春の嵐と恋の風56
深夜の更新になりました。
一難去って、又、一難…です。
シルヴァスに病院へ連れて行ってもらった次の日から、カヤノは時折、因幡大巳が調合した薬の置かれている背の高い戸棚を見詰める事が増えた。
小柄なカヤノが、その戸棚の上の方に置かれているものを取る為には、踏み台を使わなければ無理な高さである。
だから、あえて置かれているであろう薬の瓶を取り出して、まじまじと見ようとは思いきれないのだが、それを飲めば記憶が戻ると知れば、手に取ってみたいという衝動が起きる。
診察を受けて、その薬の服用によるリスクを聞き、シルヴァスはとても心配してくれた。
大きな不自由がなければ、医師もお勧めはしないと言っていたので、卒業前にその薬を使うのは宜しくないと自身でも判断し、納得してはいる。
けれど、今回は見送ったからと言って、失った自分のわずか数年の時間が気にならないわけではない。
「病院の先生やシルヴァスが心配してるから言えないけど、今は確かに使わない方が良さそうだけど…卒業して、落ち着いたら記憶を取り戻す為に使用してみたい気持ちもあるのよね。」
シルヴァスの留守中や学校での勉強休憩の合間、カヤノは始終、その考えに取りつかれていた。
なぜなら、カヤノはどうしても忘れられなかったのだ。
あの薬を持ってきた張本人である、シルヴァスの上司だという男の言った言葉を。
『あの女性に入れあげてた奴が君に惚れるなんてありえないよな?』
と、上司の男は確かに言った。
「あの女性って誰?すごい美人の…冥界女神って言ってたわ。私とは全然、違うって…。」
カヤノは、シルヴァスと出会った経緯すら思い出せない。
当時の自分がどんな風に彼の事を好きになっていったのかも…。
記憶のない今だって、こんなに自分を大事にしてくれるシルヴァスをすぐに好きになったし、優しくされれば胸が高鳴る。
記憶がなくたって自分は、ちゃんとシルヴァスのお嫁さんになりたいと思うようになった。
だから、きっと自分の好みはシルヴァスであって、何度、記憶を失くしたとしても、自分は彼に恋をするのかもしれない。
つまりは彼が自分のド・ストライクゾーンという事なのだと思う。
自分が彼の事をちゃんと好きなのだから、今更、過去の経緯なんてどうでもいいのではないかと思われるかもしれない。
だけど…それでも知りたい。
「シルヴァスは、わからない事は教えてくれるって言ってたけれど。」
シルヴァスと自分が結ばれる事を約束するに至った大切な思い出を!
それに自分にとっては、シルヴァスがストライクゾーンでも、彼はそうではないのかもしれない。
「記憶があった頃の私なら、シルヴァスの好きだった人の事も知っていたのかしら?」
カヤノはその事について、シルヴァスに尋ねたい気持ちもあったが、同時に知るのが怖くもあった。
あの上司の人が言うように、シルヴァスが好きだったという女性がとても素敵な人で、カヤノとは全く違うと言うのなら、シルヴァスの本当の好みの女性像は彼女なのかもしれないではないか。
シルヴァスに正直にそれを聞いて、もしもはぐらかされたら、それを肯定しているようでショックだし…無理矢理、聞き出しても記憶のない自分には、シルヴァスの本心を判別しづらい。
上司である男性が言ったように、保護者になった事でシルヴァスが自分に情が移っていたのは、事実だと思う。
「シルヴァスは、あの時、今は私が一番で…彼に相応しいと言ってくれたけど…私を傷付けないようにそう言ってくれたのかもしれない。だって、『今は』っていう事は、過去は違うって事だわ。」
カヤノは、また不安になっていた。
どういうわけか、彼女はいつも自分に自信が持てなくなるような事が次々と起こる星回りなのだ。
上司の男の話では、シルヴァスはその女性に入れあげていたと言っていたが、それと比較して自分に対してのシルヴァスは、どうだったのだろうかとカヤノは思う。
一体、どの段階でシルヴァスはあのように自分に対して甘い雰囲気になっていったのだろうか?
その過去に好きだったという女性に対しても、カヤノにするように彼は振舞っていたのだろうか?
