Ⅲ 不思議な海と白くじら
りんたはハープの美しい音色を聴きながら、青い海の中を歩いていた。
「ねえ、あとどれくらい歩くの?」
肩に乗せたプンに聞く。プンがいると、海の中でも地上と同じように息ができる。りんたはもうなにがあっても驚かない気がした。
「そうだなー、あと少しだ」
この言葉を聞くのはもう五回目だ。いつもはもっと浅いはずの海は、まるで広い海の中心のように深く、底が見えない。もしかしたらここは、プンの住んでいる海底五番地なのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
またはこんな場所は本当は存在していなくて、『海の街』に行く時だけ通ることのできる海なのかもしれない。
周りはもう何も見えない。魚も、海藻も、太陽の光もない。
クッキーを入れたかばんは、まるで風船の中に入っているかのように水をはじいて、りんたの手から離れたがるように浮いている。
髪の毛はふわふわとイソギンチャクのように揺れ、服もひらりひらりと、まるで春風がなびいてきたかのように揺れる。
それでも服も体も重たさを一切感じさせず、空を浮かぶ風船の上を歩いているような気分だった。
海は全ての始まりの場所で、すべての終わりの場所。
過去と未来がごちゃ混ぜになる、摩訶不思議な場所だ。
だからこそ、海は美しくて偉大なのだろう。
りんたは同じ景色のなかで、ぼーっと思い出す。
―― 「海は、この世のものじゃないんだ。ずっと海にいると、たまに違う世界に迷い込んでしまうことがある。とてもわくわくするけど、とても不安になるんだ、そういうときはな――」 ――
父のりくに言われた言葉の先は、もう忘れてしまった。
重要な気もするし、そうでない気もする。
海の中にいると細かいことなんてどうでもよくなってしまう。
りんたの悪いくせである、よく考えてからじゃないと行動できないものが、ここだと自然に溶けていくように感じた。気持ちまで海のように広くなっていく気がする。
深い海の中をりんたは歩き続ける。こんな深い場所に来るのは初めてだった。物心ついてから海で泳ぐのは日常になっているが、底が見えなくなるほど深い場所まではいけない。
いつも怖くなってやめてしまうのだ。でもそれは海への怖さではない、海はいつも静かで美しいから。
それは何か思い出せないものへの怖さだ。
でもなんで怖くなるのかは、りんた自身も分からない。きっとりんたは何か重要なことを忘れている。どこか引っかかることはあるが、どうしても思い出せない。
でも、なぜか今は怖いと感じない。プンがいるからか、それとも、この海の美しいハープの音色のせいかもしれない。その音色がりんたの緊張と不安で固まった心をゆっくりと、でもしっかりと溶かしていく。
「プン、この音すごくきれいだね」
ぽそっとつぶやくりんたの声は海の中に溶けていく。
「おお、やっとしゃべるようになったな。そうだろ? いまはただこぼれた音が聞こえるだけさ、『海の街』に行ったらもっとよく聞こえるぞ。これには歌があるんだ」
「歌……」
りんたの胸はこぼれた音に反応するかのようにとくんっと鳴った。
「りんたが最後だ、みんなもう『海の街』でお城に向かって歩いている」
「お城?」
質問が返ってくる前に、りんたの体がふわっと数メートル浮き上がった。とても大きな波がおこったのだ。
くるくる回転しながらどんどんと流され、上を向いているのか下を向いているのかわからない、ただりんたの胸に不安はうまれなかった。
「ついたぜ」
りんたは言葉も息も全部をのみこんだ。
さあ、手を出して 光は逃げる
おいで、海の街へ
泡は夢とともに 波は静かに歌う
ここにはいつもきみたちだけ
さあ、眼をとじて 時間はないわ
おいで、太陽とともに
光は海とともに 友は静かに奏でる
だれも知らないきみたちだけ
あい色の海を舞う白い宝石を見た。
かろやかに、そしてどんな生き物よりも自由に、大きな尾をしならせてこちらに向かってくる。
「……くじら」
その宝石は、この国の守神である白くじらだった。
白くじらが一つ動くだけで、美しいハープの音が響く。近づくにつれ、その美しい歌が耳もとでささやかれているように、しっかりと届いた。
今まで見てきたどんな建物よりも大きくて、まるでりんたの国なんて丸呑みできるような大きな姿に、りんたはもう何もすることができなかった。
心の中には驚きと感動と、そしてなぜか、小さな不思議な感情があった。その初めて感じる感情は、幼いりんたにはまだ分からなかった。
ただ、なにかを感じたのは確かだった。
「おれをしっかり握っておけよ」
その言葉と同時に、りんたの体は突然周りの波に包まれ、まっすぐ白くじらの方向へ進んでいった。
白くじらもまっすぐりんたに向かってくる。
近づく白くじらは、もう何か大きなお城のように見えて、まるで門が開いたかと思った時には、りんたは白くじらの口の中に入っていた。
「じゃあな、またお城で会おう」
プンの声がどこか遠くで聞こえた。