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春の嵐と恋の風⑯

 カヤノがシルヴァスの元を離れて、もうすぐ3ヵ月が()とうとしていた。



今日もカヤノは、朝から因幡大巳(いなばひろみ)医師率いる職場の受付カウンターで、アルバイトに(いそ)しんでいる。



サルマンの家にも慣れたし、アルバイト先の仕事も大分覚えて、当初は男性患者が来ると引きつっていた笑顔も、少しずつ自然になってきたと医師や職場の先輩達にも言われ、カヤノ本人も多少の自信と余裕が持てるようになってきた。


男性患者達の方もどこから聞いたのか、カヤノが男性が苦手だという事を知っているらしく、無理に距離を縮めてくる事もなかったし、好意的で物静かな接し方を心掛けてくれるので、この仕事を紹介してもらえて、本当に良かったとカムイには感謝していた。



「もう少しして3ヵ月丁度(ちょうど)になったら、今度はシルヴァスさんに、ちゃんとした連絡を入れよう!」



カヤノの仕事が決まってから、一度はシルヴァスに連絡を入れたものの、それは手紙での連絡であり、電話もしていなければ、会いにも行ってはいなかった。


その手紙内容というのも、一方的に仕事が決まった事とサルマンが良くしてくれるので心配はいらないと手短に書いた物である。

とにかく生活に慣れて、しばらくしてから、改めて連絡をするので、今は放っておいて欲しいと最後には締めくくっていた。


カヤノとしては、完全に軌道に乗ってから、シルヴァスに知らせたいと思っていたのだが、保護者が心配するからと担任に言われて、最初の一週間目で手紙を出したのだ。


だが、手紙には過保護なシルヴァスが返信して来ないようにと、サルマンの家の住所も記入しなかったし、職場の場所も書かなかった。


勘の良いシルヴァスは、カヤノが自分には、まだ色々と知られたくないのだと察してくれたのだろう。

現人神養成学校に連絡をして、サルマンの家を聞き出したり、現人神統括センターに問い合わせて、カヤノの職場を探し出したりなど、保護者の特権を生かした接触は特にして来なかった。



カヤノは、その事にホッとしていた。



「シルヴァスさんも、きっと私が本気で自立を目指していると、わかってくれたのね。」



最初は、シルヴァスと離れた事が寂しかったが、初めてのアルバイトに夢中で、カヤノは思ったよりもホームシックにはかからなかった。



「休日もサルマン先生やイーリスさんが気を使って、どこかに連れ出してくれたり、相手をしてくれたのも良かったのかもしれないわ。」



しかし、まだ慣れ始める前に、シルヴァスと会ったり、必要以上に交流してしまえば、途端にカヤノは弱音を吐き、自立の意思が損なわれていた可能性もある。


やはりシルヴァスの元は居心地が良かったし、庇護されているという安心感が強かったのだ。


…更に甘えだってある。


そう考えると、本当にシルヴァスの方から、自分に接触を試みないでくれた事は有り難かった。



「でも、もうそろそろ、色んな事にも慣れて来たし…シルヴァスさんの顔を見ても、大丈夫そうだわ。今日あたり、アルバイトが終わったら電話をしてみようかな?」



カヤノは、今までの事や仕事先の話を、シルヴァスに報告したいと考えていた。



そう思っていた矢先。



以心伝心とはよく言ったもので、アルバイト先のドアが開き、呼び鈴が鳴った。



「あっ、カヤノちゃん、お願いね。」



カウンター横で会計をしている受付の先輩現人神の女性がカヤノに声を掛けた。


精神科の一般診療のカウンターでは、カヤノとその女性に加え、裏で書類の整理をしている女性スタッフと診療室の看護士を務める女性の4人が医師の他に在籍している。


カヤノは、正職員でもある先輩現人神に『ハイ』と返事をしてから、木彫の扉から入って来たばかりの患者さんの方へと目を向けた。



「カヤノちゃん⁉」



次の瞬間、驚きの声を上げた見知った顔と目が合って、カヤノは目を丸くした。



「シ、シルヴァスさん⁈」



新しく入って来た患者は、シルヴァスと…もう一人。

カヤノは動揺を隠すように一回、深呼吸をしてシルヴァスに話し掛けた。



「あ、あの、シルヴァスさん…私、アルバイトでここの受付をしているんです。ええと…今日はどういった?」



シルヴァスも意外な所で出会ったカヤノの姿に、少し戸惑っているようだったが、すぐに隣に連れている小さな男の子をカヤノの前に指し示して口を開いた。



「実はね…この子、昨日保護した子なんだけど…ご両親がいなくてね。面倒を見ていた祖母の現人神が逝っちゃった後に、しばらく世話を受けた人間の遠縁の親戚に酷い事をされて…。」



