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春の嵐と恋の風㊹

…事件です。

 「ごめんなさい…ヒロミ先生…サインは、できません。学校の先生にそういう事は簡単にしちゃダメだって…言われたの。残念だけど…そのお話は…シルヴァスやサルマン先生に…相談して…。」



カヤノは、因幡大巳の申し出にあやうく首を縦に振りそうになったが、サルマンの言葉を思い出し、すんでの所でとどまった。

だが、言葉を最後まで紡ぐ前にカヤノの声は因幡大巳に遮られる。



「わかりました!残念です。そうですか。学校の先生が?余計な事を…いえ、しっかりした教育をされていて結構ですね…さすがは養成学校。女子部でもそれなりに教育をしているんですねぇ。」


「女子部でも?それって、どういう…?」


「ええ、でも、婚活中の独身男神についての知識は、さすがに、そう、たくさん教わらなかったでしょう?女神方にはシークレットが多いんです…男の都合って奴ですよ。現人神は男が圧倒的に多いですから、どうしても数の多い方に有利な社会になるのは人間社会と同じです。」


「・・・・・。」



急に妖しい雰囲気を醸し出した医師に押されて、カヤノは何も言えなくなり押し黙った。

因幡大巳の方は、ちょろちょろと蛇らしい舌を覗かせるとはちみつ色の瞳孔の周りに所々、金の光の虹彩を宿し、なぜか壮絶な色気を放って話し続けた。



「学校の先生は教えてくれませんでした?容易に男について行ってはいけないとか。それにカヤノたんは、うちの受付スタッフにも注意されていましたよね?婚活中の男神と二人きりにならないように。特に私とは…ね?」



医師に問いかけられても、カヤノはまだ返事ができなかった。

たどたどしくあっても、何とか言葉を出せていた口が開かないのだ…。

カヤノの体は、蛇に睨まれた蛙のように、なぜか動かなかった。

そして、本能的なものなのか鳥肌が立つ。



確かに…アルバイトをしていた時、受付の先輩はそんなような事を言っていた気がする…。



そんなカヤノに因幡大巳=ヒロミ先生は熱っぽい瞳を向けながら、クスクスと笑い声を漏らした。



「おや?君をリラックスさせる為にお茶に入れた薬が効きすぎてしまいましたか?それは、いけない。少し休んで下さい。その間、サービスで施術をしてあげます。いつまでも異性とそんな風にしかしゃべれないなんて…不便でしょう?」


「や…う、で、は…。」



元・上司に抗議をしようとしたが、カヤノの口は回らなかった。

そのうち視界が揺れたような気がして、体がクラリと傾いた。

それを鮮やかに離れて座っていた医師が、立ち上がるとナイスキャッチとでも言うように、片手で支えた。



「おっと…危ない。診察用の寝台まで運びますね?あと、サインですが…こちらは後日でも構いません。施術が終了後、効果があったら書くという約束をしていた事にしましょう。今の記憶も消してしまえば、あなたは私が話した事を信じるしかなくなりますから問題ないでしょう?」



カヤノは、ウトウトとする意識の中で恐怖を感じた。


医師が簡単に自分の記憶を消すと話しているのを聞いて、体の自由が利かず騒ぐ事もできないが、とても怖かった。



施術って…記憶を消すって?

一体、どんな風になっちゃうの?



今になってカヤノは、シルヴァスに黙って家を出た事を後悔した。

自分の意識がぼやける中、因幡医師はカヤノに語りかけながら、カチャカチャと医療行為の用意に取り掛かっている。

恐らく、忘れ草から作られた薬や催眠術などに必要な道具を出しているのだろう。



「婚活中の男神は花嫁を得る為に姑息になんです。それなりに卑怯な手だって使いますよ?普段はそんな事ないですが…花嫁ゲットに関しては別です。なりふり構ってるとライバルに勝てませんし、特に私のような蛇系の神は有名なんですけど…知らなかった?」



『何が?』と口は動かせず、カヤノは心の中で思う。

すると、カヤノの心の声が聞こえているように元・上司は答えた。



「うふふ。冥界神並みに執着が強くて、花嫁を手に入れる時は姑息だって…ね。でも、過去の恋愛では運悪く皆、私より先に他の男神に唾を付けられていたんでうまく行きませんでした。中々フリーの子っていないんですよ。君もシルヴァス君のガードが固くてチャンスはないと思っていたのですが。」



