Ⅱ お母さんの説得
「り、りんた、いまなんて言った?」
「やめる。ぼく、いい子じゃないし……やりたいけど、むりだよ」
プンはでたり引っ込んだりしながら音が出るほどぶんぶんと顔を横に振った。
「りんた~、お前が初めてだよ、断るなんて。なんでさ、やるべきだろ!」
りんたは必死で我慢するように両手をグーにしてうつむいている。
窓の外からは、桃草のはちみつのように甘い香りが漂ってくる。
サマー・クリスマスの香りだ。みんなの心をくすぐるこの香りも、りんたを説得する役には立たなかった。
窓の桟にいるプンは困り果てて、りんたの顔をのぞきこもうと、めいっぱい巻き貝から顔を出す。
「一〇〇年目の、一〇〇人目のサマー・サンタクロースだぞ。『海の街』なんて普通じゃ入れないし、ものすっごくきれいなんだぞ! それに何万といる子どもたちの中から選ばれたんだ、もう一生できないかもしれないぞ」
それでもりんたはプンに顔を見られまいと、ふいと反対にそむけてしまう。
「りんた〜、なあ、なんでやらないのさ」
りんたはじっとして、何も言わない。
「困っている人を幸せにできるんだ、りんたにしかできないことが待ってるんだぞ、そしたらきっと、お母さんも喜んでくれるぞ」
りんたの顔が少し上がる。
「お母さん、喜ぶかな?」
りんたのくりっとしたあい色の瞳が、どこかすがるようにプンの目をとらえた。プンはニヤッと笑って答えた。
「そりゃそうさ、たくさんの子どものなかから、自分の子どもが選ばれて、喜ばない親はいないぜ」
りんたが下唇を噛む。その変化をプンは見逃さなかった。
「なあ、ちょっと行ってみようぜ、絶対後悔しないから、な?」
「うーん」
りんたの返事をいい方にとらえたプンは突然、ぐらぐらと揺れはじめた。
もう少しで窓から落ちそうになったとき、りんたが慌てて受け止めると、プンがにやりと笑った。
「さあ、もうみんなが待っている。さっそく出発だ」
プンを持ったとたん、身体が勝手にうごきだした。部屋を出て階段を下り、リビングで刺繍をしている母親のなみかの横を通り抜けて、いってらっしゃいにうなずきながら家を出た。
そこでりんたは息を飲んだ。一〇年間ずっと海と生活してきたのに、まだ海は違う顔を見せ続ける。
目の前の海はりんたの見たことがない色をしていた。
まるで海の底を映したかのような深いあい色と、真夏の森の緑すべてを集めたような緑の混ざり合った美しい青だった。
波の音もまるでハープが静かに心を洗うような音色を奏でていた。
「りんた、クリスマスはすぐ近くだ。クリスマスまでのあいだ、ずっと『海の街』にいることになるけど、大丈夫か?」
りんたは一、二、三と目をぱちぱちさせると、あっけにとられながらもプンを見つめ直した。
「じゃあ、ダメだよ。お母さん、そんな長い間お家にいないの許してくれない」
プンがまるで遠足にお弁当を忘れてきた子どものように、らくたんした顔で赤い屋根の家を見つめる。
「りんた、説得するんだ」
黄色のはさみをりんたのほうに振りながらプンが言う。
「むりだよ、お母さん絶対に許してくれないもん」
「なんで、やる前からあきらめるんだ?」
プンの何気なしに口についた言葉に、りんたは少しだけ頰をふくらましてむっとした。
「やったって、むりだもん」
やってもできないこと、どれだけ頑張っても思うようにいかないことなんて、本当にたくさんある。
「むりなら、むりでいいじゃないか、いや、まあ今回は頑張ってほしいけど。でも、やることに意味があるんだぞ」
りんたの手の中で耳に痛い話をするプンから、視線を海に向ける。深いあい色をした海は、りんたの心をくすぐる。
りんたはこの海に入ってみたいと思った。まだ自分の知らない海を知りたいと思った。だから、プンに言われたからじゃないよ、と心の中でつぶやくと、小さくため息をついて、なかばあきらめながら赤い屋根の家へ歩き出した。
(門限は五時だし、お泊まりなんか、まだ行ったことないもん、むりに決まってる)
家の窓をコンコンと叩いた。するとなみかはすぐに近づいてきて窓を開けた。
「どうしたの?」