そう言って、シルヴァスが口を濁す。

男の子の前でこれ以上の話をするのが(はばか)られたのだろう。

内容の説明を飛ばして、シルヴァスは用件で会話を締めくくった。



「一応、一般診療で構わないんで、因幡(いなば)先生に診てもらって、今後の見解を聞く事にしたんだ。」



シルヴァスの話し方で因幡医師と彼が、どうやら面識があるらしいと推測される。



『そうよね…シルヴァスさんの仕事柄、保護児童によってはこういった所を利用する事もある筈よ。』

とカヤノは思い、自分を探し出してここに来たのではないという事に納得した。



その事が、今更ながら…

『自分はシルヴァスにとってそこまで関心のある存在ではないのだ』

という風に感じられて、カヤノは少し悲しい気持ちになった。



今、目の前にいる少年と自分は、シルヴァスにとって同じような存在なのだ。

数年前の自分も、きっとこんな感じだったのだと思う。


ただ、自分の方が酷い状態だったので、連れて行かれた先は一般診療ではなく、医療部の病棟入院による検査との混合での精神科受診だった。

だから、この統括センター医療部・一般診療に属するクリニックや因幡大巳には、縁がなかったのだ。


カヤノは、しばらく入院の末、孤児院施設に移動した先で、少しずつ元気を取り戻し始めた。

その為、当時の担当医に今後の通院に関しては『本人の意思が最優先』という判断を下されたのである。


そこでカヤノは、自分から精神科の診療は不要だと断ったのだ。


当時の自分は、トラウマ克服の為にマッド・チルドレンの事件を語るのも嫌だった。

精神科への通院は、何となくその事を思い出してしまい、苦痛に感じられたのである。


そうして、今日に至ってしまった事は、今となっては反省しなければならない点だと思う。


今後は、逃げずに自分と向き合っていかねばならないと改めて思い、カヤノは唇を噛みしめた後に、シルヴァスと彼の連れている少年に精一杯の笑顔を向けた。



「そうですか…では、初診ですね?こちらの用紙に記入をお願い致します。不明な点は空欄で結構ですから…。あっ、それから彼の現人神・登録カードはもうお持ちですか?」



事務的な会話をした後に、シルヴァスに少年用の問診票と筆記具を渡す。

シルヴァスもカヤノが仕事中なので、私語は控えたのだろう。

『ありがとう』と一言添えただけで、それ以上は何も言わずに少年にジュースを飲ませてやりながら、二人で上質なシートに腰掛けて、問診票に記入を始めていた。


カヤノもチラリと二人の姿を見やった後は、動揺も治まり、いつも通りの仕事を(こな)し始める。


すぐに、新しく、室内に入って来たカウンセリングに通う常連さんが、カヤノに笑顔で話しかけていたので、シルヴァス達にはそれ以降、視線を向けていない。


だから、その常連の男性現人神と普段通りの会話を交わしている時に、シルヴァスが時折、チラチラとこちらの様子を窺っていた事に、カヤノは気付かないでいた。


常連が会話をしていると、また、扉が開き違う患者がやって来たので、カヤノは次の対応を始める。

それまで話をしていた常連も仕方ないと言った表情で会話を辞め、次の患者を一瞥すると革張りのソファに腰かけて、名残惜しそうにカヤノの見ていた。


しかし、次に来た患者も男性現人神で話し好きらしく、更に次に来る患者が現れるまで、受付で話し続けていた。


カヤノは、カウンセリングの為に精神科に通っている常連さん達が、人恋しくて本当に話を聞いて欲しい人達ばかりなのだと、同情心から男性に対する恐怖心を何とか堪えながら、相槌(あいづち)を打ってあげていた。


それが彼らは嬉しいらしく、更に次の次に入って来たカウンセリング目当ての男性現人神にも、同じ対応をする事になっていた。


カヤノは、精神科のカウンセリングに一週間に何度も通い続ける男性現人神達が、『本当にしゃべる相手がいないのだ!』と、心の底から気の毒に思っていた。


そのお陰か、この3か月間で男性に対する恐怖心が、少し薄らいだようだった。

たまにどもったり、固まる事もあるが、その頻度や時間も減ってきた気がする。

このペースでいけば、卒業までには、それほど差し障りがないくらいまで男性への苦手意識を克服できるかもしれないと明るい気持ちになった。


シルヴァスにも、今日、自分が少しだけ進歩した姿を見せる事ができたかもしれないと、カヤノは更に心を(はず)ませる。

保護者であるシルヴァスが、自分のトラウマ克服を喜んでくれるに違いないと、カヤノは当然そう思っていたのだ。


だから、少年の診療を終えて、会計をする際の受付で、カヤノはシルヴァスに笑顔を向けて言った。



「すみません、シルヴァスさん…ずっと音沙汰無しで。近々、連絡をしようとは思っていたんです。少なくとも以前より成長してから、報告したいと考えていたの。今週の休みに電話しますね。」



