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春の嵐と恋の風59

火曜日に更新の予定が色々と邪魔が入ってしまい遅くなってしまいました。

ご迷惑をお掛けします。

シーソーゲームはしばらく続きます。

 カヤノとシルヴァスは、病院の受付を済ませると『音が鳴ったら診察室の前まで来るように』と専用のポケットベルを持たされた。


そして、待合室で備え付けの雑誌や新聞を見たりして、しばらく過ごしす。


数十分が過ぎた頃、カヤノの受付番号が院内の電光掲示板に表示されて、同時に渡されていたベルの機械音が鳴った。


『こう言うのは、人間社会よりもずっと科学が進んでいると言われている現人神社会のシステムでも、大して変わらないのよね。』

と、一般人間(庶民)育ちのカヤノは、親近感を沸かせた。


そのままシルヴァスと二人で、診察室の前の長椅子に移動し、腰を下ろす。

それとほぼ同時のタイミングで、ドアが急に開いたと思ったら、医師の助手を務める看護士らしき女性に名前を呼ばれた。



「三十木カヤノさーん、診察室にお入り下さい。」



カヤノは慌てて、よろけながら立ち上がる。



「おっと。」



彼女とは逆に落ち着いているシルヴァスが『じゃあ、行こうか。』と続いて言葉を添え、カヤノの手を取って支えるように、ゆっくりとした足取りで室内まで歩いてくれた。

扉の向こう側には、前回、会ったばかりだった担当医が、ニコリと人当たりの良い笑顔で迎えてくれる。



「お久しぶり…と言いたい所ですが、もう再診に来られるとは。随分早い来院で驚きました。つい先日、いらっしゃったばかりだというのに…その後は何かありましたか?」


おずおずと医師に勧められた病院らしい無機質な椅子に再び腰を掛け、口を開こうとすると、車の中で言っていた通り、カヤノを制してシルヴァスが変わりに説明をしてくれた。


話を一通り聞き終わった医師は腕を組んで頷く。



「なるほど。過去の影響だとは思いますが、男性から告白されたのが引き金になったのか…。更に今朝の入浴中にも、頭の中に映像が浮かんで似たような状態に陥ったというわけですね?」



シルヴァスは、カヤノが恥ずかしいと思われるような事は伏せて、さらりとかいつまんだ説明をした。


医師への説明としては、当たり前の事なのだろうが、要領の悪い自分が話したら余計な事まで言って、しどろもどろな説明をしてしまいそうだったので、シルヴァスが上手に伝えてくれて良かったとカヤノは思った。


担当医もシルヴァスの説明で充分理解したようで、まるでこうなる事を予想していたのか、慣れた口調でカヤノ達に告げる。



「そうですか…思っていたより早かったですね。シルヴァスさんやカヤノさん本人の希望のように、そういう事態に陥るのは、養成学校の卒業後の方が都合が良かったのに残念だな。」



キョトンとしているカヤノに担当医は相変わらずの営業スマイルを浮かべながら言った。



「因幡先生による施術は未完成です。遅かれ早かれ、何らかの衝撃を受ければ記憶が零れ落ちてしまうのは必然でした。催眠法などで、鍵をかけるように記憶の蓋を締め直せば良いのですが、全部が忘れたかった記憶ではないのが厄介なんですよ。」



そこで医師は一度、カヤノに尋ねるように問いかけて顔を覗き、確認をするように近付いて真顔に戻して言った。



「もし、あなたが全ての記憶を失ってもいいのなら、簡単なんですが…そうでないなら、当然記憶の取捨選択をせねばならない。」


「え?ええ。できる事なら、失くした記憶を取り戻したいです…。」


「選択肢は二つ。もう一度このまま完全に全ての記憶の蓋を開かなくする催眠のみをかけるか、再施術で催眠を受けながら、因幡氏の調合した薬を服用し、今度は必要な記憶だけを取り出して、前回に説明したようにやり直すしかないです。」


「でも…また全部を忘れるのは嫌だし、後の選択肢はリスクがあるんですよね…?」


「そうです。なので問題なければ、今のままの状態でいて欲しかったのですが…現実問題、頭痛などの支障が出て来たのなら、リスクがあっても放置しない方がマシです。本当は処置するにも前回の記憶削除から、一年以上先の方が脳に負担をかけずに済むので、急いだ再施術はしたくなかった…。」