「えっと……いまから二十五日までの五日間、友だちの家に泊まりに行ってもいい?」
なみかは突然のりんたの言葉に、手に持っていた刺繍を床に落とした。
「お母さん?」
「え、りんた、あなたもしかして――」
プンがすかさずりんたに言う。
「サマー・サンタクロースになったことは、誰にも言っちゃだめだ」
「夏休みの、夏休みの宿題、みんなでやるんだ、ぼく、算数苦手だから」
なみかが少し眉を寄せる。りんたはこの顔が嫌いだ。この顔をするとき、なみかはとても困っているときだから。
「でも、お友だちのお家に迷惑じゃない? 五日間も泊まるのはよくないわよ」
りんたは何も思いつかなくて固まってしまう。プンが励ますように手のひらの上でゆれる。
「ぼくの、自由研究は五日間必要なの!」
さっきまで算数と言っていたことも忘れて、なかば怒るように主張するりんた。
「それに、サマー・クリスマスには帰ってくるよ」
必死のりんたに、しぶしぶうなずくこともなく、なみかは断じて首をたてに振らない。
「だめ、五日間なんて長い間もお泊まりなんてお友だちの家に迷惑だし、もしあなたになにかあったら大変だわ」
なみかの眉がくっつくのではないかというほど近づいて、りんたはもう見ることができなかった。うつむいて、ほらね、とプンにむすっとした顔を向けた。
なみかは、りんたが転んで怪我をしたときなんて泣いて悲しむほどの心配性で、りんた以上にりんたのことを考えてしまう性格をしている。そんななみかにとって、りんたはこの世で一番大切で必要不可欠な人なのだ。
りんたはこれ以上なみかを困らせたくなかった。なみかが困ったり悲しんだりするのを見るのが、りんたの一番嫌いなことだから。
あきらめようと思った。いつものことだ、あきらめるのなんて簡単。りんたは今年もなみかと一緒に準備をして、美味しいご飯を食べながら、一緒にサマー・クリスマスを迎えてしまえば、大変なことなんて一つもない。
「りんた、このままでいいのか?」
プンが真剣な表情で言う。
「このまま、逃げ続けていいのか?」
りんたはむすっとしたまま答えない。黙ってしまったりんたに、なみかも不安になる。
「全部あきらめてなにもしなかったら、なにも変わらないぞ、なにも始まらない。これからも、人を幸せにすることなんてできないぞ」
「うるさい」
りんたがふいっと顔をそむける。なみかがその光景に、また手に持った刺繍を落とした。りんたは両手を水を汲むようにくっつけ、そのなにもない空間と話すようにしている。
なみかはすかさず海を見る。海は桃色だ。
でも、もしかしたら、見る人によっては違う色をしているかもしれない。
りんたの顔をのぞきこむと、なみかは太陽のような笑顔を向けた。
りんたの瞳は、期待や不安、喜びや悩みなど、いくたもの感情が溢れ出しそうなほど輝いていた。いつものりんたの目ではないと、なみかはすぐにわかった。
「りんた、がんばれる?」
想像もしていなかったなみかの言葉に、りんたはすぐには反応できない。
「え、なにを?」
「つらくても、大変でも、逃げずに頑張れる?」
なみかの言葉の意味はわからなかった。でも、いつもりんたを心配している過保護な、なみかとは何か違うということはわかった。
りんたはよくわからないまま、とりあえずうなずいた。なみかの表情が本当に嬉しそうだったから。
「そう……りんたももう一〇歳だしね、男の子だしね、大丈夫よね」
自分に言い聞かせるように、心配と不安と喜びの入り交ざった難しい表情でなみかは何度もうなずく。前代未聞の光景に、りんたの口は半開きだ。
「わかった、りんた、いっておいで」
「え?」
きょとんとするりんたに、なみかもきょとんとする。
「え、いいの? 五日間も、お家にいないんだよ? 五時に帰ってこないよ?」
聞き間違いではないか確認しないと、りんたは信じられなかった。そして、少しだけさびしかった。ずっとそばで守ってくれると思っていたお母さんが、簡単にいなくなることが。
「ええ、りんたが頑張るなら、わたしも応援しないとね、さびしいのも我慢するわ」