しかし、カヤノの満面の笑顔にシルヴァスの方は、社交辞令程度の笑みを作って素っ気なく答えた。



「ああ、わかった…でも、僕の方は、直接、会って話を聞きたいんだけどな?君の近況を詳しくね。」



それでも、シルヴァスにとっては、養い子を手放さなければならない日が近い事を悟ってしまった…精一杯の笑顔だったのだという事をカヤノは知らない。



「あっ、ハイ…じゃ、どこで会いましょうか?今夜、電話しますね。」



カヤノの言葉にシルヴァスは片眉を顰めた。



「今週末、君が()()()()に帰って来てくれればいいんだけど?」


「いえ、そうしちゃうと…私、シルヴァスさんの家に帰りたくなっちゃうかもしれないんで。半年は自立に向けて、一人で頑張るって決めました!だから、会うのは外でお願いします。」



少年を連れている事もあり、カヤノの眩しい笑顔にシルヴァスは、それ以上何も言えなかった。


しかし、心の中では

『帰りたくなっちゃうかもしれないって…帰って来て良いのに!何言ってんだ?』

と、カヤノの言葉にツッコミを入れていた。



 その後、シルヴァスは少年と共にクリニックを後にして、勤務終了後にはパピヨンに寄る事もなく帰宅した。


そして、夕食の時間を過ぎたあたりに、カヤノからかかってきた電話で、次の週末に自宅近くの喫茶店で合う約束をしたのだった。


電話を切ってからシルヴァスは、マンションの自室で一人、酒を(あお)りながら、テーブルに激しく頭を打ち付けると、ソファに寝転がって、昼間のカヤノの姿を思い出していた。



「何なんだ⁉」



無意識にシルヴァスの口からは悪態が漏れだした。


カヤノが出て行ってから、シルヴァスは連日、パピヨンに通ったり、クシティガルヴァスを無理矢理誘って夜を明かしたり、積極的に知り合いに連絡をして、時間を潰してから家に帰っていた。

しかし、一人暮らしに戻っただけの暮らし向きに、どうしても馴染めず、心はずっと冷たい風が通り抜けた後のように、麻痺して穴が開いたみたいな感覚に陥っていた。


『寂しい』そう口から出た後に、思い浮かべるのは、いつも自分の帰りを待っていたカヤノの小さな笑顔である。


カヤノは、もう何年もシルヴァスにとって『僕がいないとダメな少女』だった。


それは、かつて愛した凛として美しく、己が辛い中でも苦しみを噛み殺し、一人でも立ち上がろうとしていた気丈なハルリンドとは、対照的な存在のように考えていた。


カヤノは彼女ほど気高くもないし、能力もない…平凡で、そして強くもないと思っていたのだ。


だが、今日のカヤノは、自分の知っているカヤノとは違っていた。


おぼつかないながらも、自分の足で立とうとしている生まれたての仔馬のような一生懸命さが伝わってきて、強い生命力を感じさせるとまではいかないが、それは小さいながらも健気で周りの者の心をつかみ、もう自分がいなくてもカヤノはやっていけるのだと確信してしまったのだ!


どういうわけか、その事で、一人で懸命に立ち上がろうとしているカヤノを上から押さえつけて、転ばせて二度と立ち上がれないくらいに痛めつけ、もう二度と一人で生きていかれるなんて思えないようにしてやりたいという狂暴な気持ちが、自分の中で湧き起こってしまう事にシルヴァスは戸惑った。



 カヤノの職場に訪れたのは偶然だった。



彼女が以前から見知っている因幡医師の所でアルバイトを始めるとは意外で、女性の多い職場であると安心したのは、ほんの一瞬の事だった。


少しの間、カヤノの仕事ぶりを見ていたが、後から後から、明らかにカヤノに気があるであろう現人神の男が彼女に上手な距離感を作りながら、接触している姿を目の当たりにしたからである。


どう考えても、カヤノ狙いで頻繁に通っているであろう男どもに、純粋で世間知らずに育ててしまったカヤノが疑う事なく、彼らに真摯(しんし)に向き合って会話を聞いてやっている姿に衝撃を受けた。


勿論、カヤノが男性が苦手な事に変わりはなく、時折、怯えたように手を引っ込めたり、ちょっとした声の大きさでビクリと体を震わせる事はあったが、相手が気を使って接していれば、カヤノは以前よりずっと、異性との会話を問題なく熟す事ができるようになっていたのだ!


