Ⅸ りんたの逃亡
しえるはきゃっきゃと声を上げて海の水を両手ですくって、りんたにかける。
りんたはため息をつくと、やめてよ、と不満げにこぼしてその水から逃げる。
しえるは満面の笑みでりんたを追いかけると、こりずに水をかけ続ける。
「やめて、そんな気分じゃないんだ」
「あはははっ」
りんたがしかめっ面で言うが、しえるは嬉しそうに笑って一向にやめない。
「楽しいねー!」
「もう、やめてってば」
りんたが怒ってしえるの肩を押すと、ばしゃんっと音を立てて海にしりもちをついてしまった。
「あ、ごめん」
バツが悪そうにぼそっとあやまるりんたに、しえるはむっと顔をしかめて立ち上がると、軽々とりんたにやり返した。
派手にその場にしりもちをついたりんたは、自分より少し背の低いしえるに簡単に突き飛ばされたことに対してがっくりと頭をたれた。
「何が、そんなに気に入らないの?」
しえるが腰に手を当てて、りんたを上から見つめる。海の水はひんやりとしていて、りんたのかっとなった頭を少しだけ冷やしてくれた。
目を合わしたくなくてふくれっ面のりんたは自分の小さなひざをにらんでいた。
ばしゃっとりんたの顔に水がかかった。仕返しだけじゃものたりなかったしえるが、りんたに水をかけた。
むっとしたりんたが顔を上げたとき、しえるの顔がどうしようもなく悲しそうなのを見て、やっぱりすぐにうつむいた。
「……きみは幸せにする人がわかってるから、そんな楽しいんだ。ぼくの気持ちなんかわからないんだ」
りんたが苦しそうにぼそぼそとつぶやいた。
「りんたの気持ちなんて、ぜんぜんわからないよ」
(べつに、わかってほしくなんかない)
「話さないとわからないよ、友だちじゃんか」
「……じゃない」
「ん?」
「友だちなんかじゃないよ」
りんたがくちびるをかんで、海水で柔らかくなった砂をぐっと一握りする。しえるの表情を見ないように。
いろんなことが起こりすぎて、りんたの心のムカムカは抑えられない。
「なんで?」
しえるの声は変わらない。
「ぼくはきみとぜんぜん違う、きみと友だちなんかなれないよ」
「りんたは、わたしといて楽しくない?」
予想していない質問を聞かれ、りんたはしえるを見る。相変わらず笑顔だ。でも、その瞳が少しうるんでいるのにりんたは気づかない。
(ぼくにはしえるみたいな子は合わないんだ。だって、しえるはすごい子で、ぼくはぜんぜん何もできない、だめな子だから)
「……楽しくない」
しえるがうつむいた。
(もうやだ、ぼくはどんどんいやな子になる。もう帰りたい、ぼくはここに来るべきじゃなかったんだ。いままで通り、あきらめていればよかった。ここに来るのも、お母さんを説得するのも、サンタクロースになるのも)
ゆっくり立ち上がる。
(帰りたい、もう帰りたい)
りんたは海の深いほうへ歩いていく。
りんたが動くたびに虹色の水が新しい波を作る。
(もう帰るんだ、ここにいたっていいことなんてない、サマー・サンタクロースなんか、むりだったんだ)
「なんですぐ逃げるの?」
不機嫌そうなしえるの声が後ろから聞こえる。
「しえるにはわからないよ」
ぼそっと言う。
(ぼくの気持ちなんか、わからないよ。氷と泡の手紙がなくて、おいてけぼりになった気分で、マリアさんは何も教えてくれない。こんな不安な気持ち、手紙をもらって、もう何をあげようか決めてるしえるにわかるわけないよ)
しえるはむすっと顔をしかめた。
「わかんないよ! 言わないもん!」
確かに、りんたは思っていることを言葉にしてこなかった、それでも、りんたはしえるにむかって声を上げた。
「言ったとしても、なんでもできるしえるには、わからないよ!」
心のムカムカをぶつけたりんたの声は、本人の予想以上に大きくて、しえるはびっくりしてその場にかたまってしまった。
「……ばいばい」
腰までつかった海は絹のように柔らかく、少し冷たくて慣れてくるとどんどんあたたかくなる。どうやって帰るのかも知らない、でも一刻もはやく帰りたかった。家に帰って、なみかの隣に座って静かに眠っていたかった。
自分も、他人も傷つけないように。不幸にしないように。
そのとき、ひときわ歌声が強く耳に響いた。
ふわっと背後で何かが光った気がして、りんたはゆっくりふり返った。
あたたかい風が吹くと、しえるの一〇歩ほど離れた砂浜で砂つぶがくるくると渦を巻く。
驚いているのはりんただけではない、しえるもぱちぱちと目をしばたたかせていた。
そしてしえるが三回ほど目をつぶったとき、砂浜にはマリアとプンがいた。
