弁当
ここ数日、暑くも寒くもない丁度良い陽気が続いている。今が一年の中で最も過ごしやすい季節かもしれない。空は青く、窓を開け放つと入ってくるのは心地の良いそよ風だ。
宮廷にいる事務方の人間たちにとっては、この空気は嬉しくもあり辛くもあった。ジェラールのような意志の堅い人間でさえ、こんな風に気持ちの良い陽気にさらされて椅子に座っていると、ついまぶたが降りそうになるのだ。大部屋に詰められた下級役人たちは、どの顔も皆あくびをかみ殺しているように見えた。
「やあ、元気? 遊びに来たよ」
だからこんな風に、自分の執務室に皇太子のエルンストが軽薄な阿呆面を見せに来るのも、少しは気分転換になっていいのかもしれない。ジェラールはそう思った。
「その顔は、何か失礼なことを考えてる顔だね?」
「いいえ殿下。とんでもない。いつもの阿呆面が来たなと思っただけですよ」
「酷いなぁ。そんなこと言われると帰っちゃうよ」
「むしろそうしていただけると助かります。私はこれから昼食なので」
確かに子爵の言う通り、彼の前には小さな包みが置かれていた。きっと中身は彼が毎日食べている味気ない弁当だろう。じゃあ残ろうと言って、エルンストはソファにぼすりと腰掛けた。
皇太子の訪問を察知して、ジェラールの部下がすかさず茶を運んでくる。ジェラールはあらかじめ、これに構うなと彼らに言ってあったが、部下たちとしてはそういう訳にもいかないだろう。
「何か面白いことはないかい?」
「部下に大聖堂の修築費の話でもさせましょう」
「遠慮しとくよ」
そう言ってから、エルンストは優雅に紅茶をすすりしみじみとつぶやいた。
「良い天気だねぇ……」
その通りであるが、どうしてわざわざ自分の執務室に来て言う必要があるのだろうか。ジェラールがそろそろこれを部下につまみ出させるかと思った所で、エルンストは何かに気がついた。
「それ、いつもと違うね」
「……そうですか?」
皇太子が指摘したのはジェラールの前にある昼食の包みだ。さっきはいつもと同じように思ったが、よく見ると少し違う。少しだけ、いつもよりも包みが大きいような気がした。
「食べないのかい?」
そして普段のジェラールならば、エルンストを無視してさっさと昼食を食べ始めるはずだ。しかし今日の彼はそうせず、包みを解かずに自分の軽口にここまで付き合っている。それもおかしいと皇太子は感じた。
「いや、食べますとも」
そう言いながらジェラールは書類束を動かし、その陰に隠れるようにしてその包みをほどいた。明らかに不自然な行動だ。確かに彼はエルンストの目から自分の昼食を隠そうとしている。しかし目ざとい皇太子がそれを許すわけがなかった。
「やっぱりいつもと違うじゃないか」
「……気のせいでしょう。私には分かりませんが」
「気のせいって……」
わざわざ立って自分の昼食をのぞき見た皇太子に、ジェラールは非常に渋い顔をしている。子爵の言葉とは裏腹に、彼の手の中にある昼食は、少なくともこれまでのものとは大きく変容していた。
エルンストが知るジェラールの弁当というものは、常に同じであった。毎日毎日パンに薄い肉を挟んだものだけという、あまりにも無味乾燥な食事。よくそれで飽きないものだとエルンストは思っていたが、今日そこにあるものはずいぶんと違う。
まず、パンに何かを挟んでいるのは間違いない。しかしそこには、いつもはない彩りがある。肉を挟んだものだけでなく、チーズや葉野菜を挟んだものなど、何種類かが用意されていた。しかもそれらは食べやすく小さく切り分けられていて、小型のバスケットの中に綺麗に収まっていた。さらにバスケットの端には小さな果物まで添えられている。これをいつもと同じであると言い張るのには無理があった。
「美味しそうだね」
