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泣かないでくれ

 誰かが私の前に出た。そう思った瞬間、私の視界一面に何か黒いものが広がった。それが黒い服を着た誰かの背中であると理解するには、更に数瞬かかった。


「し、子爵?」


 私が粗相をした相手が、そんな裏返った声を出した。


 ――子爵……。 旦那様!?


そしてその声を聞いてようやく、私は自分の目の前にいる人が自分の夫だと気がついたのだ。


「これは――、どうしたんです? 僕に何か御用ですか?」


 今まで私と話していた男性は戸惑いを隠せない様子だ。それはそうだろう。ずっと向こうの壁際にいたこの人がここにいる理由は、私にだって分からなかった。


「……あなたが彼女と話しているのが見えたもので」


 背中を通して声が聞こえた。

 私のすぐ鼻先に、旦那様の背中が広がっている。それはどうかすると、服の生地の匂いが感じられそうな程に近い。


「――それがどうかしましたか? ただぶつかった拍子に、彼女が持っていたワインが僕にかかってしまっただけですよ。子爵、あなたにこんな――」


 旦那様と話している男性の声には、少し笑いが混じっているような感じがした。


「無礼な真似をされるいわれはありませんね」


 ――無礼? ……え?

 確かに急に割り込んできたのはこの人だけれど、それだけで無礼と言われるようなことはないはずなのに。そう思って半歩下がり、私が少し背中を反らすと、相手の言っている事が理解できた。


 旦那様の右手が、相手の手首をつかんでいる。旦那様がつかんでいるのは、さっきまで私の肩に置かれていた手だ。

 さっきから血の気が引きっぱなしだった私の顔は、更に青ざめた。この人は一体、どうしてこんな――


「申し訳ない。私の“妻”が、あなたに失礼を働きました」


 いつものように静かな低い声で、しかし相手の手首を話さないまま旦那様はそう言った。


「……え? ――妻ですって? あなたの? 彼女が?」


 そうだ、どうしてなどと決まっている。私のせいだ。

 妻である私の過ちは、夫であるこの人の責任にもなる。きっと私の起こした騒ぎが、この人の目にも入ったのだろう。そしてその後始末を付けに、彼はこうして慌てて出てきたのだ。

 彼が、私が自分の“妻”だと言った時、周囲からどよめきが漏れるのも聞こえた。私は考え得る最悪の形で、この場での自己紹介をしたことになる。ボルマンさんとあれだけ特訓したのに、何の意味も無かった。所詮うわべだけ取り繕った所でこんな物だ。


「お許し願いたい」


 謝らせている。公衆の面前で、私は彼に頭を下げさせているのだ。

 自分のしでかしたことの大きさに、身体に震えが走り始めた。気を抜いたら歯が鳴り出しそうな程だ。目の前がにじんでいく。


「『お許し願う』という態度ではないと思いますが――」


 その言葉は、ゆっくりと一言一言放たれた

 その通りだ。しかしどうしてか、旦那様は相手の手首をがっちりとつかんだまま離そうとしない。その態度に、相手の声には怒りが混じり始めている。


「……ふ」


 そんな相手を、旦那様が鼻先で笑ったような気がした。手首をつかみながら、彼は一歩相手に近づいた。顔を寄せて、二人は何かささやき合っている。

 情けない事に、私は何かを言うこともできずに、ただ震えていた。


「もう一度、妻に代わってお詫び申し上げる」


 手首を放して相手から離れると彼はもう一度そう言い、とても丁寧に頭を下げた。


「あ、あの――」


 相手に対してそうしようと思ったのか、それとも旦那様に対して謝ろうとしたのか。それでもせめて、私も謝らせてもらうしかない。


「私、ごめんなさ――」


 勢いを付けて言おうとしたその言葉は、途中で遮られた。

 私の肩に置かれた旦那様の手が、強引に私を振り返らせたからだ。彼は私の肩を抱いたまま大股でその場を離れ、広間の入り口に一直線に向かっていった。


◇◆◇◆◇


 口では許しを請うていたが、ジェラールはその男の許しを得たいなどとは微塵も考えていなかった。外面上、はじめの非はミアの方にあったかも知れない。だがこんな男の許しなど、自分にとっても、彼女にとっても不要なものだ。


