Ⅹ 虹色の海
「りんたのばかー!」
りんたが海に行ってしまったあと、一人残されたしえるが海に向かって叫んだ。
しえるはりんたへの腹立たしさにむずかしい顔をして、少しの間虹色の海を見つめていた。
すぐに帰ってくると思った。あの大人しくて人見知りで、弱虫なりんたはすぐにベソをかいて帰ってくると思った。
だから、腹立たしさを抑えるために、違うことを考えようと必死に頭を働かせた。
「ねえ、マリアさん、なんでりんたをサンタクロースに選んだの?」
でもやっぱり、りんたのことが気になった。
「りんたさんには、りんたさんの使命があるからですよ」
「使命? わたしにはよくわからない、りんたは弱虫だし、足遅いし、なんもできないじゃない」
それを聞いたマリアはほほえんだ。
「りんたさんには素晴らしいところがたくさんありますよ、ただ、それにりんたさん自身が気づけていないだけですよ、そして、しえるさんも」
指摘されたしえるは少し恥ずかしくなってちぢこまる。
わからない、と口をとがらせてつぶやく。
マリアは優しくほほえむと指を一本立てた。
「いくらでも見つけられますよ、たとえば、りんたさんの弱虫さは、よく考えて行動をしようとしている証拠でしょう、それはとても素晴らしいことだと思いますよ。しっかり考えるということは、しっかり身体を動かすことと同じくらい大変なことですから」
しえるはその言葉に驚く。
考えたことがなかった。短所は短所でしかないと思っていたしえるは、じゃあ、と自分を指さす。
「わたしを選んだ理由は?」
マリアはにっこりとほほえむと、首を横に振った。
「それはあなた自身が見つけだすものですよ、全てには意味がありますから。あなたがこうしてここにいて、りんたさんと出会ったことにも、きっと意味があるわ。ぜひ自身で考えてみてください」
しえるが少し不満げの表情をしたとき、ガラスをノックしたような、高い鐘の音が『海の街』から響いてきた。七時を知らせる音だった。
二日目の後半になってしまったようだ。
本当に時間が進むのは早い。
しえるは、話をやめたらマリアがいなくなるのではないかと不安になり、口を動かし続けた。
「じゃあ、なんでわたしたちの世界の、太陽の出ている時間しか、この世界の時間はないの?」
これには、マリアではなく、その肩に乗ったプンが答えてくれた。
「それはだな、地上と海をつなぐものが開いてるからだ」
あくびを一つしたプンは、さっきからマリアの肩でうとうとしている。
「つなぐもの?」
「そうさ、それが開いてなきゃ、ここにはいれないし、帰れない」
プンの帰れないという言葉に、しえるは少し怖くなった。
「よくわからない、それはどんなものなの?」
プンはこれだから、と顔を横に振る。
「最近の若者は、すぐに答えを聞こうとするなあ」
おじさんみたいな文句を言うと、プンは片ほおを上げて言った。
「まず自分で考えることが大事だぞ、そうでなくちゃ、立派なサンタクロースにはなれないぜ?」
しえるが、かちんと頭にきてプンに近づく。
「わかったよ、考えますよ、わたしにできないことなんてないんだから、プンさんなんかに聞かなくたって、わたしが選ばれた理由も、時間のこともきっとわかるわ」
なかばすねながら、しえるは頭を悩ませた。
その光景をマリアは嬉しそうに眺める。
しえるは頭も良いし運動もできる。でも、自分について考えたり、自分で考えることは苦手だった。それはとても疲れることだし、辛いことでもあった。
「すぐに答えを出す必要はないですよ、ゆっくり、自分と向き合うことが一番大切なことですから」
しえるはぽすんと、砂浜に座ると、ため息まじりに言った。
「しっかり考えられるりんたって、すごいんだね」
どこまでも無限に広がる海。
りんたの心には、少しずつ不安が込み上げてきた。
もう引き返せないところまで来てしまったと思った。それは直感だった。
いつになったら自分の家のある海に着くのか、どこにまで行けば、自分は自分から逃げることができるのか。少しずつ少しずつ、りんたは怖くなってきた。
海の様子がいつの間にかガラリと変わってしまった。海はうす暗くなって、彩っていた魚や貝がらがたちが減ってきた。
少し疲れてしまって、りんたは泳ぐのをやめ、真っ白な砂の上に足をついた。海の中とは思えないほど、しっかりと砂を踏みしめることができた。
りんたはもう戻れない気がして、あとはもう進むしかないと思った。
辺りにはもう魚一匹いない。なにもなくなってしまった、透明な海の中。
歌も、もう聞こえない。
(ここ、どこ?)
