最高のスパイスは
少し雰囲気がいつもよりコメディチックになってしまいました。
料理をするのは楽しい。母と共に一家の台所を預かっていた私にとって、料理は生活の一部だった。その時には料理が楽しいかどうかなど考える暇もなかったが、改めて触れてみると新鮮な発見があった。
「美味しいです!」
自分の料理を食べてくれた人にそう言ってもらうのが嬉しい。喜んでもらうことを想像して作るのが楽しい。最近は庭いじりしかやっていなかったから、なおのことそう思えた。
「でも、私もご相伴に預かって良かったのでしょうか?」
「色々な意見を聞きたいんです。正直自分だと、美味しいかどうか分からなくって」
同じ物を作り続けて三日経った。そうなると逆に前より美味しくなったのかどうなのかが自分では分かりにくい。フォルカーさんにばかり同じ料理を味見してもらうのは申し訳ないし、アルマさんが感想を言ってくれるのはありがたかった。
「でも、本当に美味しいです奥様。私、このグラタンにならお金を払えます」
「そ、それは大げさですよ」
謙遜しつつも顔がにまつくのを感じる。しかしすぐに表情を引き締めた私は、改めて聞いた。
「どこを直せばいいでしょうかね?」
「え、直すとこなんてないですよ。十分すぎるくらいです」
「……そうですか?」
でも、アルマさんは具体的な指摘はくれなかった。
それは参ったと私は眉をひそめた。どこを直して良いか分からなければ、私の修行は行き詰まってしまう。そんな私の様子を見てアルマさんがおろおろとし、それを見たフォルカーさんが口を開いた。
「……アルマをあまり困らせないでやって下さい。この子の言う通りですよ、奥様。」
「フォルカーさん」
「これはもう十分な出来です。誰が食べても納得します。後はもう、ご当人に食べていただくだけでしょう」
「……う」
「え? ご当人って誰ですか? ……あ」
何のために私がこの料理を作っているか聞かされていなかったアルマさんは、フォルカーさんの言葉だけで全てを察したようだ。彼女は片手で口を押さえて、私の様子を目でうかがってくる。いじいじとしている私に、フォルカーさんはさらに言葉を浴びせた。
「どうしてためらうのですか?」
彼の言う通り、私はここ数日ずっとためらっていた。完璧主義というのは名目で、本当はずっと――
「旦那様も喜んで下さいますよ」
「うう……」
その事が不安で、私はあの人の前にこの料理を出すことができないでいたのだ。
あの人の好き嫌いを直してやろうというのもきっかけに過ぎない。私はただ、自分が思う妻らしいことをあの人にしてみたかっただけなのだ。
――建国祭の夜は、美味しいって言ってくれたし……。
あの時と同じように、何かのきっかけが欲しい。そう思っていた所で、都合良く野菜が収穫できたということに過ぎないのだ。しかしいざそれを実行に移そうとなると、私はどうしても最後の一歩が踏み出せないでいたのだ。
「大丈夫ですかね……」
私は消え入りそうな声でそう言った。
アルマさんは、まだ片手を口に当てて私を見ている。
「大丈夫ですとも」
そしてフォルカーさんは、筋肉で張り詰めたエプロンの胸元を叩くと、とても力強い声でそう言った。
◇◆◇◆◇◆◇
ミアの様子がおかしい。
三日前の夕食の時、彼女に避けられたと感じて以来、ジェラールはずっとそう思っていた。そうは言っても、二人は会えば普通に話をしている。そこにミアが彼を避ける様子は感じられない。しかしそうしていてもどこか変だと思うのはジェラールの気のせいだろうか。
おかしいと言えば、ボルマンとフォルカーの様子もおかしいままだった。彼らはずっとジェラールに意味深な視線を投げかけ続けている。彼らは何かを知っていて、それを自分に隠している。ジェラールはそう考えたが、その理由も聞き出せないままでいた。
これが彼女に関わる話でなければ、恐らく彼も率直に聞いたであろうが、何しろこれは彼女に関わる話である。
昨日などは、ジェラールは執事と料理人が不審な話をしているのを耳にした。彼が書斎から寝室に移動しようとしている所で、偶然一階にいた二人の話し声が聞こえたのだ。
「なるほど。それで奥様はずっと――なのですね」
「はい。奥様は旦那様に――と思って――」
「そうですか……。元はといえば坊ちゃまに原因が――。奥様には申し訳のないことを――」
その会話は断片的にだがそう聞こえた。
ジェラールはそれで確信した。ミアが妙なのは、やはり自分に原因がある。
心当たりは――ある。色々とある。むしろ心当たりがありすぎる。彼女が彼に愛想を尽かす理由などいくらでも挙げられる。
表面上は和やかに振る舞っているが、もしかしたら彼女は内面ではジェラールを蛇蝎のごとく嫌っていて、この間の夜はそれが隠しきれずに出てしまったのだろうか。珍しく豊かな子爵の想像力は、いつの間にかそこまで飛躍してしまった。
「旦那様、少しよろしいでしょうか」
