Ⅺ 五年前のサマー・クリスマスイブ
リングには七匹の子どもがいた。
それぞれこの平和な国を守るために日々海を巡っている。
しかし、サマー・クリスマスが近づいてきたころ、一番若く、まだ体も小さい十歳のメルが病にかかってしまった。
リングにも治せないその病に、メルは海の底でじっとするしかなくなってしまった。
リングにはこの国のことが全てわかる。国に住む一人ひとりの行いや、その寿命まで。だからリングは迷った、海の医者をここに呼ぶかを。
だが、メルの容態は悪化する一方だった。
リングは心を決めて、沖まで泳いだ。
早朝、まだ霜の降りているとき、海の医者はリングが来るのを分かっていたかのように、浜辺で待っていた。
「きみの歌が聞こえたよ、とても悲しそうだった」
… わたしの子どものメルが病気なの、どうかお願い …
りくはしっかりとリングを見つめてうなずいた。
… でも、あなたの身体はもう一度海に入ってしまったら、もう耐えられないわ …
リングの声は、聞いているりくが泣きたくなるほど悲しげな音をしていた。
それでもりくは、まわりに漂う甘い香りを深く吸い込むと、赤い屋根の貝がらの家を見つめ、ゆっくりうなずいた。
「ああ、たしかに、ぼくの身体はもうぼろぼろだ」
心なしかあおい顔をしたりくの身体は、むりな看病や長年の海での滞在により、疲れはてていた。いまも、立っているのでやっとだった。
… 海は、人の世のものではないから …
心を震わす悲しげな声に、りくは優しく笑った。
「そうだね、ぼくもいままで、不思議な体験をたくさんさせてもらったよ」
思い出を振り返るようにまぶたを閉じて、りくはやっぱりほほえんだ。
「その恩返しをしなくちゃね」
リングも目を伏せて、りくの海の医者としての様々な仕事ぶりをふり返った。 … りく、あなたにプレゼントを授けます …
りくは驚いてリングを見つめ直す。
「じゃあ、お願いしたいものがあるんだ」
リングはそのお願いをしっかりと守ると約束した。
その日の朝に、りくはりんたとなみかに、サマー・クリスマスまでには戻ると約束をした。
「仕事があるんだ、サマー・クリスマスには帰るよ」
なみかは一度、りくを止めた。なみかは知っていた。りくの身体がもう限界をむかえていることに、疲れきっていることに。
「三日後にはサマー・クリスマスよ、お願い、あなたはいままで頑張ってきたじゃない、お願い、休んで」
泣きそうななみかに、りくはいつもの笑顔を向ける。
銀色の貝がらでできた眼鏡越しに、優しさであふれた目が細くなる。見る人も自然と笑顔にしてしまうその笑みに、なぜかりんたは不安になって、りくの服をぎゅっと握った。
そんなりんたをぎゅっと抱きしめると、なみかにキスをして、りくはいつものようにいってきます、と右手をふって家を出た。
いつもの仕事の時に使う透明な全身を包む服を着ると、小さな潜水艦に乗り、メルのもとまで向かった。
… りく、大丈夫ですか? …
りくの体調を気づかうリングに、りくはほほえんでうなずくと、ぐったり倒れているメルの治療を行った。
長い長い治療を終えて、りくはメルをなでながら、自身も砂の上に座り、体を休めて言った。
「危なかった、でも一命をとりとめたよ、もう大丈夫だ。ぼくを呼んでくれてありがとう」
… ありがとう …
りくはほほえんで首を横に振る。
「こちらこそ、二回目のサマー・サンタクロースを経験させてもらった気分さ、ありがとう」
リングが母としての感謝とりくへの悲しみを込めた瞳でりくを見つめる。
「メルは生まれつき体が弱いみたいだ。クリスマスの準備を頑張りすぎたみたいだね、毎年虹色サンゴを食べるとよくなるよ」
リングはゆっくりと動けるようになったメルを見て、もう一度、りくへ心からお礼をした。
… りく、あなたはもうわかっているかもしれないけれど、もう長くないわ …
リングの瞳は悲しみの色を隠せないでいた。
りくの周りをくるくるまわり、りくの体を支えるようにそばによるメルをなでながら、りくは小さく笑った。
「ああ、医者からも危ないと言われている……なあリング、ぼくはサマー・クリスマスまでもつかい?」
