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春の嵐と恋の風㊸

本日は、あの人がまた登場します。

 気ままなシルヴァスに連れられて、現人神専用タクシーで半日あまりの急な小旅行をするハメになったカヤノは、目覚めたら自分の部屋のベッドの上にいた。


気付くと日にちが過ぎており、いつ戻って来たのか記憶のないまま、朝が訪れている。



カヤノが最後に覚えているのは、帰路に就く空を行くタクシーの窓から見える満天の星を雲海の上で、うっとりと眺めていた事だけだ。

そのまま、瞬く星に目を奪われながら眠ってしまったのだと思う。



「久しぶりにたくさん歩いたし、私にしては疲れていたのだと思うけど…失態を犯してしまったわ。もう、子供じゃないのに眠って起きないとか…。」



自分のベッドの上であおむけになりながら、自身に呆れてカヤノは目を強く瞑った。



「それにしても…目が覚めないのに、自分の部屋のベッドの上にいるって事は、私、シルヴァスにここまで運んでもらったのよね?」



そこまで独り言を言いながら、パチリと目を開け、寝返りを打ってうつ伏せになると、カヤノはベッドの柔らかいマットの上に額をドスドスと二回、打ち付けた。


幸い服は、昨日着ていた物のままだ…。

さすがのシルヴァスも恋愛小説のヒーローの如く、服までは脱がせたり、着替えさせてくれてはいない。



良かった!

本当に良かった!!

ついこの間まで、子供扱いだったとはいえ、シルヴァスがそこまで親切行動を起こさないでくれて。

というか、節度を保ってくれて…。

やっぱり、さすがは(一応)精霊ナイト!

服など着替えさせられて、下着など見られた日には恥ずかしくて、即・死にたくなってたわ。



カヤノの現在身に付けている下着は上も下もバラバラだし、パンツに至っては色気のない女子用ボクサーで、お尻に大きな招き猫が付いている…。

お正月にクラスメイトが皆に配ったもので、縁起物だからこれを身に付けると良い一年になると、ご実家の家業の宣伝の一環らしいが、勿体ないのでお正月が過ぎても愛用している…。

これがなかなか、宣伝に使うだけあって作りも良いし、肌障りが素晴らしい。

他にも、福助や白蛇、なすびなどの絵柄もあるらしいが、どれも愛嬌があって可愛い。

絵柄もさすが、現人神のクラスメイトと思えるものだった。

ご実家、きっと大和皇国の元来の神道系だろうなぁ…。


だが、しかし!


可愛いと言っても、男性に見られていいような下着ではない!

断じて、絶対に見られてはならない!

見られなくて良かった!!




「ああ~、でも、恥ずかしい!!今朝、部屋を出るのが嫌!シルヴァスと顔を合わせるのが辛いぃ。」



カヤノが一人、恥ずかしさに身悶えていると…突然、ノックの音が聞こえてくる。



「コンコン。」


「ハヒィッ⁈」



声にならない小さな声で悲鳴を上げながら、ベッドを飛び起きるカヤノは、だんまりは良くないと思い、急に扉を開けられたら大変だと慌てて返事をした。



「ハイ…。」



すると、他の家族がいるわけではないので当たり前ながら、ドアの外からはシルヴァスの声がした。



「あ、カヤノ。起きてたの?良かった…相棒から連絡があってさ。僕、緊急の仕事で出張が入っちゃったから、もう家を出るね。」


「え?あ、も、もう⁈ごめんなさい。シルヴァス、私、昨日、寝ちゃって…あの。」



シルヴァスが家を出ると聞いて、顔をろくに合わせずに済むとホッとした半面、昨日、眠っている自分を部屋に運んでもらった礼も言っていない事を思い出し、急ぎベッドの上から降りたが、カヤノはうまく言葉が紡げずに焦った。

その気配を察知したのか、シルヴァスがドアの外で再び声を掛けて来た。



「急がなくていいよ?昨日、君は寝ちゃったから、勝手に部屋に入って悪いとは思ったけど、起こすのも可哀想で僕が運んだんだ。その事について話したいなら、帰ってから聞くね。君は、まだ寝ていて構わないよ。」



こちらの思考を読んでいるようなシルヴァスの言葉に、数歩、室内を歩いた所でカヤノは赤面して、ピタリと立ち止まる。

そんなカヤノの姿を見ているわけでもないのに、想像がつくのか…シルヴァスはまた、笑いを含んだ声で言った。



「疲れたんでしょ?僕が行った後にゆっくり起きて、お風呂にでも入りな。お湯は沸かしてあるから…服も昨日のままだろうしね。食事はテーブルに用意してあるよ。じゃあ、今日も早く帰るから。」