だからその夜の食卓で、ミアがいつになく真剣な顔でそう言った時、彼はついにその日が来たかと思ったのだ。
「……ああ」
あるいはもしかしたら、彼女はこの屋敷を出て行くと言い出すかもしれない。そこまで想像していたジェラールは、非常に重々しい声でうなずいた。
しかしミアが切り出した話題は、彼が考えていたような深刻なものではなかった。
「今晩は一品だけ、私が作ったんです」
「……何?」
「ですから、フォルカーさんの代わりに、私が今日の料理を作りました」
「…………それだけか?」
拍子抜けしてしまったジェラールの言い方は、彼女には突き放すように聞こえただろう。本当に曇りかけた彼女の顔を見て、ジェラールは即座に訂正した。
「いや待った、今のは違う。――そうか。それは――ありがとう」
そういえば、自分が彼女に礼を言ったのは初めてかもしれない。ジェラールは頭の片隅で、そんなことを思った。
「は、はい! あの――召し上がっていただけますか?」
「ああ、もちろんだ」
「では――、お持ちいたします」
まるで決闘に向かう剣士のような表情で、ミアはそう言った。厨房に引き下がった彼女が持ってきた盆の上には、湯気を立てる何かが乗っている。これは――
「グラタンだな」
この国では庶民から貴族まで口にする、何の変哲もない一般的な料理だ。しかし変哲もないからといって失望などしない。正直な所、建国祭の夜に彼女の料理を食べて以来、もう一度そういう機会があってもいいとジェラールも考えていた。だから目の前にある料理が何であれ、ここは味わって食べるべきだろうと彼は思った。
「はい、お嫌でなければ」
「いや、ありがたくいただこう」
スプーンを手にしたジェラールの顔を、ミアはとても真剣に見守っている。
彼女が最近おかしかったのは、もしかしたらこれを作るためだったのだろうか。そう思うと、彼は自然と緩む口元を抑えかねた。しかしいざ彼がその料理を口にしようとすると、ミアは耐えかねた様子でジェラールを押し止めた。
「――っ。やっぱり、待って下さい」
「――ぁ?」
口を開けたままで、ジェラールはミアの顔を見た。彼女はもう一度待って欲しいというと、急に席を立って厨房へと引き返した。
――……な、何だ?
ジェラールには想定しきれない展開が続いている。彼は困惑した。そして戻ってきた彼女が抱えている籠の中身を見て、彼はさらに困惑した。
「これは……?」
「……このグラタンには、これが使われています」
料理に毒を盛ったと白状する人間は、きっと今のミアのような顔をするに違いない。しかし彼女が料理に入れたと言ったのは、これまたどこにでもある葉野菜である。それはまるで収穫したてであることを示すかのように、籠の中でみずみずしい艶を放っていた。
「……それで?」
「あの……、庭でこれを収穫したのですが、旦那様はこれがとてもお嫌いだと聞きました」
「ふむ」
そういうことをミアに言うのはボルマンしかいないだろう。ジェラールがそう考えていると、ミアは続けた。
「私は、それはもったいないと思ったので、できれば旦那様にも食べていただきたいと思ったのです」
「……そうか。では、なぜわざわざ先に種明かしをしたのだ?」
彼の言う通り、このグラタンにその野菜が使われているとは見た目では分からなかった。彼にそれを食べさせたいのであれば、黙っていれば口にしたはずだろう。先に言う理由が分からない。
「……旦那様が、本当にお嫌いなのであれば、騙して食べてもらうのは、違うと思ったからです」
「……なるほど」
「でも、頑張って作りました。……できれば召し上がっていただけると、嬉しいです」
真摯な表情で、ミアはそう言った。籠の取っ手を握る指先が白いのは、そこに相当の力が入っているからだろう。ジェラールはそんな彼女の様子と、目の前にある料理を交互に見て、それから鼻で笑った。
「ふっ……」
「……旦那様?」
「気を遣わせたようだが。それは無駄な心配だったな」
「え?」
「ボルマンの頭の中では、私は子供のままなのだな。野菜が嫌いだなどと、一体いつの話をしているのか。大の大人が、こんな物を嫌って大騒ぎする訳がないだろうに」
「あ……」
「私は偏食などしない。出された物は、もちろん喜んでいただこう」
ジェラールが微笑むと、ミアは急に赤くなってうつむき、それから震えた声でこう言った。
「そ、そうですよね! まさか旦那様がそんな子供っぽいことを仰るはずがないと思ってたんですけど……。そうですよね! ボルマンさんの勘違いだったんですね!」
「ああそうだ。ボルマンも、もう歳だからな。昔と今の区別がつかなくなることがあるのだろう」
「そ、そうでしたか! あ、あはははは」
「はっはっはっは」
ミアの照れ笑いと、子爵の爽やかな笑いが夜の食堂にこだました。
ところで、そんなことを言っているジェラールの頭の中は、実はこうであった。
――恨むぞ爺や! こんな……、こんな……、こんな物を食べる羽目になるとは!
