?」
それに耐えて来たのだから、案外、天上の名だたる神々は、カヤノに大きな期待があるのかもしれない。
正確には内在する神と一緒になったカヤノの人間の部分の魂の成長に関して。
「今回は僕も翻弄されたけど、カヤノには僕の当たりすぎる予感と使役妖精達の見張りが今後も必要だって事は、彼女を大事に思ってくれている周りの皆にも知らしめる事ができたよね。」
賭けの件は、本人がその事など関係なく自分の事を好きだと言ってくれたので、シルヴァスはもうその事についてカヤノに持ち出すのはやめた。
実を言うと、カヤノの勝利など最初から存在しなかったお飾りの賭けをシルヴァスが持ち掛けたのは、勿論、カヤノ本人が納得した状態で自分の妻になってもらうという目的の為もあるが、負けた事でしばらく自分から離れようとした彼女にお仕置きを兼ねて、虐めてやろうという気持ちもあった。
だが、マグマに落ちかかった後のカヤノの告白と可愛さに、シルヴァスはすっかりやられた。
機嫌を良くし…骨抜きになった今…単純な自分には、そんな気など更々なくなったのである。
ちなみに、シルヴァスが自信満々だっただけあって、カヤノがまともに賭けを続行していたとしても、恐らく絶対に勝てなかったであろう理由は簡単である。
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