春の嵐と恋の風60
本日は長めなので、土、日曜日の分を一気に更新とさせて頂きます。
暇がなければ、次回は火曜日になる予定です。
さて、今日は『会いたくない相手にはなぜか会ってしまう法則』です!
いきなり黒塗りの車から飛び出して、傍にやって来た男は、カヤノに馴れ馴れしく声を掛けた。
「こんな所で何してるのぉ?俺、今、病院帰りなんだ。ほら、この前、シルヴァスに吹っ飛ばされただろう?お陰で仕事は休まざる得ないし、見た目もこの有り様で困ったよ。」
この男はシルヴァスの上司という立場なのに、わざと弾けたような言い方をしてくる。
料理教室で知り合ったカヤノの隣りにいた女性も、その男を見るなり、ギョッとしていた。
それはそうだろう…。
上司の男は、シルヴァスに吹っ飛ばされた時にケガをしたのだと言っていたが、その体にはミイラのようにグルグルと包帯が巻かれていたのだ。
まるで『被害者です!』と言わんばかりの絵に描いたような全身・包帯姿には、できれば知らないフリをしたい衝動に駆られる。
これほど大袈裟に包帯が巻かれているにも関わらず、男がカヤノを見付けてこちらの方まで駆け寄るスピードは、全く不自由がないほどスムーズで素早かった。
男は急に回復したのか、はたまた、ケガをしたアピールの為に大袈裟な姿をしているだけなのか…?
カヤノは、この包帯グルグル巻き姿に違和感を感じ、疑問を持った。
そして、一様に隣の女性と二人で目を瞠っていると、男が下りて来た車の運転席から、誰かが顔を出して叫んだ。
「ちょっと、坊ちゃん!急に下りたら危ないですよ!!それにその格好が嫌だから、送り迎えしろって言われたのに…外に出るのが恥ずかしかったんじゃないんですか⁈」
「チッ!」
上司の男は、黒塗りの車の運転手に向かって舌打ちをすると、カヤノには笑顔を向けて言った。
「ああ、アイツは気にしないでぇ。家の者なんだけど、口うるさくてさー。これじゃ歩き辛いから、病院に連れて行ってもらったんだけど…カヤノちゃんが見えたんで、思わず飛び出して来ちゃった。」
それほど親しい間柄でもない相手の為に、わざわざ飛び出してくれないでもいいのに…。
それに飛び出せるくらいなら、一人で病院くらい行けばいいのに…って、包帯の必要性はあるのかしら?
と、カヤノは訝しんで片方の眉をひくつかせた。
車から大声で運転手に叫びかけられた包帯グルグル巻き男は、街中で通行人の注目を集めていた…。
この格好だと何かのイベントのようにも見えない事もない…。
しかし、カヤノと一緒に歩いていた女性は、謎の出で立ちをした男と黒塗りの車に何となく関わらない方が良いと判断したのか…それともカヤノの知り合い(だと思った包帯男)に気を使ったのか…会話の区切りの良い所で、早々に別れの言葉を告げて、その場を去ってしまった。
「あっ、カヤノさん…そういえば、私、帰りに買い物があるのを思い出しちゃったから、今日はここで別れるわね。そじれじゃあ、また明日!」
そう言われてしまえば、カヤノも包帯男の方を少し見た後に、彼女に挨拶をするしかなくなる。
「うん、何かごめんね。また明日。」
小さく手を上げて彼女が去ったと同時に、カヤノが男の方を振り向くと、先程より至近距離に迫ってきた男がグルグルに巻かれた包帯姿から唯一見えている顔に笑顔を浮かべて、カヤノの手を引いた。
「彼女、行っちゃったね~。カヤノちゃんは俺が車で送ってあげる。」
カヤノは驚いて手を振りほどこうとしたが、現人神の割には背が高すぎない男でも随分と力があって、向こうはさして力を入れている様子がないのに、カヤノが振りほどこうと手に力を入れているのにも気が付かない様子で、そのまま手を引いて放してはくれない。
慌てて、カヤノは口を開いた。
「待って、待って下さい。知ってらっしゃると思うけど…家は近いから車で送ってもらう必要はありません!あの、悪いですし、外出した時は少し歩きたい気分なんです。気持ちだけで結構ですから。」
だが、男は言葉が通じないのか、少しだけ考えたような顔をして、また笑みを崩さずに告げた。