記憶を失った後では、既にシルヴァスは自分とお付き合いをしているらしい状態だったので、せめて、彼が自分とそういう仲になるまでの記憶を思い出せば、もう少し自信を持てるかもしれないとカヤノは考えた。
「ちゃんとシルヴァスを信じてるわ。私を好きだって言ってくれているし、すごく甘やかして、優しくしてくれているもの。でも…。」
カヤノは自分に言い聞かせてるように独り言ちて、すぐさま、色々と思い直した。
「私が彼に告白したらしいから、彼から私を口説いたわけではないのよね?それなら、私が彼の理想像でなくても仕方ないわ。それでも私の事を受け入れてくれたのだとすれば、良しとすべきじゃない。」
それに、私自身がそれで良いと思っていたから、彼とそういう関係に発展したのだろうし、過去の自分が選んだ事だもの。
ちゃんと理由があって、お付き合いするに至っているんだろうから、何も問題なんてない筈よ。
「仮に上司の人の言う通り、私がシルヴァスの好みのタイプではなくても、気に何かしない…けど、やっぱり、少し悲しいから…せめて、こうなるに至ったまでの出来事を思い出したい。」
カヤノは俯いて、いつの間にか唇をかんでいた。
「今すぐじゃなくても…いつかだけど…。そうすれば、きっと納得できる筈だもの。」
カヤノが一人で思案していると、玄関のチャイムが鳴った。
我に返って、壁に掛かっている時計に目をやると、時刻は18時半。
シルヴァスが戻って来たらしい。
「あっ、今日は遅くなかったのね!」
カヤノは、今までの俯きがちの顔とは打って変わって、嬉しそうに玄関に駆け寄った。
急いで鍵を開けると、思っていた通り、ドアの向こうにはシルヴァスが立っている。
カヤノが出るなり、シルヴァスはいつものように相好を崩した。
「ただいま、カヤノ。お腹減った?急いでご飯の支度するから、君は学校の宿題を少し見ていなよ。食後、わからない所を教えてあげるからピックアップしておいて。」
「ハイ!でも、私もお手伝いしたいな…なんて。」
「嬉しいけど、それは無事学校の単位を取り終えてからにしよう?時間はたっぷりあるんだから、今は勉強に専念してね。じゃないと、僕も早く君に正式なプロポーズができないだろう?」
カヤノは目を見開いた。
室内に入ったシルヴァスは、歩きながらもあざとく首を傾げて、笑顔のまま続けた。
「君と今すぐ結婚したいけど…一人前になった君に、正式に受け入れて欲しいからね。」
カヤノはふるふるしながら、まだ着替えもしていないシルヴァスに抱きついた。
再三シルヴァスは思う…過去のカヤノだったら絶対にやらなかったであろうリアクションだ!…と。
「うん!私、部屋で宿題やっているから、ご飯ができたら呼んでね。早く卒業単位を取得してできるだけ卒業式後、すぐに正式な卒業資格をもらうように頑張る!」
「そうしてくれると嬉しいな。僕も早く、君を自分のモノだって、世界中に言って回りたいもの。」
世界中に言って回るとは大げさな…だが、風の精霊なら本当に簡単に世界を巡れるのかもしれない。
全く、冗談とは言えないアメージングすぎて聞けないシルヴァスの一言に、カヤノはしばし言葉を失う。
シルヴァスの方は、精一杯デレた顔で恥ずかしそうにしている。
一見、二人の様子は傍から見れば初々しくて、とてもではないが相手の男が軽く200歳は超えているとは思えないほど、微笑ましい絵面である。
逆に言えば、カヤノはそれだけ長い間、独り身だった精霊様が、ようやく迎えようとしている嫁なのだ。
大事にしないわけがない。
とはいえ、どんなに見た目があどけなく映っても、存在年数的には薹が立っていてもおかしくないシルヴァスの腹の中は、小娘をたぶらかしたような状況ではなく、確実に大人の女性の状態で自分の口から正式に妻になる契約を了承させたいという気持ちがあった。
そして、後々も本人や周りにどうこう言わせたくないという感情が入り混じっているのだ。
無論、女性に対してロマンチックなプロポーズをすべきだという己のポリシーもあるにはあるが、そう言った感情の方が多くを占めている事は自分だけの秘密である。
