お出かけ
今日もあの女は庭で土いじりをしている。
土いじりに夢中で、今日もジェラールの帰宅に気付いていない。
女の長い黒髪は、馬の尾のように後ろで一つに束ねられている。
ジェラールが眺めていると、その髪は彼女が動くたびにひょこひょこと気ぜわしく跳ね、まるで一個の生き物のようだった。
土いじりというのは、こんなに集中できるほど面白いものなのだろうか。
ジェラールには理解出来ない世界だが、女が土いじりに夢中になることで、家名に傷がつくわけでも、家計に負担がかかっているわけでもない。止める理由は無かった。
しかしそれにしても、家長の帰宅を無視できるほど、土いじりというのは重要なものなのだろうか。
かねてからの不満もあり、ジェラールは腕を組み、妻の行動をしばらく見ている気になった。一体いつになったらこの女は自分に気がつくか。気まぐれにそう思って。
数分経ったが気付かない。すごい集中力だ。屋敷に馬車が帰ってきた音も、きっと彼女には聞こえなかったのだろう。
しゃがみ込んでいる彼女が今やっている作業の内容は、ジェラールには分からない。隣には、あのノートが開いた状態で置かれている。そこにきっと、土作りの方法などが記されているのだろう。土に汚れないように、小さな木の台の上に置かれている。
「ふぅ」
一息ついた女の声で、ジェラールは我に返った。自分はどれくらい彼女を見ていただろうか。短い時間だったと思うが、よく分からない。
作業が一段落したらしい。彼女は立ち上がり、手で汗を拭う仕草をした。
そして彼女は、そこでようやくジェラールの存在に気がついたらしい。
「あ、旦那様」
彼女が振り返ると、束ねられた髪がふわりと翻った。晩冬であるにも関わらず、その顔は汗に濡れている。
頬に土をつけたまま、少し乱れた息で彼女は言った。
「お帰りなさい」
ジェラールは動揺した。かつて無いほど動揺した。
彼女は笑顔だった。その笑顔が、なぜかジェラールを動揺させたのだ。
いや、女性の笑顔なら彼は見慣れている。というより、これまで彼が会ってきた女性は、彼を恐れる使用人たちは別として、皆笑顔だった。
――ヴェンドリン子爵、子爵ほどの方とお近づきになれて光栄ですわ。
――子爵が将来の帝国を担っていかれる方だと、父からも聞かされております。
――……子爵はご結婚などには、興味は無いのですか?
どこかねっとりとした、顔に張り付いたような笑み。女性たちは誰も、そんな笑顔を見せて彼に近寄ってきた。彼が社交嫌いになった、最も大きな原因はそれだ。
その女たちと、彼女の笑顔がどう違うというのだろう。
笑顔は笑顔だ。それ以外の何ものでもない。
しかしなぜか、ジェラールの顔はいつもよりもこわばって、目の前の女に何か言うことも、そこから離れることも出来なかった。
冬の短い夕方の日が、彼女の横顔を照らしている。
「――お」
だが、こうやってにらみ合ったままなのはおかしい。彼は妻に声をかけようとし、言葉に詰まって固まった。
彼には、彼女のことを、一体なんと呼べば良いかが分からなかった。
――……“おい”? それとも……“お前”、か?
妻に対し、おいやらお前やらと呼びかけるのは無作法ではないか。妻である彼女に対して、他にも色々、もっと不味い扱いをしているにも関わらず、その時のジェラールはそう思った。
思ったがしかし、彼は他に、彼女の呼び方を知らない。
――…………この女は、誰だ?
