書庫の鍵
「いってらっしゃいませ、旦那様」
かなり久しぶりに、ジェラールがまともな時間に屋敷を出ようとすると、玄関にあの女の姿があった。
言葉通り見送りに出てきたのだろう。使用人以外に「いってらっしゃいませ」などと言われるのは初めてだったので、彼は少しぎょっとしたが、すぐに気を取り直した。この女がそうするのは、妻としては自然な行為だ。
しかし彼女のその姿には、あまり自然とは言いがたい部分があった。
「……なんだ、それは」
「え?」
考えてみると、ジェラールと妻が会話をしたのは、これが初めてということになる。しかし二人の間には、当然感動などは無い。
それはともかく、冷たい声で尋ねたジェラールの視線の先には、女の手があった。
「……な、なんでしょうか?」
ジェラールの見ているものと、言っている意味が分からないらしい、彼女は戸惑った声を出している。
「……もういい」
今日も仕事が待っている。ジェラールは妻との初めての会話を切り上げて、屋敷を出て馬車に乗り込んだ。
しかしその中でも、そして宮廷に着いてからもしばらく、彼は珍しく仕事以外のことについて考えた。
「なんだあの手は」
執務室の椅子の上で、ジェラールはつぶやいた。
その頭には、朝見た己の妻の手がある。見送りに出てきたあの女の手は、切り傷や擦り傷だらけで、見るからに痛々しいものだったのだ。
理由は分かっている。あの女はこの前、屋敷の庭に生えていた雑草を、独力で一掃してしまった。今、子爵邸の庭には、遮る者のなくなった大地の上に寒々しい風が吹いている。それだけやれば、手が擦り傷だらけになるのは自明の理と言えた。
そしてなんと、あの女が庭で始めた大事業は、今のところそこで止まっている。
花を植えたいと、メイドにまで懇願された時には、驚いたが好きにしろという気分だった。庭いじり程度で大人しくしているなら、それでいいと。
そして、花を植えたいと言うからには、恐らくあの女には園芸の知識があるのだろうと思った。植物を育てることを趣味としている者は、貴族にもそれなりにいるらしい。あの女もきっとその類いなのだろうと。
しかし、無いのだ。
ボルマンが言っていたが、あの女には園芸に関する知識が全くない。それにもかかわらず、一人であの広い庭を丸裸にしたかと思うと、流石のジェラールもその無計画さに圧倒されずにはいられない。
彼が妻の手を見て、なんだそれはと言ったのは、そういう事情も少しは背景にあった。
「そんな調子で花などと……、馬鹿馬鹿しい」
そう言って、彼は仕事に取りかかった。
ジェラールが執務室に入ってから、ここまで五分。これは、彼が執務室で仕事以外について考えた時間としては、新記録であった。
◇◆◇
「確かに、少し無計画でしたね、奥様」
「……う」
執事のボルマンさんが、白い髭をなでながら言った言葉に、私の口からは妙な呻きが漏れた。
しかし、全く反論のしようが無い。確かに私は無計画だった。
「お庭を作りたいのであれば、まず私にご相談なされてからでもよろしかったのでは」
「……すみません」
二人の目の前には、草一本生えていない地面が広がっている。
数日前、私はアルマさんに借りた鎌を片手に、最近たまっていた鬱屈を、灰色に枯れた雑草たちにぶつけた。その結果がこの有様である。
庭には数本の木が立っている以外、何も残らなかった。
そしていざ、私が花を植えようと思ったその時、はたと気付いた。一体何を、どうやって植えたらいいのだろうか、と。
「もう少し、勉強してからにするべきでした」
私がしょげていると、ボルマンさんは鷹揚に笑った。
「まあ、大丈夫です。きっとなんとかなりますよ。坊ちゃまもお許し下さった事ですし」
「――はい。ありがとうございます」
ボルマンさんの言うとおり、旦那様は私が庭に花を植えることを許可してくれた。私が旦那様から直接聞いた訳では無いけれど、アルマさんがそう言われたのを、彼女はとても嬉しそうに伝えてくれた。
――旦那様が、「勝手に――違う、じゃなくって、「もちろん大丈夫だよ」ですって! 良かったですね、奥様!
