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Ⅶ なみかの思い出



 なみかは明るくなった空を見上げ、イエローグリーンに輝く海辺を歩いていた。後ろでくくったオレンジ色の長い髪に、明るいターコイズブルーの瞳は、海に映るとイエローに光って見える。


「りんた、元気かしら」

 りんたがいなくなってから一日が経った。家でサマー・クリスマスの準備をしていてもなかなか集中することができず、なみかは気をまぎらわすために外に出てきた。昨夜はりんたが心配で一睡もできなかった。


 なみかの視界のすみに桃草が入ってきた。青い芝生に桃色の双葉を元気よく咲かしている桃草は、サマー・クリスマスの一週間前に必ず生える。

 そのためこの国の人々は桃草のはちみつのように甘く、ミントのようにさわやかな香りをかいで、サマー・クリスマスを待ち遠しく感じるのだ。


 でも、いまのなみかにはサマー・クリスマスを楽しみにするほど心に余裕がなかった。りんたに何かあったら、と常に頭のなかは不安で埋め尽くされていた。

 それも、五年前に海に飛び出て、大嵐の中倒れて帰ってきた夫のりくのことが今でも忘れられないからだ。


(あの日から、少し海が怖くなってしまった)

そして、サマー・クリスマスも楽しみではなくなってしまった。


 五年前、浜辺で倒れていた夫の姿がいまも脳裏に浮かぶ。

 八月二十五日のサマー・クリスマス、そしてなみかの誕生日にりんたが泣きそうな笑顔で言った。


――「パパは、ママのために海でサマー・サンタクロースをしたんだよ」――


 悲しみと誇りの入り混ざったりんたの顔はいまでも鮮明に思い出せる。

「あなたが亡くなって、五年が経った、海も空もなんにも変わらないよ」

 砂浜にしゃがみ、イエローグリーンの海に手をひたす。やわらかい冷たさがなみかの心を癒す。優しい甘い香りが風にのってやってくる。


「あなたは素敵なサマー・サンタクロースだったわよ……りんたのサマー・サンタクロースが、とても楽しみね」


 しゃららん… しゃららん…


 海はサマー・クリスマスを迎えるのが待ちきれないように、いったりきたり、鈴のような波の音をささやかせていた。なみかは砂浜に座り込む。


「また聞きたいわ、あの素敵な歌」

波の音を聞きながらゆっくりと目をつぶる。

 なみかとりくが出会った場所。そこでしか聴くことのできない歌。

 もう、思い出せない歌。

 ゆっくりとなみかの意識が遠のいていく。


 なみかとりくは、『海の街』でサマー・サンタクロースをしているときに出会った。

 一〇歳のサマー・サンタクロースを無事に終え、再会を誓って別れてから、五年の月日が経った。

 それでも常に二人の心にはお互いがいた。

海の医者をしていたりくがなみかの街にやってきたとき、二人は十五歳だった。

 サマー・サンタクロースを終えた、五回目のサマー・クリスマスの日、まぶしい太陽の下で、二人は再会を果たした。

その後、二人は五年後に純白のリングを交換した。その五年後にりんたを授かると、二人の生活は幸せに満ちていた。

 時が来るまでは。

りくの体はもとから弱く、過労で倒れることもしばしばあった。それでも海の様々な病気を治す医者をやめることはなかった。

海はときたまに過去と未来と、違う世界を混ぜてしまう。

 それはだれも解くことのできない海の不思議。

 海はその不思議な光景を、恩返しのようにりくに見せていた。

 その海に毎日潜るりくは、いままで何度も不思議に出会っては、それをなみかに幸せそうに話していた。

でも、もうりくの体は限界だった。



目を開くと、なみかは左薬指の純白のリングをぎゅっと握った。

りんたとともに見送った、最愛の人の最期。

 五年前のサマー・クリスマスが終わる真夜中に、りくは世界で一番幸せそうに「ありがとう」とつぶやいた。

そして、眠るように亡くなった。

 本当に、忙しい仕事を終えたあとのように、いつものような笑顔で。


そのとき、なみかは、ぱっと目の前が真っ暗になった。

 なみかには現実を受け止めることができなかった。

 何もかもわからなくなってしまった。

 自分のやること、生きている意味。なにも、わからなくなってしまった。

 全ての意味がなくなってしまった。この世の光が泡のように消え、いままでの夢が覚めてしまったように、残ったのは体がふるえるような激しい悲しみだけだった。


 働かない頭に、固まってしまった心。体が自分の意思を無視して崩れ、目から涙を溢れさせていた。それでも、もうなにもわからなくなってしまった。

 ただ、息をつまらせながら、声をあげて泣いた。すべての光が消えてしまったようだった。


あの日から五年が経った。

 年を重ねるごとに少しずつ悲しみに慣れてきた。

 でもいつも、心の中の悲しみの海は波をうっている。

 一生なくなることはない。

 いまは、りんたがいることで波はおさえられている。なみかには、りんたしかいない。

 でも、それでもたまに、突然大きな悲しみの波がやってきて、なみかの心を削っていく。耐えられない悲しみが心を埋め尽くして渦を巻いた暗い海がすべてを壊してしまいそうになるほど、なみかを苦しめる。


いまも、なみかの心の波は大きく揺れて、闇の色をした海は一度入ったら抜け出せないほど心にまとわりついて、なみかの体をむしばんでいる。

この悲しみは、もうだれにも取り払うことはできない。なみかが息をひきとる一瞬まで、その大嵐を続けるだろう。

 なみかはそれに疲れて、もうなにもできなくなる。

 生きる希望も、夢も、なにも生むことができなくなる。


 大好きな海は、もう悲しみを引き出す恐怖でしかない。

 なみかは鉛のように重たい体を砂浜にあずけた。傾きだした太陽も、もうなみかには見えていなかった。視界がぼやけて、まばたきをすると目の端からあついものが、耳をとおりこしてオレンジ色の髪に消えた。


一度あふれた涙は、止まることなくつづく。りんたが家にいないいま、空っぽになった家が、こんなにもさびしいと思わなかった。

なみかはうずくまって、声を上げて泣いた。どうせ、周りにはだれもいないから。

 心から会いたい人は、もう二度と会うことはできないし、それを思い出す手段の記憶は、歳をとるごとに消えていってしまう。


 毎年、サマー・クリスマスがやってくるごとに、自分の中のりくはうすれていってしまう。

 それなのに、悲しみは全く消えるようすはない。

 むしろ、どんどんと無限にふくれ上がっているように感じる。


大好きだった海も、いまはもう入ることすらできない。


 そんな海の前で、なみかは泣いた。枯れることを知らないように、溢れるものを全部吐き出すように、大声で泣いた。




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