お客様
今日、屋敷の庭に黄色い花が咲いた。
背丈の低い草に、指先ほどの大きさもない可愛らしい小さな花が沢山ついている。広がり始めた前庭の緑の中に、その淡い黄色がとても映えていた。
私が種から育てて初めて咲かせた花だ。咲いているのを見つけた時はとても嬉しかった。
一通り色々な角度から眺めて観察したあと、私はその花を誰かに見せたいと思った。この喜びを、誰かと共有したいと。
この花を育てるのに協力してくれた人は多い。アルマさんやヘンリーさん、使用人たちは皆、忙しい合間を縫って私の道楽を手伝ってくれた。
中でもはじめから庭造りに付き合ってくれたのは、メイドのアルマさんだ。順番から言って、彼女に見せるのが最優先事項だろう。そう決めると、私は彼女を探そうと屋敷に入った。
そして今、私はどうしてかあの人の書斎の前にいる。
軍手を外して、後ろで結った髪を少し触った。
今日はあの人が、宮廷に出仕していないのは知っている。あの建国祭の夜が過ぎてから十数日、彼はそれまでほどは忙しくなさそうだった。宮廷に出ずに屋敷にいる日も多かったし、出かけたとしても比較的早い時間に帰ってきていた。多分今はそういう時期なのだろう。
それでも相変わらず、あの人は屋敷にいる間は書斎に籠りきりだった。忙しい時期を乗り越えたからといって、それで息を抜くということは考えない人のようだ。
背筋を伸ばして、息を吸った。ノックしようと、扉の前に手を近づける。
いつかの時のように当てずっぽうではない。あの人の書斎の位置は、この前それとなくボルマンさんに聞いた。間違いなくあの人は今、この中で仕事をしている。
少し間隔を開けて、軽く四回扉を叩いた。
しかし恐る恐るやり過ぎて、叩くと言うより触れるという感じになってしまった。
――……聞こえなかったかな。
アルマさんを誘いに来たはずなのに、私の足はどうしてここにいるのか。
玄関の扉を開いた所で、なんとなく二階に目が引かれたからだ。二階に上がると、なんとなく書斎に向かう廊下へと足を踏み出してしまったからだ。
――もう一回だけ。
それで返事が返って来なかったら引き返そう。さっきよりも力を込めた私の手は、しかし盛大に空振りした。
「……どうした」
「い、いえ」
声が返ってくる前に、扉は中から開かれた。そしてそこには、宮廷に行く時よりも少しだけ緩やかな格好をした彼が立っていた。
「……」
「……」
何かというと私たちは無言でにらみ合っている気がする。でも今日は、仕事をしている所を私が呼び出したのだ。私から用件を切り出さなければどうしようもない。
「きょ、今日は良い天気ですね。昨日は雨でしたが」
「ああ、そうだな。……そんなことを言いに来たのか?」
「ち、違います。あの、前庭に――」
「……」
「前庭に花が咲きましたので、旦那様も一度ごらんにおなりになられてはいかがかかと」
一体私は何者だと思いながらも、とても変な言い回しになってしまった。おまけに最後の方は少し噛んだ。
「おおおお忙しい所、失礼いたしました。それでは」
「――待て」
お辞儀をしてさっさと立ち去ろうと振り向いた私を、旦那様が引き留める。「待て」と言われた私の身体は、よくしつけられた犬のようにその場で硬直してしまった。
「待て、今――すぐに用意をする」
「ひっ――く」
背中からかけられた声が背筋を電流のように走り抜けて、私の口からはしゃっくりが出た。
◇◆◇◆◇◆◇
書斎の窓から、庭仕事をしているミアの姿が見える。泥に汚れた園丁のような服に、後ろで束ねられた髪。頭には謎のゴーグルを付けている。この前の夜会服のような格好よりも、彼女はあちらの方がいつも通りという感じだ。それに自分にとっても、あの方が落ち着ける。ジェラールはそういう感想を抱いた。
――……何だ?
しばらく眺めていると、ミアは突然両手を地に着けて跪いた。あれは彼女が育てている花の中でも、既に黄色いつぼみをつけていた花がある一角だ。
彼女の反応からするに、その花がようやく咲いたのだろうか。ジェラールは目をこらしたが、はっきりとは見えなかった。ぼんやりと黄色くなっているような気がするが、それ以上は分からない。
――……視力が落ちたか?
書類仕事のし過ぎだろうか。それとも考えたくないが、自分ももう三十を過ぎた。歳を取ったせいだろうか。そう思いながら、彼は目をつぶって眉間を指で押さえた。再び彼が目を開くと、ミアは地面を叩いて喜びを表現していた。相変わらず庭にいる時は挙動不審な娘である。
一通り喜んだミアは、今度は立ち上がって何かを考え込んでいる様子だった。そして屋敷の方を振り向いた彼女は、ちらりとジェラールのいる書斎の窓に目を向けた気がした。
とっさに身を引いてその視線をかわした彼が窓際に戻ると、庭先に彼女の姿は無かった。屋敷の中に入ったようだ。
「……ふう」
観察対象がいなくなったジェラールは、息をつくと仕事に戻ろうとした。しかし椅子に座った彼は、机に片肘をついて脚を組むと、また別のことを考えた。
建国祭が終わり、彼の忙しさのピークは過ぎた。建国祭から数日は後処理の書類整理に追われたが、今喫緊に差し迫った仕事は無い。それでもそれは彼基準の事であり、彼は相変わらず常人の数倍の仕事をこなしていた。
しかしともかく、今の彼にはかなりの心のゆとりがあった。そのせいかもしれない。最近の彼は屋敷で仕事をしようとしても集中出来ないのである。心にかかる事など何も無いというのに、彼にとってこの感じは妙だった。
具体的に何が妙かと言うと、書斎にいる間、どうしても窓の外を眺める時間が多くなっているのだ。そう、まさに先ほどのようにである。
――……机の位置が悪いのか?
