市場
――……いないな。
彼女の姿を探したが、宮廷に出仕するジェラールの見送りに、今日は使用人しか出てきていない。
彼女は何をしているのだろう。また、庭だろうか。
行ってらっしゃいませと、彼女が見送りに出てきた時に、名前を聞こうと思っていたのに。
――坊ちゃま、坊ちゃまはもしかして、奥様に何かをなさいませんでしたか?
昨日の夜、ボルマンが珍しく険しい表情でそう聞いてきた。ジェラールが彼のあんな表情を見たのは、彼が九才の時にいたずらをして、父の剣を壊してしまった時以来だ。
――……していない。
ジェラールはボルマンと眼を合わせず、そうとだけ答えた。
やましいことは無い。彼が何もしていないのは事実だ。彼は妻に、本当に何もしていない。逆に、していないのが問題な程に。
しかしそのやり取りで、ジェラールにも分かったことがある。それは、ボルマンに彼女の名前を尋ねるのは、まずいということだ。それを実行すれば、恐らくアルマというメイドにそうした時よりも、ずっとまずいことになる。
だから残された手段として、直接彼女に聞こうと思った。
しかし、今朝は彼女の姿がない。庭にも出ていない様子だから、まだ眠っているのだろうか。
ジェラールは、ほっとしている自分に気付いた。これで今日は、彼女に名前を聞かずに済んだ。
――……何を言ってる。違うだろう。名前を聞くんだ。
ジェラールは、自分の仕事を後回しにしたことが無い。やらなければならないことはすぐやるし、そうしないと気持ち悪くなる。
しかし、この問題については、何故だか気が進まない。必要だと思ったから、彼女に名前を聞こうと思っているだけなのに。
「子爵様、ニューア川の氾濫の件なのですが」
もしかしたら、今朝彼女が見送りに出てこなかったのは、メイドのアルマから先日の件について聞いたからだろうか。彼女とあのメイドは仲が良い。よく一緒に庭仕事をしている。あり得ることだ。しかし、もしそうだとしたらどうなるのだろう。
謝るべきだろうか? 謝る? 私が? だが、一体何を、なんと言って?
「子爵様、あの、氾濫の件について」
氾濫だ。そう、氾濫が――
「はんらん? あ、ああ、氾濫か」
ようやく思考から現実に引き戻されたジェラールは、目の前に立っている部下の報告を聞き始めた。
いつの間に自分は宮殿の執務室に着いていて、机に座っていたのか。信じられないが、目の前に仕事がある。ならば仕事に集中だ。
「堤防が再び決壊したので、その追加費用をと――」
「またか? 工事担当は何をやっている。先日工兵隊を派遣したばかり――」
「失礼します。春の建国祭について――」
「それは長官の役目だろう? どうして私が……、仕方ない。それについては――」
報告を聞く内、彼の意識は急速に仕事に向かっていく。
そうなるともう、彼の頭に雑念の入る余地は無く、夕刻まで脇目も振らず政務に没頭した。
そして日が暮れ、仕事を一段落させて帰ろうとした時。
「名前か……」
彼の意識は、再びその問題に引き戻された。
◇◆◇
「市場に行くのは久しぶりです。でも、通りに花屋さんがありましたけど、そこじゃ駄目だったんですか?」
「ええ、切り花を売ってるところに行ったって駄目ですよ。それなりにちゃんとした所に行かないと」
ヘンリーさんによると、市場には切り花ではなく、種や球根、苗木などを専門に扱っている店があるそうなのだ。これまで切り花しか買ったことが無かった私は、彼に聞いてその店の存在を初めて知った。
「そうなんですね。どんな所でしょうか。きっと大きな所ですね。木が一杯生えているんでしょうか?」
「さあ、ヘンリーと違って、私は初めてですので」
「楽しみですね!」
「はい、奥様」
私は今、アルマさん、ヘンリーさんと一緒に町に来ている。
自分でも思っていた以上に、屋敷の外に出ない生活というのは、私の心を縛っていたようだ。浮かれすぎだと分かっているけれど、どうしても口数は多く、声は大きくなってしまう。そして、そんな私を笑って許してくれる二人には、改めて感謝したい。もちろん、今日の外出を手配してくれたボルマンさんにもだ。
「奥様のご実家は、この近くなんですよね?」
「そうです。市場を越えた先に家があります。お二人も――」
家に寄っていって下さい。その言葉は唇まで来て飲み込んだ。