「確か、書庫に園芸にまつわる本などもあったはずです。それを使って、ゆっくり勉強なさるのも良いのではないでしょうか」
ボルマンさんの提案は、私にとっては非常にありがたいものだった。
何しろ、私には暇な時間が大量にある。文字なら一応読めるし、折角だからちゃんと勉強して、きれいな庭を造りたかった。
しかし、旦那様の持ち物である本を、勝手に持ち出して良いものだろうか。私がそう聞くと、ボルマンさんはまた笑った。
「この屋敷の前の持ち主が残したものです。坊ちゃまがお読みにならないとなると、この屋敷には、他には不勉強な者しかおりません。――私も含めてね」
私が真顔で聞いていると、ここは笑う所ですぞとボルマンさんは言った。
「……誰かに読まれた方が、きっと本も幸せでしょう」
「はい、ありがとうございます」
それから私たちは、屋敷の二階にある書庫に向かった。私の寝室は一階にあるので、二階に足を踏み入れたのは、これが初めてだった。
ボルマンさんは私の前を歩きながら、ここは何の部屋だとか、そういうことを親切に説明してくれた。
「ここは、坊ちゃまの寝室でございます」
ある部屋の扉の前で、ボルマンさんがそう言った時、私は思わず足を止めてしまった。
それに気付いたボルマンさんは振り返り、最初はためらっていた様子だったが、なんだか苦しそうな顔で私に尋ねた。
「…………奥様は、坊ちゃまと結婚されたことを、後悔なさっておいでですか?」
「……え?」
「……私は、もしかしたら奥様に、とても非道いことをしてしまったのかもしれません」
とても真剣に、まるで許しを請うような表情で、ボルマンさんは言い。そして、ですがと続けた。
「……私は坊ちゃまに、いつまでも独りでは、あってほしくなかったのです」
「……」
私が黙っていると、ボルマンさんは深々と、とても丁寧にお辞儀をした。
「……申し訳ありません。使用人の分を超えたことを聞いてしまいました。どうか、お許し下さい」
そこからは、二人は無言で廊下を歩いた。
書庫の鍵を開けてもらって、その中に入る。すると、すごくかび臭い匂いが広がった。長い間誰も使っていなかったというのは、本当のようである。
その部屋の壁は書架で埋まっていて、目的の本を見つけるのは、それなりに手間がかかりそうだ。
「この鍵は、奥様がご自由にお使い下さい」
ボルマンさんは、鍵束から書庫の鍵を外し、私にくれた。本を探すと言う私を書庫に置いて、出て行こうとする彼の背中に、私は声をかけた。
「大丈夫ですよ、ボルマンさん」
「……何がでございますか? 奥様」
「私、後悔なんかしません」
ついこの間、後悔したばかりだったけれど、私はそう言った。そう言わなければならない気がしたのだ。
「……奥様は、優しいお方ですね。私は、……坊ちゃまも、感謝しなければなりません」
もう一度お辞儀をして、ボルマンさんは書庫を出て行った。
後日、私が書庫で見つけた本を抱えて寝室に戻ると、化粧台の上に、膏薬が一つ置かれているのを見つけた。何処にでも売っている膏薬だが、擦り傷に効くと評判のものだ。
きっと、私の手の傷に気付いたボルマンさんが置いてくれたのだろう。
この屋敷の人たちは、私がお飾りの妻に過ぎないとしても、皆親切だ。だから、後悔などするべきではない。こうやって案じてくれる人もいるのだ。例え飾り物でも、子爵夫人としての務めは果たさないといけない。私はそう思った。