「つまらないわ」
流石にいつもより盛大な夜会だが、それだけだ。どうせいつもと同じように会は進むだろうし、集まっている顔ぶれにも驚くべきものは無い。
せめて誰かと建設的な会話が出来ればいいのだが、経験的にそれも難しいと知っている。時間ばかりかけた回りくどい会話。誰かに対する誹謗または阿諛追従。ここで行われるのはそんな類のものばかりだ。こういう場に出ると、どうしても彼の心は冷え冷えとする。社交というものに根本的に肌が合わない自分を、ジェラールは承知していた。
しかし一応、ジェラールはこの場を整えた責任者の一人でもあるし、皇帝が出席するという以上、子爵である彼が顔を見せない訳にはいかなかった。
――なかなか堂々としているじゃないか。
嬉しい誤算だったのは、彼の妻が思ったよりも場慣れしていたということだった。最悪お飾りとして居てくれればいいと思っていたが、彼女はここまで、しっかりとマナーにのっとった振る舞いを見せてくれている。
「ミア、まずは陛下にご挨拶しなければならない」
そう言っても、彼女は特に動揺した様子が無かった。顔色はいつもより青い気がしたが、それは庭で日を浴びている彼女を見慣れたせいだろう。ジェラールはそう判断した。
ミアを伴って、ジェラールは座にいる皇帝の前に進んだ。
「陛下、本日は――」
最大限の敬意を払って、ジェラールが口上を述べる。皇帝は皇太子のエルンストとは似つかない威厳のあるたたずまいで、その挨拶を受けた。
後には挨拶を待っている者が列を作っている。長々と引き延ばす意味もない。一分程度で謁見は終わり、ジェラールとミアは適当な壁際に身を落ち着けた。
「今夜はもう、しなければならないことは済んだ」
「――もうですか?」
「ああ」
ミアは意外そうな声を出した。きっと、もっと色々と引き回されると思っていたのだろう。
「後は適当なところまで、時間をつぶせばいい。私はたまに誰かと話さなければならないだろうが、君は基本的に自由だ。私の傍にいる必要もない」
「……」
「飲み物も料理も出ている。必要であれば取ればいい」
「……はい」
料理は厨房の料理人が腕を振るって、考えうる限りの豪勢なものが並んでいる。これだけの食事は帝都のどんな料亭でもお目にかかることはできないだろう。酒も平民ならば腰を抜かすような銘柄が揃えられていた。
「旦那様は?」
「私は必要ない」
そういったものにも、ジェラールはあまり興味を示せない。それは彼の目に、虚栄の象徴としてしか映らないからだ。だが、そういうものを好む人間がいるのは理解している。それを積極的に否定する気はないが、手を付けようとも思わない。
しかし、彼女が楽しむにはいいだろう。彼はそう考えて、料理が並べられたテーブルの方を指した。
二人がそれらを眺めていると、背後から大きな声でジェラールに話しかけた者がいる。
「子爵! これは珍しい。まさかここでお目にかかることができるとは。何度お招きしても私の屋敷を訪ねてもらえないものですからてっきり――、お元気でしたか?」
――……始まったか。
うんざりする気持ちで、ジェラールは心の中でため息をついた。これからこうやって、何人とも話さなければならない。
「――ええ、伯爵。あなたこそお元気そうで」
ここから始まる下らない話に付き合う必要は無い。そう言うつもりで、ジェラールはミアに手まねで離れるように伝えた。ここまで同伴してもらったことで、世間に対する名分は立った。彼女にやってもらうことは、今日はこれで十分だ。
彼女は彼女で楽しんでもらおう。ジェラールがこれからやることは、ある意味貴族としての仕事の延長だ。――どうも、好きになれない仕事ではあるが。
ジェラールは、彼自身が考えているよりもはるかに目立つ人間だった。帝国財務の中枢にいる男。しかもこういう社交の場に、滅多に現れないとなれば、彼個人の人格を度外視して、色々な「利益」にあずかろうと近づいてくる者が多いのは当然だった。
彼はすぐに、会場にできたいくつかの人の輪の、中心の一つになった。
宮廷に近い爵位持ちをはじめとして、場に招待された有力商人やめったに見ない地方貴族、外国からの使節まで、様々な人が彼に話しかけた。
そういう人の波をさばくのに、どれくらい時間を消費しただろうか。ようやく列が途切れた時には、会場の中も相当に暖まっていた。酒の回った人々の声は大きく、音楽に乗せられて踊っている者も多い。
「――ふう」
いつもの仕事とは全く違う疲労感に、彼は、今度は本当にため息をついた。
「お疲れ~」
そこに見計らったように、気の抜けた声が聞こえた。
「……殿下」
「すごい行列だったね、ご苦労様。ほら」
いつの間にか傍にいた皇太子のエルンストが、泡立った薄色の酒が入ったグラスをジェラールに差し出した。
「ああ、すまない」
いつもなら嫌味の一つも言うところだが、ジェラールはそれを素直に受け取った。
「まあ今夜は大体済んだみたいだしね。――たまにしか顔を出さないから、逆にこういう面倒なことになるんだよ」
「……ふん」
ジェラールは一気にグラスの中身を干した。
話しかけられると言えば皇太子であるエルンストも相当のはずだが、どうしてかこの男はそういう方面に長けている。毎度上手く人をかわして、話の中心になるのを避けるのだ。これはジェラールには無い才能だ。
「君はさ、馬鹿正直なんだよ。あんなの別に真面目に相手をしなくてもいいさ」
ジェラールに馬鹿正直などと言ってのけるのも、この男くらいだろうか。反論はせず、ジェラールはエルンストの言うに任せた。
――ミアは……。
皇太子の言葉を何となく聞き流しながら、ジェラールは人込みの中に彼女の姿を求めた。
――……何をやってるんだ?