ただでさえ、旦那様にも無断の外出だ。実家に寄るなどできるだろうか。それ以上に、両親や弟に心配をかけたくない。
「お二人も、市場にはよく来るのですか? 私、以前は毎日買い物に来ていました」
もっと怖いのは、家に戻って、二度とそこから出られなくなることだ。弱い私が気の弱っている今、家族の暖かさは余りにも危険だ。
「ご自分でですか?」
「はい、一人だったり、弟と一緒に来たり。お二人は?」
「俺はよく来ますよ。屋敷の出入り商人じゃ買えない物を買ったりで」
「え、そうなの? 知らなかった。……買えない物って何?」
そんなアルマさんも、子爵家に奉公する前までは、この辺りによく買い出しに来ていたそうだ。
今、私たちは市場の近くの道を歩いている。
――ここまで来ればばれませんよ。奥様は歩きたいんでしょ? だったら歩きましょう。いいだろアルマ? 奥様が望んでるんだからさ。
ヘンリーさんがそう言ってくれたので、私たちは馬車を途中で置いてきた。市場のお店には、知っている人も多い。子爵夫人になったからと、馬車でそこに乗り付けるような真似はしたくない。
服装についても、子爵家で与えられたドレスは着てこなかった。今着ているのは、実家から持って出た地味な服だ。
「奥様、苗木屋に着いたら――」
「奥様、他の店には――」
あとは――
「あの、アルマさん。ヘンリーさんも。今日は、奥様はやめにしませんか?」
「ど、どうかしましたか、奥様? 奥様を……? ……あ」
「ですから、今日だけ。私を『奥様』と呼ぶのは、やめませんか?」
「そう言われても、奥様は奥様で――ぶっ」
アルマさんが片手でヘンリーさんの口を塞ぎ、私に聞いた。
「……では、どうお呼びすればよろしいでしょう」
「ミアさん、とか。名前で」
「それはさすがにまず――ぶっ」
「はい、かしこまりました。ですが、『さん』は駄目です。ミア様。ヘンリーもそうお呼びしなさい」
ミア様。様はちょっと余計だけれど、奥様よりいい。久しぶりに、私は人に自分の名前を呼んでもらえた。顔が自然とほころぶのを感じる。
「わがままを言ってすみません、アルマさん」
「いいえ、こんなものはわがままの内に入りません。ミア様」
真っ直ぐ私を見つめたアルマさんの言葉がとても力強いものだったので、不覚にも少し、目元がじわりとしてしまった。
「さあ行きましょう!」
それをごまかすように、私は大きな声と笑顔でそう言った。
「あ! ミアちゃんじゃないか。子爵様と結婚したんじゃなかったの?」
「バカ! 『奥様』だろうが!」
「いいじゃないの。ねぇ、ミアちゃん」
市場に入ると、私に気付いた顔なじみの肉屋の奥さんが、「ミアちゃん」と気安く声をかけてくれた。
「すんません奥様、うちのカカアが無礼な事を言っちまって」
「そんなことないです。オットーさんも前みたいに、『ミアちゃん』で大丈夫ですよ」
二言三言会話を交わして肉屋のご夫婦と別れると、十歩も行かないうちに、今度は魚屋のご主人に呼び止められた。
「おうミアちゃん。今日は良いのが入ってるよ。マイン川でとれたのを直送してもらったんだ」
「確かにこれはすごいですね……。煮込みにしたら美味しそうです」
「お父さん、お父さん。ミアさんはもう、料理なんかしなくてもいいんだから。――申し訳ありません奥様、父が大変失礼を――」
そんな調子で、よく知った顔の人たちが次々と声をかけてくれる。
「あらミアちゃん、布地を買いに来たの? ――あ、ごめんなさい。ミアちゃ、ミア様はもう、子爵様の……」
「ミアさ――っと、奥様。ご機嫌麗しゅうございます。後ろの人たちはお付きですか? やっぱり子爵様と結婚すると違うんだなあ」
「ミ――、子爵夫人がこんな店に来られるなんて、恐れ多いですよ!」
「なんで? ミアせんせいはミアせんせいだよ? おにいちゃん、どうしてミアせんせいってよんじゃいけないの?」
「――……ははは、そうですね。……そうですよね」
最後の方は、変な愛想笑いしか出来なかった。
町に出てきて楽しいはずなのに、皆が話しかけてくれるのに、だんだんと気分がしぼみ、心がうつむいていく。
私が何を言おうと、やっぱり私はもう、皆が知るミアではなくて、もしかしたら、私が思うミアですらなくて、ヴェンドリン子爵と結婚した「奥様」なのだ。誰かと話すたび、どうあってもそれを思い知らされる。
町になど、来るべきでは無かったかもしれない。