春の嵐と恋の風㉖
本日は短めです。
ハルリンドの登場から、10分程、因幡大巳の独演会が続き、ようやく気が済んだのか彼が話を終えると、カヤノはハルリンドに本日の目的を告げた。
これから薬草を取りに行かねばならないので、今日は顔を出しに来ただけなのだという事。
そして、お茶を飲んだら、すぐに失礼する事だ。
それから、先程、執事にも話した『自分がハルリンドに倣ってアルバイトを始めた事』や『近況の話』をして、初めて自分で稼いだお金で買ったお土産を手渡した。
ハルリンドは、カヤノが購入したお土産の練り切りの箱を開けると、とても喜んでくれた。
「カヤノちゃんが働いたお金で買ってきてくれたの?嬉しいわ。後でアスター様や皆で頂くわね。」
「ハイ…喜んでもらえて嬉しいです。」
「現世には立場上、滅多に行けないから、本当にあなたのお土産は新鮮よ。私も人間界育ちですからね…懐かしいわ!ここのお菓子、現人神だった父方の祖父も好きだったの。」
「なら、良かったです!」
ハルリンドの言葉に、カヤノも嬉しそうな声を上げる。
彼女は、冥界貴族と現人神との間に生まれているので、生まれてから両親を亡くすまで人間界で暮らしていたのだ。
そんなハルリンドに喜んでもらえた事で、カヤノの少し前までの暗い気持ちは吹き飛んだ。
カヤノの心からの微笑みは、見る者を癒す力がある。
ずっと、ハルリンドに夢中だった上司も、思わずカヤノの笑顔に釣られて目を細めてしまった。
本人は、そんな事には気付かないが…ハルリンドとは違った良さが確かにカヤノにはあった。
ただ、それは穏やかで静かな、全く主張しない『美』の一つなのだろう。
感じる者がその美しさに気付くのには、即効性がない…。
しかし、離れたり、振り返ってみた時に、カヤノの良さはじわじわと浸透して、気付くと彼女が自分にとって、かけがえのない存在である事に気付かされるのだ。
それがカヤノの良さであり、神性とも言える。
『ああ、彼女といた時は心地が良かった』とか、
『彼女の笑顔に癒されていた』とか、
優しいしぐさの一つ一つを思い出し…カヤノを恋しく思うのだ。
それが、傍から見ている者には、最初からカヤノの良さが見えているのに、不思議な事にカヤノの魔法にかかっている当の本人は、その良さにすぐに気付けなくなる。
それほど自然にカヤノは相手の心に入り込み、病んだ心を癒したり、リラックスさせてしまう清浄な気を放つ神の力を持ち合わせているのである。
自覚があやふやではあるが…シルヴァスこそ、既にカヤノの魔法にかかっていた事をカヤノ本人は全く知らない。
☆ ☆ ☆
「そういうわけで、僕、心配だから、冥界に行って来るよ!」
現人神統括センターでは、おでん屋と落ち合ったシルヴァスは、慌てて冥界への即席ビザと緊急旅券を申請していた。
自腹で緊急旅券を取るには、少々高額だが…自慢ではないが、シルヴァスもそれなりには稼いでいる。
名門出ではなくとも優秀な彼は、まずまずの高給取りだ。
緊急旅券は通常券より値が張るが、カヤノの為に冥界行きの切符を買うくらいはわけがなかった。
『今までだって、カヤノちゃんが強請れば、いつだって冥界に連れて行ってやったのに!』
…と、シルヴァスは思う。
それは、知らぬ間に彼女に気を使わせていた自分が悪いのだが…。
シルヴァスは、己を振り返って改めて思った。
「自分は彼女の保護者としても、男としても、最低だった!」
と…。
『保護者なのにカヤノにハルリンドと会う事に気を使わせていた!』
『カヤノの告白にも、マズイ返事や対応をしてしまった!』
『全て、クーガに言われた通りだ!』
そう自分の中で思いながら…何となく、妙な胸騒ぎがしているシルヴァスは、焦っていた。