担当医師はそこで『ふうっ』と一度、息を吐いてから、机の上に置いてあるカヤノのカルテを眺めて、話を続けた。




「けれど、このまま糸がほころびるように昔の記憶が噴き出てくると、その度にショックと頭を殴られたような痛みに襲われるでしょう。日中の作業中に気分を悪くしたり倒れる可能性もある。小出しにそういう状態になるので、世間に出て普通の社会生活を送るのが難しくなります。」


「そんな⁉」


「落ち着いて下さい。それは何もしないで記憶がほころび始めた場合です。何らかの対処法や再施術をすれば大丈夫です。前に話したリスクの件も放置するに比べれば、そこまで悲惨な状態にはならない。多少の脳の混乱により個人差で頭痛などはありますが、処方する薬である程度は抑えられる筈です。」



医師の言葉に取り乱し掛けたカヤノは、少し落ち着きを取り戻したが、不安な気持ちに曇った表情は隠せない。



「そうですか…でも、薬を飲んだりとかはしなければならないんですね。病院にも定期的に通わなくちゃならなくなるんでしょう?」


「ええ、まあ。先程も申したように個人差があるので、最初の何回か飲んだだけで不要な場合もありますが…継続治療が数年にわたる場合もあります。そういう事を含めて、卒業後、問題が起きて来るギリギリまで再施術などの対処を先送りにしたかったのですが、そうも言ってられなくなりました。」



医師はそう言うと、『今はできるだけ早く再施術と治療を始めた方が良い』と意見を前回から180度変えた。


カヤノは、不意にシルヴァスに目をやり、口を開く。



「それじゃ、私…シルヴァスの迷惑になる…。」



シルヴァスは今まで黙って聞いていたが、カヤノの言葉におもむろに首を振った。



「迷惑なんてならないよ。そのまま、僕の所にいて、いずれお嫁に来るなら、しばらく副作用に悩む事があっても就職するより困る事はないんじゃないかな?買い物は僕の休みの日に一緒に行けばいいし、普段は自分ペースで家の事をやってくれるれば充分助かる。気分が悪い時は休めばいい。」


「でも…シルヴァス。それじゃ、悪いわ。今までだって、ずっとお世話になってたんだもの。一般的に私の立場だったら、少しは働けるようになってから恩返しをするべきでしょ?」


「そりゃさぁ、老夫婦の養女にでもなったのならそうかもしれないけどさぁ。君一人養うくらい、僕には何てことなかったし、これからも外で働くくらいなら家でサービスしてもらえた方が嬉しいんだけど?」



シルヴァスは、医師との会話中のカヤノを実に心配そうに見守ってはいたが、彼の心の中は治療が長引けば、カヤノが社会に出たいと言い出しても反対する理由ができたと両手を上げていた。

学校卒業後の選択肢が『治療に専念』となれば、永久就職のみを押し付けても不思議はないし、現人神としての仕事をさせない横暴な夫だと周りや本人からも非難されない。

あくまでカヤノを心配する優しい夫という立ち位置を維持しながら、お嫁さんに迎えた後も自分の用意したテリトリー内で限られた知人との接触以外は自分の家に縛り付け、自分だけがカヤノを独占する事ができるのだ。

それはとても甘美な新婚生活に違いないとシルヴァスは思った。


いずれ家庭のみに入るのだとしても、社会に出ればカヤノの世界は広がってしまう。

スムーズに婚姻を結んで専業主婦になってくれたとしても、カヤノは退屈をして、恐らくまたパートや習い事など、何らかの理由で外に出たがるに違いない。


元は保護者なのだから、それを良しとして引き取ってはいたが、恋情を抱く今となっては、シルヴァスは自分だけをカヤノの目にいつまでも映していたかった。

がんじがらめに拘束するつもりはなくても、あまり遠くまで外に出て欲しくないし…仕事などはアルバイトでもして欲しくない。

簡単な習い事程度はいいが、ハードな活動や本格的な勉強はせずに趣味程度の事をしてテリトリー内で生活して欲しいのだ。

遠出や行きたい所は自分が休みの所にどこでだって連れ出してやるから、とにかく自分以外の風には、吹かれて欲しくないのだという風の精霊らしい独占欲をシルヴァスは持っていた。