純粋にシルヴァスが、以前言っていた通りにカヤノへ盛大なプロポーズを企画してくれているのだと確信して、しばし黙っていた彼女だが、喜びを隠せずにシルヴァスに可愛い言葉を返した。
「今だって、もう私の心はシルヴァスのモノだけど、世界中に言うのは無理よ。そんな事しないで、ずっと傍にいてくれた方がいいわ。」
こうして、何度も似たようなシーンを繰り返す二人は、バカップルそのものだが、本人達に自覚はない。
精霊様はカヤノに対して、更に目尻を下げた。
もう、そのまま流れて目が下に落ちそうな勢いだ。
「あああ、カヤノが可愛い…勿論、ずっと傍にいるよ。離れてって言われても、くっついてるから。もう早期退職願いを先に出しておこうかな?早めに出しとかないとすぐに辞めさせてもらえなさそうだし。」
「シルヴァスってば、冗談でも仕事を辞めるなんてダメよ。あなたがたくさんの子供達を救ってあげる所も好きなの。私もそれで救われたんだもの!」
「そう?じゃあ、もう少し頑張って地上で働くよ。本当は君を連れて精霊界でのんびり暮らしたいと思ったけど…君が望むなら、最大で君の人間の体の寿命分は待ってあげるね!」
「うん!私、その為にも早速、サルマン先生のプリントを確認して来るね。」
「ああ、僕も手を洗って着替えないと…。」
そう言って、シルヴァスは少しだけ残念そうな表情を浮かべた。
カヤノが自室に入ってから、洗面所で手を洗ったシルヴァスは服を着替えて、いつものシンプルなエプロンを装着しながら、唸るように独り言をつぶやいた。
「たくさんの子供を救ってあげる所が好きとか言われちゃうとなぁ…参るよね。嬉しい、嬉しいけど、サッサと現人神を引退して、カヤノを連れて精霊界に帰りたい気持ちも促進されるんだよなぁ…。」
精霊と正式婚姻を結んでしまえば、現人神として現世にいる間だろうと、肉体の死後だろうと、シルヴァスと同様に花嫁も自在に精霊界に連れて行けるようになる。
カヤノの肉体消滅後も神界には行かせないで、精霊界で引き取るつもりだ。
「早いうちに精霊界に慣れさせたいんだけど…まあ、そういうのはオイオイ考える方がいいか。」
シルヴァスは、まな板の上の大根を『ダン!』と包丁で一刀両断にした。
「フロフキ大根でも作るか。カヤノは若いのに草食だからね。」
一方、カヤノはシルヴァスの甘い言葉で、すっかりと泣いたカラスがもう笑った状態で自室に飛び込んだ。
現金なもので、不安だった気持ちは、既に吹っ飛んでいた。
意気揚々とサルマンから渡されたオリジナルプリントに目を走らすカヤノ。
このまま、二人が何事もなく幸せになれれば一番いいのだが…神様も人間も現人神も等しく世界に試されるのが定め。
そうして、誰しもが次のステップへと成長を遂げるのが道理である。
☆ ☆ ☆
暗い気持ちが嘘のように、カヤノは次の日、鼻歌交じりで学校に到着した。
いつものように、サルマン先生が教室で待っている。
「あら、カヤノ…随分、ご機嫌ね。何か、イイ事でもあったのかしら?」
「え?そうですか。別に…その、いつも通りですよ?」
「嘘をおっしゃい。この所、休憩時間もボーッと一人で何か考え込んでいるような顔をしていたじゃないの。」
教室に入った途端、担任にそう指摘されてカヤノは目を瞠る。
教師というのは、本当に生徒をよく見ているのだと驚いたのだ。
というか、現人神専用の学校だから、ここの教員達が特別なのかもしれない。
サルマンに隠し事は無理そうだと判断したカヤノは、少し惚気て機嫌の良い理由を話す事にした。
「ウフフ、先生に隠し事ってできないみたいね。じゃあ、教えてあげます!」
少しお茶目な顔を覗かせるカヤノに、今度はサルマンが目を瞠る番だった。
記憶を失くす前のカヤノにはなかった明るくて可愛いしぐさが、最近ではちょっとした合間に見られるようになった。
今も、もったいぶって話す姿が年齢相応の女子生徒の反応らしく、サルマンはホッとした気持ちになる。
以前のカヤノは、少女らしさを何年も凍らせていたようにも見えていたのだ。
「あら、そんな風に言われると気になるわね。隠し事だって聞いて、余計、聞かなきゃって思うわ。溜めてないで、早く教えなさいな。」
サルマンもカヤノの変貌を微笑ましく見詰め、彼女に合わせてお茶目に片目を瞑り、気軽い返答をした。
