鎌と枯れ草
その日の朝、宮廷に出仕しようと屋敷を出たジェラールは、奇妙な違和感を覚えた。
馬車に乗り込んでからも、彼はその違和感の正体を突き止めようと首をひねったが、どうしてもその原因が分からなかった。
宮廷にたどり着くと、ジェラールはそんな違和感の事も忘れた。今日も仕事は山積している。
ニューア川の氾濫は収まり、周囲の村からの土砂の撤去も行われているが、貯水池と堤防工事は遅々として進んでいない。次々と追加計上される予算に、彼は頭を悩ませた。
「まったく、使えない者が多い……」
ごく単純な工事を、いつまで続けるつもりなのか。このままでは冬が終わり、やがて春が来る。春が来れば、農民たちは畑を耕さなければならない。貯水池の整備が終わらなければ、それもままならないというのに。
猛然と、積み重なった書類のかさを少しでも減らし、夜が更けてからジェラールは屋敷に戻った。
「……何だ、これは」
屋敷に帰り着いたジェラールの視界に、朝感じた違和感の正体が飛び込んでいた。
そこにあったのは、屋敷の前に広がる一面のはげ山だ。
日が落ちていてもそうだと分かる。庭に生え放題になっていた草が、いつの間にか全て刈り取られてしまっていたのだ。
「……何なのだ、これは」
馬車から降りたジェラールは、歩きながらもう一度繰り返した。
玄関の扉の横に目をやると、刈り取られた灰色の枯れ草が、ジェラールが見上げる程に積み重ねられていた。
まじまじとその草の山を見つめた後、ジェラールは扉をくぐり、屋敷に入った。
「表の『あれ』は、一体何だ?」
ジェラールは、出迎えに出たメイドにそう尋ねた。
「奥様がなさいました」
「奥様だと?」
にこやかに答えたメイドは、主の強い語気と眼光に射すくめられ、すくみ上がった。
「も、申し訳ありません、旦那様。で、ですが本当でございます。奥様がなさいました」
主人と目を合わせぬよう頭を下げたメイドは、しどろもどろにそう答えたが、ジェラールが聞き返したのは、別に自分の妻があれをやったということに驚いたのではなかった。
それどこか、彼はメイドに言われるまで、自分の妻の存在をすっかり忘れていたのだ。
――奥様。……いたな、そういえば。
家では書斎に籠りきり、出仕する時は早朝から深夜まで帰らない。ジェラールが結婚してからしばらく経つが、それ以来彼は、自分の「奥様」と、まともに顔を合わせてすらいない。
「で? 私の――『妻』が、どうしてあんな真似をしたのだ?」
「申し訳ありません。私も、お止めしたのですが。私ども使用人が代わりにすると申しましても、それも聞き入れて下さらず――」
「そんな事は聞いていない。問題は、なぜあんな事をしたかということだ」
まくし立てるメイドの言葉を遮って、ジェラールは聞いた。
「……花をお植えになりたいと、そう仰っておられました」
「花?」
「……はい」
――花か。
そういえば初めて会った時、あの女はそんな事を言っていた。
ジェラールが彼女の声を聞いたのは、実のところその一度だけだったが、その時のことはなぜか憶えている。
ジェラールは客も招かず、夜会などにも必要最低限しか出席しない。そう考えてみると、彼女には子爵の妻としての仕事が特に無かった。
きっと手持ち無沙汰だったのだろう。
「……あの、旦那様」
頭を下げたまま、メイドが恐る恐ると声を出した。
このメイドは、なんという名前だったか。ジェラールは思い出せなかった。なんだと聞くと、メイドは思わぬ事を言った。
「私からも、お願いします。奥様が花を植えられる事を、どうかお許し下さい」
彼が使用人から、そういうことを頼まれたのは初めてだ。ジェラールは少し戸惑った。
――……花か。
もう一度、ジェラールは考える。