「…ありがとうございます。いってらっしゃい。」


「うん、行って来る。顔を見て出て行きたいけど…レディの寝起きの顔を見るなんて申し訳ないから、ドアは開けないでいいよ。代わりに僕が帰ってきたら、可愛い顔でお帰りを言ってくれ。」


「か、可愛い顔には、すげかえられませんが…ちゃんと着替えて、『おかえりなさい』を言います。」


「フフ。」



最後に少し笑った声が聞こえた後、シルヴァスは家を出て行ったようだ。

玄関のドアが閉まる音がした所で、カヤノはそーっと自室の部屋のドアを開けて、着替えを片手に風呂場に直行する。


シルヴァスが仕事に行ってしまっても、カヤノはまだ気恥ずかしかった。



「シルヴァスに、レディと言われてしまったわ。小市民の私のどこがレディか不明だけど…。」



前は、カヤノが恥ずかしがっても、子供だからと笑って普通にカヤノの部屋入って来た事もあったのに…。

舌を出して面白がるようなイタズラな子供みたいな大人だったのに…。

今でもカヤノをふざけて揶揄(からか)ったり、イタズラっぽい所に変わりはない。


それなのに!


成人した途端に、同時に変な節度を保ってきて、レディ扱いするなんて。


反則だと思う!!


余計に恥ずかしくなるじゃないの!



シルヴァスがカヤノに意識させようとしてしているのかどうかは知れないが、カヤノはクラクラして呻いた。



「うう、このままだと…本当に私、一生シルヴァスから離れられなくなっちゃう。だって、もうメロメロに溶かされそうなんだもん。お風呂もご飯も用意してくれて、考えている事もわかってくれて…寝てていいよっていってくれて、仕事も真面目で…。」



カヤノは、洗面所で手早く服を脱ぎ、浴室に直行すると、独り言ちながら熱めのシャワーを頭のてっぺんから掛けた。



「一体、どんだけ…隙のない男なの?ああ、シルヴァスが甘くて…好きで困る。」



このままだと、自分がシルヴァスに落ちるのは、本人が言うように時間の問題だ。



何とかしなければ…。

何とかして…自分らしく地味に生きられる…お姫様になれない場所を探さなければ。

このままだとシルヴァスに、自分はお姫様にされてしまう…気がする。


なりたくないわけじゃない…私だって子供の頃は、お姫様に憧れた。


だが、現実は誰もがお姫様ではないし、なろうと思ってなれるわけでもない。


分相応というものがある。


自分は自分らしく町娘Aでいられる場所で生きるべきだ。



カヤノは、シルヴァスに騎士でいて欲しいのだ。

騎士は、『お姫様』を守ってこその騎士!


シルヴァスがカッコイイ精霊ナイトでいるためには、傍で守られるのが自分では劣るとカヤノは自分自身に今日もしつこいほど言い聞かせ、いつの間にか、つかった風呂の湯船の中でブルブルと頭を振った。



「本物のお姫様なんて…たくさんいるわけじゃないけど、私なんかより、もっと()()()()()()女性はたくさんいるわ。野花に騎士は必要ないの…。」



シルヴァスに落ちるわけにはいかない理由には、自分が本気の恋愛で傷つきたくないというわけもあるが、シルヴァスの為を思う気持ちがあるのも事実。


カヤノは毎度のように、朝からそう思う。


 しかし、体力がないせいで、昨日ちょっと出歩いただけなのに疲れてしまい、本日もどこにも行かず、宣言通り早く帰って来たシルヴァスに結局、甘やかされてしまうのであった…。



 その日を境に、シルヴァスの猛攻ともいうべきスパダリ懐柔攻撃は、更なる激化を続けカヤノに襲いかかる。

時折、カヤノの決意を粉々にしてしまいそうになる意地悪な押し問答とセットで続けられる溺愛激アマ生活に、あれよあれよと今まで以上にシルヴァスへの依存レベルが上がっていくのが感じられた。


その(かん)、わずか数日だ…。



「シルヴァスの本気が…恐ろしい。」



今日もグッタリとして呟くカヤノ…。


現人神養成学校、卒業まで残り一ヵ月と二日…。



「まずい!まずいわ…気付いたら、ものすごく時間が過ぎ去ってる!どうなってるの?」



まるで浦島太郎になった気分だった。

この時点で、カヤノは自分が幸福と名のついた(おり)に入れられ、徹底的に甘やかされ続けていた事に、ようやく我にかえる。


しかもなぜか、お見合いセンターの担当者からも、あれから全く連絡がなく、音沙汰(おとさた)なしになっている。

だから、余計にシルヴァスに流されてしまったのだ。


これはもう、待っていては(らち)が明かない!


