春の嵐と恋の風64
オグマ先生の言葉で…?
至って、毎日の暮らしは平和だったが、地上の現人神の中でも現世の植物に関わりの深いカヤノは、冥界とは元々、神力的に相性が良くない為、冥界医にかかって精神の状態が向上してきたという割には、体調の方が好調とは言えなかった。
冥界などの肉体を不要とする場所に行く場合、肉体自体は地上の現人神統括センターが滞在期間分は保存カプセルでしっかりと預かってくれるのだが、冥界の暮らしが長引けば、カヤノの魂の方に付属している神力が削られる。
神力が無くなれば、冥界におけるカヤノは、単なる人間の魂でしかない。
今は現人神として、冥界行きの申請をしてもらい、オグマとハルリンドの力で緊急ビザを用意してもらって冥界に滞在しているが…それらがなければ、冥界の物を口にした時点で、地上には戻る事ができなくなるのだ。
それほど冥界の食べ物は元来、地上の物とは違う成分を含み、力を持っている。
現人神のビザや旅券は、一種のまじないのようなものが施されており、必ず取得者の正式な名前が記載されていて、その名前の者を冥界のルールや呪から守るような働きをしている。
いわば、ビザという名では呼ばれてはいるが、上位の神の力が施された期限付きの護符のようなものなのだ。
冥界と相性の悪い神力持ちのカヤノは、その護符の力を最大限に消耗しているのだろう。
だから、長くなってくると、ビザを取っての滞在でも冥界の食材や気を無害化しきれず、魂が冥界寄りに近付く度に、離れていても現世に置いてある肉体が魂に連動して、体調不良を起こしやすいのである。
ちなみに神仙であれば、魂と肉体を分離させている時でも肉体に何かあればわかるのだ。
その逆も然り、魂に何かあれば、肉体が朽ちる事は否めない。
元々冥界神系統の現人神達とは違い、カヤノの魂が完全に人間と化して死者の国を選択したとされるならば、こちらに残されている肉体は不要と判断され、朽ちてなくなってしまうというわけだ。
「冥界の気質と相性の良いの現人神に比べて、私の場合、ビザにかなりの負担がかかっているのかもしれない。」
それにつけて、カヤノは精神的にも連日悩んでいる。
実を言うと、すっかりホームシックにかかっているのだ。
気力低下は神力の低下に繋がる。
護符代わりのビザは更に消耗し、カヤノは余計に食欲低下という形で自身が消化しきれない分の冥界の食材を『拒否』という形で、無意識で自己防衛しているのかもしれない。
このまま、冥界の気で地上の神である神力が弱まり続けて、単なる人間と化せば…カヤノはいずれ冥界に取り込まれて、そこで暮らす人間の魂と同様にここから抜け出す事ができなくなるだろう。
執着が強いとされる冥界神は、ハルリンドも例外ではなく、彼女に気に入られているカヤノが冥界の気に取り込まれて地上を捨てざる得ない状況になれば、彼女は妹ができたと喜び、フォルテナ伯爵は嫌な顔せずに今まで通り、カヤノの面倒を看てくれるに違いない。
だが、カヤノの方が人間の寿命を全うする前に、冥界で暮らし続けるほどの腹を括ってはいない。
自分は地上の光が好きなのだ!
