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近衛兵たちの困惑

 ようやく宮殿までやってきた。御者台から到着の声がかかると、ジェラールはほっと息をつく思いだった。

 馬車の中で彼女が動くたびにする衣擦れの音や、自分の膝頭に触れる彼女の脚が気になって、ここに着くまで非常に長く感じた。


 急に話しかけられた時には肝を冷やしたが、いつもの庭の話題だったので助かった。今朝式典に出発する前に目に入った、小さな黄色い花のつぼみの話をしただけで会話は終わってしまったが、上手く乗り切ることができたと思う。


 宮殿の馬車どまりには、車が列をなしていた。ジェラールは馬車を降りると、続いて降りようとする妻に手を差し伸べた。

手袋の先に伸びる、彼女の腕が目に入った。夜気にさらされている肌が、どうも気になる。

 だが、当然の礼儀であるのだからジェラールにやましいことはない。やましいなどと考える方がどうかしている。そんな声が頭の中で響き、ジェラールはまたしても、ミアから目をそらしがちになってしまった。


「では、行くぞ」

「承知いたしました」


 それも、夜会の会場に向かおうとするパートナー同士のやり取りとしては、どこかずれている。しかしそのことには気付かないまま、ジェラールは宮殿の階段を上り始めた。

横にいるミアは少し目を伏せて、しずしずと歩いている。


 これはやはり別人だったのかもしれない。いつの間にかミアに似た誰かが彼女と入れ替わって、彼女のふりをしているのかもしれない。でなければ、普段屋敷の庭にいるミアと、あまりにも挙動がかけ離れている。鉄面皮の下で、ジェラールはそんな失礼なことを考えていた。

 当然隣にいるミアはミアで、一挙一動を行うたびに、ボルマンによって訓練された礼法を再確認しながら動いていた。それゆえに、彼女の頭の中はパニックの寸前まで行っていたのだが、それをジェラールに知る由はない。


 宮殿の大階段の最上段まで来ると、普段固く閉ざされている入り口の大扉は開け放たれていて、その前に立つ美々しく着飾った近衛兵が招待客を迎え入れていた。これも建国祭ならではの風景だ。


「――! これは子爵様」


 近衛兵の一人がジェラールの顔に気付いた。この宮殿内に勤める者では、彼の顔を知らない者の方が少ない。いつもならば止められる事無く宮殿に入れる子爵も、今日は招待状の提出を求められた。


「申し訳ありません。規則でありますから――」

「かまわん」


 規則に従って職務を遂行するのは当然である。すまなそうにしている近衛兵に対して、ジェラールはむしろ進んで招待状を見せた。


「……任務ご苦労」

「――は?」


 二十半ばくらいの近衛兵は思わず聞き返した。それは、彼にとってとても意外なことが起こったという反応だった。

 確かに自分は今、子爵からねぎらいの言葉をかけられた。この子爵が仕事に対して非常に謹厳なことは知っているが、同時に物凄く冷徹な人間だとも聞いている。自分のような兵卒に対して、と言うか他人に対して、このように気遣った物言いをする人物だったのか。


「ミア」


 招待状の確認が済むと、子爵は彼の陰に隠れていた女性に腕を差し出した。そして今度こそ、近衛兵は雷に打たれたように固まった。


 これは果たして本当にヴェンドリン子爵か?


 子爵と言えば仕事好きの女嫌いで有名だ。そもそも彼は宮廷の夜会にすらめったに顔を見せないが、来るときは必ず一人で来る。子爵の美貌に惹かれて寄ってきた婦女子は、いつも手酷く撥ねつけられるのだ。これは宮廷内の常識の一つだった。


 後ろにいる女性は、絶世の美女と言うほどではないが美しい。子爵と揃いになったような黒いドレスを着て、彼の左腕に手を預けている。これはどう見ても子爵のパートナーだ。


 呆然としているのはその近衛兵だけではなかった。その場にいた他の近衛たちもこの光景を見て、職務を忘れて一様に硬直している。

 女性連れの子爵。これは例えば、牛が空を飛んだとか、カエルが口をきいたとか、そういうレベルの異常事態だった。近衛隊長の指示を仰ぐべきなのではないか。兵たちがそう考えたほどだ。例え宮殿に魔物が飛来したとしても、訓練を受けている分、彼らもこれほどは驚かなかっただろう。


 子爵がパートナーと共に奥へと進んだ後、近衛兵たちの間では、「あれは本当に子爵だったのか」という討議が真剣に行われた。


◇◆◇◆◇


 ――合ってる? これで合ってますよね? うわああああ!


 心の中でそう叫んでも、誰も答えてくれない。馬車を降りてから、私の頭の中は大混乱だった。

 まず馬車を降りた所で、ここに着くまでの色々な感傷は吹き飛んだ。


 ――ひっ!


 実際に悲鳴を口に出さなかっただけで上出来だろう。何しろ宮殿をこんな間近で見ることは、私の人生で初めてだったのだから。

 灯りが煌々とともっているため、夜の闇の中でもその威容ははっきりと見えた。どこまでも建物が広がっていて、大きいと思っていた子爵邸の何十倍あるのか、私には想像もつかない。

 私の隣にいる人は毎日こんな所で働いているのか。そう思うと改めて、彼が遠い存在に感じられた。


 唾をごくりと飲み込んで、足元を確かめながら階段を上った。かかとの高い靴を履くのは久しぶりだったので、よろめかないか心配になる。それ以上に宮殿のスケールに圧倒されて、委縮した私は顔を上げることができなかった。


 歩き方はこれでいいのか。腕の位置はこれで合っているのか。階段を上るだけのことに、私は相当の精力を使ってしまった。


「これは子爵様」


 入り口にいる派手な制服を着た兵隊が、旦那様に声をかけた。顔を一瞥されただけで、彼だと分かってしまうのか。もうなんだか私は驚きっぱなしだ。


「ミア」


 招待状の確認が済むと、彼は再び私に腕を差し出してきた。そこにそっと手を添えた所で、兵隊たちが私をじろじろと眺めていることに気が付いた。


 ――え、今のダメだった?


 手の置き方がまずいとかだろうか。焦った私は思わず手に力が入り、旦那様の左腕を強く握ってしまった。事務仕事ばかりしているはずなのに、がっしりと筋肉のついた、男の人の腕だ。


 ――違う違う! 冷静に、堂々と……!


 多少の間違いは気にするなとボルマン師匠にも言われている。兵隊たちの視線に耐え、私は旦那様について奥に進んだ。


 ――な、な、すごい……。


 どこもかしこもきらきらだ。多分、あそこに置かれている壺一つで、私の実家が十個は買える。床の絨毯すら果てしなく高級そうで、私のような貧乏貴族の娘が歩いたら、足が折れてしまうのではないかと思った。


 そしてやはり、そこかしこにいる警備の兵隊や他の出席者が、私たちを見てくる。

 旦那様を見ているのか、それとも私を見ているのか。その視線を受けるたび、にわか特訓で身に着けた自信が一枚一枚はがされていくのを感じる。会場に入るまでにこんなに体力を消費して、果たして帰るまでもつのだろうか。

 精一杯の意地と努力で、私はできる限りのすました顔を保ち続けた。


 広い廊下の突き当りに扉がある。その扉が開かれ、会場に入った。会場の中はここまで歩いてきた廊下より、もっと光が溢れていた。


「――――」


 扉の前にいた人が旦那様の名前を会場内に触れた気がしたけれど、緊張する私の耳にはちゃんとした言葉として聞こえなかった。

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