早々にこちらから連絡をしなければと、昼間、シルヴァスが仕事で留守をしている間に統括センターに訪れる事を決めた。


家にいながら電話で話したのでは、やはりサービスの質も高が知れている。

センターに直接行った方が、担当者も親身にこちらの話を聞いてくれるし、その場で候補者を探してもらう事もできるし、相手のプロフィールや写真を見る事もできる。

次のお見合いを即決する事だって可能だ。


今まで、お見合いはうまく行かない事ばかりだったが…ラストスパートをかけて、少なくとも、あと一、二回は頑張ってみようと思う。

一人で見合い相手やセンターの担当者に会うのは怖いが、センター職員には自分の現状も把握してもらった方が良いし、見合い当日には学校の友達について行ってもらおう。

ぶり返してしまった男性恐怖症を補うために、女友達が隣にいてくれれば、何とか気持ちが安定して受け答えができるだろう。


それで撃沈すれば、本格的に担任に相談をしに、再びサルマンの元を訪れるつもりだ。


サルマンには、困った事があれば、すぐに相談するように言われているし…シルヴァスの賭けについてもなぜ、早く自分に相談しなかったのかと嫌味を言われてしまった。



「今回は、プライドだとか、そういうものは後回しにして、最後までやるだけやってダメだったら、先生に助けを求めよう。」



前回の学校訪問で、彼には自力で頑張ると宣言して来てしまっただけに、実に本意ではなく悔しい事だが…卒業後しばらく、サルマンの家にお世話になれないか頼んでみる覚悟だ。


自分では、お金を大して持ってはいないが、少しなら両親の残した貯金もある。

成人するまで勝手に使ってはいけない規則になっていたが、カヤノはもう成人したので両親の残した物に手を付けても平気な筈だ。

しかし、両親は生前、慈善事業の好きな人達で、他の現人神よりも蓄えは少ないだろう事が想定される。

いくらあるかはわからないが、当面の生活費と半年分のサルマンに払う下宿代くらいは何とかなるだろう…。


カヤノは、様々な事を想定しつつ、計画を練った。



「卒業後はそうすればいいとして…肝心のシルヴァスとの賭けをどうにかしないと。精霊の契約を無効にする方法ってあるのかな?それも先生に相談しよう。その前に、まずは自力で賭けに勝つ努力をしないと…。」



カヤノは服を着替えて、午前中に家を出る。

午後になると、シルヴァスがまた、急に早く戻ってくる可能性があるからだ。


カヤノを日帰りの小旅行に連れ出したあの日から、激甘なシルヴァスは予定外の早い時刻に帰宅したり、仕事の合間にカヤノの顔を見に来る事が頻繁になっていた。

一番、シルヴァスが家に戻って来ない時間は、彼が出勤してすぐの時刻である。


カヤノはシルヴァスが朝、家を出て『いってらっしゃい』の挨拶をした直後、急いで支度をして時間差で家を後にしていた。


今日出かけるという事は、シルヴァスに行先を告げていないが…知らない所に行くわけでもないのだし、急に行く事を決めたと言えば平気だろう。

別に咎められるような場所に行くわけではないのだから。



「そうだ…センターのついでに男性恐怖症の克服について、ヒロミ先生にも相談してみようかな?でも気分が重いなぁ…ヒロミ先生、またお爺ちゃんの姿になってくれないかしら。いっその事、女の人に化けてくれればいいのに。」



ぶり返してしまったと思われるトラウマに対して、カヤノは絶望的でいた。

シルヴァスや自分の信頼する誰かが一緒にいてくれれば、まだ平気なのだが、一人になると途端に異性に対して怯えを隠せなくなる。

その事で、お見合いもスムーズにいかないし、マッチング件数が減るのも否めない。


何しろ、実際の男性に触れ合う時間を少しでも減らす為、お見合いセンターにも極力行かず、電話で担当員との会話のみで済まし、紹介された内容を確認後、指定場所に直接訪れるだけでお見合いを今まで進めて来たのだ。