 シルヴァスとカヤノのやり取りを聞いた医師は、シルヴァスに援護射撃をするようにカヤノに言った。



「彼の言う通りですよ。現人神の男なんて、共働きする必要ないくらいの稼ぎはあるんですから、お仕事されている奥様方は、趣味か社会的にどうしてもその方の神力が必要不可欠な場合のみですよ。」


「でも…。」


「後はおうちで好きな事をやっていてくれれば、夫は満足なのです。かくいう私めもそうです。仮に妻でなくても、縁ある女性が困っていれば手助けしますし、独身神なら経済的援助も惜しみません。」


「そんな…ものですか?まるで神様みたい…。」


「いや、実際、普通の人間に比べたら、たくさん神様がかかってますから…純粋に神様の現人神もいますし。」


「そ。そっか…。」


「まあ、性格もありますし…たまに悪気はなくてもトラブル起こすような現人神もいますがね…。」



目を白黒させながら、考えるカヤノにシルヴァスは小さく笑んで締めくくる。



「フフ…じゃあ、いいかな?少なくとも、僕に迷惑だとか思ったりしないでいいから。」



カヤノはシルヴァスを見詰めて小さく頷いた。

首は縦に振ったが、本当は少しだけ解せない。

しかし、シルヴァスの腹の中など全く(あずか)り知らぬカヤノは、『神様ですから』と言われてしまえば、それ以上、何かを言う気力がなくなってしまった。

代わりに担当医の説明で、疑問を感じていた事を質問する。



「スミマセン、そのちょっと気になっていたんですが…聞いてもいいでしょうか?」


「勿論ですよ。何ですか?」



何を聞いても担当医は嫌な顔一つせず、柔軟に応えてくれる。

『精神科の先生というのは、皆、こうなのだろうか?』とカヤノは目前の担当医に感心していた。

しかし、医師の方は医師の方で、カヤノが言い淀んでいると思ったらしく、彼女のリスペクトを向けたほんのちょっとした間にも、常に気を払うようににしていた。



「おや、止まってしまわれましたね…どうされました?気になる事はちゃんと聞いて下さい。」



そこですかさずシルヴァスが間に入って医師に声を掛ける。



「カヤノは照れ屋なんだよね。ゆっくり待っていてくれれば、ちゃんと話せるから急かさないでやって下さい。」



シルヴァスに言われて気長に待つ姿勢を示す事を印象付けるように医師がカヤノに微笑む。



「そうなんですか?じやあ、カヤノさんのお話が纏まるまで待ちましょう。」



カヤノは、そんなに真面目に待たれたら余計に話しづらいと両手を顔の前で振って、慌てて話を再開する。



「うえっ⁉いや、いえいえ、そんな大層な質問じゃないんです!纏めなきゃしゃべれないような…えっと、ですから私が気になった事は、単にですね…今、失った記憶を全て戻したままにするという事はダメなんでしょうか?」


「と言いますと?」



担当医が首を傾げ、シルヴァスが片方の眉を顰める。



「その、だから、忘れちゃった事をヒロミ先生の薬で全部思い出せたなら…また、必要な事以外を忘れる必要って…あるのかな?って。今更なんですけど…。」



カヤノの疑問に担当医は眉尻を下げて答えた。



「それは…どうも私めの前回の説明がちゃんと伝わっていなかったようですね。申し訳ありません。」


「いや、えと、そういうわけではないんですけど…。」


「アナタにどこまで話すべきか判断に迷うのですが、カヤノさんには海難事故での記憶が精神的なストレスとして大きなダメージになってしまっていたのですよね?」


「あ、ハイ…そういえば、それで因幡先生が親切心からその記憶を消そうとしたって…。」


「ええ、本人の了承なしというのは違法ですけど、あなたのような患者さんの中にはそうする事に踏み切れない人がいらっしゃるので、因幡先生の気持ちもわかります。時には消した方がいい記憶もあるのは事実なので。」


「その、それは前にも言われましたが、それでも…辛い記憶だとしても…それを受け入れる努力をしてはダメなんですか?」


「いいえ。しかし、それはあなたの幸せを阻むモノでしょう。もし、施術前なら私めも他人の記憶を勝手に消すなどというおこがましい事には反対しますし、無理にとは言いません。ですが現実問題、あなたは既に一度、記憶を処理する施術を受けてしまっている。」