おでん屋もカヤノが冥界に行ったと聞いて、わずかに眉を顰めていた。
「冥界ですか?何事も無ければ、そこまで焦る必要もないのでしょうが…カヤノさんは誕生日が近い。少し心配ですね。確かに、あなたのように腕に覚えのある者が傍にいた方が良いかもしれもしれませんよ。」
「それは、どういう事だい?」
自分の後を追ってくるおでん屋の不穏な言葉に、シルヴァスは旅券を片手に冥界への出発ロビーへ移動しようとして、立ち止まって問う。
おでん屋は顎に手をやりながら、シルヴァスに言った。
「カヤノさんが売られた形で婚姻契約を結ばされた相手は魔神です。魔神は基本的に魔界に住んでいて…契約書には、魔神は誕生日の少し前に成長したカヤノさんを引き取る事になっています。」
「ああ。だが、奴はまだ現れない。もしかしたら、契約に立ち会ったマッド・チルドレン達が現人神社会に摘発されて、反故になったのか?いや、それはあり得ないな…。」
「ええ…シルヴァスさんもおわかりでしょうが、あの契約は絶対的なモノでしたし、そう簡単に魔神が交わした契約を反故にする事はないでしょう。」
「やはり、引き渡すマッド・チルドレンがいなくなった今、魔神は自らカヤノちゃんを連れ去りに来るよな?彼女を一人にするのは危険だ。」
「ですから、あなたが傍にいた方が良いかもしれないと言ったのです。それに冥界は、人間界より下の界に位置しており…魔界から近い。もし、魔神が彼女を連れ去る隙を狙っているのなら、今回の冥界訪問は絶好のチャンスです。」
「!」
ただでさえ慌てていたシルヴァスは、おでん屋の最後の言葉に、一層取り乱して早口で彼に指示を出した。
「そうだ!冥界は魔界にアクセスしやすいし、向こうからも当然、訪れやすい場所だ。大変だ…僕はこのまま、急いでカヤノちゃんの後を追うから、君は上位の神に相談しておいてくれ!場合によっては…。」
「場合によっては?」
「万が一、奴が現れた場合。正当防衛を利用して処分するから…。上位の神々には、早めに契約書を無効にするように頼んでくれ。」
シルヴァスの躊躇ない言葉と、普段の表情とは全く違う残虐そうな目の色に、おでん屋は一瞬『ゾクリ』と背筋を凍らせ、一筋の冷や汗を掻いた。
シルヴァスは、おでん屋の怯えを感じ取ったのか、己の穏やかではない言葉に言い訳をするように、おざなりの補足を付け加えておく。
「魔神が彼女を連れ去ろうとした際に、契約書の効力を発動させるだろうから、その発動が止まれば、僕は君が神々に掛け合って契約書が無効になったと判断し…魔神は殺さない。だから、頼む。今すぐ、君の上司に報告して、神々に契約無効を訴えてくれ。」
シルヴァスはいかにも、本当は自分が魔神を殺したくはないのだというパフォーマンスじみた言葉を並べた。
しかし、その目は既に、殺生を厭わない凶暴な色を隠しきれておらず、おでん屋にそこまで言い終えて背を向けた瞬間、誰にも聞こえないほど小さな声で、物騒な言葉が口から漏れていた。
「だが、少しでも間に合わなかったら…確実にヤルから…。カヤノに触れた手も…切り落とす。念の為、殺神許可も取っておいてくれれば助かるなぁ。」
おでん屋は残念な事に耳が良い為、シルヴァスの小さな声も確実に拾ってしまい、彼が疾風のごとく走り始めた後姿を呆然と見ながら、大きな体を小刻みに震えさせていた。
「噂通り…狂暴な男だ。」
独り言を口してから、我に返ったおでん屋は『震えている場合ではない』と、後日、シルヴァスに締め上げられぬように、急いで言われた事を実行しに自身もセンター内を走り出した。
その直後、教師のサルマンが、現人神統括センターにやって来た!