仕事の方も、新たな男性に会うのが嫌で…就職課のカムイの元に訪れる事もしていない。

本来なら、この時期とっくにアルバイトをしながら、就職活動もしている予定だった。



「魔神の一件さえ、なければなぁ…。」



自分は頑張ると言いながらも、やはり男性が苦手だというのは、色々なハンデを生んでいる。

やれる事があればできる限りの事をしたい。


人間の一般交通機関である電車を乗り継いで、家からそう遠くはない統括センターまでやって来たカヤノは、まず生涯課の結婚相談センターに訪れようと足を進めた。

一度行った事がある場所なので、受付を通さなくてもカヤノはスムーズに辿り着ける筈…だった。


…筈だったのだが。

途中、すれ違う男性から極力、距離を取りながら歩き、統括センター内の縦横の移動を可能にする緻密に計算されたパズル式エレベーターに乗り込み、扉が閉まった所で偶然先に居合わせた人物の顔を見て、カヤノは驚いて声を上げた。



「あっ⁈」



カヤノの声とほぼ同時に、相手の方も声を上げた。



「あ…れ?カヤノたん⁈カヤノたんじゃないですか!」



先にエレベーターに乗っていたのは、元・カヤノのアルバイト先の雇い主でもある因幡大巳先生だった。



「元気だった?あれから、どうしたか気になってたんですよ。一度、職場に挨拶に来てくれてからは本当に久しぶりですね。その後、体調はどうです?今日は何か用があって統括センターに来たのですか?」



前と同じ調子で気さくに声を掛けてくれるヒロミ先生だったが、場所がエレベーターという密室で狭く、他に現人神も乗っていない中で、至近距離に寄られたのでカヤノは体をビクつかせる。

皮肉にも今日、彼にも会いに行こうかと迷っていた所なのに、自身の体は思った以上に残念な反応を示してくれた。

早くも勝手に冷や汗が噴き出し始めた。



「ヒッ!あ…ご、ごめんなさ…。ヒロミ先生…その、もう、平気…です。」



男性と二人きりの状態で、逃げられないような狭い空間にいるせいか、普段より緊迫したカヤノは自分が思っている以上に、今まで普通にしゃべれていた相手にも拘わらず、うまく言葉を出せない。

その事に眉を顰めたヒロミ先生(こと)因幡大巳は言った。



「全く大丈夫じゃなさそうですね。今日は平日だけど、先程人間の大学病院に用があって、クリニックはお休みなんです。誰もいないけど…良かったら来なさい。この前来た時は、受付の子達とワイワイやっていて気付かなかったけど…君、トラウマが再発してるんじゃない?」



医師に専門家らしく指摘されて、カヤノはドキリとしつつも震えた声で返答をした。



「えと…あの、ごめんなさい…先生に、でも、怖いんです…ごめ…なさい。」



カヤノの言っている意味を理解したように元上司は頷くと、真面目な顔で言葉を続ける。



「謝らなくていいですよ。ここ、狭いから…余計だよね?とりあえず、クリニックの階で降りて下さい。時間は平気?お茶を出すから、君の目的地には落ち着いてから行きなさい。」


「そ、そんな…急に。わ、悪、悪いです。」


「私が君を動揺させてしまったようですから、遠慮しないで下さい。今だって、うまく言葉が繋げられないじゃないですか…。」



本当は、相手に対してみっともない対応をするのが嫌で断りたいのだが…エレベーター内で震えが出てしまい、言葉を発する事が困難なカヤノは、それ以上因幡医師に意見するのを諦めて、とりあえず、コクンと頷いた。


エレベーターの扉が開き、外に出ると、カヤノは少しだけスムーズに呼吸ができるようになった為か、因幡大巳を前にしての震えも小さくなって来た。


けれど、今更、彼の申し出を断るのも失礼なので、とりあえずクリニックに行くだけ行って、お茶だけご馳走になったら『大丈夫』であると早々に告げ、サッサと退散しようと考えた。