そこでヒロミ先生は、一層、満面の笑みを作った。

普段ののんびりしたオーラとは違った気が放たれているようで、カヤノは一層不安を掻き立てられる。

彼の人外らしさがシルヴァス同様に強く肌身に感じられて、自分のような人間が少しだけ神力を使えるというだけの存在とは、明らかに格が違う事を見せつけられた。



「まさか、こんな所で君と会うとは…運命が私に味方をしたのかな?しかも警戒心なくホイホイと一人でついて来るなんて…シルヴァス君、純粋培養が過ぎましたね…育て方、間違えたのでは?彼は案外マヌケなのかな?」



シルヴァスの事を言われて、カヤノは重い(まぶた)をこじ開け、元・上司を涙目で睨んだ。



「ああ、カヤノたんてば…ダメですよ。そんな目をしたら逆効果です。純粋に施術しようと思っているのに…反抗的な瞳に蛇の嗜虐心が刺激されて、イタズラしたくなっちゃうじゃないですか!」



危ない事を言う医師の言葉に、カヤノはギクリとして小さく震える。



「ああ、もう!今度は震えちゃうとか…可愛いがすぎませんか⁈そう言うの見ると、男性嫌いとか治したくなくなって来るなぁ…複雑。」



カヤノは医師の不穏な言葉に、

『冥界ではハルさんにメロメロだったくせに!』

と、ツッコミを入れる。


それがわかったのか、今度はハルリンドについて因幡大巳は弁解めいた事を言い始める。



っていうか、全く…本当にこの男は心でも読めるのだろうか⁈

なぜ、思った事がわかるのか…言葉を発していないのに、どうして会話ができているの⁈



蛇は賢くて、人の心を読むのがうまいって言うけれど…そういう所はシルヴァスと共通点があるとカヤノは思った。

自分では気付かないが…つまりはカヤノはそういうタイプの男に好かれやすいのかもしれない。

思った事を話す事ができない大人しいカヤノには、そういうタイプが似合っているのだ。



「ハルリンドさんの時は…本当に運命の出会いだと思いました。これは、いいわけできません。けれど、結果的に彼女は人妻でしょう?冥界神と違って、さすがに私も人妻を奪ったりしませんよ。」



そう言うと今までの笑顔から一転、因幡大巳は今度は悩ましい表情で顔を押さえながら、くねくねと蛇らしく体をくねらせた。


カヤノは内心思う…。

『さっきから何回、運命って言葉を使うんだろ。もしかして、乙女…乙女なのかな⁈』


カヤノの心中のツッコミを今度はスルーして因幡医師は言葉を続けた。



「それなのに、すぐに君の事を狙うとかって…軽いと思っているんでしょ?ですが、私は実は最初から君の事を良いなと思っていました。途中、ハルリンドさんに心を奪われただけで…君が職場に来なくなって気付いたんです。」



カヤノは、言いわけめいた事を言い募る医師に、眉間にしわを入れて、精一杯の不快感を示して見せる。



「そんな顔しないで…私は君に癒されていた事に気付いたんです!カヤノたんの出す空気感は周りに安らぎを与えます。君がいなくなってから、私の毎日は味気なく潤いなく過ぎ去って行くのです。」



そこまで言うと、因幡大巳はマスクを装着した後、手に持っていた瓶の蓋を開けて白いガーゼに薬をたっぷりと含ませた。

その布でいきなり、カヤノの口と鼻を軽く塞ぎ、薬を嗅がせてから、医師は催眠術をかけ始める。



「さあ、目が重たいでしょう?そのまま、閉じて構いません。そう、目を閉じて…今あなたは深い闇の中…まるで海の底へ潜るように()ちて行きます。それは意識の深い深い底…さあ、君は今、いくつですか?ご両親と過ごした最後の日です。」



因幡大巳の目が強く光る。

神力が現在、放たれている証拠だ。

カヤノに語りかけながら、医師がパチンと指を鳴らした瞬間、朦朧とした意識の中、目を閉じた彼女が聞かれた事に口を開いた。



「大きな…豪華な船に乗っていて、私は今、12歳…お父さんとお母さんと一緒に大和皇国に帰るの…。」



続けて医師は、カヤノにその時の状況を事細かに聞き始めた。

医師に問われた通り、応答するカヤノの意識は、既に自分だけのものではなくなっていた。

狡猾さを見せる蛇神は本性を現したように牙の覗く口角を上げる。

それから、カヤノに新しい記憶をすげかえる為、彼はまた声を掛けて行った。



「そう…残念だね。君はその船で事故に遭い、ご両親を亡くしてしまったよ。ご両親は立派に最後まで人間達を助けた。君はその事故のショックで、その後の記憶をいくつかなくしたんだ。ご両親との最後の記憶以降を…。」


「お父さんとお母さんと最後の…?」


「そうだよ。君は事故で傷つき、背中などに痕が残ってしまったが…孤児院施設に収容されて無事に現人神養成学校卒業間近になる。自立の為に私のクリニックでアルバイトを始めたね?」


「ヒロミ先生…の所で、アルバイト…を?」


「うん、そこで私と君は運命的な出会いを…。」



因幡大巳がそこまで言いかけると、診療所のドアが大きな音を立てて開かれ、鍵をかけておいた診察室の扉もぶち壊された破壊音と共に破られる!



