公爵令嬢
客間に通された来客を前にして、旦那様がもの凄く渋い顔をしている。彼にとって歓迎できない客だったのだろうか。でもその来客の顔に、私は確かに見覚えがあった。
「は、初めまして。ジェラール・ヴェンドリン子爵の――つ、妻? で、ミアと申します」
つっかえながら私は彼女に自己紹介をした。自分がこの人の妻であると他人に名乗ったのは初めてだ。そんな事ですら私は緊張してしまう。
「知っています。――建国祭の夜以来ですね、ミアさん」
そう言うと、ソファに腰掛けた彼女はにっこりと笑った。その微笑みには、女である私がとろけてしまいそうなほどの威力があった。
「私、レティシアと申します。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします。レティシアさん……ですね」
「はい。どうか気安く、『レティ』って呼んで下さい」
「そ、それは――」
問題無いのだろうか。あの夜会に出席していたということは、この人は相当の上級貴族である可能性が高い。というか、さっきの旦那様への態度を見ていると、間違いなくそうだと思える。
私は自分自身では判断ができず、旦那様の表情を伺った。彼の顔は、苦虫をかみつぶしたような表情から変化していない。しかし、彼に私を止める様子は無かった。
「はい、レティさん」
「レティでいいですよ。――ミアさんの方が私より年上ですよね。呼び捨てて下さい」
彼女は何故か、すごくぐいぐい来る。正直こんな美少女に言い寄られて悪い気はしないぞ――ではなくて、どうして彼女はこんなに私に関心を持っているのだろうか。しかしその疑問は、きらきらとした彼女の瞳に見つめられると溶けてしまった。
「わ、わかりました。レティ」
「はい、ミアさん。――うふふふふふふふふ」
レティさんは一際大きな笑みを浮かべると、その笑顔を旦那様の方に向けた。旦那様は片手で頭を抱えてうつむいている。
「ミアさんは、さっきは子爵と何をしていらっしゃったんですか?」
「え?」
「私がこちらに来た時に、お二人で並んで。とっっても楽しそうに」
レティさんが言葉を続けるごとに、旦那様のうつむき具合が酷くなっていく。身体の調子が悪いのだろうか。心配ではあるが、私は会話を続けた。
「あ、あの……、二人で花を見ていたんです」
「……はな? お花? 子爵が? ――うくっ」
少しいぶかるような表情をしてから、レティさんはまた満面の笑顔になった。彼女は凄く感情の豊かな女性のようである。
「はい。私が育てた花で――、丁度今日咲いたんです」
「なるほど、それでそのお花を『一緒に』眺めていらっしゃったと……。それで私が傍に立っていても気付かなかったのですね。『夢中だった』んですね。お花を眺めるのに」
「はい」
彼女は所々の単語に力を込めて、時折旦那様の方に目を向けながら、少し変わった話し方をした。しかし彼女がこの会話を楽しんでいるということは私にも分かった。いい人のようだ。それが何となく伝わってくる。
「あの――、私からもレティに聞きたいのですが」
「何でしょうか?」
「レティは、旦那様とその――、どういう――」
「どういう知り合いか、ですか?」
「い、いえ――、……はい」
「そうですね。気になりますよね。私とミアさんの『旦那様』は、幼馴染み――というのは違うかしら。彼の方が大分年上ですから。でも、彼は私が幼いころからの知り合いなんです」
「幼馴染み……」
「はい。非常にお世話になりました。……でも、ミアさんが心配しているようなことは無いですよ?」
「――え?」
「うふふふふふふ」
そこでアルマさんがお茶を運んできたので、私たちの会話は中断した。アルマさんはうなだれている旦那様に目を丸くしながら、客間にいる三人の前にカップを並べた。
「子爵と奥様は仲がよろしいのですね」
アルマさんが注いだ紅茶をひとしきり味わってから、再びレティさんが口を開いた。
その言葉は私にとって思いもしない言葉だったので、私はついカップで音を立ててしまった。
「――え? そ、そうですか?」