「ちょっと!児童保護課のシルヴァスって男はどこ?早朝電話で不安になるような事を散々アタシに言っておきながら…あの男!!そのまま、受話器を放置しやがったのよ。」
早速、色々許可を取ろうと、まずは自分の上司の元に向かうおでん屋が、出発ロビーから統括センターの受付を通って刑事課に向かっている所、休日専用窓口で怒鳴り声を上げている見事な赤髪の現人神が目に入った。
赤髪の現人神が、『シルヴァス』と声に出している事から、勘の良いおでん屋はピンと来てしまった…。
性分ゆえ放置もできず、急いでいた途中だったが、赤髪の男の素性を確認する為、仕方なく彼に話しかけてみる。
「あのぅ、シルヴァスさんの事でしたら、受付に聞いても無駄ですよ。彼は今、取り込んでいましてね…ワタシが理由を話せますが…その前に、あなたは?」
自分が知らぬ振りをすれば、この赤髪の男は窓口受付の非番職員に『シルヴァスを出せ!』と、そのうち、本気で噛みつき始める勢いだった。
けれど、いくらセンターの受付でシルヴァスの居場所を問い合わせても、受付業務者には何も答えられないのだ。
そもそも彼は、通常なら今日は休みで、出勤していない筈なのだから。
おでん屋は、受付の職員を気の毒に思ったのである。
たまたま通りかかったおでん屋の声に、サルマンは勢い良く振り返り、受付から離れると、興奮のあまりか唾を飛ばしてしゃべり出す。
それを見て、受付職員の気の弱そうな男は、ホッとした顔をした。
「アタシはサルマン・キュベルよ!現人神養成学校の教師をしている者なんだけど…あなたはシルヴァス先輩がどこにいるかご存じ?今朝、一番に電話でアタシの教え子が大変な事になっているって、一方的に聞かされたんだけど?」
おでん屋は『ああ、やはり!』と思い、彼が前におでん屋の屋台で話に出ていた、シルヴァスの養い子の担任教師なのだと合点がいった。
そこでおでん屋は、サルマンに今までの経緯を一通り話してやった。
「話はわかったわ。万に一つでも契約が成立したら、取り返しがつかなくなるわね。魔神に攫われたらおしまいよ。そうとわかれば、アタシも冥界に行くか、何かできる事があれば協力するわ。」
サルマンは、事態を呑み込むと、おでん屋に全面的に協力をしようと真摯に従う姿勢を見せた。
こういう時は、自分勝手に行動するより、専門家の指示に従った方が良いという教師らしい考え方から、彼は落ち着いた対応を見せる。
今まで怒鳴っていた男が、状況を確認した途端に取り乱しす事もなく、冷静になったのを見て、さすが教師だとおでん屋は密かに思い、たった今、自分がしようとしていた事を話した。
「とにかくワタシは、これから自分の上司に事態を報告しなければなりません。その上で適切な上位の神の威光を借り、契約破棄の手続きを頼みに行く予定です。上位の神と言っても、現人神ではなく、天上の神々に直接アクセスをする事になるでしょう。」
「では、一緒について行って、アンタが上司に報告をした後、アタシはアンタの指示に従うわ。」
「それは助かります。」
急いでいる状況で、純粋にサルマンの申し出はありがたく、おでん屋は早速、暗黙の了解で彼を伴って歩き出しながら、話の続きを付け加えた。
「それでは、お言葉に甘えて…ワタシが上司に報告と許可をもらったら、サルマンさんは天上の神々にアクセスを取って頂いても良いですか?」
「了解。」
「天上界のどなたに頼むかは、センターの専門部門に依頼しますが、直接交渉はワタシがする予定だったんです。それをあなたが代わりに請け負って下されば、ワタシはその間、各種手続きを済ます事ができます。」
主にシルヴァスが、最後に自分に言い捨てて言った…
『殺人(神)許可願い』とか…
…と、
おでん屋は思いながらも、その事はサルマンには言わず、各種手続きの中の一纏めとして話をした。
「いいわ!早々に契約解除をすれば、シルヴァス先輩が心配して、わざわざ冥界に行った意味もなくなるじゃない。フフン、カヤノの髪飾りを壊してくれたり、大人げない保護者殿に無駄骨を折らせてやろうじゃないの!!」
自分のすべき事が見えて、清々しい顔でやる気を漲らせるサルマンに、『彼の言うように無駄骨になればむしろ、一番いいな。』とおでん屋も同意して頷いた。
冥界に魔神が現れなければいいし…その前に彼女の契約が解除されれば、一番良い結果だと言える。
シルヴァスが無駄骨を追って、サルマン相手に悔しがった所で、そんなのは笑い事でしかないだろう。
最悪なのは、こちらが契約を無効にするのが間に合わず、シルヴァスがカヤノの所に到達する前に
魔神に攫われた場合だ…。
そうなれば、彼女の『人』としての体が生きている間には、助ける事ができなくなるかもしれないのだ…。
下手をすれば魂だけになっても、解放できない場合だってある。
それだけは、何としても避けなければならない!
おでん屋からしたら、会った事も無い相手だが、まだ若い女性現人神が獰猛な種族の魔神に好き勝手されれるなど…想像するだけでもゾッとするし…同じ現人神の男として、それを放置するなどプライドが許さない。
刑事課の者としてもだ!
それぞれの思いを胸に、シルヴァスを初め、おでん屋とサルマンは、カヤノの契約を知ってしまった事に対して、それぞれのできる事を早急に行おうと走り出した!
地上と冥界の温度差ありでした。