「バタン!ドカアァァァン!ガシャン!!」



因幡大巳は言いかけた言葉をそのままに、目と口を最大限に開いた。


彼の立つ足元スレスレまで、誰かが蹴破ったであろうドアが吹き飛ばされて、爆音を伴い目前で床に落ちた。

驚きのあまり、すぐに言葉も出ない医師を前に、怒りの形相で現れたのは…。



「この蛇が!!懲りずに、まだしつこくカヤノにちょっかいかけてんのか⁈先日、大怪我させておいて図々しいんだよ!」



シルヴァスだった…。


開口一番に怒鳴られて、医師は目と口を最大限のままに瞬きし、わなわなと口を動かした。



「シ…シルヴァス君?ど、どうしてここが…?」



そう、カヤノのピンチに登場したのは…やはり彼女の騎士になると自身で宣言した男だった。



「うるさい!!お前みたいなしつこそうなのに狙われてたの知ってて、僕が何も手を打たないわけないだろ?出勤してから今日は妙な胸騒ぎがしてたんだ…ああ、クソ!何で予感が当たっちゃうかな~⁈あの時、家に引き返せば良かった。」



因幡医師を無視して、シルヴァスは自分自身に腹を立てて後悔した。

だが、すぐに医師を睨みつけると、シルヴァスは言った。



「カヤノには賭けの一端(いったん)で、内緒で出掛けないよう約束をしていたんだ。だからもし、約束を破って住んでいる町を出ると僕と使役契約している大気の妖精が知らせに来る。彼女は知らなかっただろうけどね。じゃないと約束を守っているかわからないだろう?」



因幡医師はそれを聞いて、目を見開いたまま、ヒクヒクと口角を上げ、大いに引きつった顔をした。

シルヴァスの方は、大きく溜息をついて独り言を言う。



「はあっ。前も勝手に学校に行ったり…コソコソと結婚センターの担当者と電話してさ…知ってだけど黙っていたんだ。だから、様子を見にたまに、わざと早く帰宅したりしてたんだけど…カヤノが焦る姿が可愛くて。」



それから、おもむろに首を振って後悔の色を見せて、シルヴァスは続けた。



「賭けの最後で、そのうちどうにもならなくなったカヤノに、その事も含めて攻めてやろうと思ってたんだ。センターでの仕事ならもっと早く駆けつけられたのに…出張だったから到着が遅れた!妖精から白蛇にカヤノを攫われたって聞いて、慌ててクーガに仕事を頼んで駆けつけたのに…。」



シルヴァスの話を聞いて、因幡大巳は『うわぁ、嫌な性格!』と顔を引きつらせた。


そこで言葉を切ったシルヴァスは、深緑の瞳を光らせて急にクリッと首を動かし、因幡医師を不穏な眼差しで見詰めた。


思わず口を噤む白蛇医師…。



「もう、(因幡大巳)がカヤノの体を触ったと思うと…ムカツク!」



シルヴァスが一層声を荒げたのに驚いて『ヒエッ!』と声を上げた医師は、慌てて首を高速で横に振った。



「待って下さい!!私はいくら何でも…相手の了承もなしに手を出したりしませんから! 種族的な性質上、しつこいのは認めますが、冥界神あたりと一緒にはしないで。」


「じゃあ、その医療用の寝台に、カヤノが自分から飛び乗ったとでも言うのか⁈」


「寝台に運んだのは私ですが…それだけです!変な触り方をしたわけでもないし…まだ、催眠の途中で…あ、そうだ!君が急に入って来たから、カヤノたんに術をかけたままなんだ。」


「寝台に運んだって…やっぱり、触ってんじゃないか!変な触り方とか関係ないし、物理的に触れられただけでムカツク!神世の世界に吹き飛ばしてやる!!」


「ええ⁈運んだだけでもNG?言っている事…常識を逸していますよ⁈つぅーか、ヤメテ!神世に吹き飛ばすって私一応、君より格上何だけど?罰当たりだよ…シルヴァス君⁉ねぇ、ちょっと…風を止めて!!医療書とか薬とか…吹き飛ばさないで!!」