そう話すなみかの表情は心の底から笑顔だった。りんたはまだ信じられない。いままでどれだけお泊まりや遠くに遊びに行くお願いをしてもなみかは、首を縦に振らなかったから。
「体調に気をつけるのよ、アイスを食べ過ぎないようにね、お腹をだして寝ちゃだめよ、それから」
「お母さん、大丈夫だよ」
心配性のなみかを面白そうに見つめるプン。りんたは恥ずかしくなってそれを止める。
「あ、そうだ、クッキーを焼いたからもっていきなさい」
「えー、いいよお」
返事を待たずにキッチンに行ってしまったなみかに、りんたは空を仰ぐように貝がらの壁にもたれながら言う。プンに見られていると恥ずかしくなる。
でも、なにより不思議な気分だった。一週間ものお泊まりを許し、鼻歌を歌いながら嬉しそうにクッキーをとりに行くなみかが、いまだに信じられない。
サマー・クリスマスが近づくと、いつも辛そうな笑顔をするなみかが、いまは心から笑っている。
「だーめ、おじゃまするんだから」
キッチンで走りまわっているなみかの後ろ姿に、ぼそっとりんたはつぶやいた。
「だって、お母さんの料理――」
「なんか言ったー?」
キッチンからなみかが上機嫌で聞く。りんたは首を横に振る。なみかはすぐにバターと砂糖の溶けた甘い香りと、ツンと鼻にくる焦げの香りの混ざったクッキーを箱いっぱいにつめて持ってきた。
りんたはしぶしぶかばんに入れられた箱を受け取る。
「これ、桃草入ってる?」
「いいえ? 今日から咲き始めたもの、まだ摘めていないわよ」
りんたは肩を落としてかばんを肩にかけた。りんたはなみかは好きだが、なみかの料理はあんまり好きではなかった。
桃草とは、サマー・クリスマスの一週間前から咲き、クリスマスの終わる真夜中に一瞬にして枯れてしまう、どんな料理でも美味しくしてくれる万能の調味料だ。その特徴から、桃草はサマー・クリスマス草とも呼ばれている。
料理の下手ななみかの料理が美味しくなるのはこのサマー・クリスマスの一週間の間だけ。
「ありがと」
「お友だちを大切にね」
わかってるよ、と口をすぼめながらも、りんたは少し眉を下げた。
「でも、ごめんね、イヴの日に家にいれなくて。サマー・クリスマスはお母さんの誕生日なのに……」
なみかが少し驚いて、それから顔をほころばせてりんたの頭をなでた。
「そんなことは気にしなくていいわよ。わたしは、りんたが楽しく友だちと過ごしてくれるのが一番嬉しいから」
下がった眉が上がって、りんたの顔が明るくなった。
「ありがとう」
目じりに少しだけしわを作って細められるなみかの眼は、りんたを愛おしむ温かい色で満ちていた。
その表情を見てりんたは安心したようにやっと子どもらしい笑顔になった。
「ねえお母さん見てよ、初めて見るよこんな海の色」
嬉しそうに海を指さすりんたの言葉に、なみかは隠しきれない笑みをこぼす。
「あら、今日もいつも通りの綺麗な桃色じゃない?」
りんたは首をかしげ、深いあい色や緑の混ざった美しい海を見つめた。
「大人には見えないんだ、おれのことも。話声だって聞こえやしない」
プンがどこか誇らしげに、でも少しさびしそうになみかを見つめて言う。
「……そうかも」
りんたはなみかに向き合って小さくうなずいた。まぶしい笑顔のなみかは、りんたのおでこにキスをすると頭をなでた。
「気をつけて行っておいでね、素敵な休日を過ごすのよ」
りんたはおでこを手で押さえながら、少し恥ずかしそうにうなずいて、海の方へ走っていった。
なみかは、そのりんたの小さな後ろ姿に手を振って、静かに見送った。
そして、窓の隣に置かれた写真にほほえみかけた。
「あなた、りんたもサンタクロースになれたみたいよ。わたしたちの出会った場所に、きっとこれから向かうのね」
床に落ちた刺繍をひろい上げる。あい色の布に白い糸。
「りんたの近くには、プンさんもいたのかしら」
窓をゆっくり閉めながら、まぶたもとじる。昔のことを思い出しながら、ふっと笑う。
「わたしももう大人になってしまったみたいね」
写真をなでて、少し昔に思いをはせながら、なみかは再び刺繍を始めた。