「はい、私にはそう見えます。……うらやましいです」
レティさんにさっきまでのウキウキとした様子はなく、彼女はしみじみと、少し寂しそうな様子でそう言ったので、何となく彼女が本気でそう言っているのだと分かった。
「そ、そうなんでしょうか」
しかし半信半疑だった私は、もう一度そう聞いた。今度はレティさんの方ではなくて、旦那様の方にちらりと目を向けながら。でもさっきから無言の彼は、当然私のその疑問に答えなかった。代わりにレティさんがもう一度そうだと言って、話は別の話題に移っていった。
レティさんは色々なことを私に聞いた。この屋敷に来る前、私がどこに住んでいたのかとか、実家の家族は何人いるのかとか、そういうたわいも無いことを。
私からも彼女に色々聞き返したけれど、彼女はほとんどはぐらかして、あまり答えてくれなかった。特に家族のことなどは、触れられたくない話題のようだったので、私はそれを聞くのをやめた。すると、自然に話は私たちにとって共通の知り合い、即ち旦那様の話になっていった。
「子爵は昔から変わりません。何かと言えば仕事仕事で、小さかった私に対しても、いつも冷ややかな事ばかり言って。他のものには全然興味が無かったんです」
「そうなんですか……。じゃあ、旦那様は宮廷ではどんな風に――」
彼女は旦那様の事に詳しかった。私の知らない彼の話を色々と知っていた。十年以上の付き合いがあるというのだから当然だろう。彼と会って半年に満たない私とは年月の重みが違う。彼女はさっき私をうらやましいと言ったが、私は彼女がうらやましいと思った。
でも彼女は、私がした旦那様に関する質問に対して、何でも答えてくれた。そのおかげで、思いもかけず私の中にある彼の輪郭がはっきりしてきた。
特に思ったのは、彼が人と関わろうとしないのは誰に対してもそうらしい、ということだ。いつか考えていたように、私に対して特別冷たいということはないのだ。
「むしろミアさんに対しては、特別優しいように見えます」
「そ――」
さすがにそんな事はありません。そう言おうとした時、私の頭にあの夜会の時の風景が蘇った。彼は泣いている私を慰めて、手を握ってくれた。
もしかして、そんな事はあるのだろうか。――あったらいい、かもしれない。
「あ、もうこんな時間ですね」
そんな感じで、私たちはついつい話し込んでしまった。気付けばもう正午である。時計の鐘が鳴ったのを聞いて、私は言った。
「レティ、もし良かったらお昼を一緒に――」
「――! 待てミア、それは――」
「あら、居たの子爵?」
つい気安く彼女を昼食に誘った私を、旦那様が顔を上げて止めようとした。レティさんの言葉ではないが、話に夢中で旦那様の事が頭から抜けていた。それなのにさっきから本人の前で彼の話題ばかりだったのは、少々不味かったかも知れない。
「もちろん奥様のお誘いですもの。ご一緒させていただくわ」
そして笑顔で言ったレティさんの言葉に、旦那様はまた頭を抱えてうつむいてしまった。
◇◆◇◆◇◆◇
――女二人がさっきから自分について話している。レティシアが昔の彼についてべらべらと喋り、それに対してミアがまた根掘り葉掘りと聞き返す。こんな拷問を受けた経験は、今までのジェラールには無かった。
この公爵令嬢は一体何をしに来たのだろうか。赤ん坊の頃からこの娘のことを知っているが、これほど饒舌に話すレティシアをジェラールは初めて見た。
レティシアは彼を、何事にも興味が無い冷たい人間だと評したが、それは彼女自身にも当てはまる話だとジェラールは思った。何かと言えば「つまらない」と「退屈だ」が口癖の娘だ。実際、家柄と財産、美貌と才能と全てに恵まれた彼女にとって、この世はひどくつまらないものなのだろう。
仕事という打ち込むべきものがあるだけ、ジェラールよりも彼女の方が哀れなのかもしれない。かつて一度、彼はレティシアについてそう考えたことがある。
それがこんな風に笑顔を見せて話すとは――
「本当に? ミアさんは子爵のことをそう思うの?」
――……! どう思うと言ったんだ?