りんたはその場に固まったまま少しうつむいて、マリアの目を見ないようにした。
マリアのあの金色の目を見てしまったら、自分がどれだけダメな子なのか、全てわかってしまうような気がしたから。
りんたの心のなかでは、しえるへの罪悪感と、マリアとプンに怒られるのではないかという不安がぐるぐる渦を巻いていた。
「りんた」
マリアの優しい声。りんたは唇をかみしめた。
「ぼくは、悪い子だよ、もうサマー・サンタクロースなんかなれないんだ、なんかの間違えだったんだ」
「りんた」
マリアはやっぱり優しい声でそうささやくだけだ。
「お家に帰りたい」
震えるりんたの声。
「あなたをお家に帰すことはできるわ、それはとても簡単なことだわ」
りんたは顔を上げ、じゃあ、と言いかけて、マリアの表情をみて口をつぐんだ。金色の瞳と目が合ってしまった。まっすぐに向けられる真剣な瞳は、りんたの「帰りたい」という思いをぴたっと立ち止まらせた。
「でもね、あなたがお家に帰ってしまったら、誰が、あなたの幸せにする人を幸せにしてあげるの?」
虹色の海のように滑らかで、それでも芯の通った声は、りんたの耳から心にまっすぐ届いた。
「逃げるのは簡単、でも、いま幸せを求めている人が幸せになるのはとても難しい、もしかしたら、一生幸せになることはないかもしれない。あなたの仕事はそれだけ大切で、重たいものなの」
サマー・サンタクロースの仕事、それはいま一番幸せを求めている人に、サマー・サンタクロースにしか与えられない幸せを届けること。
りんたははじめて自分が背負っている責任の重さを知った気がした。
「それでも、あなたが帰りたいのなら、わたしはあなたをお家まで帰すわ。大切なのはあなたの意思ですから」
静かで優しい声は、りんたの頭を冷静にさせる。無意識のうちにぐっとこぶしをにぎっていた。
(ぼくにしか幸せにできない人がいる。このサマー・クリスマスをのがしたら、一生幸せにならないかもしれない、それは本当に大切なことだ)
吸い込まれそうなほど美しいその金色の瞳から目をそらすことはできなかった。りんたは怖くなった。
(そんな、重大なこと、ぼくにできるの? きっと、ぼくじゃない、マリアさんは間違えたんだ)
どうしても、りんたは逃げてしまう。
辛いこと、大変なこと、悲しいことから。
(だって、もう、これ以上悲しい思いをしたくないから)
頭の中に、いままで努力してきた数々の光景が浮かぶ。
かけっこで一位をとってなみかを喜ばせようと努力して、それでも結果がでなかったとき、勉強を頑張っても、いつも点数は下から数えたほうが早いこと、なみかを喜ばせるために、幸せにするためにいままで必死で頑張ってきた。
でも、どれも思い通りにならず、結局なみかを心配させて、困らせてしまっていた。そのときから、りんたは自信をなくし、その代わりにあきらめぐせがついてしまった。りんたはもう、自分もなみかも傷つけたくなかった。
りんたは頭に浮かんだ思いを振り払うように、マリアから目をそらすと、背中を向けた。
「りんた、お前はお母さんと逃げないって約束したんじゃないのか?」
プンのするどい言葉も、りんたは聞こえないふりをする。両手で水をかき、力いっぱい地面を蹴った。
りんたは逃げた。
サマー・サンタクロースから、辛いことから、虹色の海へ、自分を守るために。
髪の毛のすき間を柔らかい水が通り抜ける。呼吸が陸上と同じようにできる。目を開いても、遠くの貝がらがしっかりと見える。
透明な海の中は、色であふれていた。
踊るように波に揺れる星がらの海藻、ハート形の泡をぽくぽくとはきながら前に歩くカニ。太陽のような形をしたヒトデと、三日月のサンゴ。
なかでも、りんたを一番驚かせたものがある。
それはりんたがずっと思い出すことのできなかった甘い香りの正体、海の底の一面に咲いた桃色の草だった。
地上にしかないと思っていたもの。
地上ではサマー・クリスマスの一週間前からしか咲かないその桃草は、太陽が昇ると大きく葉を広げ、太陽が海に隠れるとその双葉をくるりとつぼみのように丸めてしまう。
まだ生えてきたばかりの桃草は、小指のように細く小さいが、サマー・クリスマス当日には一歳の赤ん坊の身長を抜かすほど大成長する。
一面に咲いている桃草は、まだりんたの足首ほどの高さだ。
海の砂浜を桃色に染めるその草を横目に、りんたはどんどんと進む。
全てから逃げるように、自分から逃げるように、海の底へ。
そのうるさいほど色にあふれた海でも、いまのりんたの不安定な心を癒すことはできなかった。