いつものジェラールの食事と違って、これは非常に食欲をそそられる見た目をしている。どうしてこれを自分から隠そうとしたのかを彼に問い詰める前に、エルンストはそう言った。
「一個もらうよ」
エルンストは一国の皇太子とは思えない気安さで、バスケットから一切れつまみ取ろうと手を伸ばした、かと思うと急に手を引っ込めた。
「……ん?」
「どうしました殿下」
「いや……?」
エルンストは、なぜか左手で右手首をさすりながら首を傾げている。この手がバスケットの中身に触れようとした瞬間に、背中にぞわりとしたものを感じたからだ。
「う~ん」
もう一度、今度はゆっくりと手を差し出した。すると――
「――うわっ!」
やはりだ。今度ははっきりと感じた。エルンストの手がバスケットの中身に触れる瞬間に、手首から先がなくなるような――切り飛ばされたような感覚がした。どうしてエルンストがそう感じるのか。それは何者からか明白な殺気を飛ばされたからだ。
「何をしているんです」
殺気の主はもちろん、目の前で冷ややかな顔をしているこの男だ。
「……ジェラール、これ一個もらっていいかい?」
「……まあ、別に構いませんが」
実験として、エルンストはジェラールからそう許可をもらい、改めて手を伸ばそうとした。しかしやはりバスケットに手が近づくほどに悪寒が強くなり、耐えられなくなった再びエルンストは手を引いた。
「食べられたくないならそう言いなよ」
「……は?」
「いや、だからさ、さっきから僕の邪魔をしてるだろ?」
「……? 意味が分かりませんね。人をからかうのはやめていただきたい。私がいいと言ったのだから、食べたければ食べればよろしいでしょう」
しかもどうやら殺気の主は、無自覚でそれを行っているようだ。彼は眉間の皺を深くして、エルンストの言葉の意味が全く理解出来ない様子で頭を振った。
「……やっぱりいいよ」
埒があかないので、エルンストはそう言ってソファに戻った。
「それさ、君の奥さんが作ったの?」
「…………」
「…………」
「いえ、違います」
「何、今の微妙な間は……。ふうん、分かったよ。それで僕に取られたくなかったんだね。いいさ、独り占めしたらいいよ。――いやあ残念だったなぁ、建国祭の時に会えなかったのは。君がそんなに大事にしている奥さんに、僕も挨拶したかったなぁ――」
その辺りまで喋った所で、皇太子はジェラールが呼んだ部下によってソファごと運ばれていった。
そして邪魔者がいなくなると、静かになった執務室で、ジェラールは再び自分の昼食に向き合った。ご丁寧に内側から鍵までかけている。
――今日の昼食は、奥様がお作りになられました。
今朝、改まった顔でジェラールの前に現れたフォルカーが、そんなことを彼に告げてきた。
――奥様には、秘密にして欲しいと言われたのですが……。
ジェラールが見れば、いつも彼が命じている昼食と違うのはすぐに分かるから、いっそ先に伝えておこうと思ったそうだ。それだけを伝えてフォルカーは引き下がり、後には昼食の入った包みが残された。
――旦那様、いってらっしゃいませ。
ジェラールを見送るミアはいつもと同じようにそう言ったが、恐らくかなり早い時間に起きたのだろう、表情は少し眠そうであった。
「……」
だからといって、自分は別に喜んでいないし、浮かれてもいない。そう言い訳をしてから、ジェラールは黙々とその昼食を平らげた。
「さあ、次の書類は――」
浮かれていない証拠に、彼は食事が終わるとすぐに仕事を再開した。夕方まで財務処理に熱中し、皇太子がからかいに来たことも、ミアが作った弁当の事も忘れた。
「子爵、お疲れ様です」
「ああ」
すました様子で執務室を出た彼に、浮かれた様子など微塵も感じられなかった。
ただし、帰りの馬車の中で彼は、さりげなく彼女に礼を言うべきかどうか、そのことについて頭を悩ませた。