リングはゆっくり目を伏せると、静かに首を横に振った。
「そうか……そうか」
りくはほほえみながら、そっと涙をぬぐった。
リングはふせた瞳をゆっくり開き、決心したようにささやいた。
… あなたはわたしのサマー・サンタクロースになってくれたわ。サマー・サンタクロースにしか入ることのできないわたしの『海の街』に入ってください。そこなら時間は約半分しか経たない、寿命も少しはもつわ …
りくは驚いたように目を開く。
「でも、そこには子どもしか入ることはできないんじゃないのかい?」
… 罰はうけるわ、わたしはこの国の守神としてあなたを助けたい。これはわたしからのサマー・クリスマスプレゼント …
りくの瞳には消えかけた希望が灯っていた。
… あなたとの約束のものも必ず用意するわ。少し時間がかかるけど、サマー・クリスマスまでにはきっとあなたと一緒に地上に送り届けてみせる …
りくは、ははっと白い歯を見せて笑った。
「ありがとう、恩にきるよ、今年のサマー・クリスマスは……特別、なんだ」
そう言って、りくは瞳を閉じた。
リングはりくを『海の街』に連れて行き、約束のものを探しに海を泳いだ。その日から、海は掟を破った守神に怒り、大声を上げて暴れ出した。
『海の街』にいる間、りくはなみかと息子のりんたの話をずっとしていた。
「あの子はいつも面白いくらい海にいるんだ。まるで海の底をみようとしてるように」
マリアは昔のりくを思い出しながら、子どものようにくしゃっと笑うりくの話に花を咲かせた。
そしてあっという間に二日が経ち、サマー・クリスマスのイヴになった。その日の海は見たこともないほど荒れていた。
ごうごうと低い音と大きな波をたて、海の中心ではあちらこちらで渦を巻き、そんな海に同調するように空も大声を上げて泣いた。
リングはそんな海の中を泳ぎ、マリアがりくを支えながら、虹色の海のそばで見送りに来た。りくはもう一人で歩くのもいっぱいいっぱいだった。
「わたしはここより先はいくことができないわ、リングも岸に上ることはできない。あなたは岸まで海を歩かなくてはならないの、プンをつきそわせるわ」
マリアがりくの肩に何かをおくが、りくにはそれの重さも姿も見ることができなかった。
「ぼくも大人になってしまったんだね、海ももうあい色ではなかった」
マリアは少しさびしそうにほほえむとうなずいた。
「素敵な話をありがとう。十分に気をつけて、海は怒っているわ。あなたに素敵なサマー・クリスマスが訪れることを願っています」
「ありがとう、そしてすまない、海を怒らせてしまったのはぼくのせいだ」
マリアはしっかりと首を横に振る。
「ときには、正しいことをするときに守りを破る必要があるの、大切なことよ」
「ありがとう、きみたちの歌のおかげで元気が出たよ」
力なくほほえむりく。マリアはりくを支えていた手を離し、約束のものを渡した。
「ハッピーサマー・クリスマス、サマー・サンタクロースのりく」
「ありがとう、ハッピーサマー・クリスマス、サンタ・マリア」
りくは虹色の海へ足を踏み入れた。その瞬間、世界はダークグリーンの海になり、すぐそこにいつもの貝がらの家が見えた。しかし、りくのまわりでは大嵐が叫び声をあげ、行く手をはばむ。
リングがりくを岸辺まで案内するが、りくはなかなか歩くことができなかった。
… あなたには聞こえないかもしれないけれど、プンがあなたを祝福しているわ …
りくはなんとかほほえむが、それももうできなくなってしまった。もう少しで岸に足がつきそうになった時、運命がもてあそぶかのように、大きな波がりくに襲いかかった。
りくは声も上げることができなかった。体は砂浜に投げ出され、りくの手からは約束のものが離れ、海の底深くに流れていってしまった。
それに気づいたりくは体を引きずって、荒れる海にもう一度入ろうとする。
… りく、もう入ってはいけない、海はあなたを傷つけてしまうわ …
まともに歩くことすらできないりくは首を横に振った。
しかし、大雨がりくに立つことすら許さない。
「あれを探しに行くまでは戻れないよ」
その力のない声には強い意志がこめられていた。しかし、痛いほどりくの全身に打ちあたるその雨に、とうとうりくは一歩も進めなくなってしまった。
