Ⅻ 地上と海に生きるもの
「りんた、かえってこない」
ちょこんと砂浜に座り、すぐにでも帰ってくるりんたを待っていた。
波が一〇回ほど足にかかったとき、急にしえるは不安にかられた。
隣に立っているマリアはあせった様子もなく、虹色の海を見つめると、プンを肩にのせてしえるに向き直った。
「りんたさんは心配はいりません。では、わたしはこれで」
しえるはその言葉の意味がすぐにはわからなかった。
「りんたは? もう戻ってこないの?」
マリアは虹色の海を、まるでまぶしい光を見るかのように見つめ、小さくほほえんだ。
「それは、だれにもわかりません。でも、りんたさんはいま、きっといろんなものと戦っているのかもしれませんね」
「戦う?」
マリアはただほほえむだけだ。
しえるがマリアの手を握る。消えてしまわないように。
「行かないで、わたしを一人にしないでお願い、一人はいやなの」
あらあらと、マリアはしえると視線を合わせるようにかがむと、しえるの手の上に自分の手を重ねた。
「それはなぜ? あなたは明るくて自分の意見をしっかりともった、素敵な女性でしょう? なぜ一人を怖がるの?」
握っている力が少しだけぬける。しえるはまっすぐなマリアの瞳を直視することができなかった。 「それは……」
言葉につまる。
マリアの瞳は温かみをおびて細められ、白い手はしえるの頭を優しくなでた。
「サマー・サンタクロースに選ばれた理由を考えてみてください。あなたには人を幸せにする力があるわ、それはきっと、一人だけではないはず」
「それって、どういう意味ですか?」
マリアは立ち上がると海を見つめた。虹色に輝く海は波とともに甘い香りを運ぶ。
「海は、ときたまに過去や未来を見せてくれるわ。でも、一度そこにいたいと思ってしまったら、もう自分では抜け出せない」
しえるがはっと海を見る。なにごともない静かな海が、一瞬、まばたきをするように輝いた気がした。
「それって、りんたが帰ってこないってこと? りんたはどうなるの、お家に帰ったんじゃないの?」
マリアはもうすでに消えかかっている。
「あなたは一人じゃないですよ、あなたが自分と向き合って、一人ひとりを幸せにしようという想いがあれば、あなたは絶対に一人ではありません」
泡のように、風のように、海辺にただよう甘い香りのように、かすかな笑顔をのこして。
「やだ、やだ消えないで、おいていかないで、りんたはどうなるの、自分と向き合うってなに、ばかばか、マリアさんのばか!」
少し困ったように笑うと、マリアは海を指さした。
「地上と海に生きるもの、それはこの世とそうでないものをつなぐ力があります」
そう言い残して、風にふかれた煙のようにあとかたもなく消えてしまった。
残ったのは、涙目になったしえると、甘い香りだけだった。
街から歌が聞こえる。
いまから街に行ってチェーンを作ることなんて簡単だった。
時間だってたくさんあるわけではない。そこらを歩いている子どもに話しかけて、また新しい友だちをつくることだってできた。
お城に行くときに見つけたヒトデ型のアイスだって気になった。
でも、しえるは目に涙をためて海をにらみつけた。
「ばかばか、りんたもマリアさんもみんなばか、わたしを一人にして、いなくなっちゃって、わたしの幸せにする人は一人じゃないの? 自分に向き合うってなにさ、ばかー!」
そう叫んで、まわりを見回す。だれもいない海辺に、ぽつんと一人立つ。
しずかな海をぐっとにらむと、しえるは思いっきり海の中へ飛びこんだ。
りんたは海の中、桃草のなかにうもれるように座っていた。目の前にはりくがいて、プレゼントをもらって幸せそうに笑う、なみかがいた。
「お母さんがこんなふうに笑ってるのを見たの、このとき以来だ」
食卓を囲んで桃草シチューを食べる。五歳のりんたも、なにも知らない顔で、たあいのない話をして笑い合う。
「ぼく、もうずっとここにいたいよ」
その光景を見つめ、りんたはつぶやいた。ずっと三人で暮らしていたい、辛いことも悲しいこともない世界で、ずっと笑っていたい。
聞こえないはずのりんたの声に、目の前にうつる三人がりんたを振り返った。
「おいで、ずっと一緒だ」
りくがそう言った。確かに一〇歳のりんたに向かって。
りんたはあっけにとられて動けない。
いままでただ見ていただけの光景が、現実のように動き出す。
なみかも心からの笑顔でうなずく。
いつの間にか五歳のりんたはいなくなっていた。
りんたの周りがどんどん家の中の景色になる。貝がらの壁が少しずつ広がって、桃草シチューの香りがした。
りんたはわかっていた。
これが違う世界ということを。
現実なんかではないということを。
でも、そんなこともどうでもよくなってきていた。
頭がだんだんと働かなくなっていく。
「わたしはいま、とっても幸せだよ」
なみかがほほえんだ。
(ママは、幸せ?)
その言葉を久しぶりに聞いた気がした。
(ぼくはもう幸せにしたの? ぼくのやることは、もう終わったの?)
いままで必死になみかを幸せにするために、元気づけるために努力してきて、そして失敗してきたものは、もう終わってしまったのだろうか。
ぼーっとした頭で考える。
(あれ、でもお母さんは? 美味しくないクッキーを作るお母さんは? いま、幸せ?)
頭がうまく働かない。
りんたはいまいる場所がどこかもわからなくなってきた。柔らかいソファーが、手を伸ばせばすぐそこにある。でも足元にはたくさんの桃草が生えている。
そのとき、ふと思い出すことができた。
―― 「ずっと海にいると、たまに違う世界に迷い込んでしまうことがある。とてもわくわくするけど、とても不安になるんだ、そういうときはな、桃草を食べるんだ」 ――
突然、ガバッと、口の中に何かが入ってきた。
その勢いにりんたはごくんと、何かわからないものをのみ込むと、後ろに倒れ、ごほごほとむせる。
口の中に入れられたそれは、はちみつのように甘くて、ミントのようにさわやかな味わいが、ゼリーのようにさっと消えた。
「りんた! ばか!」
聞き覚えのある声をかたすみに、涙目でかすんだ視界から、どんどんなみかとりくがうすれていく。
「まって、行かないで、まって」
二人がほほえんだ。
「「ありがとう」」
そう聞こえた気がした。
二人はりんたをしっかり見つめて、そして美しい泡になって消えた。
りんたが伸ばしかけ、なにもつかむことのできなかった手を、ゆっくりとおろす。
そこには桃草が上に向かって双葉を広げていた。