元上司と2メートル近い距離を取りながら、カヤノは後に続き、クリニックの鍵を因幡大巳が開けた所で診療室内の広い椅子に座るよう促されて座る。



「紅茶で良いかな?」



そう言って、医師はカヤノに小さな移動式サイドテーブルの上に淹れてきた紅茶を置いて、カヤノの前に腰掛けた。



「あの…ありがとう、ございます。」



医師が紅茶を出す際にも、必要以上にカヤノは体を固くして礼を言った。

そんな様子を横目でチェックしてから、自分が腰掛けていた診察用の椅子をカヤノから、もう少しだけ離して因幡大巳は自身にも淹れた紅茶に口を付けた。


自分を怯えさせない為の小さな配慮も、今のカヤノにはありがたい。



「お茶、熱いうちにどうぞ。少し、落ち着けますよ?」



そう言って、医師は自らが紅茶を啜った後に、カヤノがそれに倣って震える手で何度か口をつけたのを見止めてから、もう一度声を掛けた。



「それで、カヤノたんのその反応は、前より酷くなったみたいだけど…あの冥界の事件のせいだよね?私も気になってはいたんです。君にはあの日、随分と怖い思いをさせてしまったので。」



医師はそう切り出してから『すみません』と頭を下げた。



「あの日、君を誘った私のせいです。それに、シルヴァス君に言われて気付きましたが…君の事、きちんと見ていなかった僕は無責任でした。許してもらえる事ではありませんが、せめて君の力になりたと思っています。」


「あっ…いえ、先生のせいでは…。」


「後悔してます…君を守ってあげられなかった事。職場から君が消えてから…妙に私は疲れるんです。仕事の合間に、ふと見える君が自分に安心感を与えてくれていたんだと今になって気付きました。君は穏やかに職場を癒す存在だったのだと。」


「そんな…穏やかというか…トロイだけ、です。」


「シルヴァス君にはカヤノたんに近付く事を禁じられているんですが…男性が怖いという点で困っているなら相談して下さい。私の専門分野ですし、今より良い状態に持って行く事が可能です。」


「ええと…その。」


「遠慮とか、そう言うのはしないで下さい。もし、私のせいではないと言ってくれるのなら、この罪悪感を取り除いて欲しい。どうぞ、私にできる事をさせて下さい。」



医師の思っても見ない向こうからの申し出にカヤノは戸惑った。

因幡大巳の申し出は願ってもない事だ。

当初、家を出て来た時の自分の思惑を考えれば、両手を叩いて喜びたい所だ。

だが、カヤノは今、この空間に因幡大巳と二人きりと言うだけで体が固まった状態になっているのだ。

相変わらず、吹き出した冷や汗も引いてはくれない。


しばし悩んで、ティーカップを握りしめていると、もう一度、因幡大巳が声を掛けて来た。



「その後、ハルリンドさんが冥界から山のように薬草を送って下さいましてね…。忘れ草で作った薬も大量にストックができました。彼女を紹介してくれたカヤノたんのお陰です。」



上司の会話にハルリンドの名が出ると、カヤノは少しだけホッとした気持ちになった。



「そう…ですか。ハルさんが…。それなら、良かった。」


「それでね…カヤノたん、君のお陰で大量入手できた薬…良かったら、使ってみませんか?この薬はご存じの通り記憶操作も可能にするんです。うまくトラウマに関わる記憶を消す事で君の症状を取り除く事…もしくは緩和させる事ができる筈です。」


「えっ?」



トラウマを緩和させる事ができると聞き、カヤノは動揺を隠せない。

それは今、まさに悩んでいる事の解決にも繋がるのだ。


そういう薬があるのは知っている。

自身もマッド・チルドレン達から保護されてばかりの時、センターの医療部の人にその薬を使って記憶を消さないか持ち掛けられたのだ。

だが、両親の記憶まで消えたら嫌だと考え断った。


カヤノは、たどたどしくゆっくりしゃべる事しかできないが、進まない会話にも因幡大巳が根気よく耳を傾けてくれると知ると、思っている事と自身の今の現状とセンターに訪れた理由を話した。

カヤノの話を辛抱強く聞いていた医師は、カヤノが懸念する事について回答をしてくれる。



「確かに…ご両親の事が消える可能性のある部分の記憶をいじればそうなるだろうね。だけど、それ以外の魔神との接触点やマッド・チルドレンとの接触点、今回の冥界での事件の記憶を消すだけなら、ご両親の最後を忘れる事なくトラウマを削減できます。」


「そうなんですか?」


「効果的には、やはりご両親が絡んだ船上の事故から記憶を消したいけど…それ以外の場所を消すだけでも効果は多少ある筈です。君のトラウマは、一か所に大きな衝撃を受けて発生したというよりも色々な事が積み重なって起きているようです。」


