馬車の中で
今回は旦那様パートのみになります。
ジェラールは、最近は妻と会話することにもかなり慣れていたのだ。挨拶もするし、庭で会えば世間話もする。少しずつ、二人は自然な会話をするようになっていた。その点に関して、彼は自信を持っていた。
「……」
「……」
少なくともここしばらくは、こんな風に向かい合って無言になることはなくなっていたのだ。
「……」
「……」
しかし今日は、二人がこの空間に入ってから、ほとんどの時間が沈黙で満たされていた。
「……」
「……」
――……まだ着かないのか。
目を閉じて腕を組んでいるのは、正面に座っている彼女と目を合わさないようにするためだ。そんな格好で、さっきからジェラールは、何時になったらこの馬車が目的地につくのかばかりを考えていた。
道は他の馬車や、歩く人々でごった返している。この人混みに巻き込まれてしまったせいで、予定より時間がかかっているのは確かだ。しかしそれを差し引いても、屋敷から宮殿に向かう馬車の歩みがいつもより遅い気がする。毎日出仕しているはずの宮殿が、ジェラールの知らないうちに遠くに移動してしまったのだろうか。
「……ん」
「――! ……」
暗闇の中に咳払いのような彼女の声が聞こえて、ジェラールは少し身じろぎした。しかし特に動揺することでもないはずだ。彼は心をすぐに平静に戻す。
――……早く着いてくれ。
だがもう一度、彼は心の中で念じた。
ここは馬車の中である。馬車は今、子爵邸から宮殿に向けて夜の大通りを進んでいる。その箱の中にいるのは、ジェラールともう一人、彼の妻であるミアだ。
これほど狭い空間の中で、しかもこれ程の長時間にわたって、ジェラールは彼女と向かい合わせになったことがなかった。それ故に、ジェラールは彼の人生において、滅多に感じた事のない感覚を味わっているのだ。
その感覚の事を、世間では一般的に「緊張」と呼んでいた。
どうして彼はこうなっているのか。話は前日の朝にさかのぼる。
「お帰りなさいませ、旦那様……」
「ああ……、今帰った……」
ジェラールとミアの声は、二人そろって元気が無かった
建国祭の前日の“朝”、帰宅したジェラールを玄関でミアが迎えた。ジェラールが朝に帰ってきたのは、最後の最後まで大詰めの調整を行うため、この数日宮廷に泊まり込んでいたからだ。そして祭典前日となった今日、彼はようやくその調整から解放された。
いかに仕事好きのジェラールとは言え、優に三日は続いた徹夜は身体に堪えた。疲労困憊しているのも仕方がない。
しかしここまで来れば、後は祭祀官なり外務官なりの仕事である。ジェラールは祭典の最中に眠ってしまうことのないよう、前日を全て睡眠に宛てるつもりで帰ってきたのだ。
「旦那様……、お疲れですか……?」
そう言うミアの方も、何故かやたらと疲れた顔をしている。だがジェラールにはその理由を考える余力すら残っていなかった。とにかく今はベッドが恋しい。
「ああ……、私は寝る……。後はボルマンに任せた……」
「――……ボ、ボルマンさん!? ぐ、ぐえぇ! ひゃいっ!」
ボルマンの名前を出すと、ミアは返事と、絞められた鶏の悲鳴が混じったような声を出した。まるで何かのトラウマを掘り起こされたかのようにガクガク震える彼女を玄関に残して、ジェラールは階段を上り寝室に入った。
――布団……。
彼はすぐにでも倒れ込みたかったが、ボルマンがそこに声をかけてきた。
「坊ちゃま、着替えてからにして下さいませ」
「……ああ」
ふらつきながらジェラールは上着をかなぐり捨て、シャツのボタンを乱暴に外していく。
「こちらの準備の方は万端整っております。お着替えが済みましたらお休み下さい。明日の朝、起こさせていただきます」
「……ああ、頼んだ。…………ボルマン、ミアが……」
「奥様がどうかなさいましたか?」
「鶏のような鳴き声をしていた……。あの娘は……、なんであんな……いつも妙な……」
彼の脳は、自分のベッドを見て急速に睡眠の準備を始めていた。その口から紡がれる言葉は、いまいち要領を得ない。
「――はて? 坊ちゃま、大分お疲れのご様子。どうか心安らかにお眠り下さい」
その言葉に対して、ジェラールは返事も出来ずうなずいた。そして官服から着替え終わると、彼はベッドに倒れ込み、泥のように眠った。
夢の中で、ジェラールは鶏になったミアが庭で走り回るのを追いかけた。なぜか子供のころの姿に戻っていたジェラールは、鶏を捕まえて籠に入れようとしたが、結局捕まえられずに諦めた。そして鶏の姿をしたミアは、焦っているジェラールをよそに庭を走り続け、そのままどこかへ逃げてしまった。
建国祭の早朝、帝都の空には何発もの花火が打ちあがり、色とりどりの煙を青空に残していた。執事に起こされるまでもなくジェラールは起床し、しばらくして寝室に入って来たボルマンに手伝わせながら礼服に着替えた。
悪夢を見はしたが、丸一日近く眠ったことで、その日の彼の目覚めは爽快だった。寝室に届けられたパンを頬張った後、妻や使用人に見送られて屋敷を出た。
