完璧主義なわたし
「とにかく、旦那様が食堂で食事をしてくれるようになったのが、私には何より嬉しいですよ」
「毎日じゃないですけどね。まだ書斎にいらっしゃることも多いですし」
ある日の午後、私は屋敷の厨房で料理人のフォルカーさんと雑談をしていた。
こんな規模の屋敷なら普通はもっと大勢の料理人がいるはずだが、この子爵邸で働いているのはフォルカーさんだけである。広い厨房は、私と彼の二人だけだとがらんとして見えた。
「それでも凄いことです。それこそ奥様が来られる以前は、旦那様が食堂を使われたことなど年に数度しかありませんでしたしね。それこそ、この間のように突然お客様が見えられた時とか」
フォルカーさんが言ったのは、十日ほど前に来たレティさんのことだ。あの時は急に私が彼女を引き留め昼食に誘ったにもかかわらず、フォルカーさんはいつも通り――いや、いつも以上に美味しい食事を作ってくれた。
――振る舞う人が多いほど、作る甲斐があるのが料理というものです。
そう言ってうなずいた彼の満足そうな顔は、私の記憶に新しい。
「レティ――この前のお客様は、よく来られるのですか?」
「いえ、私の知る限りは初めてですね。……しかし、もの凄く美しい女性でしたね、あの方は。驚きました」
「はい、本当に」
輝くようなという形容詞は、まさに彼女のためにあるのだと思う程の美貌だった。しかしそれに負けていないのだから、我らが旦那様も相当なものだ。二人並ぶと私はてっきり――
「私はてっきり、彼女が旦那様の――」
「旦那様の?」
「い、いえ」
危うく失言をするところだった。
レティさんは、旦那様とはただの幼馴染みと言っていたし、彼女が嘘をついているようにも思えなかった。疑うような真似をするのは失礼だ。
――……疑う?
何を疑うのだろう。なぜ疑う必要があるのだろう。例えば仮に彼女が本当に旦那様の恋人だったりしても、形ばかりの妻である私が嫉妬するようなことは――。…………恋人? …………嫉妬?
「うわああ!」
「ど、どうしました奥様?」
「い、いえ! 何でも」
何だか思考が妙な所に陥りそうになったので、私は咄嗟に叫んでごまかした。
「あの――、他には誰かいらっしゃったことがあるのですか?」
「他に? 他に客人というと……、あれです、金髪の男性がごくたまにお見えになります。旦那様と同い年くらいの」
フォルカーさんはかまどの火加減を見ながら、記憶を探る風な仕草をした。そうして彼が言った金髪の男性という言葉に、私は思い当たるものがあった。
「あ、もしかして旦那様より少し背が低い、細身の――」
「そうですそうです。多分その方です。おや? 奥様はあの方とお会いしたことが……」
「この屋敷ではないですけど、建国祭の時に。夜会で旦那様とお話していらっしゃったのを見ました」
「そうでしたか。私の記憶にある限り、旦那様を訪ねて来られたのはその方くらいですね」
「なるほど」
「はい。……あ、奥様、もう焼けていませんか」
「えっ? ――あ!」
私がすっかり話に夢中になっていたところに、鼻をひくつかせたフォルカーさんが気付いたように指摘した。私は慌てて寄りかかっていたテーブルから身を離すと、オーブンの前にかがみ込んで扉を開けた。
「…………あっつ! ……よし」
手の甲を少しやけどしながら、私はオーブンから料理を取り出した。ちょっと焦げ臭くなってしまっただろうか。――いや、上出来である。完成した料理の香りをかいで、私はそう判断してうなずいた。
「ほう、これは美味そうだ」
鍋をかき混ぜる手を止め、後ろから覗き込んだフォルカーさんが言った。
「色も良いし、焦げ目もうまく付きましたね。」
「はい」
しかし肝心の味の方はどうであるか。私はそれにスプーンを刺して、一口すくった。口に入れた料理をよく噛んで味わう。
「……う~ん」
「私も一口いいですか?」
「もちろん。――はい、どうぞ」
「いや、私は別の匙を使います。旦那様に叱られますから。……うん、良い味ではないですか?」
「そうですか?」
フォルカーさんからのお墨付きを得た私はにへらと笑ったが、それでもすぐに首を傾げた。
「でも……、う~ん。……やっぱりもう一回ですね」
「奥様も頑固ですなぁ」
「私は完璧主義者なんです」
スプーンを振りながら冗談を言った私に、フォルカーさんは恐れ入りましたと頭を下げだ。しかしやはり、今回の出来ではこの料理は残念ながら不採用だ。これは私の昼食として責任を持って平らげることになる。
「……もう少しソースをな~」
そんな風に唸りながら、私は小さなノートに今回の反省点を書き足していった。もう二日ほど、私はこの料理の研究に没頭している。
「これでも旦那様は、十分お喜びになると思いますが……」
フォルカーさんはそんな私を見て、呆れたように禿げ頭を掻いた。確かに彼の言葉は正しいかもしれない。しかし、これは失敗の許されない任務なのだ。改善案が浮かぶうちは妥協することはできない。