そう、ジェラールはその時初めて、自分が妻の名前を知らないことに気付いたのだ。
◇◆◇
旦那様の機嫌を損ねてしまったことには落ち込んだけれど、作業は続けた。
むしろ、落ち込んだことを忘れるために、尚更私は土作りに集中することにした。
どうせ初めから、旦那様には望まれていなかった私なのだ。今更軽蔑されたからって、何も変わらないじゃないか。
涙をこらえ、心の中でそう唱えながらシャベルを振り回すと、数日後には前庭の全ての土が掘り返されていた。
「……ふん」
ざまあみろというか、やってやったぜというか、自分で成し遂げたその景色を見ていると、さっきまで感じていた落ち込みは、あの人に対する怒りに変わってきた。
私だって、好きでこの家に来たんじゃない。それなのに、放置されたり軽蔑されたり、子爵か何か知らないけれど、余りにも勝手すぎる。そう考えていると、さっきまでこらえていた涙はどこかに引っ込んでしまった。
「……奥様、何を怒ってるんですか?」
スコップでべしべしと土を叩いている私に、アルマさんが声をかけてくれた。
「いえ、何でもありません」
私は作り笑いでそう言ったけれど、察しの良いアルマさんは、私の不機嫌の原因にすぐに思い当たったようだ。
「……旦那様でしょう?」
「……分かるんですか?」
とは言っても、私が怒る理由なんて、この屋敷には他に見当たらないだろう。私がそう口にすると、アルマさんは続けて言った。
「はい。奥様の気持ちはお察しします。可哀想な奥様、あんな冷血なポンコツ男に傷つけられて――」
「そ、そこまでは思ってないですよ?」
アルマさんがあの人に対して余りに辛辣なので、私は逆に気が引けてしまった。自分の主人にたいしてそこまで言うなんて、一体この数日で、アルマさんに何があったのだろうか。
二人の立場が逆転し、私が怒るアルマさんをなだめていると、ボーイのヘンリーさんがやってきた。
「こりゃすげぇ。よくまあこれだけやったもんですね、奥様」
「そ、そうでしょう? すごいでしょう? 私」
わざとらしく胸を反らして自慢する。アルマさんのあの人への怒りを逸らそうという魂胆だ。
「あ……、そうです。そうです! すごいです奥様!」
アルマさんがそれに乗ってくれて、私がほっとしたところに、ヘンリーさんが声をかける。
「で、何を植えるんですか?」
「え?」
「だから、何を植えるのかって。花か何か。決めてるんでしょう?」
「いえ、決まってません」
髪留めを外して、後ろで束ねていた髪をほどきながら、私はそう即答した。
「うん、奥様らしい無計画ですね」
私の言葉に、ヘンリーさんはすがすがしそうにうなずいた。
「っこの無礼者!」
その言葉を言ったのは私ではなくアルマさんだ。彼女に後頭部をはたかれながら、ヘンリーさんは首をひねる。
「しかし決めてもらわないと。俺かアルマが買いに行くにしても、適当にっていうのは困りますよ? 俺たちに花のことなんか分かりませんから」
「ヘンリーさんもですか?」
多芸な彼のことだから、草花の知識もあると思っていた。
「流石に俺にも専門外のことがありますって。逆にアルマは専門外だらけですが」
再びアルマさんに無礼者と言われ、ヘンリーさんが後頭部をはたかれている。
確かにヘンリーさんの指摘する通り、何を植えるかは重要だ。この季節に適した花などは、あのノートを参考にすれば分かるだろうが、それでも出来れば現物を見て決めたい。
「あの、私が町に出て、買ってきてもいいでしょうか?」
だから、ダメで元々にそうお願いしてみた。でも、子爵夫人が軽々しく町で買い物など、簡単に許されるはずは――
「分かりました。お供します奥様」
しかしアルマさんがそう即答したので、私は逆に面食らった。アルマさんの横にいるヘンリーさんも驚いている。
「何言ってんだアルマ。それは流石に旦那様のお許しを――」
「黙りなさいヘンリー。奥様は今、その旦那様のせいで深く傷ついてるの! 奥様には癒やしが必要なの!」
「阿呆かお前」
何ですってとアルマさんが牙をむく。二人は私がいるのを忘れて、しばしやり合っていた。
「分かった、分かったよ。じゃあ、一応ボルマンさんに相談してみてからな。いいですね?奥様」
最終的には、アルマさんの剣幕に折れたヘンリーさんがそう言ってくれて、話が決まった。
こうして私は、久しぶりに屋敷の外に出ることになったのだ。
アルマが怒っている理由は、次の旦那様パートにて。