「そろそろ、限界みたい。とにかく、シルヴァスから離れたい一心でハルさんを頼ってしまったけれど、いい加減に冥界から出て地上での事を検討しないと。」
カヤノは、神力の限界を感じ、今後の事についてまだはっきりとした考えは纏まらなかったが、とりあえず、早々に冥界から引き上げる事を決めた。
その事をハルリンドに告げ、オグマに連絡を取ってもらうように話をすると、ハルリンドもアスターも、とても残念がってくれた。
ハルリンドに至っては、ずっと冥界の屋敷で本当の妹として、引き取りたかったとまで言ってくれた。
本当に優しい人だとカヤノは思う。
そして同時に、優しいシルヴァスとはお似合いだったのに…とも、いらぬ事を考えてしまった。
カヤノは、アスター様=フォルテナ伯爵を覗き見て、ハルリンドにはシルヴァスの方がお似合いだと思ったのだ。
フォルテナ伯爵が素晴らしい人なのはよくわかっていたが、彼は大柄で強面でハルリンドには優しいが一部の亡者や反乱分子には鬼のような存在だとされている。
それに引き換え、ハルリンドは夜の女神のようにしっとりとした華奢な美女なので、隣にはシルヴァスのようなキラキラとした毛色の存在の方が、ドレス姿の彼女が映えて絵になるように思えたのだ。
カヤノは、フォルテナ伯爵の隣には、どちらかと言うとヴァルキリーのような戦闘的な女神様がお似合いなのではないかと考えていた。
全く、勝手なイメージなのではあるが…。
そして、そんな風に美しい女神様と並んで輝くシルヴァスの傍に自分がいれば、完全にそれを引き立てる侍女にしか見えないとカヤノは唇を噛んだ。
カヤノは思いを振り払うように首を強く振る。
「いけない。そんな事を考えている暇はないんだった!」
考える事が山済みで冥界でも相変わらず、くよくよと悩み尽くしていたカヤノだが、ついに先程、本格的にこの暮らしに限界を感じ始めてオグマに連絡を入れ、今後の事を相談する事にしたのである。
地上と冥界とでは、時間軸も多少違うので、滞在したのが一ヵ月あまりでも、地上ではかなり時間が経っている可能性がある。
これは、死者が生前関わっていた命ある者の寿命が終わり、冥界での再会を待つ間の時間を少しでも長く感じる事のないように、あえて時間の流れが変えられているのだという。
という事は気を付けなければ、センター内に預けてある生身のカヤノの体が、あっという間に寿命を終えてしまうなどという現象もあり得ない事ではない。
いつまでもいて良いからと言われて、それに甘んじて長居しすぎれば、大変な事になる。
だから、仮にカヤノが冥界と相性が良かったとしても、色々な面で馴染みすぎないうちに地上に戻る方が良いのだ…。
☆ ☆ ☆
カヤノは、フォルテナ邸で使わせてもらっている不思議な魔法の鏡で、そこに映ったオグマと早速、会話を交わし始めた。
オグマの方には、カヤノの姿が水鏡に映っているのだろう。
時々、オグマの顔が水面のように揺れ動く事がある。
「今、地上ではどのくらい経ちました?サルマン先生に卒業証書を預かってもらっているままなのも、気にはなっているんです。申し訳ないな…と。」
「ああ、サルマンね。勿論、アイツは毎日、三十木がどうしているかやどこにいるかをしつこく聞いて来る。あまりにも粘着質だから参るぜ。ちなみにお前が冥界に行った日から、今日で2ヵ月と4日過ぎた所だ。」
「そうですか。やっぱり、こちらより早く時間が過ぎてるんですね。そろそろ、ビザも私の神力も限界に近付いて来たので地上に戻りたいのですが…。」
「ほぉ。ハルリンドに世話になるって言ってたから、もしかして、そのまま冥界に住んじまうのかと思ったが…地上に帰って来るのか?それは良かった。まあ、ハルリンドは残念がるだろうがな。」
「ハイ。私も冥界と相性が良ければ、それも検討したかもしれないんですが。」
「何だ…三十木、冥界と合わないタイプだとは思っていたが、まさか体調を壊してないだろうな?一応、ビザは3か月滞在で取ってあったんだが…。」
「ええ。私の神力が少ないせいなのか、質が著しく合わないせいなのか、ビザの消耗が激しいようで有効期限前だけど潮時みたいです。冥界医師のお陰で副作用だった頭痛等も軽減したし…この辺で戻るのが丁度いいのかもしれません。」
ハルリンドは、屋敷に滞在するカヤノを冥界の医師に診察させて、地上にはない治療を施してくれた。
因幡大巳の施術に使われたのは、冥界の薬草で作られた薬だし、忘れさせる技術ならば、冥界の得意分野である。
そうした類の薬品や頭痛の後遺症への治療なども、現世より優れているのは言うまでもない。
地上で入院していた時よりも、遥かに精神状態の錯乱や頭痛などの症状が落ち着いてきている…。
それだけでも、冥界に滞在した甲斐があったというものだ。
「だったら、迎えに行くのは早い方が良いな。希望がなければ、明後日はどうだ?お前が帰ってきて、保護者殿の元へ戻りたくないっていうなら、現人神女性対応の保護施設なんてのもあるが…。」
オグマの話の内容に、カヤノは目を瞠る。
思わず、伯爵邸の不思議な鏡の前ににじり寄った。
「落ち着け、三十木。やはり、知らなかったようだが現人神社会は女性が少ないから、困った事があれば統括センターの窓口を叩けば、大体、何とかなる。卒業前に来たセンター職員の説明でも言っていなかったか?」
「そ、そう言えば、言われましたが…その、新社会人向けのリップサービス的な…というか、社交辞令的な言葉なのかと…。」