そこで、カヤノは昨日のシルヴァスとのやり取りを嬉しそうにサルマンに話す。
最後に無邪気なカヤノは、何の曇りもない表情で担任教師に、卒業後はシルヴァスのプロポーズを受けるつもりだと、まるで内緒話でもするように彼の耳元に唇を寄せて、そっと告げた。
担任教師は、きっと自分同様に喜んでくれるに違いない。
話を聞いて、教師が教え子に祝福の言葉を掛けてくれる筈だと、カヤノは疑わずにサルマンの顔を期待を込めて覗いた。
しかし、カヤノの瞳には何かに耐えるように、小刻みにプルプルと震えるサルマンの姿が映った。
「せ、先生?」
思わず、心配になってカヤノは声を掛けた。
あどけなく上機嫌だった彼女の顔が不安に一転、眉が顰められる。
何が何だかわからないという風に、首を何度も傾げるカヤノに、座っていた教室の生徒用の席から、ゆっくりと立ち上がってサルマンは言った。
「なあ、カヤノ…。それは、シルヴァスが言ったのか?」
この期に及んで、また、良いように言いくるめられているであろう教え子に、サルマンは冷気を宿して…けれど、何とかお飾りの笑みを張り付けて迫る。
サルマンからしたら、凍り付くのは当たり前だ。
彼の頭の中では今、過去の様々なカヤノの珍事件が再生されている…。
いきなり、養い親の元を離れ、一刻も早く自立をしたいと言い出した事。
軌道に乗っていると思っていた矢先、冥界で魔神に襲われ、負傷だらけで心配させられた事。
契約書にサインをし、精霊と勝手に賭けを始めた事。
誰でもイイから、お見合いで結婚相手を決めると言い出したおバカ発言…。
そして、極めつけはつい最近、ここ数年の記憶をごっぞり失って、せっかく習得させた授業を限りなく無駄にしてくれた事!
しかも、今度は最初、『そういう関係ではない』と言い張っていた保護者のシルヴァスが、図々しくカヤノの恋人設定になっているとか…。
もう、本当に何なの⁈
とサルマンは強く思った。
その拍子に彼の中で何かがキレた。
「もう、ついていけない…我慢ならねぇ。散々翻弄してくれたよな。考えなしが過ぎるだろ?」
担任教師の笑んでいるのに威圧的な雰囲気に、本能的に危険を感じて、カヤノは驚いて座ったまま体を後ろに引くと、サルマンを見上げた。
心なしか、担任の言葉遣いが一瞬、普段とは違っていたような気がする。
とりあえず、何か言わなければと、カヤノは教師に問われた事に恐る恐ると言った感じで返答した。
「ええと…シルヴァスが言った事もあります。でも、自分でも察した事もあるし…。あの、先生…それで、その事が何か?」
「いーえ、別に?だけど、アタシはアンタと保護者殿が恋仲だなんて、初耳だったものだからね。」
カヤノは、サルマンに押されるようにジリジリと椅子の後ろに重心を掛けて下がりながら、脳内で『?』マークを点灯させた。
普通に考えれば、担任に一々、保護者と恋仲になりましたなんて…申告するのもおかしな話なのだから、初耳であるのが然りではないのだろうか?
サルマンは以前、カヤノに精霊との賭けについて聞いていたので、元々カヤノに対して独占欲丸出しだったクセにそれが恋情だと認めなかったシルヴァスが、自分の気持ちに気付き、養い子をモノにしようとしている事はわかっていた。
同じように自分も、あわよくばカヤノを手に入れたいと思っているが、担任教師という立場上、彼女の卒業までは、一切手が出せないでいる。
先輩教師でもあるアレステル・オグマに指摘されている事もあり、自分もカヤノにアプローチをかけたいと、はやる気持ちはあれど、なお、ヘタな事もできずに見守るに徹していた。
それでも、記憶を失うという彼女にとっての不幸であり、自分にとっては悔しい事件があった為、シルヴァスの賭けを含むカヤノへの口説きも、一時的に保留になっているものと考えていた。
だって、そうだろう?
卒業式に単位が間に合わないって言うのに、第一優先すべきは学業であり、色事はそれが一段落してからだと言うのが筋に決まっている。
ましてや、カヤノは今までの事をすっかりと忘れてしまっているのだ。
そんな状態の相手に、モーションかけるなんて卑怯じゃないか!ヌケガケだ!