 しかし、ジェラールは「お許し願いたい」とその男に言った。

 家長である自分は、家人の過ちの責任を取らなければならない。それが道理というものだからだ。


「『お許し願う』という態度ではないと思いますが――」


 それは当たり前だとジェラールは思った。

 この男はあろうことか、ミアの肩に手を置いていたのだ。素肌をさらした彼女の肩に、いかにも気安くその手を置いていた。

 相手の手首をつかむジェラールの右手に、一際大きな力がこもった。彼は一歩相手に近づくと、額が触れんばかりに顔を寄せた。


「つっ……。どういうことかな、子爵?」

「あなたの方にも落ち度はあった。どうか、それで今日は見逃していただきたい」

「はぁ?」


 口調は丁寧なままだが、ジェラールの声には高圧的な響きがあった。そしてそれを受けた相手の顔は、先ほどまでの爽やかな表情はどこへ行ったのかというほどの歪んだものになった。


「……怒ってるのか? ふふん、安心しなよ。人妻だって知ってたら、僕も手を出したりしなかったさ。あの程度の女に、そんな面倒な――」


 捕まれた手首にさらに力がこめられたらしく、男は、今度は苦痛で顔をゆがめた。


「では」


 そう言って立ち去ろうとしたジェラールを男が引き留める。


「――待てよ。ここまでされて、それで収まりがつくと思ってるのか? 知らないのか“子爵”、僕の父は侯爵で――」

「それがどうした」


 危うく男の胸ぐらをつかみそうになった己の腕を、ジェラールは何とか抑えた。


「彼女は俺の妻だ。貴様のような男に手を出されて、黙っていられるか」


 凍り付くようなジェラールの気迫の前に、男はそれ以上何も言い返さなかった。男の首筋に一筋の汗が伝うのが見える。


「もう一度、妻に代わってお詫び申し上げる」


 改めて一歩下がり、周りに聞こえるような声でジェラールは言った。そして彼は、堂々とした態度で男に頭を下げた。


「あ、あの――」


 振り返った彼の目に、震えているミアの姿が入る。


「私、ごめんなさ――」


 自分があの男に頭を下げても、彼女が下げるのは許せない。その続きを、ジェラールは彼女に言わせなかった。

 彼は妻の肩を抱いて、そのままその場を立ち去った。



「――あの、あの! 旦那様、放して下さい!」


 ジェラールの腕の中にいたミアが身をよじってそう言ったのは、大広間を出て、人気の無い廊下に出てきてからだ。こんな時間に帰ろうとする者は少ない。長い廊下には、ほとんど人の姿は無かった。

 そこでようやく、ジェラールの頭にも冷えた思考が戻ってきたようだ。彼は慌てて妻の肩を抱いていた己の手を放した。


「……すまなかった」


 足を止めたジェラールは彼女から目をそらして、小さな声でそう言った。ミアの肩には、彼の手のあとが薄らと赤く残っている。

 彼の中にあったのは自己嫌悪だった。柄にも無く頭に血が上って、後先を考えない行動をした自分に対して腹を立てる気持ちもあったが、それ以上に、こんな所に不慣れな彼女を連れてきた自分に憤る気持ちの方が勝っていた。


「すみませんでした……」


 だが、何故かミアの方まで彼に謝りだしたので、ジェラールはうろたえた。


「私、旦那様に恥をかかせてしまいました……」


 彼女はうつむいて、消えそうな声でそう言った。


 ――違う。

 ジェラールはそう思ったが、彼がそれを言葉に出す前に彼女は続けた。


「練習したんですけど……、私……、すみません……。私……役に立ちませんでした……」


 ドレスの裾をつかんだ彼女の手が小さく震えている。そして、その声も。


「最初は、緊張したんですけど……、また調子に乗ったから……、わたし……」


 ジェラールは内臓を掻きむしられる思いがした。こんな年下の娘にこんなことを言わせている、自分は一体何様なのだろうと。自分はさっきあの男に対して怒っていたが、その権利が自分にあったのかと。