「バカだな…神懸りどもがそんなシーンで社交辞令なんて言わん。現人神夫に先立たれた人間妻や何かしら大事を抱えた身寄りのない現人神女性など、問題を抱えている現人神社会に関わる女性の全てが保護対象だ。」
「そ、それは…私でも居場所を提供してもらえるという事でしょうか?」
「お前が望めばな?そういう施設は大体、寮のようになっていてアットホームだ。特例以外は強制結婚の期限が来るまで利用できる。」
「そんな、そんな物があるなんて…何で誰も教えてくれなかったんですか⁈私、卒業後、どうすればいいのか物凄く悩んでいたんです。」
「必要がなかったからじゃないか?お前の保護者は、一人前になったからって三十木を追い出すような奴でもないし、サルマンも望めば仕事先を提供できる自信があるのでは?それかお前が単にボーッとしていて、何も聞いてなかったとか?例えば、社交辞令だとか思って…な。」
「・・・・・。」
カヤノはぐうの音も出ずに押し黙った。
それから、プルプルと震えて、オグマに向かって小さく叫ぶ。
「わあぁん!私、先の事、悩んでいてバカみたいじゃないですか。その保護施設から自立した人はいるんですか?」
「周りは悩むなって言ってなかったか?かくいう俺も、お前には散々考えすぎるなとか…素直になれとアドバイスしていたぞ?保護施設利用者の方は、ほとんどいつかは自立していくな。それに結婚して出て行く場合も多い。」
「そ、そうですか。」
「で、結局、俺は明後日、三十木を迎えに行けばいいか?一人でお前を地上に戻すのは心配なんで、くれぐれも勝手に冥界を出ようとするなよ。お望みなら、そのまま保護施設に連れて行ってやるが?」
「お願いします!」
「しかし、保護施設に身を置くにしても、お前は一度保護者と…話し合った方がいい。その辺の事は多少冥界で考えたのだろう?」
「ハイ。でも、答えはまだ、見つかりません…。」
「そうか。このままいれば、そのうちお前が音を上げるか…あっちが痺れを切らすかだったな。」
「へ?」
オグマの発言に首を傾げたカヤノを見て、彼はフッと笑みを見せた。
しかしその後、オグマは真面目な顔をしてカヤノに釘を刺すように言った。
「三十木、最初に言っておく。そう言った保護施設を利用する女性は、余程の事情がない限り滅多にいない。そもそもそんな所を利用しなくても、不遇な女性を放置するような現人神の男がいないからだ。」
「え…ええと?」
「それでもそこを利用する女は、寡婦で現人神の夫に永遠に操を立てている子だくさんか…お前みたいな頑固者が一時滞在目的でわずかな間、利用している女性の他…ハグレやカクレ現人神でこの社会に入り、まだ誰も知った現人神や身寄りもいなくて…本当に一人ぼっちの不憫な女性だけだ。」
「先生…?」
「俺が何を言いたいかわからないか?」
「…ハイ。」
カヤノはオグマの言葉におずおずと頷いた。
それに珍しく、少しだけ意地悪な顔でオグマは言った。
「つまりだな、お前みたいに周りに頼れる奴や相談相手がいるのに…入所する者はいないって事だよ。」
カヤノはまじまじと目を開けた。
それからオグマは、『その事をよく考えておけ』と言い添えて、水鏡の通信を切ってしまった。
カヤノはオグマの最後の言葉が胸に刺さったように、通信が切れてもしばらく彼の映っていた鏡を眺めていた。
『お前みたいに周りに頼れる奴や相談相手がいるのに…』
オグマの言葉が頭の中でリプレイされる。
「確かに…私には、こうして冥界に受け入れてくれるハルさんや、引き取ってくれて今でも面倒を看てくれようとしているシルヴァスの他、相談できる学校の先生達もいる。遠慮がないわけじゃないけど…本当に困ったら、何かしらの手を差し伸べてくれる現人神がいるんだ。」
その事にカヤノは、当たり前になっていたのかもしれない。
世の中には上には上があるように、下にも下がある。
両親揃って、たくさんの身内に囲まれて、他人になんて頼る必要のない経済的にも恵まれている状況の者だっているけど、逆に養成学校・在学期間が過ぎてから発見されたハグレ現人神などは、現人神界に親戚や遠戚が見つからなかった場合、カヤノと同じ孤児になっても全くの孤独だ。
新しい人脈を築き上げる機会にもなる学校に入学する権利もないし、成人年齢の18歳が過ぎていれば児童保護の対象にもならないので、養い親を見付けてもらえる事もできない。
ただ、ハグレやカクレ現人神として一時保護をされ、簡単な現人神社会の事を事務的に学ばされた後、どこかの家に嫁として出されるのだ。
オグマが言うようにその保護施設というのは、もしかしたらそういう女性達を一時保護する為に作られた場所なのかもしれないとカヤノは思った。
「私はマッド・チルドレンの事件で傷を負ったけど、その後はたくさんの善良な大人に助けてもらって、結局は養成学校にも通えたし…一人前の現人神認可を受ける事もできたのよね。」
トラウマは自分ではどうしようもない事だが、惜しげもなくシルヴァスは治療の為に病院にも連れて行ってくれた。
心のない相手なら嫌かもしれないが、保護者でもある彼は、自分にとって恋情を抱ける青年で、最初こそ突き放されたものの、今は『そのままお嫁においで』と言ってくれる。
色々不審な事があって、彼には頭にきていたが、恩を受けたのは変わらないし、そんな風に嘘をついてまで、自分と一緒にいてくれようとしたのは、ありがたい事なのではないだろうか?