「けど…ここで会ったのも縁だしさ、俺、カヤノちゃんとお話したいから車に乗ってくれる?ほら、シルヴァスの事…アイツが昔好きだった女神様の事とか…知りたくない?」
カヤノは上司=現在・包帯男の言った事を耳にして、反射的に口を噤んだ。
男は前に会った時に、カヤノが冥界女神の件について、興味を示した事を瞬時に見抜いていた。
だから、その女神の話をしてやると言えば、カヤノが自分について来るのではないかと軽い確信を持っていたのである。
シルヴァスがカヤノを大切に思っているのは、出会ってすぐにわかったが、家でしばらく過ごした後も自分への牽制の仕方から、完全に彼女を将来のお相手として考えているのが見て取れた。
それならば恐らく、シルヴァスは自分の過去の恋愛談など、養い子でもあるカヤノには極力知られたくない筈だと男は思った。
とりわけ、センター内のフロアで大失恋をしたと、過去に噂にまでなっていた冥界上級女神の件に関しては、目の前の彼女には話していない可能性が高いし、知っていても彼女の知らない事もあるかもしれない。
それにもしも、彼女が知らないというのなら、確実に知らされたくない案件に違いない。
それならば、この俺が日頃の恨みから、カヤノちゃんに親切に教えておいてやろう!!
シルヴァスがどういう女が好みで、いかに奴の理想像が、カヤノちゃんとかけ離れた存在であるかどうかを!
ある事ない事、洗いざらい…それはもう、偏見と織り交ぜてシルヴァスの養い子にたっぷりと色々吹き込んでやる!
アイツだけ、可愛いお嫁さんをもらうなんて許せねぇ!
シルヴァスなんぞ、今回も振られちまえ!!
ざまあみろ!
と、現在包帯男=名ばかりの上司は心の中で一人、吠えた。
カヤノは、そんなくだらない男にあれよあれよという間に車の方に手を引かれて、気付いた時には後部座席の彼の隣に座らされていた。
程なく運転手を務める男が車が出すと、包帯男は口角泡を飛ばす勢いで話を始めたのだった…。
☆ ☆ ☆
ショックだった。
カヤノは部屋で一人震えていた。
自室のベッドの上で丸まって泣き続けるカヤノ。
料理教室での実習終了後。
皆で昼食を兼ねた試食を終え、後片付けを済ましてから、そこで仲良くなった女性と家に帰っている所に偶然車で通りかかったらしいシルヴァスの上司の男が現れて、拉致られるように連れて行かれ、そこで延々と車内でシルヴァスの過去についてを聞かされた。
男は包帯だらけの姿にも拘らず、体は普通に動いていた。
あれほど包帯だらけなのに、体を動かしても大丈夫なものかと不思議だったのだが、何でもその包帯は現人神の医師達によって開発された特別な布で創られた物で、巻いている間、体の失われている機能を補ってくれる優れモノなのだという。
だから、本当は体中の骨が折れたり、あちこちにヒビが入ってるので、そこまでの回復をしていないにも拘らず、包帯さえ巻いていれば、何とか不自由ない程度に動けてしまうのだそうだ。
『さすがは現人神医師らの考案した包帯…恐るべし技術だわ!』
とカヤノは、驚きを隠せなかった。
その話を聞いた時は、これだけの技術があるのなら、自分の記憶処理の施術も後遺症など心配せずに何とかできないものかと思ってしまったくらいだ。
けれど、肉体の問題とは違い、カヤノが治療を必要とする場所は脳や心理に関わる分野。
もっと言うのならば魂のレベルに関わる処理は、現人神界の医療分野的にも大変難しい世界なのだと、最初に担当医にも念を押して知らされていた事を思い起こし、そう簡単にはいかないのだと肩を落とす。
カヤノの考えている事など興味のない上司の男は、
『見た目が恥ずかしいので仕事先には包帯が取れるまでは絶対に行かない!』
と鼻を膨らませて相変わらず、ベラベラとしゃべっていた。
そして、彼の会話は最終的に、以前シルヴァスに飛ばされた時に負ったケガのせいで、まだ職場を休んでいるのだという恨み言に至った。
それからが、シルヴァスの過去や悪口へのオンパレードの始まりである。
男は自分の良いようにシルヴァスの事を語り始めた。
カヤノは男が語る内容が、斜に見た物言いであると、わかっていた。
