春の嵐と恋の風⑱
カヤノは、平日は毎日アルバイトをして過ごしている。
学校には、卒業式まで月に二度ほどのミーティングに参加する以外は、行かなくても良い。
現人神養成学校の卒業最後の年は、個人により進路が違う事もあり、それぞれがその準備をしていて、ほぼ自由登校になっているからだ。
生徒達は、担任に相談事がある時だけ、学校に訪れる。
だから、最終学年で学校に継続的に通っている生徒は、何らかの委員をしている生徒くらいしかいなかった。
カヤノは卒業後、即・自立が可能な就職先を希望しているので、男性に対する苦手意識を少しでも克服する為と、自立資金の足しになり、社会勉強にもなるという理由で、学校から紹介してもらったアルバイトを経験してみる事にした。
ついでに数年前、保護者になってくれたシルヴァスの元を離れる訓練の為、担任教師の家に半年という期限つきで世話になっている。
半年間、順調に行き、慣れない環境で頑張る事ができたら、カヤノはシルヴァスの元に戻り、今度は卒業までの残り3~4か月間で、急いで就職活動をしなければならない。
うまくいけば、卒業と同時にシルヴァスの元を離れる事ができる。
今のカヤノの一番の目標はそれだった。
シルヴァスに引き取られて数年を過ごすうちに、優しくて少年のような雰囲気を持った彼に、異性として惹きつけられてしまったカヤノは、告白後、相手には自分と同じような気持ちを抱いてもらえないと知ったのだ。
これ以上、彼の元にいるのは精神的にも辛いと判断し、一日も早く家を出たくて、自立を試みる事にした。
世の中やお話の世界なら、ヒロインは簡単に好きになった相手を諦めたりせずに、振り向いてもらおうと頑張るのだろうが…カヤノには告白するだけで精一杯である。
それに一度、断られたというのに、それでもと自分を売るだけの自信などない。
実際に、自分には特別に売り込めるような、他の女性より優れた所など、これと言って何もないのだ。
ここは見苦しい行いなどせず、すんなりと身を引く方が良い。
第一、ここでそれでも好きだから…とあれこれ画策すれば、確実に今まで世話になった保護者としての恩がある相手を困らす事になるのは目に見えているのだ…。
大人しくて優しいカヤノに、そんな事はできる筈がなかった。
せめて、見苦しい事などせずにシルヴァスの元を去れれば、それが一番いい。
元より、独身男神の養い親に育てられた孤児は、カヤノのように学校卒業後、保護者の元を早々に離れ、自立するのが珍しくないのだ。
ただカヤノの場合は、一般的な場合とは少し異なり、トラウマを抱えていて、保護者の元を離れる理由が普通の孤児とは逆である。
通常は、女性現人神が希少な為、養い親である保護者の方が、引き取った娘に懸想してしまうのである。
それが理由で、養い子は卒業後、準備が整い次第、保護者の思いには応えられないと、自立して出て行ってしまうのだ。
そういうパターンが当たり前なので、万が一、養い子の方から保護者を好きになって告白までしようものなら、断るなんてケースは滅多にないのである。
養い子から保護者を好きになるケースは、全体の三分の一に満たないし、基本的に好みでない相手を独身男神が引き取る事はないので、大概は、相思相愛になるだけで問題がないからだ。
だから、『もしかして自分も』と期待して、勇気を持って告白したのだが…。
カヤノは、その滅多にないケースになってしまったのだ!
当初は、自分がトラウマを抱えている上に、地味で魅力がないからだと、自らに酷く嫌悪感を持った。
そして今、自分が自立したい理由を考えるだけでも、恥ずかしいし、悲しくて辛い。
どうして自分は、こんなにもさえないのに…『現人神』なのかと思う。
能力的にも大した神力はなく、本当は人間として生きていた方が合っているし、差し障りがないのに…!
そんな自分が数か月前、思い切って担任の申し出を受けた。
自立への練習に保護者の家から、少しの間、離れてみないかというものだった。
サルマンの家で世話になる事は気兼ねだが、同居している担任の姉は同性であり、色々と男性には話せない相談もできて頼りになり、今は思い切ってシルヴァスの元を離れて良かったと思っていた。
職場でも少しずつだが、トラウマとうまく向き合えるなってきて、今は順風満帆だ。
そのお陰で失った自信が、徐々に取り戻されていくような気もしていた。
本当なら、このままシルヴァスの元には戻らずに…できれば、過去の事だと、忘れてしまいたい。
成人前なので、一時的に保護者の元に戻らなければならないとしても、それまでは少しずつ距離を置いて、会わない時間を増やし、彼の事を自分の中から追い出していこう…。
そう考えていたのに!!
カヤノは、職場のカウンターで自分の目の前にいる忘れたい男性から書類を受け取ると、溜息をついた…。
「ハアァァァッ。」
深呼吸を兼ねて、おもむろに吐き出される溜息を耳にして、目の前の男が自分に笑顔を向ける。
「どうしたの、カヤノちゃん…疲れてるの?もしかして、休憩はまだかな?昼がこれからだったら、僕と一緒に行こう!今日は出張もないし、君の休憩時間に合わせられるからさ。」
カヤノはどうしたものかと、首を捻った。
シルヴァスに偶然、仕事場所を知られて、休日にサルマンと共に会って以来、何かしら理由を付けては頻繁に彼が仕事先に訪れるようになったのだ…。
前は、自分がアルバイトを始めて3か月も経過してから、ようやく一度だけ、少年連れで偶然に精神科を訪れるだけ…という程度の利用頻度でこのクリニックに来るか来ないかだった筈なのに!