彼女はすぐに見つかった。何をしているのか、彼女はテーブルの上に載っている大きなカニの前で悪戦苦闘している。すました顔をしていたと思ったが、やはりあの娘はあの娘だったか。ジェラールはあきれる思いがした。
「――何笑ってるんだい?」
「え?」
「君がそんな風に笑うなんて、珍しいね。何か良いことでもあったかい?」
「……笑う?」
自分は笑ってなどいない。エルンストに言われたことを理解できず、ジェラールは聞き返した。
「笑ってたじゃないか。――ん? あの黒髪の子……」
ジェラールが向けていた視線の先を追って、エルンストは彼が見ていたものに気付いたらしい。皇太子はミアを見て、それからまたジェラールに顔を向けた。
「ああ、もしかしてあれが君の――」
「――殿下、子爵、ごきげんよう」
と、そこでエルンストの言葉を遮った者がいる。ジェラールがそちらに顔を向けると、見知った勝気そうな娘の顔がそこにあった。
「……お久し振りです」
自分より一回り近く年下のその娘に、ジェラールは丁寧に辞儀をした。
「あなたが来てるとは思わなかったわ、子爵」
「さすがに建国祭の時くらいは、私も出席します」
「そう? 一昨年なんかも来てなかった気がするけど」
そう言って娘は、あどけなさの残る美貌に皮肉気な笑いを浮かべた。
この娘の名はレティシア・カリエール。宮宰を務めるカリエール公爵の一人娘で、皇太子のエルンストとはいとこにあたる。ジェラールに上手から口を利ける数少ない人間の一人だ。
「何か御用ですか?」
「あら、相変わらず愛想がないのね。用がなかったら話しかけたらだめなのかしら」
「そんなことはありませんが」
「露骨よ。嫌がってるのが顔に出てる」
この娘もミアとは違う方向で特殊な娘だ。二十歳前のはずなのに、三十男のジェラールにずけずけと遠慮ない口調でものを言う。おもねるように話しかけてくる他の令嬢よりは余程好感が持てるが、ここは友人にこの娘の相手をしてもらおうと、ジェラールは話を振った。
「殿下は――」
「逃げたわ」
レティシアが言った通り、ジェラールの横にいたはずの皇太子の姿は、すでに影も形もない。この娘が現れた時はいつもこうだ。ジェラールは軽く舌打ちした。
「だからあなたが相手をしてちょうだい」
「婚約者殿でしょう。殿下とお話をされればよろしい」
「別にいいわ。逃げるのを追う趣味は無いし。……それに、私は一応、あなたに助け舟を出してあげているつもりなのよ?」
「は?」
「気付いてないの? 相変わらずポンコツね」
「ポン……?」
公爵令嬢が言った単語の意味はジェラールには分かりかねたが、彼女の目の動きから、彼女の言いたいことは理解した。
いつの間にか、ジェラールは遠巻きに、年ごろの娘たちに取り囲まれている。他の人間と話したりしているように見えて、彼女たちは扇の陰などからジェラールとレティシアの様子をうかがっている。
「人気者ね」
「……別に望んでいません。」
憮然とした表情で、ジェラールは本心を述べた。
「それにご存知でしょう。私はもう妻を迎えた身です」
「そんなの関係ないわよ」
既婚者である自分に、令嬢たちが言い寄る謂れは無い。そう思って言ったのだが、レティシアは即座に否定した。
妻帯していようとしていまいと、有力な男に近づく女が絶えることは無い。何なら彼女たち――あるいは彼女たちにそうさせている者たちは、愛人だってかまわないのだ。
女嫌いの子爵のこと、急に妻を迎えたからといってその女に愛情を寄せているとは限らない。むしろ形だけの婚姻と考えるのが自然だろう。ならば自分があの男の氷を溶かし、寵愛を受けるチャンスは十分にある。そう考えるのが貴族世界に住む者たちだ。
レティシアはそこまで率直には言わなかったが、彼女の言いたいことはジェラールにも十分伝わった。
「……理解できませんね」
「私もよ」
レティシアが「助け舟」と言った意味も分かった。彼女より高位の女性はこの場には来ていない。彼女がジェラールの前にいる限り、他の娘は彼に話しかけようがないのだ。
「お気遣い感謝します」
「ええ。だからあなたも、私の暇つぶしの相手をしてちょうだい」
そう言われては断ることもできず、ジェラールは軽くうなずいた。
「さっきの話だけど。結婚したんですってね」
「ええ」
「お相手の方もここに来てるの?」
「ええ」
「どんな方?」