わかってはいたが、過去にシルヴァスが好いていたとされる女性の話を聞くと、彼女と自分を比較して自己嫌悪に近い感覚を覚えて落ち込んだ。
カヤノは、記憶を失う前の自分と面白いように同じ状態に陥り始めたのである。
更に、男は職場の特権を利用して調べて来たというカヤノが引き取られた経緯についても(漏らしてはいけないプライバシー部に関わる事だと知りながら)、カヤノに暴露してしまった。
これには、前で運転をしていた男も驚愕して、咄嗟に声を上げた。
「坊ちゃん⁉そういう事は、言ったらマズいんじゃ…。アンタ、一応、その子の保護者やっている男の上司なんじゃないんですか?」
しかし、運転手の声が届くのは遅く、聞く耳を持たない包帯男の早口の弾丸トークを黙らせる事には間に合わなかった。
その後も続く部外者でも、言ってはマズいとわかる内容の情報漏洩に、運転をしている男は面食らって口の中で呟いた。
「ここまでバカとは…。あーあ、自分は知りませんよ?坊ちゃんの命令で車を運転しているだけですからね。ちなみに自分の本来の主人は坊ちゃんのお爺様ですから…。」
運転手の小さな呆れ声も気にせず、上司である筈の包帯男は、シルヴァスが当初、カヤノを引き取るつもりはなかったが、養成学校の入学時期が迫っていて仕方なく引き取ったのだという事実もご丁寧に彼女に教え、得意な表情を浮かべていた。
鼻を高々にする男に、カヤノは日頃から自画自賛を繰り返す教師、アレステル・オグマのそれとは違う不快感を覚えていたが、そのカヤノの冷めた視線を受けても、一切何も感じないのか、包帯男は益々、勢いづいて口を動かし続けた。
なぜ、カヤノの引き取り先が容易に決まらなかったかと言う点についても、過去の資料を職場特権で秘密裏に見たのだろう。
彼女がせっかく忘れていたトラウマが、大きな理由になっていたという事を思慮の浅い男は、何と彼女本人に話してしまうのである。
男が話したその他諸々内容の中で、それが一番マズイ内容だった事は否めない。
カヤノはその事実を聞いた途端に、何か恐ろしいものの幻覚を見たように震えだしたのである。
「男性恐怖症⁈」
カヤノの口から、男に聞いた言葉が繰り返すように発せられた。
同時にカヤノは、狭い車内にいる運転手と包帯男の二人が無性に怖くなった!
サルマンの告白を受けた日、急激に襲われた何とも言えない恐怖心。
それと今の感覚にカヤノは、合点がいった気がした。
事態をハッキリは思い出せないものの、その言葉を聞いた途端に感覚が甦り、男性が怖いのだと、あの大きな手で押さえつけられたり、叩かれたらとても痛いのだと…実際そんな事を理由もなくされるわけがないのに、なぜだか急激にそうした思考が後から後から湧いて来て、カヤノは震えと涙が止まらなくなってしまったのである。
急な彼女の態度の変化と様子がおかしい事で、話をつらつらとしていた包帯男もさすがに驚き、運転手の男と二人で慌てふためいたかと思うと、急いでカヤノを自宅マンションまで送り届け、正面玄関の前で降ろした。
包帯男は、カヤノを車から放り出すと、部屋まで送ろうともせずに運転席の男に命じて『ヤバいぞ!』とばかりに早々に走り去ってしまった。
包帯男達もカヤノのパニック状態に自身が戸惑ってしまい、どうしたらいいのかわからず、怖くなって逃げ出したのだ。
車を降ろされて取り残されたカヤノは、息も絶え絶えになっていた。
何とか正面玄関のフロントまで歩くと、様子がおかしい事で救急車を呼ぼうとするマンションのコンシェルジュを断って、部屋まで支えて連れて行ってもらった。
それからカヤノは、息が上がった苦しさの中で必死にしゃべって、前回にシルヴァスが使った携帯酸素をコンシェルジュに持って来てもらい、何とか呼吸を落ち着ける。
心配するコンシェルジュをよそに、『薬があるから大丈夫』だと言い張って、カヤノは彼女に退出してもらった。
マンションのコンシェルジュが『女性で本当に良かった』と、カヤノはその時ほど思った事はない。