リングはりくの頭の中に必死で話かける。
… 必ず見つけて、明日までには届けるわ …
りくはそれを聞いて安心したように倒れた。
「ありがとう、明日はなみかの誕生日なんだ、それから、ぼくらの一〇年目の……結婚記念日なんだ」
砂浜でゆっくり目をつぶったりく。リングは慌てて家からなみかとりんたを呼ぶために声をあげようとしたとき、
ぐおおおおおおおおお
空がいななき、海が一瞬にして闇に染まり、波は荒れ、島が泣いた。
りんたとなみかが一目散に家を飛び出ると、リングはすぐに姿を消した。
なみかとりんたは見たこともない嵐にその場で立ち止まったが、浜辺で倒れているりくを見つけると慌てて家に運んだ。
「海が……怒ってる」
五歳のりんたは泣きそうになりながら、小さく息をしているりくを運んだ。
りくは近くの町のお医者さんに診てもらい、薬をもらうと笑顔でりんたの頭をなでた。
「心配するな、パパはもう大丈夫だ」
「パパ、海で何をしていたの?」
「少し早いサマー・サンタクロースになっていたんだ」
その言葉を聞いて、りんたは目を輝かせてりくに抱きついた。
夜が明け、昨夜の嵐が嘘のように通り過ぎると、りんたはなみかの誕生日プレゼントを探すために砂浜に飛び出た。
海はサマー・クリスマスを祝うように金色に光っていた。
太陽が眠たそうに海から顔を上げるのを渋るような早朝。
五歳のりんたはクリスマスの準備を終えて、貝がらを探しに砂浜でいったりきたりを繰り返していた。
サマー・クリスマスはりんたの大好きなお母さん、なみかの誕生日でもある。りんたはなみかに一番きれいな貝がらを渡そうと決めていた。
「パパは大丈夫かな」
りんたは手を止めてうなだれた。りんたの父、りくはサマー・クリスマスの三日前に「仕事があるんだ、サマー・クリスマスには帰るよ」とだけ言って、急いで海に行ってしまった。
そして昨夜の嵐の夜に浜辺で倒れていたのだ。
「パパ最近あんまり元気なかったからなあ」
りくの仕事は海の医者だ。魚やサンゴなどの病気を治したり、海を綺麗にしたりする仕事をしている。
りんたのあこがれだ。
「ぼくもきっと将来はパパみたいに海のお医者さんになるんだ」
大きな二枚貝で砂浜を掘って貝がらを探す。
空も海も、灯りのついていない家もまだ眠っている。
「サマー・クリスマスだから、きっと治るよね」
えっせえっせと砂を掘りながらりんたはつぶやく。
りんたは昨夜のことを思い出す。
真っ青な顔で砂浜に倒れたりくを家に運んで、大急ぎで医者を近くの街から呼んだ。
治療を受けたあと、りくは苦しそうだけど、どこか嬉しそうな顔をしていた。
――「パパ、海で何をしていたの?」
「少し早いサマー・サンタクロースになっていたんだ」――
そう誇らしげに言ったりくを思い出して、りんたは自分まで誇らしくなったのを思いだす。
そのとき、突然あたりが暗くなった。
りんたは手元の自分の影がなくなったことにも気づかず、えっせえっせと掘り続ける。
… こんにちは、りんた、聞いてください …
ハープのような音が聞こえた。
「もう少し待って」
りんたは気にせずえっせえっせと掘り続ける。
すると、真っ白な二枚貝が見つかった。
「あった!」
それを掲げて、前を向いた瞬間、こてんっと腰を抜かした。
りんたの眼の前には、あい色と夜の青と森の緑が混ざったような深い暗い海が広がり、一歩先は底の見えない深海になっていた。
… りんた、聞いてください …
りんたは口を開けたまま、それでも小さくうなずいた。
りんたを海より驚かせたのは、その深い海にまるで光が浮き上がったかのように輝く白いくじらだった。
その大きさはりんたの頭では言い表せられない程で、白くじらもりんたに自分の全部の姿が見せられるようにするにはひどく遠くにいなくてはいけないということが分かっていた。
でもりんたはその白さよりも、ある一点に目が奪われた。
見たこともないような輝きをはなつ金色の瞳だ。白くじらが瞬きをするたびに、りんたは頭がくらっとするほど見とれてしまう。
一瞬でその瞳のとりこになった。
