怒るメイド
あの女が屋敷に来て、二ヶ月程度は経っている。それなのに、ジェラールは妻の名前も知らずに過ごしていた。いや、そもそも彼は仕事にかまけて、彼女の名前を知ろうともしていなかった。流石に少し、ほんの少し後ろめたい気持ちがある。
では、どうするべきだろうか。
お前の名前は何なのだと、本人に改めて聞くべきだろうか。
――それは……。
やめた方がいいのではないかと、ジェラールの心の隅で、制止をかける声がする。
自宅の書斎で、窓の外の風景を見ながら、ジェラールは彼女の名前を知る方法を考えている。
今日まで関心を抱かなかったが、書斎の窓のカーテンを開けると、屋敷の前庭が見える。そこを見下ろすと、名前を知らない彼の妻は、今日も尻尾のような髪を揺らして、猛然と庭の土を掘り返している。
それを確認してから、ジェラールは椅子に腰掛けた。
いつもなら仕事を始めるところだが、どうにも今日は手につかない。しばらくそわそわとしてから、彼はつぶやいた。
「……ボルマンに聞くか」
彼は最も確実で楽な方法を選んだ。彼の妻を見つけてきたのはボルマンなのだから、ボルマンは絶対に彼女の名前を知っているはずである。ただし、それを聞いたら執事はなんと言うだろうか。
気は進まないが、いつかは通らなければならない道だ。ジェラールは決意すると、使用人を呼ぼうとベルに手を――、いや、こちらから直接出向こうと、書斎を出て執事のところに向かった。
廊下でメイドの一人とすれ違った。
「ちょっと、待つんだ。お前は……アルマ、だな?」
こちらに礼をした彼女が通り過ぎようとするところに、ジェラールは確認のために声をかけた。
「は、はい。何か」
大丈夫だ。合っている。
妻の名前を知らなかったことで、ジェラールは自分が使用人の名前を憶えているかどうか、そのことも急に気になったのだ。思い出すのに少々時間がかかったが、憶えていた。
アルマというメイドは、怯えた表情でこちらの顔色をうかがいながら、命令を待っている。ジェラールは彼女に行っていいと言おうとしたが、そこで良いことを思いついた。
「アルマ、ちょっと聞きたいことがあるのだが」
「は、はい、何でございましょう」
緊張した声と面持ちで、メイドは返事をした。
ボルマンに妻の名前を聞くのをやめて、この娘に聞いてしまおう。どうせボルマンのことだ、ジェラールが今更妻の名前を知りたいなどと言ったら、ここぞとばかりに嘆き節を披露するに違いない。
メイドに妻の名前を尋ねる主人というのもどうなのだろう。だが、背に腹は代えられない。使用人には主人の命令に従う義務があるのだ。
「あの――、庭にいる」
「はい」
「あれだ。私の――」
ジェラールが言いよどんでいると、メイドは彼が示そうとしているものに思い当たった。
「お庭に? ……ああ、奥様のことでございますね? それがどうかなさいましたか?」
「そう、それだ」
良い調子だ。察しの良いメイドで助かった。この分なら問題なく聞ける。ジェラールは言葉を続けた。
「あれの名前は、なんと言ったかな」
「…………は?」
しばしの沈黙の後、メイドはそう聞き返した。やはり唐突な質問だったかもしれない。しかしここまで来て、無かったことにすることも出来ないだろう。もう一度繰り返した。
「私の妻の名前だ」
「奥様の名前が?」
「どういう名前だったかと聞いている」
「…………は?」
今度の「は?」は、さっきよりも低く、いわゆるドスのきいた声だった。
それに気付かなかったジェラールは、三度繰り返した。
「私の妻の名前を知りたいのだ。君は知っているだろう?」
そう言うとメイドは、今度はおほほとわざとらしく笑って、笑顔のまま言った。
「はい、もちろん知っております。しかしそんな……なぜ急に? メイドに奥様のお名前を尋ねられるなど、いくら旦那様が新婚でも、おのろけが過ぎはしないでしょうか」
「のろけてなどいない」
