煉瓦とハンマー
最近、ジェラールとミアの夫婦は良好な関係を築いている。
「お帰りなさいませ。――お疲れ様です」
「ああ、今帰った」
ジェラールが屋敷に帰った時は、そうやってやり取りをするようになったし、
「……今日は何をしていたんだ?」
「裏庭の草を刈っていました」
「そうか。……まあ、怪我はしないようにな」
「はい」
そのくらいの簡単な会話もするようになった。少なくとも二人はもう、対面した時にお互いを警戒して硬直するということは無い。
それでもまだ、二人は別々に食事を取っていたし、当然寝室も一階と二階に分けられていた。しかしこの夫婦はどちらとも、自分たちが人並みに会話できるようになったことに満足していた。
――あの、私にして欲しいことってなんでしょうか。
数日前のジェラールは、妻と初めてまともな会話をしたことで目標を達成したと思い込み、肝心の用件を伝えることを忘れてしまった。しかしその翌朝、ミアの方からジェラールに話しかけてきたことで、ジェラールは無事その用件を伝える事が出来た。
――あ、ああ、そうだった。もうすぐ建国祭があるのだが、宮廷の夜会に君も出席して欲しい。
ミアはまるで、ジェラールがそう言うことをあらかじめ知っていたかのように、動揺もせず、分かりましたとうなずいた。
――ですが、私はそういう場にはほとんど出たことが無いのですが……、よろしいのでしょうか?
言われてジェラールはなるほどと思った。彼女は貴族といっても末座の出身だ。高位貴族の子弟ならばともかく、彼女本人が宮廷に呼ばれる機会など今まで無かっただろう。
ミアの発言の意図としては、そもそも彼女は夜会というもの自体に縁が無かったと言いたかったのだが、そこは彼には上手く伝わらなかったようだ。
――大丈夫だ。とにかく同伴者が必要なだけだ。君はただ出席してくれればいい。それ以上は求めない。
これも聞きようによっては大分乱暴な発言だが、ジェラールはそうとは気がついていなかったし、ミアもそれを批難するような事はしなかった。
ともかくそういうわけで、ジェラールは無事に妻を夜会にエスコートする約束を取り付け、再び仕事に集中出来るようになったのだ。
妻は趣味にのめり込んでいて自分の仕事を妨げることはしないし、必要な時には頼み事ができるくらいには円滑に会話ができる。これはジェラールが考えていた夫婦関係としては、かなり理想に近いものだった。
彼女とはこのくらいの距離感を維持できれば、何も言うことは無い。少なくともこの時には、彼は本気でそう思っていて、機嫌良く建国祭の準備に励んでいた。
◇◆◇◆◇
一度芽が出ると早いもので、芽は双葉になり、双葉はみるみると葉を拡げて、花壇の中で育っていた。種から発芽したもの以外にも、苗の状態から目に見えて大きくなってきたものもある。そうやって、一回私が更地にしたこの屋敷の前庭には、かなり緑が戻ってきている。
――……うーん、どうしよう。
そうやって大きくなる緑を眺めて悦に入るのは、もう私の日課になっているが、ここ数日は気分が乗らなかった。
あの人と普通に話せるようになったのは良かったと思う。自分の想像する夫婦にはほど遠い気がするけれど、世間話できるご近所さんくらいの距離には近づけた。これからのことは置いておいても、今はとりあえず満足するべきだと思っている。
でも――
「夜会かぁ……」
建国祭の夜会。前もって予想することが出来ていたから、あの人の前では平静を装って「行きます」などと答えることが出来たけれど、正直言って、あまり行きたくなかった。
私の実家は筋金入りの貧乏貴族である。母から一応の作法のようなものは学んでいても、夜会とか舞踏会とか名前のつくものに、私は生まれてこの方出席した経験はない。下町で開かれるお祭りとかの方が、私は詳しい。
夜会、しかも宮廷で開かれるものとなると、どんなことが行われるのだろうか。全く想像がつかない。
――……こう、なんか凄いドレスを着た、凄いお嬢様たちが集まって……、なんか凄い話をするのかな……。