カヤノは、担当医が力説するように声に力を入れたので、ゴクリと唾を飲み込んだ。



「急な記憶の復活は混乱を招く可能性が高い。それにカヤノさん…全てを取り戻す事で逆に失うモノも出て来るという事も考えて欲しい。それは人によって違うが、今のあなたは記憶のない事で不自由があっても、そのお陰で違う未来に向けてをやり直せるというメリットを同時に得ているのです。」


「メリット…違う未来?大変な事のように聞こえます。」


「ええ。こんな事を言うのは失礼ですが、私が伺った話によれば、以前のあなたは今のあなたよりも状況が良くないように見受けられます。その状況とやらをハッキリと教える事は、今のあなたの障害になる危険があるので言えませんがね。」


「わかりました…とにかくお勧めではない選択肢って事ですね?スミマセン、往生際が悪くて。何度も掘り返すような質問をしてしまって。」



医師に言われた事は何か含みがあり、カヤノにとって抽象的だが、そんな言い方をされてしまえば、消極的な彼女は、それでも全部の記憶を復活させたいとまでは言えなくなった。

『わかりました』というより他はない…。


担当医は、カヤノがあっさりと記憶の質問について引き下がったので、再び再施術の話に戻して今度はシルヴァスとカヤノと今後の事を話し合い始めた。

結果、卒業秒読みの今、頭痛などの心配や急な記憶の吹き出しによる不具合は想定されるが、ギリギリまでこのままの生活を続け、卒業と同時に再施術に取り掛かる予約を入れる事になった。


今と同じように全てに記憶に鍵を頑丈にかけ直す施術にするか、一部、学校での記憶など、必要な記憶をセレクトして残し、いらない記憶だけを封印する施術にするかは、卒業後の予約までに考えておくのである。


それまでは、比較的安静にして過去の事は考えないようにし、これ以上、頭痛の原因をつくらないようにと担当医はカヤノに注意を促した。



「それから、今日は一応、万が一に備えての薬を一つ出しておきますので。」



医師の補足にシルヴァスがすかさず聞いた。



「薬って、何の為の?」


「過去の映像だと思われるようなものが頭に思い浮かんで、頭痛や気分が悪くなった時などに飲んでもらう薬です。これも忘れ草を使った薬なんですが。」


「ねぇ…それでまた記憶が消えたりとかはしないのかい?」


「基本、そういう要素はありますが、薬草は分量で効果が違います。今回のお薬は非常に弱いものなので、記憶が消えるというより嫌な気分を一瞬忘れ去れるという効果があるんです。気分を一時的にぼやけさせる事で、何か映像や思い出した事があっても、それほど取り乱さないで済むでしょう。」



こうして、薬について、医師の説明を聞き終えると、カヤノはシルヴァスに連れられて診療室を出た。



 それから家に着くと、シルヴァスはカヤノにも言って、サルマンに電話で連絡を入れた。

内容は卒業後に必要な記憶を取り戻す施術を受ける事になったので、もう午後の補習は不要だという事だった…。


シルヴァスは家に帰ってから、催眠術を利用して、忘れた事に強いロックを掛けてもらうようにすれば、今のままでいいのではないかと何度もカヤノを説得しようと試みたが、彼女は軽い後遺症があったとしても、再施術をしてできるだけ従来、必要だった記憶だけでも取り戻したいと言い張った。


それならば、学校での出来事や記憶も復活させられるのだから、現在の養成学校での特別授業は不要になるし、単位を取ってから卒業という特別措置も要らなくなる。


カヤノが毎日登校しなくなるのを聞き、サルマンは大いに電話口でガッカリしていたが、今まで数年間に渡り教えた内容がカヤノのの頭の中に甦ると知れば、複雑そうな声を出していた。

サルマンは、シルヴァスにカヤノに電話を替わってもらうように告げた。



「そう…それなら、仕方ない…いえ、記憶が戻るなら良かったのよね。この後、学園長先生やオグマ先生にも報告させてもらうわ。」


「ああ。これまで特別授業をしてもらって世話になったから、卒業後落ち着いたら、改めてカヤノと一緒に挨拶に行くって伝えてくれ。どちらにしろ、もう卒業式まで一週間ちょっとしかないし教員は忙しいだろ?」