彼女は帰る前にカヤノに場所を聞いて、飲み水やタオルを用意して何かあったら連絡ができるようにと、電話の子機をベッドの近くに置いて行ってくれたりと細かい心遣いを見せてくれたのだ。
コンシェルジュは、カヤノの指示通りに一通りの気遣いを済ませると部屋を振り返り、心配しつつも出て行った。
そしてカヤノは、ショックと恐怖に震えながら、ベッドの上で一人泣き始めたのである…。
☆ ☆ ☆
それから数刻。
定時の時間でもまだ早いだろうに、玄関のチャイムと共に扉が開く音がした。
カヤノは丸くしていた体を一層固くした。
ガチャガチャとドアに鍵をかけ直す音が聞こえてきて、すぐにドタドタと廊下を急いて駆ける足音が自分の部屋の前に近付いて止まり、同時に部屋のドアに乱暴なノックがなされた。
「カヤノ!入るよ⁈」
それは当然、家の主であるシルヴァスの声だった。
いつもならこちらの返事を聞いてから、ゆっくりとドアを開けるシルヴァスだったが、今日は掛けた言葉と共に、勢いよく室内に入って来て、すぐさま布団をかぶっているカヤノの元に駆け寄った。
「どうしたんだい?何があったの?マンションのコンシェルジュから、連絡があったんだ。様子がおかしかったって…。」
何と、細やかな心遣いを示してくれたコンシェルジュが、部屋番号を控えて、不動産屋を通してシルヴァスの(現人神統括センター内の人間向けに設けている電話番号)の勤務先に電話を入れてくれたらしい。
それで、慌てて心配したシルヴァスが、仕事を切り上げて戻って来てくれたのだ。
「出張中でなくて良かったよ。一件、外の仕事があったんだけど、相棒が僕の分も補ってくれる事になったんだ。彼は僕同様で結構、小回りが利くからね。」
そう話すシルヴァスが、カヤノの被っている布団をそうっとはがした。
カヤノは丸くなったまま顔を隠していて反応を示さない。
ただ小刻みに震えるように体を揺らして、嗚咽の後のような静かな泣き声が、微かにシルヴァスの耳に聞こえてくるのみだ。
「一体…本当に何があったの?」
表情を暗くして驚くシルヴァスが、優しい手つきでカヤノを抱き起そうとしたが、泣きはらした顔を見られたくなくて、カヤノは小さく抵抗した。
そんな彼女に『大丈夫だよ』とでも言うように、彼はベッドの上のカヤノに覆いかぶさったかと思うと、顔を隠した状態を維持させたまま、後ろから抱き込むように抱えて彼女の体を起こしてやった。
体に力を入れて震えていたのか、指先が白くなっていて冷えている彼女の手を、シルヴァスは自分の手で包み込むと、ゆっくりと握りしめている指を解くように、一つ一つ開かせていく。
すると、体に必要以上に入っていた力が抜けて、強張りが解け、大きく肺の中に酸素が入り込んだのを感じて、カヤノは脱力して倒れ込みそうになった。
その拍子を見計らったようにシルヴァスがベッドの上で腰掛けながら、更に背後から彼女の顔を見ないように配慮しつつ、フワリとその体を優しく包んで抱き直し、カヤノの体を安定させて座らせた。
「君がちゃんと落ち着くまで、いつまででも待つよ。口が開けるようになったら、何があったか教えて。しばらく、こうしているから。」
そう言って、後ろから彼女を包み込んだシルヴァスの柔らかい声が、カヤノの耳元に響いた。
その声質が心地良くて、カヤノは強く瞑っていた瞼をそっと開けた。
自分の後ろにいるシルヴァスには、己の顔が見えないが、カヤノは彼の顔を突如として見たくなった。
ゆっくりと恐る恐る振り返るカヤノの目に、心配そうな表情を浮かべていたシルヴァスの顔が映った。
しかし、カヤノが顔を見せた事でシルヴァスは次の瞬間、とても優しい笑顔を浮かべる。
カヤノはそれに釘付けになって、一瞬恐怖と悲しさを忘れてしまった。
シルヴァスの笑顔は、とても優しくて暖かくて、フワフワしていて、邪気のない春の日差しのような丁度良い温度感で、見る者の緊張感をほぐしてくれるのだと思う。
だが、すぐにカヤノは先程の事を思い出して、再び目に涙を滲ませそうになった。
それより先に素早いシルヴァスが、ようやく振り返って体をよじらせたカヤノの顔を自分の胸に押し付けた形で抱きしめた。