それに再び再発したトラウマの原因になりはしたが、担任のサルマン先生も卒業後の仕事が決まらなければ、自分の姉の元で雇ってくれるとまで言ってくれている。
しかも下宿もさせてくれると言っているのだ…今は無理だけど、この不安定な施術の傷痕が癒えきったあかつきには甘えさせて頂ければ、シルヴァスからの自立も可能なのではないだろうか?
ただ告白の一件があったので、カヤノは普通の態度でサルマンに接する自信がなかった。
とてもありがたい申し出だが、実際にはサルマンの家でお世話になるのは、もう無理のような気がする。
それでも、今までは男性恐怖症のせいで進路が確定しづらく、相次ぐ不運で精神科にお世話にならなければいけない状況に陥ってしまい、シルヴァスと離れたいのにうまく行かない…と、そんな事ばかり考えていた。
だが、オグマの意味深な言葉で、カヤノは自分がいくつもの選択肢を持っているのだと気付かされたのだ。
少なくとも自分は、一人前という認可を受けた段階で、シルヴァスに追い出されるわけではないのだ。
『これからどうしよう』と悩んだ所で、本当に頼れる者がなく、途方に暮れる者とは違う。
本当に孤独で途方に暮れた者から見れば、カヤノは単に『好きだよ』と告げてくれたシルヴァスから、自分のコンプレックスと自信のなさを理由に離れたいというだけのワガママで意気地なしな若輩者に見えるだろう。
同様に、周りから差し伸べられた手を『迷惑を掛けたくない』という思いや『悪いから極力頼りたくない』という理由で、相手の善意を受け取らずに自身でどうにかしたいとばかり思っているから、精神的にも追い込まれてきたのだ。
もし、本当に藁にも縋る思いで誰かの助けを求めている者ならば、カヤノの自立への気持ちは贅沢に見えるに違いない。
そう言った者は、体裁など気にせず、差し出された誰かの手を必死に取ろうともがく筈だ。
あの、現人神養成学校入学前に、シルヴァスに引き取られる事が決まった日のカヤノのように!