別に庭に花を植えたからと言って、何かが変わる訳もないが、さりとて無理に止める理由も無かった。
「……勝手にするがいい」
そう言って、彼は寝室に向かう階段を上った。
◇◆◇
「アルマさん、鎌はありませんか」
「……カマ? でございますか?」
私がメイドのアルマさんに声をかけると、彼女は鎌がなんなのか、よく分からないという声を出した。
この屋敷の庭を整えてみよう。そう思った私は、早速仕事に取りかかろうとした。そうすると、花を植えたりする前に、まずはやるべき事がある。
彼女は使用人たちの中では最も若い赤毛の女性で、きっと私とも歳が近い。だから、まずは彼女に尋ねてみたのだ。
「鎌です」
「あ、ああ、鎌ですか。はい、ございます。……え? 奥様、か、鎌などを、一体何にお使いになるのですか?」
「……? 鎌ですることなど、そんなにはないでしょう?」
「――え。い、いけません奥様! そんな――、いくら旦那様があのような方だからと、早まらないで下さい!」
「……そうですね。アルマさんの言う通りです」
確かに、庭を覆っている枯れ草を刈り取ってやろうと思っても、あれだって厳密には旦那様の財産だ。もしかしたら、深い理由があってああなっているのかもしれない。
そんなに勢い込んで止められるとは思わなかったが、彼女の言葉も道理である。まずは旦那様のお許しをいただく必要がありますよねと、私は言った。
「そ、そんな! いくら旦那様が冷血な方でも、奥様が自ら命をお絶ちになるなど、そんな事を認められるはずがありません!」
「……え?」
「え?」
アルマさんはどうやら、ものすごい勘違いをしていたようだ。
「な、なぁんだ、私てっきり――」
誤解を解くと、彼女は真っ赤な顔で照れくさそうに笑って、それから再び真顔に戻った。
「く、草刈り? お、奥様がですか?」
「はい」
「そんな、え、なぜですか?」
「お庭に、花を植えたいのです」
「花……」
アルマさんの頭にも、この屋敷の庭の惨憺たる有様が思い浮かんだのだろう。彼女は私の言ったことを飲み込んだ表情をしたが、それでも私を止めようとした。
「……奥様、お気持ちはお察しします。しかし、それなら私どもにお任せ下さい」
「でも、アルマさんたちは忙しいですよね?」
「そ、それは――」
実家では、自分で家事をこなしてきたミアだから分かる。この大きな屋敷には、本当に必要最小限の使用人しか雇われていない。旦那様の一人暮らし――今は私との二人暮らしとは言え、メイドの数も少なく、彼女たちに庭にまで手をつけろと言うのは無理があった。
「私には、することがありませんから。どうかお願いします」
私が頭を下げると、アルマさんは手をわたわたさせて戸惑った。
主人の妻が使用人に頭を下げるなど、常識にもとる。私もそれはよく分かっていたが、実際私には、自分が子爵の妻であるという実感が無かった。
自分は妻として、何も果たしていない。だからせめて、丁寧に頼みたかったのだ。
「お、おやめ下さい奥様! 私が旦那様に叱られてしまいます! あ、あの、鎌ですね? 鎌なら今持ってきますから――」
アルマさんはそう言って小走りで立ち去り、そして数分もせずに、息を切らせて戻ってきた。
「はい! 鎌です!」
「――ありがとうございます」
鎌を受け取った私は、それを胸に抱えてお礼を言った。
この家に来て初めて、自分で何かをすることができた。それが少し嬉しくて、自然と顔がほころんだ。
「……ふふ」
「お、奥様? どうされました? その、お顔――」
鎌を持って笑う子爵夫人というのがなんだか可笑しく、そう思うと、笑顔はもっと大きくなった。
そんな私の様子を見て、肩で息をしていたアルマさんは、最初はきょとんとしていたけれど、やがて彼女も笑顔になった。