どういうわけか、ここで自分が働いていると知ったシルヴァスは、その後、あらゆる用事を行政部の方から持って来て、カヤノの職場に顔を出す。
お陰で、常連患者とのコミュニケーションも減ってしまった。
カウンセリングに通う男性の現人神が話し掛けてくると、決まって傍にいたシルヴァスが、何らかの用事で声を掛けて来るのだ。
男性に慣れる手段としては、常連の男性との何気ない世間話は、良い練習になっていたので、少し残念だとカヤノは思っていた…。
それにしても、なぜシルヴァスは意中でもない養い子に、ここまで過保護なのだろうか?
元々、子供好きだし、血の繋がらないカヤノをここまで気に掛けられるのなら、いつまでも過去の失恋を引きずってないで、自分こそサッサと結婚相手を探し、本当の子供を作る努力でもした方がいいのに…。
「シルヴァスさんは、私の心配をしていないで、自分が失恋カウンセリングにでも通えばいいのに。いつまでもハルさんを忘れられないのはわかるけど…私のトラウマに引けを取らないくらい重症だと思うわ。」
カヤノは心中で独り言ちると、ハルリンドを思い続けるシルヴァスの時間を考え、自分がトラウマを抱えた期間より長いのだと気付く。
自分の眉間にシワが寄るのを感じながら、カヤノはシルヴァスの昼食の誘いに、何か理由を付けて断ろうと口を開いた。
「シルヴァスさんは、仕事中だし…職場が違うでしょ?私は午後診療の前に先輩達と休憩に入るので。」
カヤノがシルヴァスにそう言い始めると、隣りで勤務している受付業務の先輩である現人神の女性から、声を掛けられてしまった。
「あら、彼はあなたの保護者さんなのでしょう?わざわざ誘って下さったんだから、一緒に行ってらっしゃいよ。あなたの事は、私が言っておくから構わないわよ?」
彼女の親切な声掛けに、カヤノが返答をするより先に、シルヴァスが答えてしまった。
「ありがとうございます!!それから、いつもカヤノがお世話になって…色々、仕事で御迷惑をお掛けするとは思いますが、これからもどうぞ、宜しくお願い致します。」
保護者らしく頭を下げるシルヴァスに、先輩現人神はクスクスと笑って頷いた。
「ウフフ、勿論よ。それに、カヤノさんは働き者なので私達も助かっています。卒業してもここで働いけばいいのにって、皆で話しているくらいですよ。」
先輩現人神に、保護者の前で褒められて、恥ずかしくなったカヤノは、頬を少し赤くして会話を遮った。
「先輩!シルヴァスさんの前だからって…そんなに気を使わないで下さい!!私なんてまだ、先輩に色々と聞いてばかりなのに…。」
そんな慌て気味のカヤノにクスクスとまた、先輩の女性は笑んで、シルヴァスとカヤノに言った。
「そんなに照れなくてもいいのにね、事実なんだから…。あら、そんな事より、本当にそろそろ休憩時間だわ。カヤノちゃんは、シルヴァスさんと先に行っていいわよ?」
彼女の声にシルヴァスがパアァァァッと顔を明るくさせたので、思わずカヤノは先輩の親切を断る事ができなくなってしまった…。
仕方なく、小さな声で彼女に礼を言う。
「ハイ…ありがとうございます…行ってきます。」
カヤノが浮かない顔で、シルヴァスと休憩に入ると、シルヴァスはご機嫌で、統括センターを出てすぐにある現世でお勧めの店に連れて行ってくれた。
「あのぅ、シルヴァスさん…困ります。職場では、あまり親しくされるのは…ちょっと。私も、仕事先の皆さんと、もっと馴染みたいので…。」
遠回しに迷惑だとシルヴァスに告げようとしたが、シルヴァスはメニューをカヤノに手渡して動じずに、
「そう?じゃあ、他の人にも君の事、お願いしておかないとね!」
と、カヤノの言葉を意に介さず…その後、すぐにお勧めメニューの説明をし始めた。
「・・・・・。」
カヤノは、下の瞼と上の瞼がくっつく寸前の表情で、シルヴァスの説明を聞いた。
途中、サルマンの家での出来事を報告させられたり、上司であり雇い主のヒロミ先生の話をしつこく聞かれるし、まるで事情聴取をされているかのような気分である。
カヤノはシルヴァスが連日、自分の仕事先に顔を出すので、頭を悩ませていた…。
職場の女性現人神達には、『養い子が心配なのね!』と大事にされている事を微笑ましく思われているようだが…周りがシルヴァスに好意的なのは、カヤノからすれば困るのだ…。
だって、今一番、離れたい存在なのに!
シルヴァスさんは酷い…。
私の告白を流しておいて…私の気持ちなんて…お子様が恋に恋をする錯覚だと思っていて…それなのに、こんな風に私を大事にしてくれるから…。
これでは、いつまで経ってもシルヴァスが、自分の心から出て行ってはくれなくなってしまう。
家を出て最初は、少しの間でもシルヴァスを忘れていられたのに…。
毎日のように、私の職場に通ってくるなんて…。
まるで…シルヴァスが自分の事を好きみたいだなんて…思えて来てしまうのだから始末が悪い…。
とにかく、そう自分が勘違いする前に、卒業後は『絶対にシルヴァスから離れなければならない!』と気持ちを強く思う事にカヤノは決める。
シルヴァスの豊富な会話を聞き流しながら、カヤノは青菜に塩のような弱った表情のまま、メニューをボーッと眺めていた。