「そうね…学園長先生とオグマ先生は色々な事に首突っこんでるから、忙しいと思うわ。それより、悪いんだけど、このまま卒業式までカヤノは学校に来なくなるでしょうから電話を替わってちょうだい。」


「何でだい?今、現状は説明しただろう?」


「今回の事態について、直接、謝りたいのよ。それと話したい事もあるの。」


「へえ。僕から伝えとくよ。どうぞ、言っていいよ。」


「ちょっと…シルヴァス先輩…アンタを介したら、プライバシーの侵害だわよ。自分で話すから電話を替わってちょうだいな。」


「断る。でも、カヤノには君が謝ってたって言っとくから安心しなよ。」


「はあ⁈」


「じゃあ、オグマ先生達に伝言、宜しく!」



シルヴァスは一方的に言うと、カヤノには自然に見えるように、にこやかに受話器を置いた。

途中、電話口からサルマンの非難の声が漏れていたが、離れた所に座っていたカヤノには、会話の内容が聞こえなかった。

シルヴァスはカヤノを一瞥して微笑んだ。



「さて、カヤノ。明日から学校も行かなくて良くなったし…卒業までいくらもないけど…暇かな?」


「ええ。普通は皆、どうしているものなんだっけ?同級生達は今、何をしてるのかな?」


「そうだねぇ。人それぞれだと思うけど…時間があるなら、習い事でもしてみたらどうだい?何かやってみたい事とかある?」



カヤノの同級生達は恐らく、婚姻が決まっている者なら花嫁修業や結婚式の準備で忙しくしているだろうし、実家の家業がある者ならその手伝いを…そうでない者は就職先に早めに出向いてアルバイトでもしている筈だ。

だが、シルヴァスはカヤノの耳に以前の自立を連想させる『就職』というキーワードを極力入れたくなかった。

カヤノは記憶を失っている事で、自由登校の期間に何をすれば良いのかピンと来ないだろう。

とりあえず、負担にならないような部類で、遠出しないで済む近くの習い事でも勧めてカヤノの意識が少しでも就職や自立に向かないようにとシルヴァスは祈った。

そして、既に卒業まで一週間余りなのだから、無理に何かしなくても良いとも付け加えて、シルヴァスは親切を装う口調でカヤノに話した。



 最初、カヤノは大人しくそれに従う様子だったが、しばらくして思いついたように自室へ行き、すぐにシルヴァスの傍に戻って来た。

手には何やら広告のようなビラを持っている。

それをシルヴァスに見せるとカヤノは、躊躇(ためら)いがちに言った。



「この前、ポストに入ってたんだけど、私…家事全般がシルヴァスより得意じゃないでしょ?だから、その…こういうの行ってみたいなと思ってたの。あ、ここ、近所だし…交通費もかからないから。」



シルヴァスがカヤノから手渡されたビラに目を通すと、それは人間の女性が運営している料理教室の案内だった。



「基本はチケット制だけど、料理の基本を学ぶ5日間お試しコースがあるでしょ?やれそうだったら、期間終了後、本格的に入会できるの。丁度卒業式までの期間が空いたし、家にずうっといても時間がもったいないから通いたいんだけど…ダメ?」



シルヴァスより、ずっと背の低いカヤノは、無意識に上目遣いになる。

その顔にシルヴァスは、世の男性陣同様…弱かった。

そして、カヤノがもう一度、シルヴァスの顔を窺うように問いかけて来る。



「さっき習い事でもって勧めてくれたから…もし、シルヴァスが良ければ…なんだけど。」



自分に問いかけて来る彼女の所作が、甘えているようにも見えて、シルヴァスは嬉しくなった。

カヤノから自分にお願いをするなんて事は、元より滅多にないのだ。


できる事なら卒業式までの数日間しかない期間など、家でのんびりしていてもらいたかったが、以前のカヤノなら皆無だったせっかくの『お願い事』を無下にする事は、シルヴァスにはできなかった。