「さあ」
「……やっぱり話をする気がないんでしょう」
「いいえ」
「……ふん。結婚すれば、その嫌味な性格が少しは変わるかと思ったんだけど」
「変わる? その必要を感じませんが」
「そうなんでしょうね」
しばらく沈黙した後、レティシアは持っていたグラスの中身にちょっと口をつけ、それから少し苦そうな顔をした。酒を飲めないのなら、無理して飲まなければいい。ジェラールはそう思ったが、口には出さなかった。
「……つまらないわ」
「いつものことです」
「そうね」
そこで再び会話が途切れた。ジェラールは無意識にさっきミアがいたテーブルの方を見たが、彼女の姿は無かった。どこかに移動したようだ。広い会場だ。どこに行ったのだろうと目を動かしたが見当たらない。そうしていると、ジェラールの胸元あたりの高さから声がした。
「暇つぶしに踊る?」
レティシアの声だ。彼女はジェラールが踊る人々を眺めていると勘違いしたのだろう。その一角を見て、そんなことを言った。
「……」
「冗談よ。そんな目をしないでちょうだい。……あなたが踊るところを見たことが無かったから、言ってみただけよ」
「……」
「つまらないわ」
彼女はもう一度同じ台詞を繰り返した。
そして押し黙ったまま、二人はそこに立ち続けた。
「――ねぇ、見てあの方」
「――ああ、あれは何ですかね」
――ん?
偶然近くにいた小さな集団の会話がジェラールの耳に入って来たのは、沈黙のせいだったろうか。彼が右前の方に目をやると、男と女が入り混じった五人が、呆れたような、または面白がっているような声で話をしている。
「あんなに慌てて、どうしたんでしょう」
彼らの視線の先を追うと、ジェラールはそこに妻の姿を見つけた。彼女はどうしてか目の前に立っている若い男に対して、すごい勢いで頭を下げて平謝りしている。
遠目で何を言っているのかまでは分からない。だが、どうやらミアが持っていたグラスの中身を、あの男に引っ掛けてでもしまったようだ。
――何をやってるんだ……。
ジェラールもまた、その五人と同じようにあきれ返る思いがした。粗相をしたこともそうだが、したならしたで程々に詫びれば済む。あんなに大げさにぺこぺこと謝る必要はない。堂々としていると思ったが、予想外のトラブルで化けの皮は簡単にはがれたようだ。
「可笑しいわ、あの方。ああいう動きをする人形がありましたよね」
「はっはっは、確かに」
言われてみれば今の彼女の動きは、からくり仕掛けの人形に見えなくもない。しかし、そこまで嘲笑う程のことだろうか。
「見慣れない方だけど、どちらの家の方かしら」
「さあ? 大方どこかの田舎貴族の娘では?」
間違ってはいない。間違ってはいないが。
「そんな方がどうしてここに?」
「どこからか招待状を手に入れたんでしょう。たまにいるのです。玉の輿に乗ろうと男を漁りに来るようないかがわしい者が」
……。
「まあ……。でも、だとしたら面白い事になりますよ」
「それはどうして?」
「相手のあの男性……、あの方、有名な方です」
五人の話し声はだんだんと大きくなっている。レティシアそこで、ジェラールが彼らの会話に聞き入っている事に気付いたようだ。
「どうしたの? ジェラール」
しかしその言葉は、子爵の耳には届かなかった。
「あれもあの方のよく使う手です。多分、あの方から女性の方にぶつかったんでしょう。――しばらく見ていてご覧なさい」
「どうなると仰るのです?」
「うふふ」
聞かれた女の顔に浮かんだのは、人を見下す事を当たり前の権利だと考えている、非常に嫌な笑みだ。
「――あの女性、きっと『お持ち帰り』されますよ」
その女が言わんとした事は、ジェラールにも読み取れただろう。同時に、抑えきれない何かが、彼の中に湧き上がってきていた。
レティシアは隣にいる男の表情に気付かずに、眉をひそめて言った。
「……確かに田舎者かもしれないけど、面白がるような事じゃないわ。私、注意してきます」
彼女は手に持ったグラスを手近なテーブルに置いた。しかし彼女が振り向いた時には、そこにいたはずの子爵の姿は無かった。
「――え? ジェラール?」
衝動に突き動かされて、後先を考えない行動をする。これはジェラールが嫌悪することの一つだ。
しかしミアの前にいる、舌なめずりするような男の目を見た瞬間、彼の脚は我知らず前に出ていた。