また後ろを向かせない為だが、カヤノは抱きしめられた状態になり、シルヴァスの鼓動が聞超える形になり、妙な安心感に包まれていった。
『不思議…。
サルマン先生や今日会った上司の人達の事も、自分の忘れていた過去の状況を聞いて、急に怖くなってしまったのに。
シルヴァスが傍にいると、逆に落ちついて来る…。
シルヴァスは、温かくて、心地良い風みたいで、肌に触れても嫌じゃないの。
それはきっと…私が彼を好きだからなんだわ。』
カヤノはそう思い、しゃっくりが消え始めて冷静さが戻って来た所で、シルヴァスに今日会った事を話し始めた。
シルヴァスは、カヤノから今日の出来事を聞き、彼女が落ち着いて来た所で体を離してベッドから降りた。
その表情は痛まし気で、カヤノに対して気遣う色を余計に色濃くさせていた…。
「アイツは、君に何て酷い事を言ってくれたんだ…。同じ職場で働いている者の風上にも置けない。」
そう漏らす言葉が口から出た時だけ、心なしかシルヴァスの周りに不穏で鋭い何かが、ほんの少し漂った気がしたが、すぐに彼は元の顔に戻ってカヤノを心配した。
「カヤノ…奴の言ったように、隠していた事があるのは申し訳ないと思う。けれど、全部がアイツの言い回し通りだと思わないで欲しい。僕の意図や心理は全てアイツにはわからない事だよ。」
カヤノは小さく頷いたように顔を少しだけ動かした。
そして、弱々しくシルヴァスを見詰めた。
「わかってる…シルヴァスは優しいし…あの人はあなたに嫉妬してて、面白くないと思ってたんだって言うから、歪んだ見方をしてるのよ。でも…やっぱり、私、自分の記憶を取り戻したいと思ったの。」
「えと…カヤノ、それは学校を卒業してからもう一度、話し合おう?そういう流れになってただろう?」
「ううん。デメリットとか…そう言うのはもういいの。自分の事だもの。辛い事とかもあったのかもしれないけど、私、全部思い出したい。どうしてあなたを好きになったのかとか、どうして今の状態があるのかとか…ちゃんと知りたい。」
「カヤノ…。それは、どうしてもかい?」
シルヴァスは苦しそうに顔を歪めた。
その瞳は、黒に見えていた一部分が深い緑色に光っていて、苦痛に満ちている。
カヤノは、その事で自分も辛いと感じる心に鞭打つように、それでも自分の意志を曲げないようにと言葉を続けた。
「本当は私を引き取るつもりもなかったのに、こんなに良くしてくれていたのは、シルヴァスは優しいから当然だってわかる。でも、それが同情で恋に発展したのとか考えるとモヤモヤするの。」
「同情なんかじゃないよ。君を引き取った段階で、多分…無意識に僕は君に引かれていたんだと思う。アイツが言ったように、本当は僕が君を引き取る予定はなかったんだ。引き取れるほどの資格もあったとは言えないしね。それなのにこうして運命は動いた。」
「たまたまが、重なっただけだって…聞いたわ。」
「アイツにか⁈そんなに偶然が重なる事の方が不思議だろう?それって、僕達は運命に導かれているって思わない?予定じゃないのに君を引き取り、大事に思っている時点で、僕は君と結ばれるべきだって。」
「そんなの、記憶がなければわからないもの…だから、その経緯を思い出したい。それで…自信を持ちたいの。私が…シルヴァスと一緒にいてもいいっていう。」
「意味が分からない!過去を思い出す必要はないよ。自信なんて関係なく、僕と君が一緒にいて良いに決まってるじゃん!こんなに君を大事に思っているって何度も言っているのに!」
少し声を荒げて、シルヴァスはカヤノに問いかける。
「君は、僕が信じられないって事なの?」
「そういうわけでは…。」
「そういう事だろう⁈だから、わざわざ過去の記憶を蒸し返したいんだ!僕は、君が僕を信じてくれない事が悲しいよ。」
シルヴァスは憤慨を混ぜた悲しみに満ちた表情を作った。
カヤノを試すような言い方をしているのは、わざとだ。
彼女に自分を信じると言わせて、少しでも過去を断ち切って欲しかったのだ。
シルヴァスは心の中で叫ぶ。
記憶を全て取り戻してもらったのでは、自信を持つ所か逆だ!