一度怖くなってしまうと、もう一歩も足を踏み出せなくなってしまった。
なにもない、なんの音もしない海。
ただ、足元に桃草が大きく開いてしずかに咲いている。
りんたは一人、世界から取り残されてしまったように感じた。
ふと、りんたは自分のお父さんからよく聞いた言葉を思い出す。
―― 「海は、この世のものじゃないんだ。ずっと海にいると、たまに違う世界に迷い込んでしまうことがある。とてもわくわくするけど、とても不安になるんだ、そういうときはな――」 ――
その先が思い出せない。海はこの世界をつくったすべての始まりの場所で、すべての終わりの場所。すべてがごちゃ混ぜになる、摩訶不思議な場所。
だんだんと不安がふくれ上がり、りんたは押しつぶされてしまいそうになる。
もしかしたら、りんたはどこか違う世界に来てしまったかもしれない。
それは、もう戻ることができない世界かもしれない。
「お母さん……」
ぽそっとつぶやいたとき、雪の結晶のような真っ白の光が海の闇から現れた。
りんたは目を見張った。
どんどんと近づいてくる光の正体は小さな白くじらだった。
まるでリングを小さくしたようなくじらは、りんたの意識が追いつかない間に、りんたの身体を持ち上げた。
気づけば、りんたは小さなくじらの背中に乗り、暗い海のもっと深い場所へ連れていかれた。
どこか、懐かしく感じるその白くじらにただしがみついた。
声を上げる暇もなく、ついた場所はその一帯が煙のように白くモヤがかっていた。
白くじらが地面にペタッと体をつけ、りんたを海底におろす。白くじらからおりたりんたは、目の前のもやが小さな泡であることに気づいた。
りんたの頭はいまの状況に追いつかず、ただ、本当にもう海の街に戻ることはできないのではないかという不安だけが心を占領していた。
突然でてきた白くじらと、この謎白いモヤの世界。
「ここ、どこ?」
立ちすくむりんたの背中を、白くじらが鼻先で押す。
… 思い出して、声にだして、ここはそういう場所 …
「え?」
リングに似た美しい、心の緊張を溶かすような声。
りんたが驚いて、後ろを振り向いた時には、もう白くじらはいなかった。
小さな泡のモヤの世界。
ここは、過去と未来の混ざった違う世界なのかもしれない。
「まって」
りんたの声に、泡が反応する。ふんわりと揺れた。
(ここはどこ、なんで、あの白くじらはなに? ぼくはあのくじらを知ってる? 声に出すって?)
りんたは自然と落ち着いている自分に気づく。驚くことが多すぎても、考えることが多すぎても、りんたは目の前の一つずつを解決していくしかないんだと、あきらめるように頭を勝手に動かしていた。
(思い出したいこと、それは、ずっと悩んでいたこと)
「お母さん」
りんたの口から発された言葉。
その瞬間、周りの泡が意志を持った一つの魚のように固まり、りんたの周りを飛び回ると、数メートル離れた砂の上に飛び降りた。
大きな波が岩にぶつかって跳ね返った水しぶきのように、勢いよくりんたに泡が降り注いだ。
驚くりんたは、その光景になにもできなくて、ただその勢いにたえられなくて目をつぶった。
…「あははは」…
聞いたことがあるような幼い声が聞こえた気がして、少しだけまぶたを開くと、さきほど泡のかたまりが飛び降りた場所に、自分と同じ歳くらいのなみかがいた。
泡で表現されたなみかに、りんたは目を見開いた。
それは、りんたの母である、なみかの心に残る思い出深いエピソードを、コマ送りで流しているようだった。
ころころと変わっていく、泡の映像。
一〇歳のなみかのとなりに一〇歳のりくが現れる。『海の街』を並んで歩いて楽しそうに笑っていた。
目の前のお父さんとお母さんに、りんたはつい手を伸ばしたくなった。
なみかの手がりんたと重なる。なにもおきない。
そして、またそれが泡のように消えると、つぎは二人が再会する光景、結婚式、そしてりんたが生まれる。そしてりんたの父、りくが幸せそうに仕事をする――
泡を見たりんたの目から涙が溢れた。
「パパぁ」
その言葉を発した瞬間、また海が瞬きをした。
これはりんたの父、りくの記憶。
そして、りんたの記憶。
それはりんたがまだ五歳の頃、海でいつものように遊んでいた時だった。
五年前のサマー・クリスマスイブの日。