煉瓦を人間に見立てて地面に置き、妄想の中の夜会を構成してみる。
想像力が貧困な私には、その凄さの中身が具体的に想像できない。せいぜい光り輝くシャンデリアとか、積み重ねられたご馳走とか、その下で着飾った大貴族のご令嬢とか、大きな宝石とかしか思いつかなかった。
「宝石? ……宝石なんか一つも持ってないしなぁ。いや、それはこの家で用意してくれるのかな……?」
枝で地面をガリガリとひっかきながら、これまでの貧乏な暮らしに思いをはせ、それを恨めしく思った。もちろんそんなことを考えるのは、これまで育ててくれた父と母に失礼だと分かっているが、ここだけの内緒の愚痴だから許して欲しい。
――え、皇帝陛下とかもいらっしゃるのかな。
建国祭の日に宮廷で行われる夜会となれば、そんな人も来るのだろうか。
「……来るよね、当然。えー……」
陛下に限らず、私にとって雲の上の人たちがきっと大勢参加するのだろう。改めて思うと、何故か自分の夫になっているあの人もそんな雲の上の一人だった訳で、それを考えると何だか冷や汗が出る気分がした。
「なんか怖くなってきた」
「……怖いのは君だ。そんな物を持って何をしているんだ」
突然後ろから響いた低い声に、びくりと身体を震わせる。この声は――
「え、あ! ――お帰りなさいませ、旦那様」
「ああ、今帰った。……で、それは何なんだ」
「……これですか?」
私は煉瓦をいじる手を止めて立ち上がり、自分の脇に置いていたそれを持ち上げた。
「ハンマーです」
私が持っているのは、私の力では両手で持ち上げるのがやっとの、長い柄のついた金属製のハンマーだ。
私がそう答えると、彼は目をつぶり、ちょっと眉間に皺を寄せてから言った。
「ああ、そうだろうな……。見れば分かる。……私が聞きたいのは、それを何に使うのかということだ」
「あ、はい。この煉瓦を使って、花壇の縁を綺麗にしたいと思ったんです」
「それで?」
「形が合わないところがあったので、このハンマーで砕いていました」
そう言うと、彼の目は私の手や腕の上を動いて、それからまた私の顔の上に戻った。
「……ふん。君は本当に奇妙な娘だな」
「……う。……す、すみません」
私はできる限り身体を小さくして謝った。
今のは本当に呆れられた声だった。心なしか、目には少し怒りも混じっているような気がする。ここの所、この人ともかなり普通に話せるようになったからと、また調子に乗ってしまった。
「……さっきは、何が怖いと言っていたんだ?」
でも、彼の怒りは尾を引く物ではなかったようだ。すぐに落ち着いた声で、さっきの私のつぶやきについて尋ねてきた。
「いえ……、何でもありません」
「そうか」
しかしこれ以上の失態をさらしたくなかった私は、そう言ってごまかした。そして彼はそんな私を問い詰める事もなく言った。
「まあ、もし心配事があるならボルマンに……」
そこで一旦言葉を句切り、彼は少し考えてからその続きを口にした。
「でなければ――、私にでも言うといい」
それで私たちの会話は終わり、彼は屋敷の中に戻った。
夜になり、寝室で一人になった私は、前庭であの人とした会話について考えていた。
「……怒ったかな」
まず思い出すのは、私の持っていたハンマーを見た時のあの人の顔だ。眉間に皺を寄せて、明らかに腹を立てていた。
煉瓦を砕くのに丁度良かったから使っていたが、流石にあのハンマーはやり過ぎた。普通の子爵夫人がそんなものを振り回すはずがないから、彼が怒るのは分かる。あの時も思ったけれど、少し調子に乗りすぎた。
「でも……」
あの人はその後すぐに、心配事があるなら言えと言った。ボルマンさんか、でなければあの人自身に。
その時の声は、低いけれど別に怒っていないように聞こえた。むしろ――
――ちょっと……優しかった、ような。
「――! 違う違う。気のせい気のせい……。…………あー」
彼は怒っていたのか、怒っていなかったのか、どっちなのだろう。私はベッドに倒れ込んで呻いた。
その日は、彼との会話が妙に私の耳から離れず、ちょっとだけ眠りにくい夜を過ごした。