これではまるで、記憶をないのを良い事に、年若いカヤノを騙しているみたいだ!
別にカヤノをモノにするという競争をシルヴァスとしているわけでもないのに、サルマンはそう思って、怒りを噛み殺した。
サルマンの意見はもっともだ。
だが、それはサルマンが教師という立場でもあり、多少は常識的に物事を考えるからだという事に他ならない。
シルヴァス含む一般的な男性現人神からしたら、ハッキリ言って、学業よりも自分の元に嫁いでもらう方が余程、優先事項なのだ。
サルマンは負け戦も覚悟していたが、卑怯な手を使われるのは許せなかった。
シルヴァスの方からしたら、卑怯な手を使った気なんてないのだろうが、面白くないサルマンはカヤノを含め、自分の生徒達が卒業するまでは、大人しくただの担任でいなければと思っていたのだが、ライバルがそのつもりならば、自分も大人しくしてなどいられないと、血気盛んな若い教師らしく考えを変えた。
幸い、カヤノは記憶がない事で、トラウマがナリを潜めている。
今ならば、本来の男としての自分で思いを伝えても平気ではないだろうか?
サルマンがそう思考しながら、ギラギラとした目でカヤノを微動だにせず射抜いていると、さすがにその状態に耐え切れないと言った様子で、カヤノがオドオドとしながら口を開く。
「先生…あの…何か私、いけない事を言ってしまった?」
サルマンはギラつかせた瞳とは裏腹に口元だけは笑んだまま、カヤノに言った。
「いけない事?そうね…カヤノは、本当に少しお馬鹿さんな所を直した方がいいかもしれないわね。」
何だかサルマンは、顔の外側だけ笑っているようだとカヤノは思った。
「え?ええと…私がバカな所?ご、ごめんなさい。確かに私、昔から要領が悪くって…不器用で…。」
「そういう事じゃないのよね。でも、アタシ、完全に煽られたわ。」
クスリとまた笑んだサルマンの周りの温度が下がったようだと、カヤノはまた…感じた。
「わざわざ、アタシに惚気話を聞かせてくれちゃうとか…困った子ねぇ。忘れちゃってんのかもしれないけど、カヤノ…アンタ、何で自分がアルバイトしてたかとか考えたりしないの?」
カヤノはハタと気付いたような顔をしてから、サルマンを見つめ返す。
「アタシはアンタに自立をしたいって相談を受けてたんだけど?ねえ、それって、シルヴァスと結婚しようと思っていたカヤノがする事なの?」
「自立を…私がしたいって、先生に相談をしてた?」
「そうよー。それにね、カヤノ…アタシはアンタに…いや、カヤノ。俺もお前を好いている。」
「え?は?」
急に声色と口調が代わったサルマンに驚いて、カヤノは口を開けっ放しにした。
「カヤノは…覚えていないかもしれないが…俺はお前が卒業したら結婚してもいい。場合によっちゃあ、仕事も辞めて、お前と今すぐ一緒になっても構わないと、前に言ってやったんだぞ?」
「えええ⁈」
つまり、サルマン先生は結婚してもいいくらいに、私が好きだって思ってくれているって事⁈
カヤノは、衝撃を受けて呆けた状態のまま停止した。
驚きのあまり、小さく叫ぶカヤノは目を最大限に見開いて、赤毛の美人な男性教師をマジマジと目詰め続けた。
「何だ?そんなに見詰めるなよ…。お前が記憶を失くしたって知って黙っていたが…俺だって教師である前に男なんだ。お前のそのマヌケな口…開けっ放しにしてると塞ぎたくなるだろうが。」
スゴイ色気だと…サルマンの持つ教師とは思えない圧倒的な美形オーラの強さに、カヤノはクラクラした。
サルマンはシルヴァスと同じように別に嘘は言っていない。
記憶を失う前のカヤノが、彼を男として意識してはおらず、賭けの事で『教師として自分を犠牲にして』カヤノとの結婚を申し出てくれたのだとは彼女本人には思われていたが…。
この流れで今の言い回しをすると、トラウマ減少で自己評価の低さが幾分、マシになっている現段階のカヤノが聞けば、
『サルマンは自分の事を好きで告白してくれていたのだ!』
と純粋に受け取る事ができた。
勿論、それはそういう風にカヤノが思い込むように、サルマンもシルヴァスのような嘘はつかないけど自分にとって都合の良い誤解を生むような言い回しや言葉だけを過去からあえて引用しているのだ。