「あ……」


 呻きに似たジェラールの声の先に、ミアの足下の絨毯に広がり始めた染みがあった。その染みを作っている光るものは、彼女のうつむいた顔からこぼれている。


「わたし……、ごめんなさい……。わたし……、旦那様の、奥さんなのに……」

「――違う!」

「…………え?」


 ジェラールの大声に、彼女はぐずぐずに化粧のはげた顔を上げた。その瞳の中には愕然としたものがある。そう、これではまるで、彼女が自分の妻ではないと声高に否定したようではないか。彼は慌てて取り消した。


「――いや、違わない! だが……違う! その……、違うんだ……」

「……」

「何が違うかというと……」


 考えがまとまらない。思いが何故か文章にならない。しかし、これだけは言える。


「謝るのは、俺の方なんだ……」

「……どうして、ですか?」


 涙を流しながら、彼女は彼にその言葉の意味を求めた。だがやはり、ジェラールには上手く言語化することができなかった。


「泣かないでくれ……。……頼む、ミア」


 彼は妻の目を見つめたまま、そう願った。そしてしばらくの間、廊下には彼女のしゃくり上げる音だけが聞こえていた。


 ジェラールがさっきの男のように器用な人間なら、あるいは彼女を抱きしめるなりして、彼女を慰めようとしたかもしれない。しかし当然、彼にそういう発想はなかった。エルンストが評したように、やはり彼には馬鹿正直なところがあるのだ。


「……今日はもう帰ろう」


 どうにか泣き止んだ妻に、彼がかけたその言葉には、父親が娘をあやすような優しい色があった。

 だが、手の甲で目を拭ったミアは、中々その場を動こうとしなかった。途中で帰ることで、旦那様であるジェラールに何か不利益があるのかも知れない。彼女はそんな風に考えている顔をしていた。


「な? 家に帰ろう」


 ジェラールは彼女に右手を差し出した。正式な作法なら、女性は男の腕に手を置くのが正しいだろう。だがミアは何を思ったか、ジェラールの手のひらをじっと見つめたあと、それを自分の手でしっかりと握り返した。


「いや――」


 ――これはそういう意味では無い。そう言おうとしてジェラールはやめた。

 空いた方の手で彼女はもう一度目を拭い、一つしゃくり上げた。


 ――まあ、別に誰も見ていないしな……。


「――……よし」


 そして微笑んだ彼は、妻と手を握ったまま家路についた。


◇◆◇◆◇


 呼び出された馬車の御者台に座っていたヘンリーさんは、多分酷いことになっているであろう私の顔を見て、とても驚いた表情をしていた。


 屋敷に戻る馬車の中では、旦那様も私も、何も喋らなかった。

 色々やらかしてしまった。奥様としての初仕事は散々な結果に終わった。私はとても恥ずかしいという思いと、とても後悔する思いにさいなまれていた。


 でも不思議なことに、何故か嬉しいという思いもあった。

 彼が私の代わりに謝ってくれたからだろうか。それとも、一緒に帰ろうと言ってくれたからだろうか。理由はよく分からない。


 彼が次の機会を与えてくれれば、きっと次は、もっと上手にしてみせる。そんな風にも思った。


「今日は、すみませんでした」


 馬車を降りたあと、屋敷の玄関先で私はようやく口を開くことができた。


「……いや、構わない」


 暗くて表情は見えにくかったけれど、そう言った旦那様の声は、少し優しい感じがした。それを聞くと、また申し訳なさと嬉しさが混じった感情が襲ってきた。


「もう、お休みになりますか?」

「……ああ」


 流石に今夜は仕事をするとは、彼も言わなかった。

 なら、これでお休みなさいである。明日の朝には、もう一度きちんと謝れるはずだ。しかしそこで彼は考え直したように、いやと言った。


「――やはり、少し腹が減った。フォルカーに何か作ってもらってから寝るとしよう」

「……あ」


 そのとき天啓のように、私の中にひらめいた思いがある。


「あの、もし良かったら――」

「……ん?」

「私が作ります。……簡単なものしか、できないですけど」


 少しでも点数を稼ぎたいという、打算的な考えだったのだろうか。でも、いつの間にかそう言っていた。


「…………そうだな。それでは何か、ご馳走してもらおうか」


 暗闇の中で、私には彼が笑ったと、確かに分かった。


 こうして私たちは、その夜初めて食卓を共にしたのだ。

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