「いつの間にか私は、自分で選べるという環境にいる事が当たり前になっていたのね。シルヴァスの上司の人の言葉も言えてるかも…頭ではわかっていた事もわかっていなかったんだ。」
シルヴァスは『遠慮をしないように』と、いつもカヤノに言っていたが『遠慮』できるという選択肢がある事自体が余裕などない状態の者から見れば、恵まれているのだ。
「オグマ先生は、何度も私が可哀想だから甘えろと言っていたわけじゃなくて…恵まれているのだから、周りに甘えろって言ってたのね。女性の保護施設というのも存在を教えておきながら、そこを利用するのを考えさせようと意図しているんだわ。」
つまりは、オグマは誰かしらに甘えられる状況にいるカヤノが甘えたくないと思う事が、むしろワガママになる事もあるのだと教えていたのである。
そこまで考えさせられれば、保護施設を利用すると言ってしまったものの、カヤノは自分のようにそこを利用しなくても生きていける選択肢を持っている者が使ってはいけないような気がしてきた。
カヤノがシルヴァスの元に戻れるのに、自分の都合で戻らなければ、本来、その施設を利用する道しかない者に与える筈の保護や予算の取り分が減るのだ。
そんな事を考えるだけでまた気分が沈む。
「明後日、オグマ先生が迎えに来てくれた時、その足で保護施設に行く気にはなれなくなったわね。いくら、求めれば利用できるのだとしても、私がそこを利用すれば中の利用者に冷やかしだと思われるかもしれないもの。」
それに施設に入所した所で、シルヴァスを含むオグマ達が、カヤノに会いに面会に訪れる事も想定される。
そうなれば、面会者のいない入所者は、なぜ、こんなにもたくさん親しい者がいるカヤノが、施設を利用しているのかと疑問を抱くだろう。
カヤノはキュッと唇を噛んだ後、片方の手に拳を作って、冥界で使わせてもらっている自室ベッドに転がり、自分の拳を広げたり閉じたりするのを眺めながら思いにふけった。
「オグマ先生がその事をハッキリ言わなかったのも、私にそれを自分で気付かせる為なのかな?」
もし簡単にオグマがその事を口にしても、カヤノは酷い教師だとか、意地悪だとしか思わなかったかもしれない。
オグマが、こうしてカヤノの好きなようにさせてくれたから、今、その事実を突きつけられて考えた事で、
『なるほど…自分は現にこうしてハルリンドを頼り、冥界で面倒を看てもらっている』
そして『そろそろ地上に戻りたい』だとか、
『冥界に取り込まれて地上を捨てる覚悟はない』
などと悩み、自分にいくつもの選択肢が用意されているのだという事にも気付けたのだ。
「私は自分が辛かった事ばかり記憶して、小さな幸運には感謝しているようで、目を向けて来なかったのかも…。」
そう考えると、カヤノはシルヴァスの所にもう一度戻って、病院通いが終わるまで素直に世話になろうという気持ちにもなった。
今までは、一刻も早くシルヴァスから離れなければと、急いていたのに不思議だ。
長く依存すれば、それだけ離れ難くなるのが怖かったが…もしも、自分が本当に藁をもつかむような状況であれば、そんな事を思う暇もないのだ。
『それならそうなってから考えればいい』
『なるようにしかならないのだ』
と思うより他はないのだ。
「先の事を考えて怖がってばかりいないで、今の状況に甘んじてみる勇気を持たないといけないのよね。それが怖かったけど…でも、それが恵まれている事だと思うと…何だか違って見える…。」
冥界の医師にかかった事で、精神状態が安定して来た事も大きいのかもしれない。
治療の成果は、カヤノに前向きな思考を手伝った。
それとシルヴァスと離れた事で、躍起になって彼と離れなければという思いが、カヤノの理性の目を曇らせている事から解放させたのかもしれない。
「自立やシルヴァスの将来に現れるかもしれない好きな女性に関しては…今は忘れて、何とか普通の状態に戻る事だけを考えよう。それに…。」
それに、記憶を失う前の自分が自立に拘っていたのに対して…今のカヤノは記憶を失っていた間の自分の思考や行動を重ね合わせて物事が見れるようになっていた。
二つの自分は同一人物でもあり、違った考えも持っていて、記憶が戻った事で二つの自分の思考は一つになったのだ。
どちらの考えも今は理解できるし、何も覚えていない時の新しい素直だった自分の記憶は前向きで少なからず、カヤノはその影響を受けているのを感じた。
頭では前のようにシルヴァスを許せないとか、自分と一緒にならない方が良いと思ってはいるものの、以前に比べてカヤノの中に生まれた新しい自分が何かを変えてくれたような気がする。
そして、冥界に来てから、ずっと顔を見ていないシルヴァスに会いたいという気持ちは強まっていく。
明るい中でもどこか闇を感じられる冥界において、シルヴァスの地上や世界のエネルギーを感じさせる風は今のカヤノには余計にコントラストを浮かび上がらせて彼の存在を引き立てていた。
「明後日、オグマ先生が来てくれたら…保護施設の件は断って謝ろう。それでシルヴァスの所に帰るって話すわ。それに卒業証書も学校に取りに行く。ちょっと怖いけど、オグマ先生やシルヴァスが付き添ってくれれば、きっと大丈夫。」
カヤノは憑き物でも落ちたように、浄化された何かに背中を押され、『どうして自分は今までああも肩肘を張っていたのだろうか』とシルヴァスの元に戻れるのだという選択肢に、純粋に嬉しく思う気持ちを見出していた。
しかし、それとは別に後ろめたい思いも湧いた。
「黙って出て来てしまった私を…シルヴァスは、どんな風に思ったのだろう?」
本日もアクセスありがとうございました。




