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土の匂い

 久々に書庫に入ってみたが、結構色々な本があるものだ。

壁の書架を見回しながら、ジェラールは思った。


 ある日深夜に家に帰った彼は、就寝前、ふと思い立って寝室の奥にある書庫に足を踏み入れた。


 ――前の持ち主も、勉強熱心な人物だったらしい。


 彼は自分の仕事――財務に関係する書物にしか興味を持てないし、そもそも、必要な本は自分の財産でいくらでもそろえられる。そのため、この屋敷の以前の所有者が残したというこれらの蔵書について、今まで特に注意を向けた事がなかった。

 しかし改めて見ると、これだけの本をそろえるというのは、例えその人が貴族であったとしても、よほど学業を好む人柄でなければ無理というものだ。

 この部屋の本には、ただ飾られているばかりでなく、実際に読み込まれた気配もある。前の主に少々の敬意を込めて、試しに一冊手に取ってみると、中身は畜産に関する本だった。


 ――……良い乳牛の見分け方?


 その他、やたらと動植物について書いた本が多い。この蔵書の主は、一風変わった嗜好の持ち主だったようだ。それともあるいは、農政に関する役職についていたのか。

 しばらくの間、後ろ手にそんな事を詮索していた彼だが、やがて眉をひそめ、形の良い鼻をヒクヒクとうごめかした。


 土の匂いがする。


 この部屋の以前の主が植物好きだとて、まさか今日までその匂いが残っているはずはあるまい。

 ならばどうしてこの部屋にこんな匂いが漂っているのか、ジェラールは知っている。

 これは、あの女の匂いだ。


 彼の妻は最近、庭の土作りに熱中している。

 この部屋から持ち出したらしいノートを片手に、来る日も来る日も土いじりだ。


 基礎を固めるのは大切だ。ジェラールは無知で無計画なあの女が、いきなり花を植えて台無しにするのではなく、きちんと土台作りから始めようとしていることを評価しようと思った。


 しかしそれはそれとして、彼には少し不満があった。


 この間などあの女は、まるで園丁が着るような服を着て、庭にうずくまっていた。何やらぶつぶつ独り言を言っているので、奇妙に思って近づいてみると、なんとミミズと会話をしていたのだ。

 自分はもしかしたら、とんでもない女と結婚してしまったのかもしれない。そんな考えが頭をよぎったが、不満の大元はそれではない。


 ――人がたまに早く帰ってみれば……。


 その時のジェラールは、久しぶりに早い時刻に帰ってきたのだ。それなのに彼女は、お帰りなさいでもなく庭仕事をしていた。

 妻としての務めを果たすよりも、泥だらけになってミミズと会話をする方が、あの女にとっては重要なのだろうか。


 ――あ、だ、旦那様! もう帰ってきちゃ――、い、いえ! お帰りなさいませ!


 妻に代わって自分を出迎えたメイドまで、園丁のような格好で泥だらけになっていたので、彼の不満はより増大した。


 この部屋に広がる土の匂いは、そんなあの女が残したものだ。


 ジェラールが知っている女の匂いというと、やたらと香水を振りまいた、どぎつい臭いが思い起こされる。たまに夜会などに出ると、毎度毎度うんざりさせられたものだ。

 土の匂いは、それに比べれば不快ではない。

 それどころか、ずっと昔、彼がまだ幼かった頃に嗅いだような、そんな懐かしさすら憶える。


 そう、決して不快ではない。

 不快ではないが、彼は不満だったのだ。


◇◆◇


「ドレスを汚されてもなんなんで。これを使って下さいよ、奥様」


 そう言ってボーイのヘンリーさんが私に貸してくれたのは、動きやすそうな作業服だ。エプロンもついていて、長靴や手袋もある。

 ヘンリーさんは私より少し年上くらいの多芸な人で、旦那様の馬車の運転から馬の世話、タンスの修理まで何でもこなす。


「アルマが用意しろって言ったんです。俺じゃないですよ」


 私がお礼を言うと、ヘンリーさんはぶっきらぼうにそう答えた。


「男物なんで、奥様には大きいかもしれませんが……、一応、ちょっと直しはしておきました」


 物言いはぶっきらぼうだが親切な人だ。借りた服を着てみると、身体に吸い付くようにぴったりだった。


「どうですか? アルマさん」

「お似合いです! まるで天使のようです!」


 私がくるりと回って見せてみると、アルマさんは娘らしい笑顔で言った。


「そ、れはちょっと褒めすぎじゃないでしょうか……」

「そんな事は無いですとも!」


 アルマさんの妙な勢いにたじろぎながらも、私はありがたくそれを着て作業を開始した。

 この間手に入れたノートに従って、土を掘り返して軟らかくしたり、肥料になるというものを混ぜ込んだりした。

 重労働だけれど、力仕事なら教会の炊き出しの手伝いで慣れている。それに、ボルマンさんやアルマさんも仕事の合間に協力してくれたので、全く苦ではなかった。


「……ミミズだ」


 シャベルでを土を掘り返していると、地面からミミズが顔を出しているのに気がついた。丸々と太っていて、元気に身体をくねらせている。

 しゃがみ込んで、しばらく彼の様子を見つめていた。


「起こしてしまったね。すまない。……もう少し寝てていいよ」


 ミミズは冬眠するのだろうか。知らなかったけれど、そんな言葉をかけてみた。

 もうすぐ冬も終わりだ。そのミミズの様子を見ていると、そんな風に感じた。

 この庭に花が咲くには、まだ全然遠い。何しろ私は、種すら植えることが出来ていないのだ。

 しかしこんな風に土を耕すのは、すごく楽しいことだった。


 でも――


「あ、旦那様。お帰りなさい」


 少し調子に乗りすぎていたのだと思う。

 その日も私は土いじりをしていて、後ろに立っている人の気配に気付くのが遅れてしまった。


 肥料を混ぜ込む作業が一段落し、立ち上がった私は頬を伝う汗を軍手で拭った。

 そこでようやく、その人の気配に気付いたのだ。


 しまったと思った。

 お帰りなさいなどと、あまりに気安い言い方で。しかも、こんな格好をして。


 その人――、この屋敷の主人であるジェラール・ヴェンドリン子爵は、不満そうに腕を組み、ものすごい顔で私をにらみつけていた。私に対する軽蔑を隠さない、その冷たい瞳で。


 すみません。そう言わなければと思ったが、口の中が乾いて、何も言うことが出来なかった。


「――お」


 口を開いた旦那様は、私に何かを言おうとした様子だったが、そのまま口を閉じてしまった。


「……」


 叱責しようと思っても、呆れて言葉が無かったのだろう。

 しばらくの沈黙の後、旦那様は憤然とした様子で踵を返し、屋敷の中へ入っていく。その背中にも何も言えず、私はエプロンを握りしめ、うつむいたまま固まっていた。



 そしてその夜は、初めてこの屋敷に来た時のように、寂しい惨めな気持ちで過ごした。

アルマの「天使のよう~」について

ヒロインの容姿設定:

教会で文字を教えていた男の子の三人に二人が、一回は「僕は先生と結婚する」と決意する感じ。

憧れの保母さん。小学校の先生。

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