さすがは、恋愛が絡んだ時の男神…シルヴァスもサルマンも、結局はどっちもどっちである。
カヤノは、狼狽えながらも頭の中身を高速で回転させ、一つの考えに思い至る。
『そうか!だから、私はシルヴァスの求愛にすぐに答えなかったのかもしれないわ!!』
シルヴァスは前に、自分は結婚を申し込んだがカヤノからまだ返事をもらってはいなかったのだと言っていた。
『もしかしたら、私は迷っていたのかも…。シルヴァスには告白したものの、サルマン先生が私を好いてくれているのだと知って。二人ともすごく綺麗な男の人だもの…選ぶなんておこがまし過ぎるし、きっと迷っていたに違いないわ!』
カヤノは、自分に盛大にモテ期が来ていたのだと思い…勘違いをした。
まあ、確かに二人の男がカヤノに気があるのは事実だが、彼女の心理は真実とは大きく違う。
『どちらの気持ちを選んだらいいのわからなくて…まずは自立してから考えようと思ったのならば、色々と辻褄が合う!!』
カヤノは更に斜め上に飛び始めた思考を発展させる。
『シルヴァスがサルマン先生の告白を知っていたのかは不明だけど…私はきっとシルヴァスとサルマン先生のどちらを選ぶか決めかねていたんじゃないかしら?』
正解は違うが、カヤノはそうに違いないと合点がいった。
「おい、カヤノ…聞いてんのか?俺の事を無視して、上の空ってのいうは舐められてんのかよ。」
不意に、自分の思考の世界に入っていたカヤノの耳に、すっかり男らしい言葉遣いが入ってきて、ハッと目の前のサルマンを見ると、自分の方にかがんでいる彼の顔が迫っていた。
驚きのあまり、そのまま先程の状態で口を開けっ放しにしているカヤノの唇に、不意にサルマンのそれが重なった。
何が起こったかわからないカヤノは、目を最大限に見開いたまま硬直くした。
サルマンは、すぐに唇を離さず角度を変えてカヤノの口内を蹂躙しようと舌を動かす。
しかし、次の瞬間、カヤノは得も言われぬ恐怖が押し寄せてきて、急激に体に震えが走ったのを感じて、力いっぱいサルマンをつき飛ばそうとした。
だが、今までオネエキャラだった担任の体は、とても鍛えられているようで硬く、押しても微動だにしない。
「怖い!!」
自由にならない口から言葉が漏れたが、塞がれているのでハッキリとした発音にはならない。
カヤノの恐怖と怯えに気付かないサルマンが、強引にカヤノの体を押さえつけると、カヤノ自身、なぜここまで怖いのかはわからないが、本格的に体が震えだし、目からは涙が溢れ出した。
さすがにガタガタと震えだした教え子におかしいと気付いたサルマンは、合わせていた唇を離して拘束を緩めた。
そして、カヤノを見据えて目を丸めた。
彼女は青い顔で酷く震え、目から溢れ出した涙と共に、しゃくりを上げ始めていたのだ。
その後、ナリを潜めていた筈のトラウマによく似たパニック症状が出始めて、サルマンはいつもの女性の言葉遣いで彼女に謝り、落ち着かせる為に肩を抱こうとしたが、カヤノは無意識に彼の手を振り払ってしまった。
カヤノ本人も自分の行動が信じられなかったようで、怯えに加え驚愕した表情でカバンに勉強道具をしまい込むと、サルマンに『ごめんなさい!』と言って教室を飛び出し、家に帰ってしまった。
「少しマズかったな。カヤノのトラウマは、記憶がなくても完全に治っているわけじゃなかったのね。」
もし、明日学校に来なかったら、シルヴァスの家まで家庭訪問をしなければならないと、サルマンは顔を歪めて後悔を漏らす。
「クソッ…オグマ先生に同伴を頼まなきゃならなくなるな。失敗したか?何、言われるかわかったもんじゃない。こうなると本格的に学校を辞めざる得なくなるかもしれないな。」
サルマンは見た目とは相反する男らしい一面を持っており、仮にそうなってもカヤノを手に入れられるなら本望だと思っていた。
本日もアクセスに感謝です。
次回、何事もなければ、火曜日更新予定です。
投稿できなかった場合、金曜日になるやもしれませんが、次回もどうぞ読みに来てやって下さればありがたく存じます。




