春の嵐と恋の風63
現世から離れたものの…。
オグマに相談したその日のうちに、彼に連れられて冥界に渡ったカヤノ…。
フォルテナ伯爵邸に付いて早々、丁度、領地の視察を終えたハルリンドの夫であり伯爵のアステリオス=アスターが屋敷に帰って来た所だった。
オグマが彼に詳しく経緯を説明すると、アスターも快くカヤノを受け入れてくれる。
このアスターと呼ばれている伯爵様は、よく見ればハンサムではあるが、とても体が大きくて一見すると強面な見た目をしている。
それは、今までカヤノが絵に描いたように苦手な男性像だった。
そう。苦手だった…筈なのだが…。
カヤノを受け入れてくれた事で、夫に感謝の意を示す妻のハルリンドに向かって、物凄い勢いで相好を崩したのを見て、カヤノは目を何度も擦ってしまった。
普段全く笑わないようなタイプの大男が、自分の妻にこの上なくデレているのだ。
それも普通の男の人でも恥ずかしいくらい!
その顔が、あまりにもだらしなかったもので、カヤノはこっそり『ハルさんに懐いている大きな珍獣に見える』と思っていた。
「冥界の…それも強面の伯爵様なのに…。」
そんな調子で、しばらくフォルテナ邸で世話になり始めると、カヤノにとって同じ空間にいるだけで震えが出るほど怖かった伯爵・アスター様が…。
家庭内で妻にだらしなくヘラリと笑うシーンや責められるとハルリンドにタジタジで押されてしまうという完全に尻に敷かれている様子がいくつも垣間見えて…少しずつ彼に対して怖いという感覚が薄れて行ったのである。
お陰で半径1メートル以上離れれば、何とかカヤノは一人でもアスターに普通の対応が取れるようになったのだ!
これは、彼との最初の出会いからして、今までで一番の最短距離接触を更新した快挙であった。
実に喜ばしい!!
オグマは、カヤノをフォルテナ邸のハルリンドの元へ連れて来た日、事の経緯を屋敷にいる皆の前で説明してから、しばし伯爵であるアスターに耳打ちして何やら二人きりでコソコソと話をしていた。
その後、カヤノの様子が落ち着いたのを見計らい、すぐに学校へと帰ってしまった。
だが、それからもオグマは度々、カヤノの様子を見に来てくれた。
しかも、次に冥界に来た際、オグマはシルヴァスにこちらに会いに来ないように取り計らい、サルマンには居場所を教えていないのだと教えてくれた。
どうやらカヤノの気持ちを察し、このまま彼女のしたいようにさせてくれるつもりらしい。
それに様子を見に来て帰る頃になると、決まってカヤノに何かしら、頼もしい声を掛けて行ってくれた。
「三十木、俺は学校に戻るが何かあったら連絡しろ。」
「お前が頼れるのはハルリンドだけじゃない。」
「保護者の方は、少なくとも冥界のビザが切れるまでは音沙汰なしだ。」
それは、ありがたかった。
カヤノは、シルヴァスに何か言われそうで怖かったのだ。
入院中も彼は毎日、自分の元に献身的に通い、根気強く声を掛けてくれていた。
自分はそれに対して、冷たい態度や怯えた態度を取り続けていたが、心はいつだって悲しくて辛かった。
本当はシルヴァスに甘えたい。
だが、過去の出来事やそれを隠していたシルヴァスに対する怒りと不信感が、カヤノに他の男性同様、怯えを含んだ対応を取らせ、素直にさせるのを阻んでいた。
そして、真実を因幡大巳の薬を服用した事で思い出し、それと同時に記憶を失っていた間に築いた彼との距離感と甘い関係の心理的ギャップに激しく戸惑った。
シルヴァスに対する拒否反応が出た事で、やはりカヤノは彼から離れるべきなのではという気持ちを強めたが、いずれ退院した時に彼に強く出られれば、うまく丸め込まれてしまいそうな気しかしなかった。
しかし、オグマに連絡したお陰で、今はこうしてシルヴァスから離れた状況に在りつけたのである。
このまま、周りには申し訳ないが、しばらく頼らせてもらおうとカヤノは決意して、もう一度、冷静に自分の状況を考え、静かな場所でどうする事が一番良いのか答えを探したいと考えた。
それでも最初の頃は、アレステル・オグマが取り計らってくれたとは言え、シルヴァスが自分に会いに冥界まで来るのではないかと常に身構えていた。
けれど、有能な教師であるオグマがどう説明したのかはわからなかったが、意外にも彼は一度も姿を見せに来る事はなく、カヤノは肩透かしを食らった気分になった。
あれほど入院中も献身的にカヤノの元に通ってきていただけに、カヤノはオグマが何をしたのか気になって何度も聞いたが、保護者に代わり定期的に冥界に連絡を寄こしたり、カヤノの様子を時々見に訪れる彼は、それに関して何も教えてはくれなかった。
担任のサルマンにさえも、どうやらオグマは自分が関わっている事を知らせておきながら『無事だから』とだけ告げて、カヤノの居場所を教えていないらしかった。
ただ、オグマはカヤノに…。
「細かい事は心配しなくていい。自分の心に素直になって物を考えろ。」
「誰しも大切な者や事には優先順位をつけ、己のオンリーワンが何か見定めて本当にやりたい事、そうありたい事に向かって努力している。」
「目標に向かい身を投じるのも勇気であり、諦めるのは不可能な状態に陥った時に考えるものだ。」
と、言って聞かせた。
「難しいが感情的にならず、感情を大事にしながらも、冷静に見つめ直すのが大切だ。」
「細かい感情に左右され、自分が求める感情に蓋をしても後悔に際悩まされるぞ?」