熟考した結果、彼はそのような結論を出した。窓の外が気になって机を離れてしまうのは、机が窓から離れた位置にあるからである。ならば机を窓に近づけ、窓の外が見たくなった時にはいつでも見られるようにすれば良い。
窓の外の何が気になるのか。その気になる原因を取り除こうとはしないのか。
それらの内なる指摘に目をつぶって、彼はあとで机を移動させておこうと考えた。
しかしあの花壇に花が咲いたとして、彼女は何をしに屋敷に入ったのだろう。また何か突飛なことを思いついたのだろうか。
――……私か?
もしかしてあるいは、彼女は自分を呼びに戻ったのかもしれない。
「ふん、何を馬鹿な……。私は子供か?」
どうして花が咲いたから、彼女が自分を呼びに来るという発想になるのだ。一瞬でもそう思った自意識過剰に、彼は自分で呆れ声を出した。
だが口ではそう言いながらも、彼は何となく廊下に出ようと椅子を離れた。ミアは恐らく自分の書斎の場所を知らないだろうから――ではなく、水差しの水が切れたからである。いちいち使用人を呼ぶのも面倒だったので、運動がてらそうしようと思ったからである。断じて自分から彼女に姿を見せようと思ったのではない。
――ん?
そして彼が椅子を立ったところで、ドアから何か音がした気がした。それは聞こえるか聞こえないかの、ほんのわずかな音であった。
ジェラールは手に持った水差しを机に置いてドアに近づいた。
「……どうした」
彼が扉を開くと、果たしてそこには彼女が立っていたのである。
◇
案の定、ミアが庭に咲いた花を見に来いと言ったので、ジェラールは家長の責務として、渋々ながらもその提案に同意した。少なくとも彼の思考の中では、そういうことになっていた。
「ど、どうでしょうか」
並んで黄色い花を眺める夫婦のうち、妻の方がそう聞いた。
「……ん? あー……」
夫の方は、その質問に対して答える言葉を持たなかった。花がどうだと言われて、どうであると返答すれば良いのだ。それはジェラールにとって、かなり高度な問いであった。
「だ、だめでし――」
「いや、そんな事は無い。――無い。これは……良い花だ」
“良い花”とはなんなのだろうか。咄嗟に答えたので、訳の分からない表現になってしまった。しかしそれで彼女は納得してくれたようだ。ジェラールを見たミアは、彼の言葉に顔をほころばせると、満足げに黄色の花を見つめた。
目だけを動かして微笑むミアの横顔を見たジェラールは、次にこう聞いた。
「……この花の名前は何というのだ?」
「え?」
「ん?」
ジェラールは、花の名前などを気にした自分自身にも驚いたが、ミアの方も負けじと驚いた顔をしている。彼からそんな事を聞かれるとは想像していなかったのだろう。小声でつぶやいた。
「……な、なんだっけ」
彼女が試験に答えられなかった寄宿学校の生徒のような顔をしたので、ジェラールは慌ててごまかした。
「まあいい、名前など構わん。名前は分からないが、これは良い花だ。あー……、その……、綺麗だ」
「……え?」
「ん?」
ジェラールの口から飛び出た綺麗という単語にまた驚いて、夫妻は顔を見合わせた。
そのまま二人はしばらくの間、花ではなくお互いを見つめ合って硬直した。何故か、ミアの耳の上辺りが赤い。
「……あ、あの……、旦那様、私は――」
「す、すみません旦那様、奥様」
そこに響いた第三者の声に、二人ははじかれたように振り向いた。お取り込み中失礼しますと言って、メイドのアルマが頭を下げている。そうしている彼女の顔もまた、何故か赤い。
「お客様でございます」
「客だと? こんな急にか?」
見られてはいけないものを見られたような気がして、ジェラールは慌ててミアから離れ、シャツの胸元に空気を送り込みながらそう言った。
それにしてもこの屋敷に来客とは珍しい。加えて主人である自分に用ならば、客人は前もって手紙か何かで知らせるのが礼儀ではあるが――
「誰が来たのだ?」
「そ、それが……」
「私よ」
しかもその来客は、既に当たり前のように門内に侵入していた。というより、ずっと前からそこに立っていた風である。メイドの前に進み出たその娘は、相変わらずの無表情で言った。
「あの夜は面白かったわ、ジェラール」
輝かんばかりの金の髪に宝石のような碧い瞳。あどけなさを残しながらも、恐ろしいまでに整った顔立ち。そして何より、子爵であるジェラールに対する上からの物言い。
「だからここに来たら、また面白いものが見られるかもしれないって思ったのよ」
その来客は、淡々とそこまで言ってから、にやりと会心の笑みをもらした。
「……思った通りだったわ」
公爵令嬢にして皇太子の婚約者でもあるレティシア・カーライルの美しい笑顔。
しかしその時のジェラールには、その笑顔が悪魔のものに見えた。
ここから出てくる草花についてですが、一応は現実世界にモデルのある植物です。
しかしとりあえず名前を明言しない方向で進めてみようと思います。
理由は作者にも草花の知識がほとんど無いから予防線です(汗