本来のカヤノは、過去の度重なる体験から、当初は話す事だって難しくて…笑顔すら見られない子供だったんだぞ?
少しづつ心の傷が癒えてきた後だって、自分に自信なんか持てた試しがない。
だから、ハルに必要以上なコンプレックスを抱いたに違いないんだ。
シルヴァスはその場で今の事態に面食らい、バカ上司に『あんのぉ野郎!』と叫び出したい衝動を我慢しながら、何とか普通に会話をした。
「僕の上司に何を吹き込まれたかは、聞かなかったとしても想像がつく。でもね、カヤノ、記憶を辿ったからって全てが解決するわけじゃない。過去が必ずしも自信に繋がるとは限らないんだ。それよりもこれからの自分に自信が持てるように生きればいい。」
「だから、その為に過去の記憶が必要だって言ってるんです…。」
「困った子だね。僕は、その為に障害になるのも君の過去だと教えてあげているのに…お願いだからこれ以上、僕を困らせないで。君は滅多にワガママを言わない子だけど、それ以外のワガママなら何だって聞くから…そのワガママだけはヤメテ。」
「我が儘だなんて!私はただ…自分を取り戻したいだけなのに。シルヴァスが言っているのは正しいのかもしれないけど、それでも私は記憶を元に戻したいの。」
そんなシルヴァスの心理など理解していないカヤノは、わなわなと震えながらも口を動かした。
シルヴァスは、おもむろに溜息をついた。
カヤノが思いの外、頑固なのは、記憶があろうがなくなろうが、変わっていないのだ。
こうなると、一体どうすれば引いてくれるのか、シルヴァスは頭を瞬時に回転させようとした。
バカ上司が魔神やマッド・チルドレンについてカヤノが関わった部分を話してないらしい事だけはホッとした。
全く余計な事ばかりしてくれる…。
だが、色々と頭を働かせるシルヴァスが何か言う前に、カヤノの方が先に口を開いた。
「だって…だって…私も思い出したいの。シルヴァスが好きだった冥界の女神様の事を。上司の人が言ってたわ!私、彼女のご両親の事件で過去に冥界に行って協力した事があるから…彼女の事を知っている筈だって。」
シルヴァスはゆるゆると目を大きくさせた。
そして苦し紛れに無意識に言葉が口をつく。
「で、でも…カヤノは前に…彼女よりも僕を愛すって…色々、頑張るって言ってくれたよね?そんなに彼女の存在に拘らなくても…。」
「それとは別でしょ?私はシルヴァスの好きだった人に少しでも近付きたいし…彼女を知りたいの。だって…シルヴァスは多分…私を引き取ったから好きになってくれただけだもの。」
「は?何言って…⁈」
明らかに上司に何か言われたのだと悟ったシルヴァスが顔を思いっきり顰めた。
それにしても、なぜこんなにもカヤノは、自分の昔の恋愛ごとに拘るのだろうか⁈
見た目こそ若いものの、こちらは昨日今日誕生したような若者でもないのだ。
当然、過ぎし日の甘い思い出や苦い思い出の一つや二つあるに決まっている。
もう過ぎ去った過去の恋愛事情など、どうでもいいのに…とシルヴァスは思った。
「あのね、僕はカヤノが一番好きなんだから、他の誰かに近付こうなんて言うようなバカな事を考えないでよ?君らしくある事が良いんだから。きっかけは、君を引き取った事で始まっても、思いの大きさは君への気持ちの方が上なんだから。」
「けど、シルヴァス…私。」
「もういい!やめよう!この話は今はなし!!病院には君の学校卒業後にって言ってたけど…こんな状況じゃ卒業式までも心配だよね?いくらも日にちはないけど…明日もう一度、病院に行こう。」
シルヴァスが勢いよく遮ったので、カヤノは話をするのを停止させた。
こうまで言ってもカヤノにはわからないのかと諦めたシルヴァスは、早急に気の進まなかった再施術を受けさせる事に腹を決めた。