私がフォルカーさんの厨房にお邪魔して作っているのは、何の変哲もないグラタンである。実家でもよく作っていたこの料理を、私が急に改善しようと思ったのにはある深い事情があった。
そう、話は数日前にさかのぼる。
◇
私の庭の第一号である黄色い花が咲いた後、前庭には他にもいくつかの花がつぼみを付け、緑の占める体積も更に大きくなっていた。
そしてそこで、ついにあるものが手頃な大きさに育ったのだ。
「おや奥様、今日は一段とご機嫌なようで」
それを収穫した私は上機嫌で、鼻歌を歌いながら屋敷の廊下を歩いていた。そこに執事のボルマンさんが通りかかったのだ。彼は白い髭に覆われた口元を緩めてにこやかに言った。
「奥様がご機嫌ですと、私も嬉しくなりますな」
「ふふ、ありがとうございます。――今日は良いことがあったんですよ」
「良いことというのは、もしやその腕の……」
「はい」
「なるほど、これは見事に育っていますな」
私が差し出した籠の中身を見て、ボルマンさんはうんうんとうなずいた。私は彼のその反応に気をよくして、更に上機嫌になって言った。
「これを料理に使ってもらおうと思うんです。屋敷の皆さんに食べてもらいたくて。ボルマンさんも是非どうぞ」
今日収穫したのは花ではない。私の庭に育った初めての野菜だ。庭で野菜を作る。これは実家暮らしだったときの私の憧れであった。何しろ庭に野菜があれば、その分食費が節約できるのだから。今は幸いにして食費の計算をしなくても良い立場になったが、それはそれとして長年の野望が叶ったのは嬉しいものだ。
「ええもちろん。私はこれが大好きです。年を取ると肉が駄目になる分、日頃から野菜を多く取らねばならんと思っておるのです。私の健康の秘訣ですな。人間六十を超えるとどうしても――」
そこから展開されたボルマンさんの健康に関する持論を聞いた後、私はこれをフォルカーさんに調理してもらうつもりだと言った。ボルマンさんはそれにもうなずき、是非味わわせてもらうと言った。
「旦那様にも喜んでもらえるでしょうか?」
庭で素人が作った物など、子爵ともあろう人が口に入れるとは考えにくかった。でもあの人は学生だった時に芋を育てたことがあると言っていたし、きっと食べてくれる。そう期待して、私は言った。
「――む」
しかしその言葉を聞いて、ボルマンさんはとても渋い顔をした。その顔を見て、私は彼の言いたいことが言われる前に理解できた。
「――あ、別に旦那様に無理に食べてもらおうとは……。味の方は保証できないですし」
「奥様……」
急いで前言を撤回した私を、ボルマンさんは苦しそうな目で見つめた。
「……いえ、そうですね。これは、奥様にはお話ししなければなりませんね。……絶対に口外しないように釘を刺されていたのですが。そういう訳には参りませんね」
「……え」
「実は坊ちゃまは――」
ボルマンさんが深刻そうな顔で語り始めたので、私は息をのんだ。何か深い事情があったのだろうか。そう言えばフォルカーさんは、旦那様は書斎でもパンに肉を挟んだものしか口にしないと言っていた。例えば仕事上の都合から、こういう野菜を食べないという誓いでも立てているのかも知れない。そういう誓いなど聞いたことはないが。
でも、一緒に食堂で食事をした時は、特に何でもない様子に見えたけれど――
「実は坊ちゃまは――、野菜がお嫌いなのです」
「……はぁ?」
「特に緑の濃い野菜が大の苦手で……」
「ふむ」
全く深刻な事情ではなかった。身構えた自分があほらしくなったが、同時に私の中にある感情が芽生えた。
「――好き嫌いは良くないですね」
そうだ。良くない。
「はい、私も坊ちゃまがご幼少の頃、何とか改めてもらおうと努力したのですが……」
「努力……。ちなみに、どんな風に?」
「僭越ながら特訓を施したのです。まず山盛りにした野菜を――」
「あ、もういいです」
ボルマンさんから発された特訓という単語を聞いて、私は少しトラウマを刺激されかかった。それはともかく、好き嫌いは良くない。
「野菜が嫌い……。では、こういうのも?」
私は手に持っている籠を傾けた。中にあるのは、とても深い緑色をした葉野菜だ。
「はい。それはもうお嫌いです」
「ふむ」
自慢ではないが、私は実家でも家族に好き嫌いを許さなかった。
弟がどんなものでも喜んで食べられるように、彼が幼い頃から毎日の食事には工夫を凝らしたし、にんじんが食べられないと言って泣く父を折檻したこともある。手伝いをしていた教会でも、子供の好き嫌いを直すのが得意なミア先生として知られていた。
「……分かりました」
「お、奥様? 何かお怒りでございますか?」
だからそのプライドにかけて、あの人にこれを食べさせなければならない。
私の中に、そんな妙な使命感が宿った。
ほうれんそう