玄関を出る時、彼はミアが鶏になっていなかったのを見て胸をなでおろした。そして馬車に乗り込み、彼は宮廷に向かった。そこから夕方近くまで行われた諸々の祭典は、彼がこれまで経験した通り、毎年と同じような流れで厳かに進行した。
昼の部の祭典が終わると、次は夜の部が待っている。遠方から来ている者たちはそのまま夜会へと出席するつもりのようだが、帝都の宮殿近くに屋敷を持っている場合には、一度帰って改めて出直す者も多かった。
ジェラールもそうした者の一人として、いったん屋敷に戻った。自分の服など昼のままでいいようなものだが、せめて夜会用に改めろとボルマンがうるさい。それにどの道、今年の彼は妻を連れに戻らなければならない。
「今帰った」
「お帰りなさいませ」
そう言って出迎えたのはメイドのアルマだ。玄関にミアはいなかった。さすがに今日は庭にもいない。
「奥様は今、準備を整えておられます」
ミアを探すジェラールの視線を察した訳ではないだろうが、メイドはそう言った。
「……そうか」
それほど時間に余裕はない。自分も早く着替えなければ。そう思って階段を上がろうとするジェラールに、メイドが横から声をかけた。
「旦那様」
「どうした?」
「今夜の奥様は非常にお美しいです」
「そうか。…………は?」
突然何を言い出すのだと、ジェラールはあっけにとられた。
「ですからまず、お会いした時には『奇麗だよ』と」
「…………?」
「では、私は奥様のお手伝いに戻らせていただきますので。……いいですね。くれぐれもまず、『奇麗だよ』と」
そう言うと、ジェラールが何か言い返す間もなく、メイドは素早く引き下がっていった。
ジェラールの身支度には、いくらも時間はかからない。着ていた黒の礼服を同じような黒の夜会服に着替えて、彼はすぐに玄関ホールに戻ってきた。御者のヘンリーは、すでに車止めに馬車をつけている。あとはミアの準備が終わるのを待つだけだ。
――遅い。
生まれてこの方、女性の身支度を待ったことのない彼は、すぐに不機嫌になり始めた。実際には十分も待っていなかったが、女というものはこれほど人を待たせるものかと、彼はひどく非効率なことをしている気分になった。
「――すみません旦那様、お待たせしました」
だから彼女の声が廊下の奥から聞こえた時、彼はまず、遅いと苦情を言おうとしたのだ。
「おそ――」
しかしその言葉は、最後まで言われることなく空中で途切れた。
――……誰だ。……ミアか?
当然のことを、彼は口を開けたまま確認した。
「遅くなりました。申し訳ありません」
そうやって謝る声は、まぎれもなく彼女のものだ。しかし、その姿はいつもの彼女ではない。
ジェラールは、女性の容姿や服装を批評する語彙など持ち合わせていない。そんなものは不要だと、はなから切り捨てて生きてきた。だから目の前にいるその人の姿をどう形容するべきか、彼には言葉が浮かばなかった。
今思えば、彼の妻は非常に化粧気の薄い女性だった。
女性が化粧をしているかどうか、これも彼は気にしたことがないし、そもそも区別がつかない。しかし少なくとも、たまに出る夜会に現れるような、ギトギトと何かを分厚く塗りたくった女には嫌悪感しか覚えない。
それに対して、ミアが何かをつけていると思ったことは一度もない。いつも土の匂いばかり振りまいて、大粒の汗を浮かべて庭仕事をしている彼女の肌は、たぶん生まれたままの姿だったのだろう。
そのことに、夜会用に装った彼女を目の前にして初めて、彼は気が付いた。
「旦那様?」
「――! あ、ああ」
いつの間にか、ミアはジェラールのすぐ前にまで来ていた。彼女は上目遣いに戸惑ったような表情をしている。何も言わないジェラールを不審に思ったのだろう。
黒い手袋をした彼女の手は空いている。エスコートするのは自分だ。しかしその手を取る前に、何か言うべきだろうか。
「あ、えー。……き」
――奇麗だ。
違う、そんな台詞を言って何の意味がある。口に出かかった言葉を、彼は抑え込んだ。では何を言えばいい。目を泳がせると、ミアの後ろにいるメイドが、口だけ動かして何かを伝えようとしている。
(言ってください。言うんです、旦那様)
メイドの口はそんな風に動いているように見えた。
「……き?」
ミアがジェラールの途切れた言葉を聞き返した。少しかしげた首の下には、ドレスの開いた胸元が見えている。それを直視できず、彼の視線は空中をさまよった。
言わなければならないのか? 彼はそんな気分になった。メイドの口も、せっつくように言え言えと動いている。
「き……」
「はい」
「き、きょうは、よろしく頼む」
「こちらこそ、よろしくお願いします、旦那様」
絞りだしたジェラールの言葉に、ミアはにこりと笑って答えた。
メイドは額に手を当てて、あきれたように上を向いている。
そしてジェラールは彼女の手を取って、いつもは一人で乗る馬車に、二人で一緒に乗り込んだのだ。