カヤノの望みを聞いてやる事で、次からも遠慮なく自分に頼み事ができるような状況にしたいとも考えている。


そこでシルヴァスは、彼女のやりたい事を、二つ返事で了承した。



「うん。いいんじゃない?若奥様用の教室みだいだね。お昼過ぎで終わるし…負担にもならなさそうだ。家からもそう遠くないのなら、僕も安心だよ。」



シルヴァスの賛成意見を聞いて、カヤノは跳ねて喜んだ。

その様子が素直で愛らしかったので、シルヴァスはついだらしなく、ふにゃっとした顔で笑んでしまう。



「フフ、そんなに喜ばれると、僕の方が数倍嬉しくなっちゃうな。」


「シルヴァス、ありがとう!作った物を試食すると丁度お昼ご飯代わりになって一石二鳥なの。この教室、ずっと気になってたのよ。だって、ほら、教えてくれる料理例が美味しそうなんだもの。」



チラシの料理の盛り付け例の写真を指差して話す現金なカヤノに、目尻を下げ続ける精霊様は、かつてない幸せを感じていた。

カヤノは、その料理を習って自分に作ってくれると言うのだ。

これがご機嫌にならずにいられようか。


サルマンは少なくとも卒業式までの数日間は追い払ったし、再施術がうまく行けばカヤノの術も完全にかかり、自分に都合の悪い部分は消したままにしてもらうように言えば、彼女にとって必要な部分がいくつか戻るのは、むしろ良い事だ。

ようやく、ここに来てクシティガルヴァスの言う順風満帆だという状況に、本当の意味でなりつつあると感じ、シルヴァスは喜びを強く噛みしめた。



「ようやくここまで来た!感無量!!」


「どうしたの?シルヴァス。」



独り言が口から漏れたが、シルヴァスは首を捻るカヤノを気にもせず、ヘラリとまた笑った。

カヤノは、よくわからないがシルヴァスの機嫌が良さそうなので『まあいいか』と、早速次の日に料理教室へアポを取る事にしたのだった。



 ☆   ☆   ☆



 次の日。

料理教室に電話を入れた後、直接出向いて入会すると、すぐにお試しで一回サービスの体験教室を申し込んで家に戻る。


こうしてカヤノは、晴れて料理教室へと通い始めた。


シルヴァスが考えた通り、教室の生徒達は若い奥様が多かった。

もしくは、カヤノのように結婚を前提にしてお付き合いをしている相手のいる女性や結婚式の日取り待ちの女性もいる。


カヤノはそこで人間の友達を作り、楽しく過ごしていた。


昔は、現人神関係者と会う時以外の髪や目の色も、家を一歩出た瞬間から黒色に見えるようにしていたのだが、記憶を一部喪失してからは、すっかり黒髪で行動するという事自体を忘れていて、特に元の色のままで生活をしていた。

カヤノの毛色は、特別突飛な色というわけではなかったし、顔立ちも大和皇国人らしい為、少し海外の血が入っているのだろう程度の認識はされたかもしれないが、『変わった色ね』と少しだけ目を引くらいで、何か聞かれるわけでも、遠巻きに見られる事もなかった。

そういう日が続くと、自然と素の自分でいる事に抵抗がなくなり、それが当たり前になった。


 料理教室では、先生も親切で優しい中年の女性だし、卒業後もしばらくシルヴァスに言って通わせてもらいたいなぁとカヤノは考えていた。


シルヴァスも覚えて来た料理をカヤノが一生懸命作って振舞ってくれるとあって、

『本当に僕ら、新婚さんみたい!』

と、終始初日からご機嫌だった。


カヤノ自身も気分はすっかり結婚秒読みの未来の奥様のような感覚に陥っている。



 こんな風に継続して教室に通い始めて3日が経ち、幸せな時間を過ごしていていた中。


今日も料理教室の帰り、仲良くなった女性と途中まで一緒に道を歩いていると、あまり会いたくはない相手と偶然に会ってしまう…。



「あっ!カヤノちゃん⁈」



向こうがすぐに気付いて、車道に停まっていた車の中から飛び降り、カヤノの傍まで勢いよく走って来た。


その相手というのは、いつぞやのシルヴァスの上司の男である…。


カヤノは思わず口を大きく開けて彼の姿を凝視した。


自分の隣りで一緒に歩いていた一般の人間女性には、特にシルヴァスの上司の男を会わせなくなかったとカヤノは思った。



 なぜなら、男はかなり変わった格好をしていたからだ。


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