「色々な事が…ですか。」


「ええ、ですから、その色々な事を少しずつ削って行けば、その分、トラウマの度合いも減少するというわけ。」


「本当…ですか?自分が選択した…記憶だけ消しても、効果があると?」


「ええ、完全ではなく、ある程度の効果だけでも良いのなら、一部記憶を消すだけでも効果が見込めます。どうです?カヤノたん…試してみては?」



因幡大巳のいきなりの提案にカヤノは、大いに心を揺らす。



「でも…どの記憶を消すとか…わからないし…自分の中の何かが消えるみたいで…怖い。」



カヤノの言い分に医師は大いに理解を示し頷いたが、こうも言葉を続けた。



「確かに忘れて良い記憶などありませんが…今後の自分の障害になるならば、一部削除する事もアリかと思いますよ。私は、それで幸せになった患者さんを何人も見てますからね。日常に支障ない程度の忘却術しか施しませんし。」


「例えば…それで、冥界で魔神に再会する前の状態に…戻す程度の効果は、得られるんですよね?」


「勿論、催眠術を並行して使うので、カヤノたんが魔神に再会した記憶までさかのぼった段階で記憶を消し、書き換えを行えば…例えば落石事故でケガをしただけの記憶に置き換える事などもできます。」


「魔神と会わなかった事に…なるの…ですか?」


「君の中でね。でもそうすれば、魔神の再会により、ぶり返した分の上書きされた恐怖を記憶ごと、取り除けるでしょ?」



そこまで言うと、因幡大巳は蛇らしい縦長の瞳孔を持つはちみつ色の瞳を細め、ニタリと笑った。

カヤノは、押し隠している己の未だ小さく震える両手を膝の上でギュッと握りしめた状態で、そちらに視線を落とした。



今の自分は、面識のあるヒロミ先生の前でさえ、まともな応対ができていない。

このままだと、この状態が治るのにどのくらいかかるかわからないし、自力で治るという保証もない。



もう一度、カヤノがそっと因幡大巳の顔を覗くと、医師はシルヴァスのように優しく首を傾げ、カヤノの答えをいつまででも待ってくれるような笑みを見せた。


細めるはちみつ色の瞳の奥に見え隠れする怪しい眼光は、カヤノにはよく見えない。


医師の提案は、甘い誘惑だった。


カヤノは、しばし考える。


そして、恐る恐る口を開いた。



「でも、それって…医療行為ですよね?私が今…独断で決断できる…のでしょうか?保護者の…シルヴァスに…相談しなくては、いけないのでは?」



医師は言う。



「君は成人したのだから、自分の事を自分で決める権利があるから平気です。それにシルヴァス君に相談したら、私は追い払われてしまいます。彼、私の事をものすごく怒っているから。」


「でも…。」


「私はカヤノたんを救いたいだけです。聞けば、自立の自信がなくてお見合いをされるとか…。あ、それと薬や施術費用は私が持つから気にしなくて平気ですよ?」


「え、そんな事…ヒロミ先生に、してもらうわけには…。」


「否定しないで下さい。当然の事です…私が君のトラウマを蒸し返した上に、ケガをさせた原因を作ったのですからね。」


「でっ…でも!やっぱり…それは。」


「冥界にあの日、訪れた所から、全て私の責任です。ですが私は、君に何の賠償もしていません。力になりたいだけです。なぁに、この紙にサインさえしてくれれば、私が全ての責任を持ちますよ。」


「サイン…?」



カヤノは学校を訪れた時に、サルマンに簡単にサインをしてはいけないと言われた事を思い出した。

保護者であるシルヴァスにさえ、簡単にサインをした事で叱られたのだ。

それなのに、一時上司だった存在に勧められたからと言って、安易にサインをしていいわけがなかった。

もし、今後、そのような状況に陥れば、サルマンに相談するようにも釘を刺されていた。


カヤノが黙っていると、因幡大巳は少しカヤノの方に近付いて言う。



「今すぐ、施術をすれば…ほんの1~2時間で効果を出せますよ?シルヴァス君は仕事でしょう?トラウマが良くなった事をそのまま知らせに行って、驚かせてあげたらどうです?」



 カヤノは医師の顔をそっと覗いた。


はちみつ色の瞳が…怪しく光っているように見えた。

次回火曜日の更新予定です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] こんばんはー(^^) 出た。 もう、もう! ヤバい!しか、言えないフラグ。 怪しすぎる書類。 ちょっと、ハルちゃんにメロメロだったのに、図々しすぎるー。ヒロミ先生。 この、やらかしフラグ…
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