「いい子でばかりいる必要もない。その努力が何かの為であるなら否めないが、それが独りよがりだったりはしないか?」
カヤノはオグマが帰った後、その言葉の意味を考えた。
前にも難しくて気になる事を言われたが、その時はそれきり流してしまった。
だが、オグマの言葉は、心の内を見透かされているような気持ちになる。
前の時も確かそうだった。
今回、オグマが言った事は、まるでシルヴァスに対する自分の気持ちに『素直に目を向けろ』と言われているようで、カヤノの心を重たくさせた。
カヤノのやりたい事は、シルヴァスから自立する事。
だが、それは元を正せば、シルヴァスを失った時の臆病心から来ているものだ。
早めの自立の道を選べば、シルヴァスを失っても心の傷が少なくて済み、自分を常に非の打ち所のないハルリンドと比べずに済む。
つまり、そういった己の心を守る事ばかりが理由である。
シルヴァスの為にも、自分なんかと結ばれたら彼が勿体ないという思いも、カヤノの一人よがりな感情なのかもしれない。
シルヴァスはそれでいいと言っているのに…カヤノが勝手に『彼の為』と考えているのだ。
どれもこれも、自分に自信がないというカヤノのコンプレックスが原因なのだという事はわかっている。
そして、それをカヤノ自身が克服する為の努力をするガッツも自信すらない。
以前も何度もそう思った。
カヤノは、他の事では不器用ながらも、できる限り頑張って来たのに、一番頑張らなければいけない部分を頑張る事ができないという事実からシルヴァスの元を離れる道を依然、選び続けて来た。
頑張った後に何かしらの理由で裏切られたら、自分は再起不能になりそうで体がすくむ。
シルヴァスは恐ろしい事に、それすらも『構わないよ』と簡単に言ってくれるのだから、甘すぎてカヤノは居たたまれない。
オグマの言っていたカヤノの『努力』というのは、自立する事の方を指しており、彼はまさにそれを独りよがりではないのかと問いただしているのだ。
それに、オグマは『いい子でばかりいる必要ない』と、教師にあるまじき事を言った。
カヤノは良い子でいなければ、人並み(一般の現人神レベル)の事ができないのだから、良い子でいるしかないのに…オグマは何を言うのかと思う。
しかし、それはもっと甘えてもいいのだと暗に言ってくれているようにも取れ、オグマもハルリンドもシルヴァスも、皆でカヤノを甘やかそうとしているのがわかった。
カヤノは、それに素直に身を委ねるのが怖いのに…。
そうしない事でオグマは、後悔に際悩まされるぞと、忠告しているのかもしれない。
だが逆に、そうして得られた大切なものを失う事が、未来に起こり得る可能性があるのなら、最初から得る事もなく失ったままの方が痛手が少ないのではないかと、カヤノは思ってしまう。
それはもう頑なに…。
カヤノは色々な状況に怯え、怖くて仕方がなく、又、マッド・チルドレンの戦闘ショーで卑怯にも五体満足で助かった自分が大切な者を得るのは、図々しかったのだと、初めての告白をシルヴァスに断られた日をきっかけに魔神事件を通して強く思い悩み…その身に余る幸せをつかむ事に対して、罪悪感とそれに伴う失くす事への恐怖を感じていた。
それなのに、記憶を失っていた一定期間…その感情を忘れ、その得る資格もない幸せに、愚かにも疑いなく手を伸ばそうとしていた。
そんな自分が、以前と同じ自分だというのが信じられなくて…。
同時にその時の自分と世界がとても心地良くて…。
カヤノは記憶を失う前よりも一層の混乱を起こし、シルヴァス相手にすら、目前にすると怯えてしまうようになってしまった。
カヤノは、シルヴァスを自分を傷つける者だと、認識してしまったのかもしれない。
それなのに、それでもシルヴァスが恋しくなるのだ!
朝、目が覚めた時に。
何かしている合間に。
眠る前の一時に。
シルヴァスを思ってしまうのだ。
オグマのお陰でハルリンドと連絡が取れ、こうしてシルヴァスと会わないでも済む状況が作られると、余計にシルヴァスの自由で優しい笑顔が見たくなってしまう。
記憶のない一時…以前よりも深く彼と愛情で結びついていたせいか、このまま永遠に彼と離れなければならないと思うと、前にも増して胸が苦しくて仕方がない。
前は、アルバイトで逸らす事のできた感情も、今は他に何かをしていても逸らす事ができないのだ。
カヤノは、甘い甘いシルヴァスへの中毒症状を起こしているのかもしれなかった。
それなら、この期間を乗り越えれば、中毒による禁断症状と同じように克服できるかもしれない。
今、この辛い感情を乗り越えれば…。
だが、オグマはそれでも、恐らく後悔に際悩まされるのだと主張しているのだ。
そして、それを物語るべく、自分から望んだ事なのに…会えなくなってカヤノは、日に日にシルヴァスに会いたいという気持ちが募っていくのを実感していた。
禁断症状が克服どころか、激しくなっていくのだ。
自分はどうしたいのだろう?
そして、相手に対して怯えがあるのに、恋しいという相反する感情をどうすればいいのだろうか?
素直に考えろと言われても、素直になんて…どうしたらいいのか…カヤノはわからない。
そもそも、子供の頃から自分の感情を隠してばかりの連続だった。
その傾向が事件の度に強くなっていった。
カヤノは連日、そんな事ばかり考えて、すっかりと食欲も気力も失っていた。
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