窓も開いていない室内から不穏な風が吹き始めて、因幡医師は半狂乱で叫び始めた。



「いい加減にしろ、患者のカルテもぐちゃぐちゃになっちゃうじゃないか!この、暴れん坊!!」



シャーッと蛇の本性を出して牙を剝いて威嚇する因幡大巳に、シルヴァスは動じず冷徹な瞳を向けたまま、風を止めない…。

吹き飛ぶ医療本、空中に浮かびバラバラに散って舞うカルテ、割れるガラスになぎ倒される室内植物…。



「あああ…貴重な本が~~。」



これには、ほとほと困り果てた様子の医師が、今度は手の内を変えたように弱々しい声を上げた。



「シルヴァス君…ごめん。勝手に図々しくカヤノたんを連れ込んだの…許して。もう彼女を私のお嫁さんにするのは諦めるから…。」



すると、こめかみ付近に青筋を浮かべたシルヴァスが風邪だけは止ませて、ボソリと口を開いた。



「は?嫁?寝惚けてんな…蛇。人のモノに、ちょっかいかけるのどうにかしろ。勿論、二度とカヤノに近寄るな!」



そう言って、一歩、因幡大巳にシルヴァスが近付いた所で術が解けたのか、パチリと目を開けたカヤノが寝台の上で上半身を起こして首を傾げた。



「あれ…ここはどこ?私、どうしてたんだろう?」



カヤノが口を開いた瞬間、シルヴァスは彼女が気付いたのを目に止めて、一気にクールダウンさせたように己の殺気を押さえた。



「二重人格か⁉」



咄嗟に叫ぶ因幡大巳をよそにシルヴァスは、ありったけの慈悲深さを表に出したような表情を浮かべている…勿論、カヤノにだけ。



「カヤノ⁉大丈夫?目が覚めたんだね…こいつに何か、変な事はされなかった?怖かっただろう?」



急いで、彼女の元に駆け寄るシルヴァス。

続けて悲痛そうな顔から、甘い笑みを浮かべた顔に作り変え、カヤノに向けて彼女のオデコを人差し指でちょんとつつく。


『オエッ!』と因幡大巳の方から嘔吐したような声が上がったのは無視した。



「全く…勝手にどこかに行かないように約束をしたのに…カヤノは悪い子だね。帰ったら、君にペナルティーを科そうかな?」



シルヴァスの変わり身の早さに、物が散乱した室内で取り残されたように因幡大巳は呆気に取られ、目を丸くしていた。

医師のポカンと開けた口からは、何も言葉が出ない。


そんな場面でカヤノはまた、首を傾げた。


そして、言った…。



「ええと…あなたは?確か、私…ここでアルバイトをしてたんですよね?あら、酷い!診察室がメチャメチャだわ⁈」



室内に見回してカヤノが驚いた顔をした。

シルヴァスは眉を片方顰めて、カヤノに声を掛ける。



「ここでのアルバイトは、サメの魔神の事件で辞めちゃっただろう?」


「え?辞めた?私が?」


「そうだよ…カヤノには振り回されてばかりだ。僕はどちらかというと振り回す方が好きなのに…。」


「え?あ…ええと、あれ…おかしいわ。」


「カヤノ、どうしたの?」



カヤノは何か考えてから、顔を青ざめさせた。

様子がおかしいと感じ、シルヴァスはカヤノに聞き返す。

それを見て、因幡大巳も医師の顔に戻り、寝台の方に近寄った。



「わからないの…その、船の事故でお父さんとお母さんを失ってから…この診療所でアルバイトした記憶があるのに…他の事が何にも…。確かに学校にだって通っていた筈なのに…あなたの事も…誰だったのか…。」



カヤノの言葉にシルヴァスと因幡大巳は数秒間、絶句した…。


そして、最初にシルヴァスが口を開いた。



「なにいぃぃぃっ⁈」



不測の事態に、叫び声を上げるシルヴァス。


戸惑うカヤノ…。


終始、引きつった顔で口元をヒクヒクさせ続ける因幡医師。



 その後、シルヴァスはオステリーを起こして因幡大巳を攻撃し始め、センター内の人間で言う所の警察官にあたる警官隊が出動する大騒ぎに発展したのであった…。

何事もなければ金曜日に更新予定です。

本日もありがとうございました!

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