少し遠い距離にいる白くじらの、ハープのような心地の良い声は、りんたの頭に直接届いていた。
… わたしの名前はリング、これからのことは落ち着いて見て …
りんたはそのまま固まった状態でリングを見つめた。
… いまからあなたに全てを見せるわ …
リングの金色の瞳が光ったかと思うと、その立派な白い背中から金色の水しぶきを上げた。その瞬間、りんたは目の前が真っ暗になった。
ついさっきまでりくに起きた海での記憶が、五歳のりんたの頭の中に映った。
… これは、昨日のこと。過去を見てもらったとおり、嵐で約束のプレゼントが流されてしまって、まだ見つからないの。それをりくに伝えてほしい、見つかった時、あなたにきっと渡すわ。そしてりくのプレゼントが見つかるまで、なみかにはこのことは秘密にしていてほしいの …
リングが悲しげな声で言う。その声と、いましがた見たりくの光景に、りんたの声は震えていた。
「なんで、パパに言わないの? ぼくに言うの?」
リングは何も言わない。リングは人の行いも、寿命もわかる。
あい色の大きな丸い瞳から、透明なしずくがぽろぽろと落ちる。
「パパはサマー・サンタクロースだったんでしょ?」
… ええ、素晴らしいサマー・サンタクロースだったわ、りんた、あなたもよ。きっとあなたはこれからあの二人を幸せにするわ、だからお願い …
リングはその金色の瞳を静かにふせた。
… きっと見つけるわ、きっと …
リングのハープのような声は心の奥底の芯を震わせて、りんたは聞いているだけで、大声をあげて泣きたくなった。
「きっと、見つけてね。ぼくは待ってるよ、ずっと」
震える声で、うっうっとしゃくりあげながら、りんたは言った。
… ありがとう、ありがとう、りんた。いつかあなたの悲しみが少しでもうすれるように、魔法をかける。少しでもあなたが …
リングの金色の瞳が、心から涙を流して、今にも消えてしまいそうなりんたを見つめる。
… 忘れられるように …
リングはそうつぶやくと、再び金色の水しぶきをあげた。
「……約束だよ、ぼくが忘れても、きっと」
すっと意識がなくなって、りんたは眠るようにその場に倒れた。
りんたが次に目を開いた時には、そこにはもう何も残っていなかった。
りんたの見つけた美しい貝がらをのぞいては。
その貝がらを拾うと、辺り一面にただよう甘い香りを深く吸って、煙突からピンク色の煙ののぼる家にもどった。
「ハッピーサマー・クリスマス、りんた」
なみかが桃草シチューを温めながらほほえんだ。家の中は甘い香りでいっぱいだった。りんたはなみかにかけよって、りくに聞こえない声で言った。
「パパは、ママのために海でサマー・サンタクロースをしたんだよ」
驚くなみか、ふかふかのソファーに座ったりくが、りんたに両手を広げて笑った。
「ハッピーサマー・クリスマス、りんた! こっちにおいで!」
すこし細くなったりくを見つめ、りんたはその場でぎゅっとくちびるをかむと、その両手に飛びこんだ。
そしてりんたは、こっそり隠し持った貝がらをりくに渡した。
「リングからだよ、パパ」
りくは目を丸くすると、この世の幸せを全部あつめたような、やさしくてあたたかい色をそこに込めた。
そして、りんたのおでこにキスをして、そのちいさな体をいつまでも抱きしめた。
「ごめんな、りんた、ありがとう……本当に、ありがとう」
りくのふるえる声はその腕も体も小さくふるわせていた。
りんたはこの日、初めてうそをついた。
自分の見つけた貝がらを、「リングからのプレゼント」という、二人を幸せにするうそを。
りくはその貝がらをまるで、少しでも風が当たったら割れてしまうかのように大切に両手で包む。
そして、桃草シチューを運んできたなみかに、りんたは言う。
「ママ、後ろを向いて」
「あら、なにかしら」
なみかはほほえみながら後ろを向く。
りくが心から幸せそうにほほえむと、両手に包んだ宝物を見せた。
「こっちをむいて!」
振り返ったなみかが、まあっと声を上げる。
「ハッピーサマー・クリスマス、そしてハッピーバースデイ、ママ」
「そして、ぼくらの結婚記念日一〇年目、おめでとう、そしてありがとう」
その日が三人でむかえる最後のサマー・クリスマスとなった。