なかなかメイドが答えようとしないので、ジェラールはむっとして言った。
「私は妻の名前を知らない」
「………………それは、本当に? 一応確認させていただきますが、お忘れになったのではなく?」
メイドはまだ、笑顔でいる。
「当たり前だろう。彼女が来てまだ二ヶ月だ。知っているなら、そんな簡単に忘れない」
私はそれほど忘れっぽい人間ではない。ジェラールが、先ほどまさにこのメイドの名前を忘れかかっていたのを棚に上げてそう言うと、彼女は目をつぶって、ものすごいため息をついた。
「……はああああああああああぁ――――」
面前で使用人にこれほどのため息をつかれた人間は、彼の他にはあまりいないだろう。いや、ひょっとしたら帝国の歴史上初めてのことかもしれない。つまりは歴史的快挙である。
ため息をついた後。メイドはしばらく腰に両手を当て、首をうなだれていた。
「……大丈夫か?」
急な病にでもかかったのだろうか。ジェラールが彼女に声をかけると、メイドは妙にゆっくりと顔を上げ、再びにこやかな笑顔で言った。
「大丈夫でございます」
「……そうか。では、さっきの質問に――」
「ご自分でお聞きになられては!?」
彼女は主人の言葉を遮った。その声には、宮廷において「氷の男」とまで呼ばれ恐れられたジェラールに、有無を言わせぬ迫力が込められている。
声だけでは無い。メイドの顔は笑っているが、目は笑っていない。その目は何というか、有り体に言ってしまうと、「正気かこのポンコツめ」と暗に言っている目である。
「な――」
「旦那様が! ご自分でお聞きになって下さい! ちゃんと奥様に! 深々と頭を下げて! いいですね!」
そう言うと、メイドはジェラールが反論する暇もなく、どすどすと床を蹴立てて去ってしまった。
◇◆◇
「奥様は気晴らしに行くべきです! 行かなければならないんです!」
外に花の苗か種を買いに行きたい。私が思いついたのはそれだけの願いで、駄目だと言われれば諦めるつもりだった。
「いいえ行きましょう! こんな屋敷からは一刻も早く出て、私と気晴らしに行きましょう! むしろそのまま私とどこかに逃げましょう!」
しかしなぜかアルマさんのやる気はものすごく、ボルマンさんとヘンリーさん、ついでに私まで困惑していた。
「アルマはどうしたのですか? ヘンリー」
彼女はあなたの係でしょうと、ボルマンさんが言った。
「まあ、確かにかなりおかしくなってますけど、別にいいんじゃないですか? ほっときましょう。それに、この屋敷に来られてから、奥様が一歩も門の外に出ていないのは事実ですし。アルマじゃないけど、気晴らしは必要ですよ」
「……そうですね。君の言う通りです。気付かずに申し訳ありませんでした。奥様」
「い、いえ、ボルマンさんが謝ることではありません」
「そうです! 謝らなければならないのは旦那様です!」
「アルマ、お前うるさいからちょっと黙ってろ」
ヘンリーさんが、アルマさんを引きずっていく。
アルマさんの声が聞こえなくなってから、ボルマンさんは口を開いた。
「……もしや坊ちゃまが、何かしてしまったのでしょうか、奥様。だとしたら、代わりに私が――」
お詫びいたしますと、再び頭を下げようとしたボルマンさんを制止して、私は言った。
「違います。私がちょっと……元気が無かったので、アルマさんは心配してくれているんです」
「……分かりました。お出かけの件ですが、もちろん問題ないと思われます。ただ、ヘンリーとアルマはお供にお連れ下さい。馬車は――」
「私、歩くのには慣れています。馬車は――いいですよって、言ったら駄目ですね。私……子爵夫人ですものね」
子爵家には子爵家の体面がある。余りわがままを重ねて、使用人の皆を困らせるべきではないだろう。
「……はい。では、明日にでも。坊ちゃまが出仕されてから、お出かけになられればよろしいかと」
「はい、ありがとうございます」
私がお礼を言うと、ボルマンさんは深々とお辞儀をした。