実際、彼は三十を過ぎた今でもこの手の野菜が大嫌いだった。
元はと言えばボルマンが悪いのである。確かに彼は小さい時から野菜嫌いだったが、それを加速させたのはボルマンの特訓だ。いや、小さい時の彼は、自らボルマンに特訓を申し出た気がするが、しかしそれでまさか、あんなことをするとは思わないではないか。とにかく、彼は今でも、絶対的にこの野菜が大の苦手であった。
「はっはっはっは」
彼は笑ってごまかしているが、ごまかせない所に来てしまった。
普段の彼なら、皇帝が食べろと言っても拒否しただろう。しかしさっきまでの話の流れで、今から食べないという選択肢があるだろうか。
「はっはっは……」
「……」
乾いた笑いを続ける彼を、彼女が期待の目で見守っている。いっそ殺してくれと彼は思った。
「――分かった。食べよう」
しかし彼は覚悟を決めた。今更後には引けないのだ。
ミアの顔は心なしか、だんだんと彼に近寄ってきている。それほど期待されているのだ。
口に運ぶスプーンの先端が小刻みに震える。屋敷に雷が落ちないかと思ったが、もちろんそんな事は起こらない。
「……」
目をつぶってそれを口に入れると、彼はゆっくりと咀嚼した。そうすると、記憶の中にあるあの野菜特有のえぐみが伝わって――来ない。
彼は目を開いた。ソースでごまかしているのではない。この甘い味は、彼が今まで知らなかった野菜の味だ。
もう一口、彼は恐る恐るスプーンを伸ばした。二口目はよりはっきりと、料理の味が分かった。次にスプーンを伸ばした時はもう止まらなかった。そして気がつくと、彼は皿の上の料理を全て完食していた。
「……どうでしたか?」
彼の耳元で、ミアがそう囁いた。
「美味かった」
椅子に座ったまま彼女から上半身を離しながらも、彼はそう感想を言った。
本心からである。まさか自分がこれに大してこういう感想を述べる日が来るとは、彼は想像もしていなかった。
「……はい。お粗末様でした」
満面の笑みを浮かべた彼女を見て、ジェラールは思いきった甲斐があったと思った。
「やっぱり、ボルマンさんが言ったのは違っていましたね」
「そうだろう?」
勝ち誇るジェラールを見て、ミアはまた笑顔になり、勘違いをして恥ずかしいですとつぶやいた。よほど高揚していたのだろう。彼女のその仕草を見てジェラールは更にこう続けた。
「まあ、私に嫌いな物などない。野菜であろうと何であろうと、残さずたべるさ」
「そうですね。――それで安心しました」
「……ん? 何がだ?」
「これからまだ沢山、野菜が収穫できるので」
彼女の言葉に不穏な空気を感じ取り、ジェラールはつばを飲んだ。
「……そうか。……ちなみに、次は何が収穫できる予定なのだ」
「あれです、あの緑色で、いくつも頭があって、ごわごわしていている」
「……小さい森のような」
「そう、それです! 苦手な人も多いそうですけど、旦那様は大丈夫ですね!」
「……あ、ああ。もちろんだ」
そう言ったが、彼のこめかみには脂汗が浮かんでいた。
こうした風景は、ミアが新しい野菜を収穫するたびに繰り返されたという。