カヤノの男性恐怖症を知っているらしいエセ患者の男どもは、そんなカヤノの態度すら可愛く感じるようで、終始脂下(やにさ)がった顔で、カヤノが時折怯えたように肩を震わせると、それすらも堪らないというような笑みを作った。


その奴らのギラついた視線を見るにつけ、このまま、カヤノがどこかの男に持っていかれてしまうのは、時間の問題だと思えた。



「あんな嫌らしい男どもに、彼女を任せられるものか!」



シルヴァスは一人で叫んだが、その嫌らしい男どもをカヤノが選んでしまえば、自分の静止の声など大した効力がないのだと思い至る。


しかも、シルヴァスは診察室に少年と入った時に、出て来た因幡大巳(いなばひろみ)の姿を見て驚いたのだ。


普段も白髪ではあったが、30代そこそこの容姿をしている因幡医師の姿が、老人に変化していたのである!


因幡医師はシルヴァスに言った。



「ええ⁈君がカヤノたんの養い親だったの?ビックリしたなぁ。え?この姿?勿論、カヤノたんに最初から怖がられない為です。お年寄りなら男でも抵抗が少ないだろうと思いまして…でも、彼女も慣れてきたし、来月辺りには元の姿をカミングアウトしようと思ってます。」



因幡医師の口調を聞くや『カヤノ()()て何だ?』と思ったが、そこは流して、そのまま彼の話を聞いて行くと、どうやらカヤノの現状を学校から聞いていた医師は、事前に老人の姿に化けて、カヤノに接していたのだという事がわかった。

そして、そこまで話した因幡医師は、軽い口調でシルヴァスの顔を引きつらせる言葉を続けた。



『お爺ちゃんと思っていて気の許した相手が、実は王子様のようなイケメンでした~とか、女の子は好きなパターンですよね。

私にも、ようやく遅い春が来るかもしれません。

カヤノたんのように、心理的に苦しんでいる子には、私のような職業の者がお似合いだと思いませんか?

このまま仕事を手伝ってもらって、同じ職場で共働きというのもいいですね。

あっ、少し話が早すぎました⁈

彼女はまだ学生…幼妻…とか、響きが萌えるな…あっ、いや、コレ、聞こえなかった事にして下さい。

そういえば、シルヴァス君て彼女の保護者だし…私が、お義父さんて呼んでもいいのかな?』



カヤノにだって、『お父さん』だなんて呼ばせていないし、実際、保護者にはなっているが、()()として引き取る契約を交わしたわけでもないのに、何で古来からいる神の化身で、自分より年上の因幡大巳に『お義父さん呼ばわり』されねばならんのだ⁈


…と、シルヴァスは、大いに憤慨した。



因幡医師のあけすけな独り言に『何を妄想しているのか⁉』と、少年の前だというのにシルヴァスは空手チョップを診察室でくらわせて出て来たのである。



 しかし、これでハッキリした。



この男は危険だ!


因幡医師にもカヤノは狙われている!!


こんな職場…すぐに辞めさせたい!



…しかしどうやって?



とりあえず、週末カヤノに会った際、それとなく、職場の話を聞き出して、現状を把握しよう。



自分の頭は、お花畑だった…。


クシティガルヴァスやパピヨンのママが言う事は正しかった!


ほんの少し、カヤノを現人神社会に…外に出しただけで、このザマだ。


卒業と同時にフリーのカヤノがシルヴァスの元を去り、自立などした日には、その日のうちに誰かに(さら)われてしまい兼ねない。

いや、自分の元にいたって、成人して社会に出た段階で狙われるのだ。

現に、今、カヤノは成人前で卒業前だというのに、既に男ども(独身男神)に目を付けられ始めている!


今まで、カヤノのトラウマが男を遠ざけると思っていたが、そんな事は甘かった…。


むしろ、そのせいで男神どもの庇護欲をそそり、ある種のタイプの男を引き寄せてしまう気がする。



シルヴァスは、自身がカヤノの自立問題や恋愛事情にどうこう口を挟むべきではないと、クシティガルヴァスとの会話に思い至り…この3ヵ月近く、連絡を取りたいのも我慢して、センターや学校に問い合わせる事もしなかったのだ。


けれど実際に、カヤノの実情を見てしまうと、シルヴァスは居ても立っても居られない衝動に駆られていた。


頭では余計な事だと思うのだが、どうしてもカヤノを狙う男どもを追い払いたい!

少なくともまだカヤノは学生なのだから、保護者である自分が、奴らを排除したって問題は無い筈だ!



 『カヤノの巣立ちは時期尚早!』


シルヴァスは、そういう方向に思い直し、己の心理状態に忠実でいてもいいのだと自分に言い聞かせた。


明日、どこかで一回、投稿できたらいいなと思っています。

どうぞ引き続き、アクセス頂けるようお願い申し上げます。

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