意味深な視線
その日は朝からかなり強い雨が降っていて、屋敷の中には雨粒が屋根や外壁を叩く音が耳障りに響いていた。
――あまり長引かなければいいが……。
書斎の窓から雨の降る外の様子を見て、ジェラールは思った。
帝都でこういう雨が二日も続けば、大抵はどこかの河で洪水が発生する。冬にニューア川がかなり大規模な氾濫を起こしたばかりだ。帝国財政にかかる負担もそうだが、民への負担を考えても、あまり長く降るのは歓迎したくない。
しかし、眺めて祈った所で何の意味もない。この段階で彼にできることは少ないが、せめて氾濫が発生した場合に備えて、復旧にかかる費用の概算だけでも出しておくかと、壁の書類棚から資料をあさった。
「旦那様、お食事をお持ちしました」
そこから料理人のフォルカーが書斎に昼食を運んでくるまで、ジェラールは仕事に没頭していた。懐から時計を取り出すと、確かにもう正午を過ぎている。彼は目をしばたたかせながら、書類から離れて一息つくことにした。
「……どうした?」
ジェラールがそう聞いたのは、フォルカーが妙に意味ありげな視線で彼の顔を追っていたからだ。何か言いたいことでもあるのかと、何気なくジェラールは問いかけた。
「いえ、旦那様」
フォルカーは否定したが、やはりその表情は意味ありげだった。しかしその時にはジェラールは大してそのことを気にした訳ではなく、料理人が書斎から退出した後は、そんな事があったことも忘れて再び仕事に取り組んだ。
「――ふう」
――今日はこんなところだな。
次に彼が顔を上げたのは夕方だった。雨はまだ降っているが、その勢いは大分弱まっている。この分ならば氾濫を心配する必要はなかったかもしれないなと考えながら、ジェラールは立ち上がった。
「お疲れ様でございます。坊ちゃま」
廊下に出たところで遭遇したボルマンは、いつもの調子でそう言った。
「ああ」
軽くうなずいてすれ違おうとしたが、そこでも彼は違和感を覚えて足を止めた。
「……どうした?」
「いえ、坊ちゃま」
さっきの料理人と同じように意味ありげな目をしながら、執事はそう言った。
これで二度目であったことから、ジェラールはその返答を流さず、もう一度執事にその理由を問い詰めた。
「何か私に言いたいことがあるのではないか?」
「滅相もございません」
ボルマンは大げさな手振りで、誓ってそんなことはありませんと言ったが、これは明らかに嘘である。そのことがジェラールには分かった。ボルマンがジェラールの事を赤子の頃から知っているように、ジェラールもボルマンとは三十年来の付き合いなのだ。彼が隠し事をしていることくらいは何となく分かる。
だが、一体執事が何を隠しているのか、そこまではジェラールにも読み取れなかった。
「……まあ、別に構わんが」
ボルマンが何を隠しているのかは知らないが、それは決して主の不利益になるような事ではない。忠義者の彼がそうするだけの理由がきっとあるはずだ。そう考える程には、ジェラールは自分の執事のことを信頼していた。
「それより坊ちゃま、奥様が食堂でお待ちでございます」
「ん? ああ、そうだな」
「早く向かわれた方がよろしいかと」
「分かっている」
ボルマンがその場をごまかそうとしているのは知っていたが、ジェラールは敢えて逆らわなかった。確かに夕食には遅い時間になっている。彼女が待っているなら早く行くべきだろう。彼はそう思い、再び廊下を歩き出した。
初めて夕食を共にした建国祭の晩以来、ジェラールが食堂でミアと共に食事を取る頻度は確実に増えていた。今日の昼のように彼が仕事に集中している時は別として、それ以外の時は大抵一階に降り、彼は彼女とテーブルを挟んで向かい合った。
ジェラールは別に、意識的にそうしているつもりはない。
確かに建国祭の夜会から帰った後、ミアが彼に振る舞ってくれた煮込み料理は美味かった。彼女は夜会服のままで料理をした後、ジェラールがその皿を平らげるのをテーブルの向かいで黙って見ていた。
涙ではげた化粧だけは洗い落として来たのだろう。そこに居たのは、ジェラールの知るいつもの彼女だった。
――……美味い。
――……良かったです。
その彼女は、彼が正直に味の感想を言うと満足そうに微笑んだ。
その瞬間、料理の味以外の何かがジェラールの心を満たした事に、彼は気付かなかった。しかしその夜以来、彼は特別忙しくない限り、屋敷にいる時は出来るだけ食堂で食べるようになったのだ。料理を作るのはミアではなくフォルカーだが、それでも彼が食堂で食事をする時、そこにはいつも彼女がいた。
「旦那様、お疲れ様です」
「……ああ」
そして今夜も、食堂に入ったジェラールを彼女の朗らかな顔が迎えた。
「待たせたか?」
「いいえ、私も今来たところです」
先ほどのボルマンの言葉とは矛盾していたが、ミアはそう言った。
ジェラールが席に着くと、メイドが二人の給仕についた。料理が運ばれてきた後は、しばらく二人はそれぞれの食事に無言で集中した。
食事が一段落すると、食後の茶が出された。するとそこで、久しぶりにジェラールが口を開いた。
「……今日は雨だったな」
「はい」
とりあえず天気の話から入って、次に庭の話に移る。これがミアと会話する時の、最近のジェラールの定石であった。
しかし今日は雨だった。彼女もカエルやカタツムリではない。雨が降っている時には、さすがに庭に出ることを自重するはずだ。では、そんな時には一体何をして過ごすのだろうか。彼にも少し興味があった。
「今日は、君は何をしていたのだ?」
「――うっ!」
そう聞くと、どうしてかミアはジェラールから慌てて目をそらした。聞いてはいけないことを聞いたのだろうか。女性との会話に慣れていない子爵は困惑した。
「……別に、何もしていませんでした」
「そうか」
暗い表情で小さくつぶやいたミアに対して、すました顔で紅茶を飲んだジェラールだったが、内心はかなり焦っていた。具体的に言うと、
――…………私は何か間違ったか!?
である。
どうして彼女は急に塞ぎ込んでしまったのだろう。自分の発言の何かが彼女の琴線に触れてしまったのだろうか。彼は密かに、そして素早くミアの背後にいるメイドの表情をうかがったが、そちらに平素と変わった様子はない。もし彼がミアを傷つけるようなことを言ったのだとしたら、あのメイドが反応すると思ったのだが……。
「あの、すみません旦那様。……今夜は、私はこれで」
「あ、ああ」
彼女がジェラールよりも先に席を立つ。これも初めての事だった。動揺している彼を置いて、ミアは彼と眼を合わせないまま食堂を出て行った。
「……」
「……」
食堂に残されたジェラールは、同じくその場に残ったメイドの方に目を向けた。メイドはしばらく彼の視線に耐えていたが、しばらくすると、メイドもまた彼からゆっくりと目をそらした。
一体この屋敷で何が起こっているのか。その夜ジェラールは自問し続けた。