考え事をしていて、ジェラールは重要な部分を聞き逃した。
二人は既にジェラールのことが眼中に無いようだ。レティシアもミアも楽しそうに話を続けている。ジェラールが割り込むことは難しそうだ。
――……まあいいか。
レティシアが彼をからかいに屋敷を訪ねてきたことは明らかだったが、甘んじてそれを受け入れようという気に彼はなった。彼女も気が済むだけ喋れば帰るだろう。それくらいは良いではないか、と。
「あ、もうこんな時間ですね」
正午の鐘が鳴って、ミアがそう言った。やっとかとジェラールは思った。二人はもう二時間以上は話しただろう。だが、ようやく終わった。これでお暇させていただくと、レティシアも言うに違いない。
しかしジェラールの妻の方は、彼の予想に反した言葉を発した。
「レティ、もし良かったらお昼を一緒に――」
――は?
「待てミア、それは――」
「あら、居たの子爵?」
顔を上げたジェラールの前に、相変わらず面白そうに、にやにやと笑うレティシアの顔がある。
「もちろん奥様のお誘いですもの。ご一緒させていただくわ」
そうしてまだしばらく、ジェラールに対する拷問は続いた。
◇
「今日は突然訪ねてすみませんでした。お昼までご馳走になってしまって」
昼食後、全くすまなそうな顔をしていないレティシアに対して、玄関まで見送りに出たジェラールは言った。
「次は是非、前もって知らせるようにしていただければありがたいですね。こちらも準備というものがある」
「そうね、そうさせてもらうわ。またお二人が仲良くしている所に出くわしたら申し訳ないもの」
皮肉を言い合った二人は少しの間にらみ合い、それからレティシアが思い出したように言った。
「ミアさんはどうしたのかしら。ご挨拶したかったのだけれど……」
「さあ」
ジェラールはぶっきらぼうに言ったが、彼も気になってはいた。昼食が終わってレティシアが帰ると言ってから、ミアはどこかに姿を消してしまった。彼女の性格からして、客人の見送りに出ないなどということはないはずだが。
「……今日は楽しかったわ、ジェラール。奥様にもお礼を言っておいて」
「……ええ」
レティシアが、ジェラールから目をそらしてそう言った。彼女はもう、ジェラールがよく知るいつもの無表情に戻っている。
「帰ります。午後から会わなければならない人たちもいるし」
どんな種類の人間かは言わなかったが、面白そうな声ではなかった。しかし公爵令嬢として、そして皇太子の婚約者として、彼女にも避け得ない責務がある。
「じゃあね」
ボルマンが扉を開くと、外の光が玄関ホールの中に差し込んだ。
そして春の空気とともに、彼女の声が入ってきた。
「――レティ!」
外から現れるとは思っていなかったのだろう。そう言ったミアの姿を見て、レティシアは目を丸くした。それに対してジェラールは何となく、ああやはりと思った。彼女はまた庭にいたのだ。それがジェラールの妻である。
「せっかくですから、これを受け取って下さい」
ミアがレティシアに差し出したのは、手のひらに収まるくらいの小さな花束だった。その黄色い花は、まさに今日咲いたあの花だ。ミアが腕まくりをしているのは、急いでその花束を作っていたからだろう。
「――……私に?」
「はい。……お近づきの印に」
ミアが照れくさそうにそう言った。レティシアは両手で包むように、彼女からその花束を受け取った。
「あ、ありがとう……」
意表を突かれたせいだろうか。さっきまでのミアに対する、レティシアのどこか演技じみた、敬った口調が消えている。ジェラールの知る素の彼女に近い声で、レティシアは小さく礼を言った。
「あの――、レティ。また来て下さい。今日は本当に楽しかったです」
楽しかった。本当にそれが分かる笑顔で、ミアはそう言った。
ジェラール自身はまだ、彼女にあの笑顔を向けられた事がない。わずかに不満に思いつつ、彼は公爵令嬢の顔を見た。
「…………うん」
花束を持ったレティシアは、うなずいた後、少し顔を赤らめた。
これで少しからかわれた溜飲が下がった。そうジェラールは思い、それから彼はまぶしそうに妻の顔を見た。