いってらっしゃいませ
女の手には、膏薬が塗られている。
ジェラールは、それを確認すると満足した。何に満足したのかは分からなかったが、とりあえず彼は満足した。
「いってらっしゃいませ」
そういう妻の言葉に返事をすることもなく、ジェラールは馬車に乗り込んだ。
しかし馬車の中では、彼は今日も、彼女の事について考えていた。
彼がかなり早い時刻に出て行く時も、あの女は見送りに立つようになった。ここの所毎日、ジェラールは女の「いってらっしゃいませ」を聞いている。
それだけではない。彼が屋敷に戻った時は、よほど深夜であれば別だが、「お帰りなさいませ」という彼女の言葉が迎えることになる。
最近は新しい住処にも慣れたのか、ジェラールの目には、そう言う女の表情が、初めて見た時よりも幾分か柔らかくなっているように映った。
――陰気な女だと思っていたが……。
そして、柔らかくなった女の顔は、そんなに悪いものではなかった。
美醜について言っているのではない。
彼は世間では冷血漢と言われているし、そのことは彼自身も否定しない。それでも彼とて、やはり人間である。憂鬱な表情で見送られるよりは、明るい顔で見送られた方がいい。そうに決まっている。
ジェラールは今まで、女性の美醜に特に関心を払った事が無かった。だから自分の妻の顔が美しいか、醜いか、それとも平凡なのかはどうでもいいと思っている。
ただ、誰かの柔らかい顔で見送られ、迎えられる気分というのは、そんなに悪いものではなかった。
馬車が中央通りに入ると、宮殿が見えてきた。
馬車止まりで馬車を降りると、白い階段を上り、自分の執務室へと向かう。
いつも通りの出仕風景だ。
彼の机の上に、仕事上の書類束に混じって明細が一つ置かれていた。その小さな紙片の上には、膏薬一つ、銀貨一枚とある。
彼のような財務官を初め宮廷内の役持ちは、物品調達課に注文すれば大抵の備品はそろえられた。
不届きな官僚は私的なものも官費で落としているらしいが、もちろんジェラールはそんなことをしない。これはちゃんと自分の財布から払う。それに、そもそも彼が私的なものをこんな風に注文したのは、これが初めてのことだった。
その明細を見て、ジェラールはまたあの女の事を考えた。
最近の彼女は、ジェラールの寝室の近くにある、誰も使っていなかった書庫に出入りしている。一度、両手に山盛りの本を抱えたあの女とすれ違った。
ボルマンに聞いたが、あの女は今、その本を読んで造園について勉強しているようだ。
今更か、順序が逆だと思ったが、勉強熱心なのは良いことだ。ジェラールは勤勉な人間が嫌いではなかった。
「――ん?」
ジェラールはふと、明細を片手に立ち尽くしている自分に気がついた。
何をぼけっとしているのだ。こんなことをしている暇は無い。
「さて、仕事だ」
そう言うと、彼は今日も書類の処理に明け暮れた。
◇◆◇
庭や植物に関係ありそうな題名の本を抜き出すと、両手に抱えるくらいになった。
この屋敷の前の持ち主は、よほど庭が好きな人物だったらしい。ならばなおのこと、あの庭を荒れ果てたままにしておくのは忍びなかった。
一度始めたことだ。自分にどれだけのことが出来るのか分からないけれど、やれるだけの事はやってみよう。その本の山を見ていると、そう思えた。
「よっ――と」
あまり子爵夫人らしくないかけ声を出して、私はその本を持ち上げた。
「……こ、これは…………」
ちょっと欲張りすぎたかもしれない。前がほとんど見えない。
急がば回れと言うけれど、せっかく持ち上げた大荷物を降ろすのもしゃくだったので、ものぐさな私はよたよたとふらつきながら書庫を出た。
「あ、ありがとうございます」
途中扉があって、私が開けるのに手間取っていると、誰か――多分、使用人の誰かがそれを無言で開いてくれた。
踏み外すこともなく、どうやら無事に階段を降りて寝室に戻ると、私はベッドの上に本を投げ出した。
「ふぅ、重かった」
さて、まずはどの本から読むべきだろうか。
これでも私は教会で、子供たちに文字を教えたこともあるのだ。読書なら自信があるぞと思って一冊目の本を開くと、顔から血の気が引くのが分かった。
「…………ム、ムズかしい」
小さな字で、聞いたことの無い専門用語がびっしりだ。正直何が書いてあるのか分からない。はて、これは外国の言葉かしらと表紙を見たが、間違いなく帝国語だ。
「これはちょっと上級者向きね……」
うわずった声で、負け惜しみを言ってみる。
最初から一番分厚い本を手に取ったのは誤りだった。そう思って次の本を開いたが、どれも似たようなものだった。
やっぱり本より、誰か知識のある人に教えを請うのが正しいだろうか、私がそう考え始めたとき、その本が目に入った。
――これは?
その本の薄緑色の表紙はくたびれていて、あちこちにシミも浮いている。こんな本を持ってきた覚えが自分には無く、手に持ってひっくり返してみた。
本と言うより、ノートと言った方が適切な厚みだ。他の本に挟まっていたものが、投げ出したときの弾みで出てきたのかも知れない。
ベッドに腰掛けてそのノートの中を開くと、几帳面そうな手書きの文字で、最初から終わりのページに至るまで、何かが記されていた。
――土作り……、水、肥料。
そんな単語が目に入った。やはりこれも園芸の本だ。印刷されたものではなく、ずっと昔に誰かが書いた、手書きの本。素人の私が一見しただけでは分からないけれど、すごく見易くまとめられている。そんな気がした。
――花に、……野菜?
所々には水彩のスケッチも描かれている。私でも知っている花や野菜、木や果物が、そこに並んでいた。
「……よし」
しばらく内容に目を通すと、私は両手でそのノートを顔の前に持ち上げた。
「キミの力を借りるとしようか」
昔見た演劇を思い出し、芝居がかった口調でそう言ってみた。
明日から、もっと楽しくなりそうだ。
気付くと、外はもうすっかり夜になっていた。