このまま、バカな思いに囚われて、カヤノが過去を悪い状態で思い出してしまうのは、一番避けなければいけない。
そうなる前に、サッサと再施術で記憶のコントロールをしてもらうしかない。
こんな時期に一番避けたい事だが、最悪の場合は卒業式に出られなくても仕方がない。
それ以前にカヤノの心が僕から離れて行ったりしたら、堪ったものじゃないよ。
『そんな事になったら…』とシルヴァスは仄暗い思いを抱く。
それはカヤノの耳には聞こえない、シルヴァス本人にだけ聞こえる呟き…。
「僕はカヤノを無理に攫って延々と犯して閉じ込めてしまうかもしれない。それから、一人ぼっちにして、うんと泣かせて、僕を愛せるようになるまで…僕しか会えないのにたまにしか会いに行ってやらないで…縋らせないと気が済まなくなる。」
自分でも、自分から出た言葉とは思えない不穏すぎる発言が脳内に巡り、シルヴァスは自身を嫌悪した。
だが、実際、本気で否定されたら、そうしてしまうかもしれない自身の凶暴性が、冗談では済まない事も本能で知っている。
極力、そう言う状態での涙は、カヤノには流させたくない。
カヤノはシルヴァスに特別、恐怖を感じていないようだが、実を言うとこの精霊様が彼女の周りにいる現人神の中では、ダントツに危険な存在であるという事は本人だけが知りえない事実だった。
彼女はもっとも顔面詐欺な男と相思相愛になり、本気にさせてしまったのである。
永遠に精霊が本性を出さないで済めば、それに越した事はないが、もし宝物を失くすかもしれないという危機に瀕すれば何をしでかすかわからないのがそういった類の存在だ。
余程、祖先神の業が深いのか…ここまで来ると、カヤノは大分ハードな運命の持ち主だと言わざる得ない…。
現人神女子には、往々にしてそう言った運命の者が多いが、カヤノも例外なくそちら寄りだった。
シルヴァスは、カヤノとの会話を無理矢理、打ち切って『明日また病院へ行こう』と約束させると、彼女を残し部屋を出た。
だが、すぐに普段着に着替えると、彼女の泣き続けた喉を労わる為の温かい飲み物を用意して戻って来た。
今度はまた、先程帰宅したばかりと同じく、恐ろしく優しいオーラと慈愛の天使のような笑みを張り付けて、彼女に謝罪の言葉を吐きながら…。
「さっきはごめんね。君の言う事も正しいよ。君も苦しいんだよね?でも大丈夫。専門医に相談して、何とかしてもらえばうまくいくさ。記憶を取り戻したいなら尚更明日、病院に行かなきゃね。」
「うん…。」
その際に医師に前もって手を回し、記憶を再操作させようなどとは口にせず、シルヴァスはカヤノが素直に病院に足を運ぶように冷静に促して導いた。
優しく促されれば、子供は反抗を示さない。
自分の意見を認めてやるように話せば、頑固なカヤノもシルヴァスに促されるまま首を縦に振るのだ。
シルヴァスは熱くなってしまった自分をクールダウンさせてから部屋に戻り、自分にそう言い聞かせた。
カヤノは入れてもらった温かいホットレモンをチビチビと飲んでいる。
シルヴァスは、それを目を細めて見守っていた。
「まずは彼女がどんなに混乱して、酷い症状に陥っているかという事を医師に告げよう。自分でまともな判断もできないような状態であるとアピールすれば、無論、医師は本人の意志よりも家族の判断に耳を傾ける…。」
専門の児童保護職員ならではの知識で、シルヴァスは自分に思い通りのシナリオを描いていく。
しかし、それが本当にうまく行けばいいが…。
そうならないのが運命の女神の意地の悪い所なのだ。
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